べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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キエンフック帝 
キエンフック帝 
写真はありません

Kiến Phúc (建福帝)
Nguyễn Phúc Hạo (阮福昊)
グエン朝の第7代皇帝
生没年 1869年2月12日-1884年7月31日
在位 1883年12月1日–1884年7月31日
父 Nguyễn Phúc Hồng Cai (協和帝の兄)
母 Bùi Thị Thanh
15歳で即位したが、在位わずか半年にして崩御した。

実子のいなかったトゥドゥック帝は3人の甥を養子
としましたが、その中で最年少だったのがウンダン
(Ưng Đăng、キエンフック帝の幼名、トゥドゥック帝
の兄Kiên Tháiの子)でした。
ウンダンは2歳で養子になり、トゥドゥック帝の
側室、第3夫人の学妃(Nguyễn Thị Chuyên
別名Học Phi)によって養育されていました。

養子の中では最も聡明で、トゥドゥック帝も当初は
彼を後継者にしようと考えていましたが、若年であ
ったためトゥズー(Từ Dũ, 慈裕皇太后
(トゥドゥック帝の母)の反対で実現しませんでし
た。

先代のヒップホア帝が権臣、グエン・バン・トゥオン
とトン・タット・ティエットと対立して毒殺された後、
2人の権臣はトゥズー皇太后にウンダンを新皇帝
に推挙しました。トゥズー皇太后も同意します。

ウンダンは宮廷の郊外Kim Longと呼ばれる場
所に住んでいましたが、養父であったトゥドゥック帝
の法要のため、トゥドゥック帝廟に来ていました。

先帝の廃位を決める会議が午前2時に終わると、
直ちにグエン・バン・トゥオンとトン・タット・ティエット
の意を受けたグエン・ハン(Nguyễn Hanh)が兵士
と共に新皇帝の乗る籠を引き連れてトゥドゥック帝
廟にやってきます。 

ウンダンは泣き叫びながら頑なに皇帝になることを
拒否します。
「私はまだ若い、皇帝になることを恐れる」しかし、
グエン・ハンは有無を言わさず、
「どうぞここから宮殿に来てください。大事な儀式
が待っています」
ウンダンは無理やり籠に載せられ、薄暗く大雨が
降っている中を宮殿に護送されました。

1883年12月1日
14歳で即位させられたキエンフック帝も権臣の専
横に不満を抱いていました。

皇帝の養母、学妃は強力な権力を握るようになり
ます。
学妃と仲良くなれば皇帝への影響力が増すと悟
ったグエン・バン・トゥオンはそのチャンスを窺いま
す。
そしてチャンスがやってきました。

1884年7月
皇帝が天然痘にかかってしまい学妃は昼も夜も
かかりっきりで皇帝の看病に尽くします。

グエン・バン・トゥオンは頻繁に皇帝のいる医務室
を訪れ、そのうち一日中医務室を離れなくなり、
学妃の関心を引きます。そして2人は恋に陥りま
す。

キエンフック帝は2人の下品な態度を不快に思い、
ある日寝た振りをして2人の様子を伺っていました。
2人が甘言を交わしているのを聞いたキエンフック
帝は我慢できなくなり、大声で叫びます。
「聞け!病気が治ったら、2人の首を切ってやる」
グエン・バン・トゥオンは恥ずかしがりながら医務室
を去ります。
その2日後、7月31日正午にキエンフック帝は在
位わずか半年にして15歳の若さで帰らぬ人にな
ってしまいました。グエン・バン・トゥオンは先手を打
ち、学妃にキエンフック帝が服用している薬へ毒
薬を混入させたのです。

翌日、グエン・バン・トゥオンは特別会議を招集し
てキエンフック帝が合併症を併発して崩御したこと
を発表し、次期皇帝は彼の弟(Ưng Lịch ハムギ
帝)が継ぐことを予告します。

会議出席者はキエンフック帝が毒殺されたことを
知っていましたがグエン・バン・トゥオンの権力を恐
れて誰も何もいえませんでした。

毒殺説は物語としては興味をそそりますが、当時
のフランス特使だったSince Renardは語っていま
す。
「王は常に先帝のような運命を恐れ消極的で恐
怖の中に住んでいた。病気で一人で立つことも出
来なかった。王の死は自然死(病死)だったが、そ
れは人々が疑問に思うように大きな驚きだった。」

墓所(墓所名Bồi Lăng)はキエンフック帝の死後、
直ちに建設されました。キエンフックはトゥドゥック
帝の3人の養子の1人だったのでトゥドゥック霊廟
の敷地内、池を挟んで反対側にあります。

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池の上(右上)がキエンフック帝の墓です

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ヒップホア帝
ヒップホア帝
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写真はありません

Hiệp Hoà(協和帝)
別名 Nguyễn Phúc Thăng(阮福昇)  
諱   Nguyễn Phúc Hồng Dật(阮福洪佚)
生没年 1846年11月1日~1883年11月29日
グエン朝の第6代皇帝
在位 1883年7月23日~1883年11月29日(36歳)
父    ティウチ帝  
母    Trương Thị Thuận

3日間の皇帝に終わってしまった先帝が監禁され
ている間に権臣のグエン・バン・トゥオンとトン・
タット・ティエットは次期皇帝として、第3代皇帝
ティウチ帝の29番目の子で最年少のホンザット
(Hồng Dật)を皇太后トゥズウ(Từ Dũ)に推薦し
ます。
ホンザットはフエから遠い場所で平穏に暮らしてい
ましたので、皇帝の地位が特に欲しいわけでもなく
固辞していましたが、2人の権臣の圧力に負けて、
最終的には引き受けざるを得ませんでした。

2日かけてフエに戻ったホンザットは戴冠し、
第6代皇帝ヒエップホアとなります。

1883年8月25日
8月20日、宮廷の前を流れる香川の河口
トゥアン・アンの戦いに負け、直接宮廷を攻撃できる
場所まで迫ってきたフランス軍に対して
ヒエップホア帝は実質的にベトナム全土がフランス
の支配下に入る「ハルマン条約」に署名します。

しかし2人の権臣は猛反対でした。ヒエップホア帝

1.フランスの提示する条件を鵜呑みにしたこと。
2.締結のあたって官僚たちの意見を無視したこと。
3.フランス特使と個人的な連絡を取ったこと。
を理由に退位を迫ります。

ヒエップホア帝は反論しませんでしたが皇帝と2人
の権臣の政治路線の相違が決定的に表面化し
ました。

ヒエップホア帝はだんだんと2人の権臣の権力乱
用に対して不快の念と恐怖心を抱くようになり、
彼らを宮廷から追放しようと考えるようになりま
す。

皇帝は2人の従兄弟Hồng SâmとHồng Phiを
味方に付け、フランスと接近を図り、2人の権臣を
監視するようになります。

皇帝になってから4カ月後のある日、皇帝は2人
の従兄弟から2人の権臣の殺害を計画している
手紙を秘密裏に受け取ります。
手紙を読んだ皇帝は、計画の実行をTrần Tiễn
Thànhにさせることを決め、官官を呼びDinh
市場近くに住んでいたTrần Tiễn Thànhに手紙
を届けるように命じます。

しかし手紙を届けに行く途中で、官官はグエン・
ヴァン・トゥオンにばったり遭遇してしまいます。
官官の気まずそうな態度にグエン・ヴァン・トゥオン
は不信を抱き、官官を立ち止まらせて、官官の持
っていた箱の中に入っていた手紙を奪ってしまい
ます。

手紙を読み終えたグエン・ヴァン・トゥオンの顔は
怒りで見る見る青ざめ、従者に官官を捕らえさ
せ、籠に押し込めてトン・タット・トゥエットの屋敷
に向かいます。

手紙を読んだトン・タット・トゥエットも怒りの悲鳴を
上げ、叫びます。
「兵を呼んで全員殺せ」

グエン・ヴァン・トゥオンはトン・タット・トゥエットを慰
め、2人は復讐の計画を練ります。

2人の権臣は宮廷防衛軍の屋敷にすべての高級
官僚を集合させ緊急会議を開きます。グエン・
ヴァン・トゥオンは大声で手紙を読み皇帝、従兄弟
Hồng SâmとHồng Phiの陰謀を明らかにしま
す。そしてトン・タット・トゥエットの指示に従ってす
べての官僚は皇太后トゥズウに対して皇帝の廃
位を求め、新しい皇帝を求める請願書に署名さ
せられます。

と同時にトゥエットとトゥオンはÔng Ích Khiêmと
Trương Đang Đệに50人の兵士を引き連れさせ、
ヒエップホア帝が住む宮殿に向かわせ、皇帝に
「毒を飲むか」、「剣で恰幅するか」、「首をくくるか」
自殺の方法を選ぶよう強いるよう命じます。

眠っていた皇帝は外のざわめきに突然目を覚まし
ましたが、何が起こっているかわからず毛布に包ま
って怯えていました。

Ông Ích KhiêmとTrương Đang Đệは皇帝に
陰謀のすべては明らかになっており、どの方法で
自害するかたずねますが、ヒエップホア帝は弁明を
し、無罪を主張します。

二人は兵士に向かって穏やかに言います。「皇帝
は御自分では自害なされないようだ。皇帝の課題
を手伝ってあげなさい」

兵士はすぐさま皇帝の腕を押さえ、足を押さえ、
口を開けさせて毒を流し込みます。皇帝はのたくり
まわり舌が動かなくなりましたが、まだ絶命してい
ませんでした。

そこでトゥエットは事を早く済ませないとフランス軍
が助けに来るのではないかと危惧していたので、
宮廷軍の隊長Trần Xuân Soanに命じて、絶命
するまでも棍棒で皇帝を打たせます。
1883年11月29日の出来事でした。

ヒエップホア帝は4カ月と10日の在位、30歳で
この世を去りました。

ズクドゥク帝
ズクドゥク帝
写真はありません

Dục Đức (育徳帝)
Phúc Ưng Chân
生没年1852年- 1883年
グエン朝第5代皇帝
在位1883年7月20日~7月23日の3日間
嗣徳帝の弟の子供

先帝トゥドゥック帝は幼少の時、天然痘にかかり
病弱であったことから、子がなく、3人の甥を養子
にしていました。
ウンチャン  Ưng Chân (第5代ズクドゥク帝)
ウンダン Ưng Đăng (第7代キンフック帝)
ウンドゥオン Ưng Đường (第9代ドンカイン帝)

トゥドゥック帝は崩御する前、宮中で摂政ともいえ
る役割を果たしていた3人の主要官僚、チャン・
ティン・タン(Trần Tiễn Thành)、グエン・ヴァン・
トゥオン(Nguyễn Văn Tường), トン・タット・
トゥエット(Tôn Thất Thuyết)を枕元に呼び、遺
言を言い渡します。

「私は3人の甥を養子にしているが、最年長の
ウンチャン(29歳)は長く勉強もしており、成人に
達している。しかし彼は目を患っており、いづれは
失明するかもしれない。その上彼は淫乱で素行も
良くない。
が、そうであっても臣民は成熟した皇帝を望んで
おり、この困難な国情を考えると、もし私が彼を
皇帝に指名しなかったら、誰が取って代われる
か?
私は彼を後継者にすることを決心した。」

チャン・ティン・タンは新皇帝の威信を思い、悪行
の部分を遺詔から削除する請願書を皇帝に示し
ましたが、トゥドゥック帝は私の忠告をウン・チャン
は心に刻んで、行動に気をつけなければいけない
と削除することを拒否しました。

2日後、1883年7月20日、トゥドゥック帝が崩御
すると、ウンチャンは遺言を聞いた3人の官僚を呼
び、戴冠式では悪行の部分を削除して遺詔を読
むように話し、3人は了解します。

しかし驚いたことに!
戴冠式の日、チャン・ティン・タンが遺詔を読み始
め、、新皇帝の悪行の部分にくると声を低め、誰
にも聞こえないように読み始めます。すると突然
グエン・ヴァン・トゥオンが飛び上がり大声で異議
を差し挟み、他の官僚、グエン・チョン・ホップ
(Nguyễn Trọng Hợp)に大声で読むように命じ、
読み終えると同時にドラムを叩かせ式典を終了さ
せてしまいます。

2日後、グエン・ヴァン・トゥオンはズクドゥク帝
(ウンチャンの皇帝名)の4つの罪状を記載した請願
書を皇太后に送り、ズクドゥク帝の廃位を求めま
す。

罪状1 先帝の遺訓を一部削除した。
罪状2 カトリック宣教師をアシスタントに迎えてい
る。
罪状3 先帝の喪中にカラーローブを着ていた。
罪状4 先帝の女性と性行為を持った。

翌7月23日、慈裕太皇太后(トゥドゥックの母で
(Hoàng Thái Hậu Từ Dũ クウィーンマザーTừ Dũ
と呼ばれていました)の命で後継者の地位を剥奪
され、宮廷内で監禁されます。食料も水も十分与
えられず、1カ月後には衰弱して死にそうになって
いました。悲惨なことにズクドゥク帝は餓死によりこ
の世を去ります。

さらに彼の死体は棺にも入れられず、マット1枚に
包まれ極秘に風雨の強い夜に2人の兵士と数人
で小さな丘に埋められます。
3日後、この事情を知った妻と子供達によって葬
儀が行われました。

このストーリーには異説があって、実は戴冠式で
の出来事はズクドゥク帝を即位させないための芝
居で、事前に権臣達と皇太后Từ Dũとの間で打
合せ済みだったということです。

なおこの事件を防ごうとした官僚ファン・ディン・
フン(Phan Ðình Phùng)は解任され、故郷に返さ
れました。その後、彼はハムギ帝時代の勤皇運動
で活躍します。

トゥドゥック帝の本来の意は最も幼いが聡明な
ウンダンにあったとされ、グエン・ヴァン・トゥオンや
トン・タット・トゥエットなどの権臣もそれを望んでい
たようです。

グエン朝の皇帝は元号で呼ばれますが、元号を
定める余裕も無かった為、ウンチャンは生前起居
していた宮中の育徳堂にちなんでズクドゥク帝
(育徳帝)と称されています。

後にズクドゥク帝の子供であるタインタイ帝が
第10代皇帝に即位すると、恭宗恵皇帝の廟号・
諡号が追贈されました。

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ズクドゥク帝の寺  フエ

トゥドゥック帝 その9 トン・タット・テュエット
トン・タット・テュエット   

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Tôn Thất Thuyết
生没年 1839年3月29日(新暦 5月12日)
      ~1913年
生誕地 現在のフエ市キムロン地区フーモン村
     (thôn Phú Mộng, phường Kim Long,
      thành phố Huế)
父 Tôn Thất Đínhの第2子
母 Văn Thị Thu

グエン王朝の皇族として生まれ,1870年代から
北部ベトナムでの軍事作戦に参加し、頭角を
現してきます。

1873年12月
フランスの北部ベトナム侵攻作戦(トンキンキャ
ンペーン)の一つであった「コウザイの戦い」で黒
旗軍とともにフランス軍を待ち伏せ、敵の司令
官ガルニエ大尉を殺害します。

しかしトゥドゥック帝はトン・タット・テュエットを酷
評しています。「彼は正直でなく責任感が薄い。
学問もあまりせず他人をすぐに攻撃する。もっと
人格者になるように勉強しなければいけない。」
と。 トン・タット・テュエットは愛国者ではあった
が軍人一筋の性格であった。  

1883年
しかし彼はトゥドゥック帝亡き後には、吏部尚書,
 兵部尚書としてフエ宮廷の実権を握り、グエン・
ヴァン・トゥオンと共にヒエップホア帝,キエンフック帝、
ハムギ帝を次々に擁立しました。

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フエでのクールベとハルマン 1883年8月

8月25日
フエ宮廷前を流れるホン川の河口トゥアンアンを
攻め落とされた宮廷は「ハルマン仮条約」を締結
させられ、ベトナム全土が実質上フランスの支配
下に置かれます。

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1883年8月25日、フエでの「ハルマン条約」の
調印式

トン・タット・テュエットは1883年8月25日締結さ
れた「ハルマン仮条約」に断固反対し、ヒエップホ
ア帝に領土を取り戻す詔を書くことを要求します。

フランスに降伏する政策に反対するトン・タット・テ
ュエットは兵士を集め、1883年11月末には軍隊
組織の構築をはじめます。フエ宮廷内ではフラン
スとの関係を良好に保つことが重要であるとの意
見を持つ官僚もいましたが、彼は逆にフランスを
追放したいと考えていました。
しかしこの時点では、強行に反対したもののまだ
軍隊があまりにも弱体でした。
そして徐々にフランスに対する蜂起準備をして行
きます。

1884年
1月の初めには、フランスがフエ宮廷内に入城して
くることに対応して兵士を集結させ、チャン・ズオ
ン・ソン(Tran Xuan Soan)をその司令官に任命
しました。
5月11日、清国は清仏戦争の講和条約において、
ベトナムの宗主権を放棄します。

1885年
6月6日
駐清フランス公使パルノートルがフエに来てフエ宮
廷の要求を入れアルマン条約を改定した「第2次
フエ条約(パルノートル条約)」が締結されます。
この条約によってベトナム全土が実質上フランス
の植民地になります。フランス軍司令官ド・クール
シーがハイフォンからフエに到着し、フエ宮廷の対
岸に駐屯します。

クールシーはフランスへの反乱を支援しているグエ
ン・ヴァン・トゥオンの解任、フエ宮廷軍の解体など
を要求して7月3日を期して皇帝に謁見を求めま
す。

6月20日(新暦7月31日)
キエンフック帝が死去し、8月1日(新暦)にハムギ
ーが即位します。
フランスの強圧的な態度を不快に思っていた権臣
トン・タト・テュエットやグエン・ヴァン・トゥオンはフラ
ンス軍が宮廷内に入城することを認めず、フエ宮
廷が抵抗本部となって一戦を交えることを決意し
ます。

7月4日
そして、ついに「時が来た」と決心したのです
クールシーはこの日、フエ宮廷の官僚達をフランス
公使館に招き、夜会を催していました。

7月5日
午前1時、トン・タト・テュエットはフランス軍駐屯地
とフランス公使館への攻撃を命じます。フエ宮殿
から砲弾が打ち込まれ、フエ宮廷軍がフランス駐
屯地に襲い掛かりました。しかし善戦したのは当
初のみで、武器の違いは大きく、体勢を整えたフ
ランス軍にはかないなせんでした。

敗北を知ったトン・タット・テュエットは6日の明け
方、兵士を集め、皇太后とハムギ帝に宮廷から
逃げるように告げます。
その時、ハムギ帝は状況が何もわかっていません
でした。
「なぜ逃げるのか、戦わないのか?」
トン・タット・テュエットは剣を抜き、兵士に皇帝を
籠に乗せるよう命じ、宮廷からキムロン(Kim
Long)地区に向かって逃亡させます。后や側室、
官僚やその家族など1000人を超える大逃避行
になりました。

7月8日午後
2日後にはクワンチ市に到着し、休憩を取ります。
しかし何を思ったか、グエン・ヴァン・トゥオンは休
憩せずフエに戻っていってしまいます。

皇太后トゥヅーの命によってすべての武官と文官
が集められ反抗についての会議が持たれます。
皇太后と皇族そして幾人かの官僚達は宮廷に戻
ることを希望します。トン・タット・テュエットは激怒し
ましたが、
「老人や弱者はフランスと戦うことは出来ない。足
手まといになるだけだ」と諭され、2つのグループに
分けることにしました。
1.弱者と戦う意思の無いものは皇太后と共に宮
殿へ戻るグループ
2.皇帝に忠誠を尽くし、祖国を守る為に以前か
ら緊急の避難場所として建築しておいたクワンチ
省カムロにあるタンソ(Tân Sở)要塞に向かうもの
のグループ

7月9日
朝、悲しい別れの後、抵抗グループは日暮れ時に
タンソ(Tân Sở)要塞に到着します。
   
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カムロのタンソ要塞

7月12日
乾燥してまばらな木々が生える山の中でハムギ帝
は落ち込んで思いに耽っていました。そして宮廷に
帰りたいと要請します。
トン・タット・テュエットは間髪をいれず、
「皇帝、あなたは宮廷に帰ることができます。しかし
その前に首を切ってあなたの頭をここに置いていき
なさい」

その後、ハムギ帝はまだ13歳ではありましたが、
覚悟を決め賢明になっていきます。

トン・タット・テュエットはフランス支配に抵抗するよ
うバンタン(文紳 村落内知識人)層の決起を呼
びかける「勤皇の詔」を読み上げ、ハムギ帝の署
名を求めます。

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勤皇の詔

ハムギ帝は「今はもう私は理解している。なぜあな
たが私を宮廷に帰還させないかを。それはフランス
がまだ我々の国民を支配しているからだと」

「そうです。もし必要なら皇帝はジャングルの奥深
くでも兵士と共に行きますか?」
「私はフランス軍をこの国から追放するまでいかよ
うな暮らしでもする。」

このようなやり取りがあって、翌日、皇帝とトン・タ
ット・テュエットの一団はタンソ要塞を後にし、マイ
リン(Mai Lĩnh)に向けて北上します。そしてハティ
ン省に入るQuy Hợp Passを通過してゲアン省の
アンソン要塞(An Son)にたどり着きます。
アンソン要塞はトン・タット・テュエットがフランス抗
戦の根拠地としようと考えていた場所です。

しかしこの時点で1000人以上いた宮廷からの脱
出者はクワンチでは500人になり、今ではさらに3
00人が脱落し、200人足らずとなっていました。

ハムギ帝は「勤皇の激」を宣布したことから、今後
の困難で挑戦的な戦闘を発熱の病床で漠然と思
い浮かべていました。

「勤皇の激」の反響は大きく、おおくの地域の人々
がこの要請に従ってきました。
「皇帝に忠誠を尽くし、国を愛しよう」というフレー
ズは人々の心に響き、フランスに対する憎しみを
増大させました。

この「勤皇の詔」が「勤皇運動」と呼ばれるベトナ
ム各地でのフランスに対する抵抗運動に発展して
いきます。

ハティン省ではLê Ninhと Ấm Vũが長老や知識
人、一般国民をリードして省の役所を占拠し、裏
切り者であるVăn Báu や Lê Đạtを捕まえ、追
放しました。

チュン・クワン・ゴック(Trương Quang Ngọc)はム
オン族と共に蜂起し、抵抗勢力に入隊しトン・タッ
ト・テュエットにより皇帝の警護を命じられます。

勤皇運動はベトナムの中部から北部へと広がって
いきます。

9月19日
フランスはハムギ帝の廃位を決定し、9月19日ド
ンカインを帝位につかせます。

フランス支持の下、ドンカイン帝はHoàng Kế
Viêmをクワンビン省へ派遣し、ハムギ帝に降伏す
るように説得させますが、失敗に終わります。

フランスは武力によってハムギ帝を逮捕し、同時
に勤皇運動を沈静化する作戦に変更します。

フランスはスパイを使って、ハムギ帝の根拠地を
探そうとします。そして根拠地はクワンビン省、ハ
ティン省とラオスのカンムオン(Khâm Muộn)の間
であると目星をつけて、攻撃準備のために抵抗地
域を包囲するように軍隊の駐屯地を構築します。
しかし索的作戦で何も得るものはありませんでし
た。

ハムギ帝やその根拠地の警護軍は勤皇運動によ
ってかなり多くなっており強力でした。

Tuyên Chánh要塞をLê Trựcが守り、
トン・タット・テュエットの次男トン・タット・ダム(Tôn
Thất Đạm)の軍はゲティンの山奥に陣を構え、
トン・タット・テュエットとファン・トゥオン(Pham
Tuân)はTuyên Hóa(クワンビン省の西地域
 現在のĐong Lê)でハムギ帝の警護にあたって
いました。

16 (266x189)

そしてトン・タット・テュエットの長男トン・タット・ティ
エップ(Tôn Thất Thiệp)は片時もハムギ帝の傍
を離れず、自分の身を犠牲にしても息を引き取る
までハムギ帝に忠誠を尽くすことを決心していまし
た。そして降伏を口走るものがいれば直ちに殺害
しました。

フランスは最初にトン・タット・テュエットの行方を発
見したものに銀2000テール、ハムギ帝には銀
500テールの賞金をかけました。

トン・タト・テュエットは清国の支援を求めるため、
2人の息子トン・タット・ダムとトン・タット・ティエップ
にハムギ帝の警護を命じて清国へと向かいます。
しかし、既にベトナムの宗主権を放棄してしまって
いた清国がベトナムの勤皇運動を支援することは
できませんでした。

その後、トン・タト・テュエットはベトナムに帰還する
ことなく、中国、広州でバーディン蜂起の主導者チ
ャン・スワン・ソン(Trần Xuân Soạn)やイェンテ蜂
起の主導者デタムと会い
軍事支援や抵抗基地再構築について話し合いま
すが、成果はありませんでした。

1913年
トン・タト・テュエットは中国・広西で死亡したそうで
す。



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