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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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トゥドゥック帝 その8  グエン・ヴァン・トゥオン
グエン・ヴァン・トゥオン
11

Nguyễn Văn Tường (阮文祥)
生没年  1824年~1886年2月

クワンチ省の農家に生まれました。
彼の父親はグエン王朝の支配に対して抵抗
運動をしていたので、フエ宮廷の官僚になる
ための科挙の試験を受験できませんでした。

グエン・ヴァン・トゥオンがどのようにして宮廷
官僚になったかについては記録がありません。
しかしトゥドゥック帝の加護の下に科挙の試
験に合格し、1852年に裁判所職員に任命
されています。

1862年
父親が死去したため、儒教の伝統に従って
彼は5年間宮廷を去り、喪に服します。

1873年
北部ベトナムでは紅河の通行権をめぐって、
フランスとベトナム地方政府の間で紛争が
発生し、フランスは武力を持ってハノイ城を
初め、近郊都市を制圧していきます。ベトナ
ムの指揮官グエン・チ・フォンやフランスの指
揮官ガルニエが戦死するという事態に落ち
いっている状況でした。

トゥドゥック帝はフランスとの講和条約交渉
責任者にグエン・ヴァン・トゥオンを任命しま
す。

1974年3月5日
「第2次サイゴン条約」(フィアストル条約)が
締結され、フランスは以前ガルニエの攻撃に
よって占領したハノイ近辺の地域を回復した
にもかかわらず、グエン・ヴァン・トゥオンは国
内、海外事項を担当する大臣に昇進しまし
た。

1881年
グエン・ヴァン・トゥオンは現在でいう首相に
なります。

1883年9月19日
トゥドゥック帝が崩御すると、グエン王朝では
グエン・ヴァン・トゥオン、トン・タット・トゥエット、
チャン・ヴァン・タンの3人が摂政になり実質
的な政治権力を握ります。3人の摂政の中
でもグエン・ヴァン・トゥオンとトン・タット・トゥ
エットは司法権も掌握しておりチャン・ヴァン・
タンより強力な権力を持っていました。

その後、2人の権臣グエン・ヴァン・トゥオンと
トン・タット・トゥエットは5代ズックドゥック帝、
6代ヒエップホア帝、7代キエンフック帝の戴
冠、廃位、毒殺に暗躍します。

グエン・ヴァン・トゥオンは皇太后Từ Dũを始
め、宮廷女性チャンイー(Trang Y)やキエン
フック帝の養母ホックフィ(Học Phi)の3人を
味方につけ、"Tam Cung" (3人のハーレム)
と呼ばれるハーレムを造っていました。
その後、Học Phi とは性的な関係を持つよ
うになります。

1884年6月6日
しかしこの頃、北部ベトナムではフランス軍が
再侵攻しており、グエン・ヴァン・トゥオンはフ
ランスと「パルノートル条約」を締結させられ、
ベトナムは実質上全土がフランスの植民地
になってしまいます。 

1884年8月1日
権臣グエン・ヴァン・トゥオンとトン・タット・トゥ
エットは12歳であったハムギーを第8代皇帝
として即位させるとフランスの高圧的な態度
に反発してクーデターを起こし、フエのフラン
ス駐屯軍及び在留フランス人を襲撃してフラ
ンス勢力の一掃を企てます。

しかし蜂起は失敗し、宮廷を放棄しハムギ
帝を擁して北部ベトナムの山岳地方に逃げ
延びて行きます。途中で全国に「勤皇の激」
を発して、フランスに対する抵抗運動をアピール
します。(勤皇運動)

9月フランスはハムギ帝の廃位を決定し、ド
ンカイン(Đồng Khánh)を第9代皇帝に据え
ます。

1885年9月6日
グエン・ヴァン・トゥオンはフランス軍に捕まり、
トン・タット・トゥエットの父親と共にコンダオ島
に追放されましたが、抵抗運動を止めません
でした。
フランス総督府は彼の財産を没収。その中
には14.5百万ピアストルが含まれていまし
た。

11月23日 
彼はタヒチ島に流刑となります。

1886年2月
タヒチ島で死去。7月、彼の遺骨はフエにい
る家族の下に返還されました。

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