べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
カテゴリ

FC2カウンター

リンク

このブログをリンクに追加する

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

トゥドゥック帝  その7 帝廟
トゥドゥック帝廟

トゥドゥック帝廟は皇帝の生存中、1864年2月から3年間を費やして1867年3月に完成しています。生存中は皇帝の離宮として利用され、 その後、墓稜とされたこともあり歴代の帝廟で一番大きいものです。

11

12
「務謙門」と呼ばれる正門

帝廟へ入るとすぐ右手に大きな「謙湖」(Ho Luu Khiem)と呼ばれる池が広がり、その奥に池に突き出して「愈謙シャ(木+射)」と呼ばれる木造作りの休憩所があります。

13

14

15
毎年6月下旬から7月中旬にかけて、この池「謙湖」には水面を埋め尽くすほど大輪の蓮の花が開きます。



幼い頃、天然痘を患ったトゥ・ドゥック帝は体が弱く、ここで静かに詩を詠んだり、舟遊びをしたり釣りをするのが好きだったようです。

池の辺りから墓所に向かう最初の階段の上には木造で,焼き瓦屋根の門があり,「謙宮門」と呼ばれます。

16
謙宮門

謙宮門をくぐると和謙殿があります。

17
和謙殿

和謙殿内部には、絵画が掲げられていて、絵画には皇帝が作った詩文が書かれています。

18


和謙殿を出ると中庭があります。

19
庭の通路両側には腕を組んだ文官,太刀を携えた武官の像が並んでいます。

帝廟の一番奥,一番高い所に墓所があります。

20

21
トゥドゥック帝の墓は「謙陵」、謙寿陵と呼ばれる皇后陵、トゥドゥック帝の養子で毒殺された7代目皇帝キエンフック帝陵もあります。

帝陵周囲はレンガ塀で囲まれ,中央に石棺状のものが置かれていますが、必ずしもこの下に埋葬されている訳ではなく,盗掘を避けるため実際に埋葬されている場所は不明だそうです。

帝廟内のすべての建造物には『謙』の字が含まれており、トゥドゥック治世の秘話が隠されています。

22
碑文を収めた館

秘話は碑文に記載されています。

スポンサーサイト
トゥドゥック帝 その6 ファン・タン・ジャン
ファン・タン・ジャン

11
1863年9月20日、パリで撮影された写真

Phan Thanh Giản(潘清簡)
生没年  1796年11月11日~1867年8月4日
誕生地  ベンチェ省バチ県バオタン村落
    (xã Bảo Thạnh huyện Ba Tri tỉnh Bến Tre)
ベトナムの政治家、学者。

グエン朝第4代皇帝トゥドゥックの治世の外交部
門を担当した重臣。

12
誕生地Ba Tri

<生涯>
祖父ファン・タン・タップ(Phan Thanh Tập)は中国福建省
漳州府海澄県からの移民であり、明朝が滅亡し清朝が福建省を
支配するようになると、異民族の支配を嫌いベトナムの
ビンディン省に移住、その地で中越混血のベトナム人女性
Huỳnh Thị Họcを娶り生まれたのがファン・タン・ジャン
の父親ファン・タン・ガン(Phan Thanh Ngan)です。

1771年
父親はビンディン省から現在のベンチェ(xã Bảo
Thạnh, huyện Ba Tri, tỉnh Bến Tre)に引越
し、Lâm Thị Bútと結婚し、1796年、ファン・タ
ン・ジャンが生れました。

1802年
7歳になった彼はPhú Ngãi村にある寺小屋で
Nguyễn Văn Noa先生について勉強します。

1815年
ファン・タン・ジャンの家族に恨みを持つ人たちに、彼の父親
が盗みを働いたと訴えられ、父は濡れ衣を着せられ投獄されて
しまいます。

父親は彼の勉学のことを心配していましたが、
彼は父親の身代わりになって刑務所の作業をし
たいと願い出ます。彼の親孝行に触れた役人は
彼を刑務所に近い場所に移住させてあげます。
彼は毎日父親に面会に行き、父親を助けまし
た。そのうち彼は慈悲深いÂnと言う女性に出会い、お金、
米、衣類の援助を受けることが出来、勉学を続けることが出来ました。


1825年
彼は郷試(地方公務員試験)に合格します。

1826年
彼は30歳で南部ベトナムで始めての会試合格
者(国家公務員試験)になります。

その後、彼はミンマン帝、ティウチ帝、トゥドゥッッ
ク帝と3代に渡り重用され出世していきます。

トゥドゥッック帝の治世では協辦大学士兼兵部尚書枢密大臣
に任じられます。

1856年
トゥドゥッック帝の勅命によりベトナム史の資料で
ある『欽定越史通鑑綱目』(Khâm định Việt sử
thông giám cương mục)を編纂しています。
1859年に完成しましたが、その後1871、187
2、1878年に更新され、1884年に刊布されま
した。

13
『欽定越史通鑑綱目』は全53巻、「大越史記」
を基に中国やベトナムの史記を参考にしてベト
ナム建国の王、「雄王」の時代から後黎朝まで
の王朝を記述しています。

1858年
フランス・スペイン連合軍がダナンに上陸し、戦
闘が開始されるとフランスとの和平交渉のため、
トゥドゥック帝はファン・タン・ジャンを団長、ラム・
ズイ・ヒエップ(Lâm Duy Hiệp)を副団長とした
交渉使節団に任命します。

1862年
1959年、フランス侵略軍がサイゴンに上陸し、
南部ベトナムを制圧し始めると、使節団は、6月
5日「第1次サイゴン条約」を締結しフランスと停
戦します。

14
講和使節団

しかし「第1次サイゴン条約」の内容が、コーチシ
ナ東部3省の割譲、賠償金の支払いなど、グエ
ン朝に一方的に不利で屈辱的な内容だった為、使節団は民衆
より罵倒されたばかりかトゥドゥック帝にも疎んじられ、
ファン・タン・ジャンのグエン朝における影響力も一時的に
低下しました。

1863年
ファン・タン・ジャンはフランスとの領土返還交渉
使節に任命され、「第1次サイゴン条約」で割譲
した領土の返還交渉を命じられます。
ファン・タン・ジャンは初代のフランス領事であった
Jean-Baptiste Chaigneauの息子であるMichel Duc
Chaigneauを随行し、同年11月にナポレオン3世および皇后である
ウジェニー・ド・モンティジョに謁見します。

ナポレオン3世は賠償金の支払い、サイゴン、ミトーへの
フランス軍隊駐留を前提に割譲地の返還を認めてくれましたが、
フランス海軍大臣の強硬な反対により、1864年6月にナポレオン3世
はその許可を撤回しています。


このフランス派遣期間中、ファン・タン・ジャンは
フランスにおける産業革命を目の当たりにして、
帰国後トゥドゥック帝にフランスの強大さは言葉
で描写できる範囲を超えていると報告しますが、トゥドゥック帝
はこれを聞き入れず、詩を以てファン・タン・ジャンを譴責、
仁義道徳を以てフランスの侵略に対抗すべきとの考えを示しています。

帰国したファン・タン・ジャンはコーチシナ各省の
総督として事務管理を任じられます。

1867年
コーチシナ総督はトゥドゥック帝に対しベトナムは「サイゴン条約」
を守らず、割譲した土地を取り戻そうと秘密裏にゲリラを支援して
いるとクレームをつけます。

カンボジア国内ではシャムの支援を受けた反乱が続いており、
フランスはこの反対勢力を排除するためにカンボジアへの通過点と
して必要なコーチシナ西部三省の割譲をグエン朝に迫ります。

トゥドゥック帝が西部三省の割譲要求を拒否す
ると6月20日、フランス軍はヴィンロン(Vinh
Long)を攻撃してきます。

フランス軍の強力さを知っていたファン・タン・ジャ
ンはアンヤン省とハティエン省の守備隊長に極
秘の手紙を送り、降伏することを要求します。
「フランス軍の強力な軍事力には勝てるわけが
無い。無益な流血を避け、抵抗せずフランス軍に住民の安全を
保障することを要求しなさい」

ファン・タン・ジャンはフランス軍との全面衝突の
回避を模索しましたが、6月20日から24日の5
日間でフランス軍は2000名たらずの兵で威嚇
し、南部ベトナムの西部3省を武力攻撃なしに
占領します。

ファン・タン・ジャンは自らが処罰されることを知っ
ていたので17日間食事を取らず、8月4日に服
毒自殺します。72歳でした。

ファン・タン・ジャンは死後、フエ宮廷によってす
べての官位を剥奪されましたが、19年後、9代
ドンカイン帝によって名誉を回復されています。

15
晩年のファン・タン・ジャン

16
故郷のバオタン村落にあるファン・タン・ジャン寺
(ấp Thạnh Nghĩa, xã Bảo Thạnh, huyện Ba Tri, Bến Tre)

17
ファン・タン・ジャンの墓

18
ファン・タン・ジャンの廟
アンヤン省バテ山(Núi Ba Thê)の麓にあります。
(núi Ba Thê, thuộc huyện Thoại Sơn tỉnh An Giang)

ファン・タン・ジャンは南部ベトナムをフランスに売
ってしまった人だとの評価もありますが、アンヤン省の人々は長い間、
現在に至るまで、この地方の守り神として廟を建て尊敬しています。
廟はヴィンロン市にもあります。

彼には3人の息子がいましたが、1人は農業をし、2人はフランスに
抵抗した後、フエ宮廷の重臣になっています。

著書
『欽定越史通鑑綱目』 の他、『梁渓詩草』、『臥游集』、
『如西使程日記』があります

2013年 クリスマスの飾りつけ
2013年 クリスマスの飾りつけ

ホーチミン市1区中心街(サイゴン)のオブジェで
す。娯楽の少ないこの国では、クリスマスに宗教
色はまったくなく、オブジェの前で写真を撮って
楽しむのが恒例行事になっています。

11

12

13

14

15

16

17

18

19


グエンフエ通りの飾り付けです。

20

21

22

23























トゥドゥック帝 その5 グエンチフン
グエン・チ・フン


11 (405x400)
Nguyễn Tri Phương (阮知方)
旧名はNguyễn Văn Chương、誕生時はĐồng
Xuyênと呼ばれています。
生没年  1800年9月9日~1873年12月20日
誕生地  トゥアティエン省フォンディエン県チャ
ンロック村落ドゥオンロン村生まれ(làng Đường
Long , xã Chánh Lộc, huyện Phong Điền,
tỉnh Thừa Thiên)

グエン・チ・フンはグエン王朝第2代皇帝ミンマン
に見出され、その後のティウチ帝、トゥドゥク帝と
3代に渡りグエン王朝の文武両面に渡り貢献し、
グエン王朝では神のように尊敬されていました。

特にフランス侵略軍に対しては宮廷軍隊の司
令官として戦い、最後はハノイ城の防衛戦で負
傷しフランス軍の捕虜になりましたが自ら断食し
て死にます。
彼のフランス侵略軍に対する主要な戦いは、
1858年  Đà Nẵng
1861年  Gia Định (現在のサイゴン)
1873年  Hà Nội
と3回あります。

彼の弟と息子はフランス侵略軍との戦闘で犠牲
になっています。
弟 Nguyễn Duy (1809年~1861年)
息子 Nguyễn Lâm (1844年~1873年)


<生い立ち>
彼の家族は農業をしながら大工仕事をしていま
したが、家は貧乏で、決して知識人階級の出身
ではなかったけれども、しかし彼は自分の意思で
事業を起こし成功したといわれています。

1823年
グエン王朝の第2代皇帝ミンマン帝は彼の才能
を高く評価し、国務をつかさどる官僚の秘書に
抜擢しました。6ヶ月後にはフエ宮廷の官僚とな
り、2年間教育部門を担当してから1831年に
はフエ宮廷の大臣となりました。

1932年
グエン・チ・フンは中国との貿易代表団の一員に
選ばれ、中国へ渡ります。

1835年
ミンマン帝の命令を受けてヤーディン(現サイゴ
ン)地方の新たな埋立地の統制管理をする為、
チュオンミンザイン(Trương Minh Giảng)と共
にヤーディンに入ります。

1839年
ヤーディンでの仕事を終え、宮廷での仕事に戻
ります。

1840年 
彼はダナン港の管理を命じられ、その後ティウチ
帝により南部ベトナムのビンロン(Vĩnh Long)か
らディントゥオン(Định Tường)へ続く防衛壁の
建設を命じられます。

1844年旧暦5月
彼はカンボジア国境に近いアンヤン(An Giang)
、ハティエン(Hà Tiên)を管轄する総督に任じら
れます。

1845年
Doãn Uẩnと共に南部ベトナムの南西部や、カン
ボジアとの国境地帯を平常化します。

1847年
南西部防衛軍の総督になりますが、この年ティ
ウチ帝が崩御します。

1848年 
グエン・チ・フンの父親が死亡したため、彼は喪に
服するため一時宮廷を離れましたが、わずかな
期間でした。

1850年
トゥドゥック帝は彼の名前をグエン・チ・フンと改
名し、南部ベトナム全域(Gia Định, Biên Hòa,
Vĩnh Long, Định Tường, An Giang, Hà Tiên)
を統括する将軍に任命します。

12 Untitled (335x341)
1841年から1862年の南部ベトナムの県地図


1853年
南部の将軍として地元の住民に多くの公共の
植林、荒れ地の開墾を指導すると共に、フラン
ス軍に対する軍事力の整備に努めます。

1858年8月31日  ダナンの戦い
フランス軍艦(スペインとの連合軍)がキリスト教
宣教師の解放を大義名分にダナン港に入港、
上陸し2つの要塞を占領します。

トゥドゥック帝はフランス軍に抵抗するため2000
名の宮廷軍を直接派遣し、その総司令官にグ
エン・チ・フンを任命します。

フランス侵略軍に対するベトナム防衛軍の装備
はあまりにも貧弱でしたから、フエ宮廷軍の将軍
は次々に戦死します。しかし総司令官に任命さ
れていたグエン・チ・フンは土塁を造り、フランス
軍の更なる進軍を食い止めました。

グエン・チ・フンは降格されましたが、彼の思慮
深い防衛体制によってフランス軍は一気に前進
することが出来ず、さらに酷暑の気候に馴染め
ない兵士が続出し、ダナンの一部を占領しただ
けで、こう着状態になっていました。



1859年
フランス軍は当初、ダナンからフエへの進軍を考
えていましたが、ダナンの占領ができず、穀倉地
帯であるザーディン地方を攻略することに方針
転換します。

2月18日、フランス軍はブンタオ岬からサイゴン
川を遡上して現在のメリン広場に上陸し、ハイ
バチュン通りを直進してザーディン城を攻略しま
す。

この戦いでグエンチフンの弟Nguyễn Duyも戦死
します。

ザーディン城の城主Võ Duy Ninhは部下の兵
士が次々と戦死していくのを見て自害してしまい
ます。
フランス軍は城内の米貯蔵庫を焼き払い、さら
にサイゴン川を遡り、ビエンホア、ジャーディン、
ディントゥオンの3省を占領していきます。

13 (400x266) (400x266)
フランス軍のザーディン城(サイゴン)攻略の絵画

6月になるとフランス軍はグエン朝に和議を提案
しますが、フエ宮廷は和議に反対する勢力も多
く、結論が出ません。

しかしフランス艦隊も中国での「アロー戦争(第2
次アヘン戦争)」に参加する為、サイゴンに800
名の守備隊を残して中国の広東方面に向かい
ます。

1860年 
グエン・チ・フンはザーディン地方の軍隊組織の
司令官として赴任し、廷臣であったPhạm Thế Hiển
と共に南部ベトナムでの軍事組織を育成していきます。

グエン・チ・フンは15000人から20000人の兵
士を率いることになりましたが、兵士はフートウ、
ザーディン、ビエンホアの3地区に分散して集結
していました。

グエン・チ・フンは軍事防衛基地としてチーホア
(Chí Hòa フランス軍はキーホアと呼んでいまし
た)に要塞の構築を命じます。

14 _Ky_Hoa (400x381)

15
要塞を構築するベトナム軍

チーホア要塞は1860年8月から始まり1861
年2月に完成しています。

1861年  ザーロン(サイゴン)の戦い
2月21日
シャルネ提督に率いられたフランス軍4,000名
の兵隊がサイゴンに再上陸し、サイゴン郊外の
キーホア陣地を攻撃します。このキーホア陣地に
はグエン・チ・フンを指揮官としてベトナム軍兵士
12,000名が布陣していました。

2月26日
戦闘が開始されるとキーホア陣地は要塞といっ
ても壁があるだけでしたから、フランス軍の砲撃
でボロボロに破壊されてしまい、グエン・チ・フンも
負傷し、ベトナム南部の防衛線は破壊されてし
まいます。

16 Untitled (400x286)
キーホアの戦い(イラスト)
キーホアは現在のホーチミン市10区にあります。

その後、フランスは講和条件を提示しますが、フ
エ宮廷が拒否した為、軍事行動を継続します。

4月12日
フランス軍は、ディントゥオン、ミトー、ビエンホア、
タイニンと進軍し、次々と占領していきます。

10月
フランス軍指揮官がシャルネ提督からボナール
提督に代わります。そしてバリア、ビンロンが制
圧され、ベトナムのドンナイから南の地域はすべ
てフランス軍に占領されてしまいます。
そしてフランス軍艦は首都フエに向かいます。

1862年
ここに至ってフエ宮廷は実質降伏使節団をサイ
ゴンに送り「サイゴン第1次条約」を締結し、
ベトナムの東部3省がフランスに割譲されます。

その後、トゥドゥック帝はグエン・チ・フンを北部ベ
トナム防衛の将軍としての任務につかせ、軍事
力の見直しをグエン・チ・フンに命じます。

ハノイ城は初代皇帝ザーロン帝の時に建造され
たもので、グエン・チ・フンが赴任したときには建
築から70年近く経過していた為、彼はレンガで
半マイルある外壁を補強させました。

1863年
北部ベトナムでは明朝の残党(黒旗軍、黄旗軍
、白旗軍)が3グル-プに別れて野営していまし
た。

1870年
劉永福(Lưu Vĩnh Phúc)率いる黒旗軍がタイグ
エン、ランソン、カオバンで3年間に渡り、盗賊を
働いていましたが、トゥドゥック帝の求めに応じて
フエ宮廷に帰順します。

1873年  ハノイの攻防戦
コーチシナ総督のデピュレ(Dupré)は北部ベトナ
ムにおけるフランス人商人デュピュイ(Jean
Dupuis)とグエン朝の紛争(紅河の通行権)を
解決する為にガルニエ大尉(Francis Garnier)
をハノイに送り込みます。

17 Garnier (183x367)
ガルニエ

デピュレは当初2000人の兵士をガルニエにつ
ける予定でしたが、大部隊はフエ宮廷の不信感
を募らせると言う理由から、最終的には数十人
の精鋭部隊をガルニエに与えます。

ガルニエはデュピュイと北部ベトナムの地方政府
との間の紛争の原因と現在の状況を調査する
ように命じられますが、すでに北部ベトナム地方
政府はデュピュイに損害保証金を支払った後、
北ベトナムからの追放処分にしていました。

ガルニエは第一段階で83人の兵士を、第二段
階では88人の兵士とキャノン砲を備えた2隻の
軍艦を北部ベトナムに移動させます。

11月5日にはガルニエもハノイに向け出発し、
途中でデュピュイとデュピュイの部下、10人のヨ
ーロッパ人、30人のアジア人と合流し、デュピュ
イの蒸気船でハノイに到着します。

およそ150人の雲南傭兵と数人の中国人軍隊
がハノイ城を警護していました。

ガルニエは紅河の自由航行権を要求し、税関を
設置して自由貿易を促進することを申し入れま
す。

しかしグエン・チ・フンがガルニエの要求を取り合
わなかった為、ガルニエはハノイ城を攻略する準
備を始めます。

ガルニエは自信を持っていました。
「私はフランスのために行動する全面的な権限
を持っている」

そして11月19日の夜から20日の夜明けにか
けてガルニエは突然ハノイ城への進軍を開始し
、フランス軍はハノイ城の南側の2つの橋を渡り
外壁の周りを占拠します。

18 Hanoi1 (400x179) (400x179)
ハノイ城を攻撃する僅か171人のフランス軍

同時に歩兵砲隊が防衛軍に対して大砲を撃ち
始めます。大砲による攻撃に不慣れだった防衛
軍は西門から逃げ出していき、フランス軍は1時
間たらずで、ハノイ城を占拠、引き続きハノイ市
内を制圧していきます。

ハノイ要塞には兵士が数千人いましたが、まっ
たく原始的な装備で訓練も行われておらず、大
砲があったにもかかわらず、使い方の訓練を受
けていなかった為に火を噴きませんでした。

グエン宮廷軍兵士は2000人以上が捕虜とな
ったのに対し、フランス側の損害はフランス将校
の誤射によって味方の一兵士が死亡しただけで
した。

この戦いでグエン・チ・フンの息子であるNguyễn
Lâmが戦死し、グエン・チ・フォン自身も重傷を
負いましたがフランス軍に助けられます。
しかし弟と息子を戦闘でなくしているグエン・チ・
フォンは少量の食事を喉に通した後、言います。

"Bây giờ nếu ta chỉ gắng lây lất mà sống, sao
bằng thung dung chết về việc nghĩa"
「生きながらえるよりも、静かに死を待つ」と。

その後、1カ月近く絶食状態を続け、1873年
12月20日死去します。73歳の生涯でした。

19 (257x196) (257x196)
絶食するグエンチフォン


20 (273x185) (273x185)
グエンチフォンの墓
現在の地名はthôn Phú Quang, xã Mỹ Phong,
huyện Phù Mỹ

21 (298x400) (298x400)
ハノイ攻防戦の総司令官だったグエンチフォン
が着ていた服(tại Les Invalides.のフランス
軍事博物館に展示されています)

グエン・チ・フンの断食死はハノイの住民を奮い
立たせ、その後1年近くフランス軍に対する蜂起
が継続的に起きます。

その後、トンタットトゥイット(Tôn Thất Thuyết)
とホアンタヴィム(Hoàng Tá Viêm)率いるベトナ
ム軍(主力は劉永福が率いる黒旗軍)はカウザ
イCầu Giấy)でフランス軍を待ち伏せし、司令
官のガルニエを殺害します。

カウザイの戦いの後、1874年1月5日、「第2
次サイゴン条約」が結ばれ、フランス軍はハノイ、
ハイズオン、ニンビン、ナムディン省から引き上げ
、ハイフォンに理事官を置きます。

<死後>
トゥドゥック帝は故郷のグエン・チ・フン寺に眠っ
ているグエン・チ・フンとその弟、息子の3人のた
めに、自ら3人のエッセイを書き残しています。

ハノイ市民はハノイ近郊のドンダ(Đống Đa)の
丘の上にあるチュンリット寺(Trung Liệt)にグエ
ンチフオンの祭壇を造りました

またハノイ市内にはフランス植民植民地時代に
Cửa Nam通りと呼ばれていた通りが1964年
6月にグエン・チ・フン通りと改称されています。

22 (390x349) (390x349)
バックモン(Bắc Môn)にあるグエン・チ・フオンの銅像

23 (171x232) (171x232)
グエンチフォンの記念切手(発行日はまだ不明
です)

トゥドゥック帝 その4  重臣
トゥドゥック帝  その4

トゥドゥック帝は母親の助言により政治をすすめていましたが、治世の前半、
後半にそれぞれ2人の重臣がいました。

トゥドゥック皇帝の重臣

1.グエン・チ・フン

11_20140103230000ee1.png
阮知方 Nguyễn Tri Phương
生没年 1800年~1873年
軍事担当
  フランス軍ガルニエのハノイ攻撃で断食自殺


2.ファン・タン・ジャン

12_20140103230004a50.png
潘清簡 Phan Thanh Giản
生没年 1796年11月11日から1876年8月4日
外交担当
1862年 「第1次サイゴン条約」を締結
1863年 渡仏し「第一次サイゴン条約」で割譲
された領土返還の交渉を命じられた。
1867年 清仏戦争でヴィンロン省が陥落すると
責任を取って服毒自殺した。


3.グエン・ヴァン・トゥオン

13_20140103230006150.png
阮 文 祥 Nguyen Van Tuong
生没年  ?~1886年
「第二次フエ条約」(パルノートル条約)に署名
1885年11月23日に、フランス軍によりタヒチ
島に追放され、1886年2月に死亡


4.トン・タト・テュエット 
  
14_20140103230010d09.png
尊室説  Tôn Thất Thuyết
生没年  1839年~1913年
1885年,フエに到着したフランス軍を攻撃した
が失敗、ハムギ帝を擁して宮殿を脱出。全国に
勤王の詔を宣布。
  支援を求め清国に行き、広西で死亡した



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。