べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ベトナムの国名

ベトナムの国名

ベトナムの正式名称
ベトナム語  Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam
(略称) Việt Nam  
フランス語  République socialiste du Viêt Nam
中国語    共和社會主義越南
日本語     ベトナム社会主義共和国

<国名変更>
2013年10月開会の国会で憲法改正が予定
されており、その際ベトナムの国名も「ベトナム社
会主義共和国」から「ベトナム民主共和国」に
変更される予定です。

「ベトナム民主共和国」は1945年9月2日に
ホーチン主席が独立宣言をした時に名付けら
れた国名です。

社会主義の文字を削除して、自由主義経済を
さらに推進する意図があるのですが、共産党
一党独裁の政治体制は変わりません。

<変遷>
ベトナムとは[越南]のベトナム語発音で、1802
年に成立したグエン朝が当時の宗主国であった
中国清朝の許可を得て、命名された国名です。

グエン朝は当初「南越」と申請しましたが、紀元
前に中国から離反して独立した国が「南越国」
だったので許可されませんでした。仕方なく
「南越」を逆さにして「越南」となったのです。

国名を「越南」とされたことにグエン朝は不快で、
フランスとの条約締結時には「越南国皇帝」とせ
ず「大南国皇帝」と署名しています。

1945年9月2日、ホーチミンが独立宣言をした
時も、このベトナムと言う国名を引き継ぎ、現在
に至っています。

1.建国時  紀元前1000年頃から
国名 文郎国(ヴァンラン)
首都 バックハック(現在のメリン ハノイの
北西)
国王  個々の国王名は不明ですべての国王は
「雄王」と呼ばれています。

ヴァンラン国は国家形態を示す記録も遺構も存
在しないため、半ば伝説上の国家とされていま
すが、ベトナム人はこの伝説を大切にしています。

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雄王

2.紀元前257年~紀元前214年
国名  甌駱国(オーラック)
首都  封渓(フォンケ)=古螺(コーロア)
国王  アンズオン王(安陽王)

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コーロア城はハノイから北へ20Km

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アンズオン王


3.紀元前208年~紀元前111年
国名  南越国
首都  中国広州
国王  趙佗(チョウダ」

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南越国はその領土の大半は現在の中国ですが、
中国秦の始皇帝の死去に伴い、中国から独立、
中国の漢によって滅ぼされたので、ベトナム歴史
の一部として扱われています。

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チョウダ


<紀元前111年~40年  第1次中国支配の時代>


4.40年~42年
国名   なし
王朝名 チュン王朝  
首都   メリン

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チュン姉妹

中国、後漢により滅ぼされました。
ハイバチュンの伝説で有名です。


<43年~544年  第2次中国支配の時代>

5.544年~602年
国名 万春国(ヴァンスゥアン)
王朝名 前李朝
首都 龍編(ロンビエン Long Biên ハノイ
      の東)
国王   李賁(リビ Lý Bí)
中国の支配下にあった北部ベトナムで反乱を起
こし建国。

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リビ

602年、前李朝は中国、隋の攻撃により滅ぼさ
れます。


<602年~939年  第3次中国支配の時代>


6.939年 – 944年 
国名 なし
王朝名 呉朝(最初のベトナム人王朝)
皇帝 呉権(ゴ・クエン Ngô Quyền)

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ゴ・クエン

首都 古螺(コーロア)
最初のベトナム人王朝だが、国家形態を整備し
たのは次期王朝ディン朝と言われています。


<944年~968年  ベトナム群雄割拠の時代>
中国、唐(618年~907年)は現在のハノイ近
辺に「安南都護府」を置いて中国南方地方の
支配の拠点にします。

860年代に北部ベトナムは、中国、雲南省にあ
った南詔(なんしょう)という国家に一時占領され
ますが、その後、奪回して「安南都護府」を中心
に「大羅城」を築いて支配します。


7.968年~980年
国名 大瞿越(ダイコゥヴイエット)
王朝名 丁朝(ディン)
首都 華閣(ホアルー  ニンビン省)
  ハノイから約100キロ南
国王    丁部領(ディン・ボ・リン)

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ホアルーの東門

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ディン・ボ・リン


8.980年~1009年
国名 大越(ダイヴイエット)
王朝名 前黎朝
首都 華閣(ホアルー ニンビン省)
国王   黎桓(レ・ホアン) 

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レ・ホアン

9.1010年~1225年
国名 大越(ダイヴイエット)
王朝名 李朝
首都 昇龍(タンロン ハノイ)
      「大羅城」を「昇龍」と改名します
国王   李公蘊(リ・コン・ワン=リ・タイ・トウ
      Lý Thái Tổ)

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リ・タイ・トウ

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タンロン城の遺跡

10.1225年~1413年
国名 大越(ダイヴイエット)
王朝名 陳朝
首都 昇龍(タンロン ハノイ)
国王   陳煚=陳太宗 (チャン・タイ・トン
Trần Thái Tông. )
      実質的な創始者は陳守度

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チャン・タイ・トン


11.1400年~1407年
国名  大虞(ダイグゥ)
王朝名 故朝(ホ)
首都 西都(タイドー  タインホア地方)
タイドーに対してハノイ地方が通称「東都(ドンド
ー)」ないし「東京(ドンキン)」と呼ばれるようにな
ります。
国王   胡季犛(ホ・クイ・リー)
滅亡   中国、明によって滅ぼされます。

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タイドーの城門は世界遺産です

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ホ・クイ・リー

<1408年~1428年  第4次中国支配の時代>


12.1428年~1527年
国名 大越(ダイヴイエット)
王朝名 後黎朝前期
首都 昇龍(タンロン ハノイ)
      東都・東京の名称は北ベトナム全体を
      指す通称として残ります。
国王   黎利(レ・ロイ)

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レ・ロイ


13. 1527年~1789年
<ベトナム動乱の時代>
国名 大越(ダイヴイエット)
王朝名 後黎朝後期
政権名  莫朝(マック1527年~1677年)
(実質1592年)
   政権名 鄭朝(チン1545年~1788年)
   政権名 広南阮朝(グエン1558年~
         1777年)


14.  1787年~1802年
国名 大越(ダイヴイエット)
王朝名 西山阮朝(タイソングエン)

首都 クイニョン(ビンデイン省) (1778-1793)
国王   阮文岳(Nguyễn Nhạcグエンニャック)
首都 フースワン=フエ (1786-1802)
国王 阮文恵(Nguyễn Huệ グエンフエ)

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タイソン3兄弟

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グエンフエ

14.1802年~1945年
国名 越南(ベトナム)
王朝名 越南阮朝(ベトナムグエン)
首都 富春(フースゥアン=フエ)
長い間首都であったタンロン(昇隆)は漢字名が「昇龍」
と改称され、1830年代から河内(ハノイ)と呼ばれる
ようになりました。
国王 嘉隆帝(ザーロン)

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ザーロン帝


15.1884年~1945年
国名 フランス領インドシナ
王朝名 阮朝(越南阮朝・グエン)
首都 フエ

「ベトナム」という言葉の使用は禁止され、ベトナ
ム国内は3地域に分けられ呼称されます。

地域名 バッキー (東京・トンキン)北部ベトナム
地域名 チュンキー(安南・アンナム)中部ベトナム
地域名 ナムキー (交趾支那・コーチシナ)南部ベトナム


16.1945年3月11日 – 8月30日
国名 ベトナム帝国(日本の傀儡国家)
首都 フエ
元首  バオダイ皇帝
退位 1945年8月30日に退位し、ベトナム
での王朝支配が終焉

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バオダイ帝


17. 1945年9月2日~1976年7月2日
国名  ベトナム民主共和国
首都 ハノイ
元首 ホーチミン大統領

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ホーチミン

18.1946年6月1日~1948年5月27日  
国名  コーチシナ共和国(フランスの傀儡国家)
ベトナム臨時中央政府に吸収され消滅
首都  サイゴン
元首  グエンバンティン(阮文盛)


19.1949年6月14日~1955年4月30日
国名  ベトナム国(フランスの傀儡国家)
首都  サイゴン
元首  元皇帝バオダイ

<ジュネーブ協定による南北分断時代>
北ベトナム  ベトナム民主共和国
南ベトナム  ベトナム国

20.1955年10月26日~1975年4月30日
南ベトナム
国名  ベトナム共和国(アメリカの支援国家)
首都  サイゴン
元首  ゴディンジェム大統領

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ゴディンジェム

21.1975年4月30日~1976年7月2日
国名  南ベトナム共和国(ベトナム民主共和
国の傀儡政権)
首都  サイゴン 評議会議長  グエン・フー・ト

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グエン・フー・ト


22.1976年7月2日~現在
国名  ベトナム社会主義共和国

1976年6月24日、ベトナム戦争後初の南北統一国会
(第6期国会第1回会議)が招集され、7月2日の
国会決議により現在の国名が決定された.
首都  ハノイ
元首  トン・ドゥック・タン大統領

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トン・ドゥック・タン

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ヴォー・グエン・ザップ将軍の国葬
ヴォー・グエン・ザップ将軍の国葬
2013年10月4日、ホー・チ・ミン主席、ファン・
ヴァン・ドン首相と共にベトナム独立のために戦
った英雄「ザップ将軍」が老衰の為、102歳で
逝去しました。

残念ながらザップ将軍の死をもって、ベトナムに
独立をもたらした「革命第一世代」と呼ばれてい
た人々が歴史に中に埋もれてしまいました。

しかし、ザップ将軍が長生きしてくれたお陰で、
歴史の事実を書き残してくれた数冊の著作物を
私達は手にすることが出来ます。

11 (333x400)

10月4日午前9時、ヤップ将軍は家族に看取
られながらハノイの102軍事病院で静かに息を
引き取りました。

ベトナム共産党中央執行委員会は直ちに将軍
の葬儀を国葬にすることを決め、10月12日と
13日に施行すると発表しました。この両日はベ
トナム全土が喪に服し、娯楽施設はすべて休業
となりました。

国葬は12日、ハノイ市チャン・タイン・トン通りに
ある国家葬儀場で行われ、、ホーチミン市、クア
ンビン省(ザップ将軍の故郷)を始め、多くの省、
都市、ベトナム外交機関、ベトナム軍隊がザップ
将軍を追悼するために献花の壇を設立しました。

<ヴォー・グエン・ザップ将軍の弔問式>

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国家葬儀場

13 (400x265)
グエン・フー・チョン共産党書記長を団長とする
ベトナム共産党代表団

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フン・クアン・タイン将軍を団長とするベトナム
共産党中央軍事委員会と国防省の代表団

15 (400x256)
外国の代表団。

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一般人民の代表

17 (400x254)
弔問式を見つめるハノイの人々


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サイゴンでの弔問式は統一会堂で行われました

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クアンビン省の故郷での弔問式


<ボー・グエン・ザップ将軍の追悼式、葬儀式>

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弔辞を読むグエン・フー・チョン共産党書記長

21 (400x288)
最後の別れをするベトナム共産党、国家の
指導者

22 (400x262)
国家葬儀場を出て思い出のハノイ市内を回って
故郷に帰るため飛行場へと向かいます。

23 (400x291)

24 (400x247)
8月革命広場を通ります

25 (400x269)

26 (400x226)
ホーチミン廟前「バーディン広場」を通過します。
ホーチミン主席はどんな言葉をかけたのでしょう
か?

27 (400x252)
最後にハノイのザップ将軍の家(ホアン・ジエウ
通り30番地)に最後の別れを告げ、故郷へ帰
ります

28 (400x270)

29 (400x289)
故郷のクアンビン省までは空輸します

30 (400x273)
クアンビン省ドンホイ空港に到着したザップ将軍

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ザップ将軍を出迎える数万の地元の人々

翌10月13日、ザップ将軍の国葬開催委員会は
ザップ将軍の埋葬式を故郷のクアンビン省
クアンチャック郡クアンドン町ヴンチュア-ダオイ
エンで行ないました。

32 (400x266)
午後5時、埋葬が完了し、ボー・グエン・ザップ
将軍の葬儀は終了します。

トゥドゥック帝 その2
孝行息子
皇帝トゥドゥックは孝行息子として有名でした。
先帝ティウチ帝の棺は墓所が完成していなかっ
たこともありましたが、宮城内に8カ月も留め置
かれました。初代皇帝ザーロン帝でさえ4カ月間
でした。

トゥドゥック帝は、孝行息子は両親に対する義務
を果たすべきで、親孝行こそが儒教の徳の中で
も一番を占めるものだと巷で言われていることを
理解していました。

墓所になかなか移動させなかったのはトゥドゥッ
ク帝の親孝行振りを宮廷内外にアピールする為
でした。

トゥドゥック帝治世の大半はファンタイジャン(外
交担当)とグエンティフォン(軍事担当)という官
僚が摂政ともいうべき地位をしめて政治が行わ
れていました。

しかしトゥドゥック帝にとって何よりも大事な人は
母親のTỪ DŨ(慈裕太后范氏姮)でした。

彼はいつも母親の教えに頭を垂れ、決して不服
従することはありませんでした。母親の前ではま
るで幼児のようであり、母親を喜ばせることを最
大限に考えていました。

毎月奇数の日には母親を自分の宮殿に招き、
偶数の日には自分が母親の宮殿に行きました。
36年間の彼の在位期間に、この習慣は一度た
りとも欠かしたことがありませんでした。

そして政治的課題のすべてに母親のアドバイス
を求めました。母親のアドバイスは「Book of
Kind Mother’s Advice」に記録されました。

トゥドゥック帝は母親に対して親孝行をしました
が、皮肉にも、そして不幸にも、中国儒教の封
建的道徳観念上からは最大の罪をされる「子
孫を残すことが出来なかった」のです。

これがトゥドゥック帝の最大の悲劇でした。

彼は生まれながらにして病弱だった上、少年の
頃に天然痘に侵され、合併症も併発して身長も
150Cmしかありませんでした。その影響からか、
側室は100人以上いいましたが子供が出来ま
せんでした。

3人の甥を養子にし、後に3人とも皇帝になりま
すが、3人とも当時の官僚達に悲劇の生涯を強
要されます。



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