べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ミンマン帝 その1


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明命帝(Minh Mạng
阮福晈
生年 1791年5月25日 ザーロン生まれ
没年 1841年1月20日 落馬して死亡し
ます。
初代皇帝ザーロン帝第2婦人の子で第4
子。

阮朝第2代皇帝
在位 1820年2月-1841年
グエン王朝の最盛期を築きました。
<主な話題>
1. 即位
2. 国内政治
   2-1 改名
   2-2 中央集権化
   2-3 儒学の復興
   2-4 コインの鋳造
   2-5 フエ宮殿の整備
   2-6 フランスへの対応
   2-7 キリスト教の禁止
   2-8 国号の変更
3.国内の反乱(別掲)
   3-1 レ・ズイ・ルンの反乱(北部)
   3-2 レ・ヴァン・コイの反乱(南部」 
   3-3 ノン・ヴァン・ヴァンの反乱(北
部)
4.対外政策
   4-1 チャンバ国の完全消滅
   4-2 ラオスとの国境防衛
   4-3 カンボジアの領土化
5.ミンマン帝の逸話(別掲)
6.ミンマン霊廟(別掲)


<1.即位>
1820年
ザーロン帝の長子カインはタイソン軍との戦
いの期間中に死亡したため、30歳であった
第4子のミンマン(第2子、3子は夭折)が皇
位継承者として遺言されました。

苦楽を共にした最高級の官僚であったレ・ヴ
ァン・ズエットはミンマンが第2婦人の子であ
ることから、猛反対をしましたが、反対を押し
切って皇位継承者にミンマンを選びました

ザーロン帝は即位の前年に死亡してしまった
皇太子カインの子はまだ若すぎるし、カイン
一家はキリスト教に改宗し、東洋人であるこ
とを忘れてしまったのではないかと心配してい
たという憶測があります。一方でカトリック聖
職者や信者がミンマンの即位には反対して
いるという事実にも気付いていました。

<2.国内政治>

<2-1 改名>
広南グエン氏もグエン王朝の皇室もグエン・
フック(阮福氏)の旁系であることから、ミンマ
ン帝はTrịnh Hoài Đức(鄭懷德 文学者)
やLê Chất(黎質 軍人)らと建議の上、グエ
ン・キム(阮淦 1468年生)からグエン・フッ
ク・トゥアン(阮福淳 1777年死)までの数
代のグエン・フック氏の旁系や子孫の姓をト
ン・タット氏(尊室氏)に改名することを下命
しました。

<2-2 中央集権化>
1831年
中国、清朝の制度に倣って官制改革を実
施し、フエに内閣を組織し、重要事項の審
議をさせるために枢密院を設置します。地方
は30省に編成しなおされ、中央集権化をは
かります。ミンマン帝は文官政治を目指しま
した。
中央集権化が本格的になったのは、南部総
鎮であった建国の功労者レ・ヴァン・ズエット
の死(1832年7月3日)の直前からでした。

しかし、中央集権化政策は、北部・南部双
方で反発を招き、北部では黎朝の子孫を称
するレ・ズイ・ルン(黎維良)の反乱、南部で
は南部総鎮レ・ヴァン・ズエットの養子レ・ヴ
ァン・コイ乱など、大規模な反乱をもたらしま
した。

<2-3 儒学の復興>
ミンマン帝は博学で、特に孔子や孟子を勉
強し、儒教に精通していました。16世紀、後
黎朝における儒教の黄金時代を復活させ、
この時代にはフエの官僚から著名な儒学者
ファン・タイン・ジャン(Phan Thanh Giản
潘清简)、Lê Quang Định(黎光定)、Trịnh
Hoài Đức(鄭懷德)らが輩出しました。

12
ファン・タイン・ジャン

毎年春と秋には孔子を祭る大祭典を挙行し
ていました。

明命帝は7,8歳の子供の教育課程に関し
て、教師はまず忠義、孝行を教え、その後中
国儒家の経典である四書五經を読むことを
下命しています。

1835年、ミンマン帝は朱熹の「小学集注」
や「四書五経」を大量に印刷し、市中での印
刷や販売も許可したので、儒教の書籍がベ
トナム中で広く読まれるようになりました。

1839年、明命帝は中国清朝の道光皇帝
に中国語の辞書「康熙字典」を送ってもらう
よう要請し、学校教育、公文書、科挙の試
験には、チュノム(ベトナムの漢字)の使用は
認められませんでした。

13

ミンマン帝の時代には《嘉定城通志》,《大南
實錄》などの歴史書も編纂されています。

14 (400x315)
嘉定城通志
Gia Định Thành Thông Chí
1816年~1820年5月にかけて、グエン朝
の官僚兼学者であったTrịnh Hoài Đức
(鄭懷德)によって編纂された南部ベトナムの地
方志。

当時の南部ベトナムは嘉定城(ザーロン城)
を総鎮として藩安鎮、邊和鎮、定祥鎮、
永清鎮、河仙鎮の5鎮がありました。
この書にはこの地方の歷史沿革、地理、物
産、商業、交通、水利の状況や当地の華僑
の事跡が漢文で書かれています。

南部ベトナムに最初に中国人が入植した歴
史もこの書物に書かれています。
中国明朝が滅亡した際、広東省鎮守の総
兵官、楊彥迪とその副将、黃進らが、戦船5
0余隻に家臣3000人と引き連れて、現在
のダナン港近辺に現れ、広南グエン氏に亡
命を求めてきた。
「不肯臣事大清,南來投誠,願為臣僕。」

グエン朝官僚が編纂した《大南實錄》、《大
南一統志》などの文献は嘉定城通志を重要
な根拠としています。

学術上の価値の他、ミンマン朝以降、南部
の官職に任命された官僚はこの本を読んで
から赴任したという。

1862年、フランスは嘉定城を占領し、南部
ベトナムを植民地にし始め、フランスの軍人
探検家が南部ベトナムのメコン河に沿って探
検を始めましたが、その際の探検資料にもな
りました。

翌年の1863年にはフランス語に訳され、フ
ランスで出版されています。

15
大南実録
Đại Nam thực lục
1811年ザーロン帝の下命により始められ、
ミンマン帝になってからは新たに設置された
国士舘に引き継がれ、阮文仁、鄭懷德らが
中心となって編集されました。
584巻あり、グエン王朝の公式の歴史書で
す。
最後の皇帝バオダイを除き12代皇帝、カイ
ディン帝までの歴代皇帝の実録を中心に各
階層の人物列伝が書かれています。

ミンマン帝の第10子Nguyễn Phúc Miên
Thẩm(阮福綿審)は中国語に堪能な詩人
で当時のベトナム第1の詩人として誉れ高く、
彼の詩は中国清朝の大臣に朝貢物のひと
つとしてしばしば贈られました。
そして官僚の育成と登用の為、建国当初よ
り行われていた科挙の試験に皇帝自らが試
験官となる「殿試」を加え、科挙試験を充実
させます。国史館を建て文芸を盛んにしよう
としました。

ミンマン帝は科挙制度により官僚が肥大化
し、官僚の腐敗が起きることも理解していま
した。

中国や西洋諸国の情報の収集を図り、技
術の移転を進めましたが、その後の排他的
政策により縮小されざるを得ませんでした。

ミンマン帝は欧州の文明をすべて排除したわ
けではなく、フエにいる宣教師にフランスの書
籍を翻訳させたり、蒸気機関車の製造をす
るように命じています。

また欧州で行われていた天然痘ワクチンを
宮廷で働く臣下に予防接種したり、フランス
人の家庭医を雇ったりしていますので、ミンマ
ン帝は当時の欧州の発展を理解していまし
た。

<2-4 コインの鋳造>
ミンマン帝の時代には銅銭の発行がありまし
た。
1833年に鋳造された「明命通宝」と呼ばれ
るもので、小銭と大銭の2種類あります。

16
小銭

17_20130619184532.jpg
大銭
背面には「四書五経」からの文字が彫られて
いて、大変貴重なものとされています。

<2-5 フエ宮殿の整備>
ミンマン帝の時代にフエの宮殿も整備されて
いきました。
建築物として高い評価を与えられているフエ
宮殿の「午門」はミンマン帝の時代に建たて
られました。

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<2-6 フランスへの対応>
グエン朝の建国には100人以上のフランス
人宣教師が貢献したので、初代皇帝ザーロ
ン帝はフランス人がベトナム国内で通商する
ことを許可し、フランス人将官を大臣に任命
したりもしました。
しかし、ザーロン帝はフランス人に対する警
戒心も持っていました。

ミンマン帝は父親のザーロン帝とは違い、西
洋列強には強硬な態度をとりました。即位
当初は表面上、穏やかでしたが、時が経つ
につれ徐々にフランス人を排斥するようにな
り、通商拡大を狙ったフランスとの交渉を拒
絶するようになります。

1921年
ザーロン帝の法務大臣であったショニーはフ
ランスに帰国していましたが、1821年、ルイ
18世の親書を携えフエのフランス領事として
戻り、ベトナムとの通商を求めていました。

ミンマン帝はショニーの情熱もあり、通商条
約締結の意思を表示しましたが、ベトナムの
法律を厳守することを必須条件としました。

1822年
封鎖的態度をとるようになったミンマン帝はフ
ランス軍艦La Cleopatre号がダナンに入港
し、開国を要請してきますが艦長との引見を
拒否し、鎖国政策をとるようになります。
ミンマン帝が引見を拒否したのは、この当時、
ベトナムに入港する外国船には少なからず
宣教師が乗船していたからです。

1824年
ミンマン帝のフランス人に対する態度が、
徐々に冷淡になって、フエ宮殿の周辺に居を
構えていたフランス人を疎んじ始めたため、フ
ランス人大臣Vannierは辞任して帰国してし
まいます。


1826年
建国の際の功績者であるフランス人ショニー
の甥が領事資格でベトナムに来ますが、これ
も引見を拒否されます。

1829年
フランス領事も帰国し、ベトナムとフランスの
外交関係が中断してしまいます。

<2-7 キリスト教の禁止>
初代皇帝のザーロン帝も祖先崇拝を否定す
るキリスト教に違和感を有していましたが、建
国の際にフランス人司教アドランの支援を受
けていたため、建国当初はキリスト教を保護
していたものの、司教が死去したこともあり、
ミンマン帝の時代になると一転して冷遇する
ようになっていきます。

さらにレ・ヴァン・コイの反乱にはベトナムのキ
リスト教徒は公然と反乱に参加し、ミンマン
帝の即位に反対し、グエンカインの子孫を皇
帝にするべきとの主張に対し、ミンマン帝は
脅威を感じ始めます。

ミンマン帝は儒教の信奉者でキリスト教徒が
好きでなく、ベトナム国内での伝道を許すべ
きでないと考えていました。
ミンマン帝は勅命で表明しています。
「西洋の宗教は魅力的だが、ベトナムの文
化を破壊しており、人々を正しい方向に導く
為に布教を禁止すべきである」

1833年1月6日
キリスト教禁止の勅令を出します。
「宣教師のベトナム国内での布教を禁止し、
キリスト教信者は信仰を捨てること。でなけ
れば死刑とする。教会は破壊されるべきで
ある」

10月
レ・ヴァン・コイの反乱の際、ジョセフ・
マルシャン(Joseph Marchand)という若い
フランス人宣教師が病気でザーディン要塞
に住んでいることが宮廷の官僚に報告され
逮捕されました。

1835年
マルシャンは前身の肉を削ぎとられるという
拷問により死亡します。

19 (319x400) (2)
ジョセフ•マルシャン

20 (272x400)
ジョセフ•マルシャンの処刑図

1836年
フエに拘留していた宣教師7人を処刑する命
令を出すと共にキリスト教徒多数を弾圧し、
多くのキリスト教徒が山岳地帯に逃れること
となります。

1838年
ミンマン帝によるキリスト教徒弾圧はピークに
達します。
その後アヘン戦争によるヨーロッパ諸国の軍
事力に直面したグエン朝ではキリスト教への
迫害が緩和され、1841年に即位した第3
代皇帝ティウチ帝の時代になると投獄されて
いた宣教師はフランス軍艦に引き渡されてい
ます。

21
Cornayの処刑
1837年9月20日、トンキンでみじん切りに
された

22
Pierre Dumoulin
1838年11月24日、トンキンで斬首


23
Paul Mi, Pierre Duong, Pierre
Truat、3名のベトナム人殉教者
1838年12月18日、肉を引き裂かれる拷
問により死亡


<2-8 国号の変更>
1839年2月15日
グエン朝建国の際の国号「越南」(ベトナム)
を、「大南」(ダイナム)と改めました。

24
大南帝国国旗
この改称は、「越南」は中国の南方という含
意があり中国への服属を思わせるので、
清を宗主国としながらも自らを主体とした「中
華秩序」的な世界を形成しようとする意思を
示したものとされます。
従って1839年からは「大南帝国皇帝」と名
乗ります。

25
明命帝玉璽
ミンマン帝は生前しばしば臣下に訓示してい
ました。
「人々は国力が強い時は何も言わないが、
国力が弱くなるといろいろと要求してくるもの
だ」

<4.対外政策>
ミンマン帝の時代にベトナム領土は最大にな
りました。

26 (249x400)

<4-1 チャンバ国の完全消滅>
チャンバ国の貴族、阮文承(Po Fokuta)は
レ・ヴァン・コイの反乱に乗じてチャンバ国の
自治回復を要求して蜂起しましたが、失敗
に終わり、チャンバの領土は再びベトナムに
占領されてしまいます。
ミンマン帝はチャンバの「順城鎮」(Thuận
Thành trấn)をベトナムの統治下に置き、官
吏を派遣します。
阮文承は処刑され、チャンバ国は完全に消
滅しました。

<4-2 ラオスとの国境防衛>
1827年、ラオスはシャム侵略され、ベトナム
に援助を求めてきました。5月にはシャム軍
はベトナムの国境を脅かすようになり、ミンマ
ン帝はラオスに3000人の軍隊を送り要塞を
建設させ援助します。
1年以上の時が経過した後、ベトナムはラオ
ス領土を部分的に強奪します。

<4-3 カンボジアの領土化>
グエン王朝建国前からシャムと広南グエン氏
はクメール人の住む南部メコンデルタを侵略
していました。

1834年、ミンマン帝はカンボジアに張明大
将、アンヤン地方に黎大綱大將を派遣し、プ
ノンペンにはカンボジア国王を守る為と称して
軍隊を駐留させますが、カンボジア国王はま
もなく病死してしまいます

1835年
張明大将はカンボジア王女を娶りザーディン
に軟禁してしまいます。その後、カンボジアを
自国領土として、プノンペンを鎮西城と改称
します。
ミンマン帝は欽差大臣、黎文德を派遣して、
カンボジアを32府2県とし、直接統治を行い
ます。

1841年
カンボジアを併合したものの、建国の際に後
ろ盾となったシャムとの関係が悪化し、カンボ
ジアやラオスをめぐって泥沼の戦争状態が
続きます。
その後カンボジア・ラオスの情勢は基本的に
ベトナム側に有利に推移し、ベトナム領土は
最大に達したものの国家財政は大いに疲弊
してしまいます。

カンボジアでは王位争いが絶え間なく続き、
カンボジア、タイ、ベトナムで合意に至ったの
は1845年でした。

27
“Minh mạng chính yếu”

ミンマン帝の治世は約20年続きましたが、
前半10年の輝かしい時代に比して、後半の
10年は国内の反乱鎮圧やラオスやカンボジ
アとの紛争で国内経済は疲弊し、官僚の腐
敗も始まりだして、国家統治が下り坂になっ
てきます。

1840年
ミンマン帝の晩年には、中国清朝と英国間
でアヘン戦争が始まり、グエン王朝はイギリ
スやフランスの西洋の軍艦は清朝が宗主国
であるベトナムにも侵攻してくるのではないか
と大きな不安を抱えます。
グエン王朝は2人の文官に通訳をつけて、イ
ギリス、フランスに親善使節、「ベトナム使節
団」を送り、良好な外交関係を築こうとします
が、失敗に終わります。

1841年
ミンマン帝は落馬が原因で崩御し、長男のテ
ィウチ帝が皇位を継承します。

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9 ホーチミン主席の足跡 1911年(21歳) 更新1
9 ホーチミン主席の足跡 1911年(21歳) 更新1

1910年9月19日
ファンティットでの教員の仕事を辞したグエ
ン・タッ・タン(偽名ヴァンバ)はズックタン学校
の同僚の世話でサイゴンにやって来ます。

サイゴンで「LIEN THANH会社]を探すまで
の間、フエ宮廷の官僚チュン・ヤ・モ-の母
方の親族であるLê Văn Đạtの家に世話に
なります。

11
現在のコーバック(CÔ BẮC)通りのHEM
(小道)185/1にあります。
現在は勿論建て替えられていますが、子孫
の方が道路の反対側でメガネレンズの会社
を営んで住んでいます。

2日後、バン・バ青年はLIEN THANの販
売会社を探し当てます。

12
当時のLIEN THAN販売会社のヌックマム
工場倉庫

13
現在のLIEN THAN会社
現在のホーチミン市4区ベンヴァンドン(Bến
Vân Đồn)通り243番地

14
LIEN THANの商標

ベンゲ運河沿いのBẾN VÂN ĐỒN通りの
散歩道をチョロンに向かって歩いていくとあり
ます。
探し当てたのは仕事場で宿舎は現在のチョ
ロン郵便局の手前にあります。


宿舎は当時のままなので、1988年11月1
6日に国の歴史的建造物に指定されていま
す。
現在のホーチミン市5区チャウバンリン(Châu
Văn Liêm)通り5番地、チョロン郵便局の
近くにあります。

15

サイゴンで Van Ba青年が見た光景は、フ
ランス人に虐げられているベトナム人の姿で
した。豊かなのはフランス人とその手下にな
っている官僚達で、庶民は過酷な生活を強
いられていることを強く感じます。

16
1911年初頭。サイゴンのフランス人

17
サイゴンの官僚達

サイゴンの官僚達はメコンデルタの米の精米
を一手に引き受けていた中国人と結託して
懐を肥やしている人がたくさんいました。

サイゴン在住時、ヴァン・バ青年はLIEN
THANで働きながら3カ月だけでしたが
Ecole des Mecaniciens(カオタン技術養成
学校)に通い、機械技術を勉強します。

仕事と勉強の合間にはサイゴン港の埠頭周
辺で新聞を売り歩いて、外国へ行くチャンス
を探します。

18
1908年のカオダン技術養成学校

19
技術研修はバソン造船所内で行われまし
た。


6月2日 
彼は現在のマジェスティックホテルの並びに
あったフランス海運会社Chargeurs Réunis
Companyの船員募集広告を見つけ応募
します。ヴァン・バ青年は船員としては無理
でしたが、翌6月3日、船会社の責任者が
会ってくれ、厨房補助員として̉月45フランの
賃金で雇ってくれることが決まったのです。

ヴァン・バ青年は停泊していたラトゥーシュ・
トレヴィル号に行って就職を依頼したという
記事もあります。

20
船会社のビル

21
左のビルが当時まだ未建設のマジェスティッ
クホテル、ドンコイ通りを隔てて右側のビルが
旧船会社の再建されたビル。

この船会社はL’Amiral Latouche
Tréville (提督ラトゥーシュ・トレヴィル号、
略してトレビュー号)とナムサオ号というベトナ
ムとフランス間を航海する船を運航していま
した。

トレビュー号はフランスのマルセイユ港を母
港とするハイフォンとフランス最北端の港ダ
ンケルクを結ぶ貨客船で、航路はスエズ運
河を通る航路とアフリカ最南端の喜望峰を
通る航路があり、当時のフランスとイギリス
の植民地に寄航しながら、航海をしていまし
た。

22
1911年のグエンフエ通りの写真。
正面にトレビュー号(Amiral Latouche
Tréville)が停泊しています。
後のホーチミン主席が救国を胸にフランスへ
旅立った時に乗った貨客船です。

ホーチミン主席はニャロン桟橋(現在のホー
チミン主席記念館、昔のドラゴンハウス前)
の桟橋から旅立ったとされていますが、それ
は史実ではなく、実際はグエンフエ通り突き当
りの、この桟橋から旅立ちました。

23
貨客船トレビュー号

24
貨客船トレビュー号


6月4日
彼はLIEN THAN会社の同僚やサイゴンに
来ていた父親に一時の別れを告げ、旅支度
をします。しかしこの旅立ちがヴァン・バ青年
と父親の最後の出会いで、生涯、父親に会う
ことも墓所に行くこともかないませんでした。

6月5日
トレビュー号は前寄港地トーラン港(Tuaran
現在のダナン)から6月2日にサイゴン港に
入港しており、6月5日フランスへと出航しま
す。ヴァン・バ青年は晴れて救国の意思を胸
にフランスへと旅立ちます。時に彼は21歳でした。

ホーチミン主席関連の本に常に「ホーチミン
主席は救国の道を探しに外国へと渡りまし
た」と書かれる、ベトナム独立にとって重要な
エポックになった出来事です。

25
船会社の賃金台帳。真ん中の欄に「ヴァン・
バ」とあります。45フランと書かれています。


26 サイゴン出航記録
サイゴン港出航の記録

サイゴンを出航したヴァン・バ青年は、8日シ
ンガポール、14日コロンボ、 30日スエズ運
河を通ってエジプトに寄港してから、約一月
後の7月6日、フランスのマルセイユ̣
(MACXÂY)港へ到着します。

27
フランスへの航路

28 シンガポr-ル
シンガポール

29 コロンボ
コロンボ

30 エジプト
エジプト


航海中の自由時間に彼はよくシェイクスピア、
トルストイ、マルクスなどの本を読んでいたそ
うです。

31
ホーチミンの愛読書「シェイクスピィア」


32
フランス マルセイユ入港記録

33
当時のマルセイユ港

34
マルセイユ港キャノビー(Canobie)通り

マルセイユで彼はコーヒーショップに入り、「ム
ッシュー」と呼ばれたことに感動しています。フ
ランス本国では誰もが彼を平等の人間として
接してくれたことで、植民地とはあまりに違う
光景でした。

その後、トレビュー号はフランスのルアーブル
港(Le Havre port)に寄港後、ダンケルク港
に8月19日に入港し、9月に母港マルセイユ
に停泊します。

次の出航まで彼はルアーブル港近くの
Sainte-Addresseで住込みで庭師や厨房で
の仕事をして生活していたようです。

9月15日
ヴァン・バ青年はフランス大統領に手紙を書
きます。

35

Kính gửi ngài Tổng thống nước cộng hòa
Tôi vinh hạnh xin Ngài, với lòng nhân từ
cao cả của mình, một đặc ân là ̣dược vào
học trường thuộc địa như một học sinh
nội trú.

Hiện nay tôi đang làm việc cho Hãng vận
tải hợp nhất́ (Companie des Chargeurs
Reunis) trên tàu L'Admiral Latouche
Tre'ville.

Tôi hoàn toàn không có tiền của, nhưng
ham học hỏi. Tôi muốn trở thành hữu
ích cho nước Pháp trong quan hệ với đồng
bào tôi và làm cho họ được hưởng những
điều tốt đẹp của học vấn,

Tôi quê t̉in Nghệ An ở Trung Kỳ,
Trong khi chờ đợi Ngài trả lời, mà tôi
mong là thuận lợi, xin Tổng thống nhận
lời biết ơn trước của tôi.

Nguyẽn Tất Thành, sinh năm 1892 ở
Vinh, con ông Nguyễn Sinh Huy (Phó
bảng), học tiếng Pháp, chữ quốc ngữ và
chữ Hán

「私、グエン・タッ・タンはベトナムゲアン省の
生まれで、現在フランスの船会社で働いてい
ます。私はお金がまったくないのですが、フラ
ンスの学校(Colony School in Paris)で勉
強したいのです。」と言うことが書かれている
のですが、勿論、いくら待っても返事はきませ
んでした。
この手紙の最後のパラグラフには、1892年
ゲアン生まれとあります。

10月31日
グエン・タッ・タンは父親に15ドンの送金為
替を組みます。この時、父親がどこに住んで
いるのか曖昧だったため、彼はフエのフランス
の役所に手紙を書き、父親に15ドンの受取
を依頼します。

36
後日送金は父親に渡されたことが確認され
ています。


1911年の暮れ、貨物船トレビュー号はフラ
ンスのマルセイユ港からベトナムのハイフォン
に向かって出航します。ホーチミンは1912
年の始めに一旦サイゴンに戻っています。父
親を探したようです。そして再びマルセイユに
向けての航海に出ます。

彼の船員としての旅は1913年のフランス、
ルアーブル港到着まで続きます。


コラム  カオタン技術養成学校

カオタン技術養成学校(Cao Thang
Technical School 仏語 Ecole des
Mecaniciens)はハムギ通りにあります。

37
現在のカオダン技術学校

フランス植民地政府は植民地支配と地域の
発展のために1906年2月20日、機械技術
の専門学校を南ベトナムに設立しました。

南ベトナムの最初の技術養成学校で、卒業生
は近くのバソン造船所で働く人が多くいました。

1906年の設立から1954年にフランスがデ
ィエン・ビエン・フーで大敗を期すまで695人
の卒業生を送り出しています。

海外に行くことを夢見ていたバン・バ青年は
フランスに旅立つ前、この学校で機械技術を
3カ月間勉強しました。

ホーチミン内閣の副大統領に就任し、ホーチ
ミン亡き後に大統領職を引き継いだトン・ドゥ
ック・タン(Tôn Đức Thắng)も1915年から1
917年の間、この学校で船の機械技術を勉強
しました。


この学校の生徒には愛国者が多く、フランス
の植民地支配に抵抗する学生がたくさんい
ました。

1932年には学生の中にインドシナ共産党
の支部が設立され、1940年の南部一斉
蜂起や1945年のベトナム8月革命にも多くの
学生が参加しました。

ベトナム分断後も南ベトナムのジェム政権や
チュウ政権に対して抵抗運動をしています。

38
カオタン技術学校の卒業証書

8.ホーチミン主席の足跡 1910年(20歳) 更新1
8.ホーチミン主席の足跡 1910年(20歳)
更新1

グエン・タッ・タン(後のホーチミン主席)の父
親はビンディン省ビンケー地区の公務員のチ
ーフを務めていましたが暴行事件を起こし、
官職を追放になってしまったので、グエン・タ
ッ・タンも学校へ行けなくなり、自活の道を探
さねばなりませんでした。父親はグエン・タッ・
タンの就職を助けるため、旧知の親友であっ
たフエ宮廷の官僚チュン・ヤー・モ(Trương
Gia Mo)に就職斡旋の手紙を書きます。

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チュン・ヤー・モ

チュン・ヤー・モは愛国者達によって運営され
ていたファンティットにあるドゥクタン学校で教
師をしているホー・タ・バン(Hồ Tá Bang)を
紹介してくれます。

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ホー・タ・バン

1910年10月 グエン・タッ・タンがチュンヤ
モーの紹介状を持ってファンティット行き、ホ
ー・タ・バンに会います。

ドゥクタン学校での予備教師の職に着いたグ
エン・タッ・タンは第2学年の中国語と国語
(クオック・グー呼ばれます)教えていましたが、
授業が終わると生徒と一緒に運動をしたり、
よくファンティエットの美しい海岸、Thương
Chánhビーチに生徒を連れて行き、昔の偉
人やファンティット村の祠の話を聞かせて生
徒の愛国心を育てました。

Nguyễn Hiệt Chiの息子Nguyễn Kinh Chi
はグエン・タッ・タンの教え子で、グエン・タッ・
タンがベトナム民主共和国の大統領になっ
た時、第1期から4期まで国会議員に選出さ
れ、保健省の副大臣を務めました。

̉約6カ月間、ドゥクタン学校で教師をしていた
時にグエン・タッ・タンはフランスへの海外渡
航の夢を同僚達に話します。

同僚の愛国者ホー・タ・バンとチャン・レ・チャ
(Trần Lệ Chất)は海外に行くには何よりも
サイゴンに行って渡航のチャンスを掴まねば
ならないと話し、グエン・タッ・タンのサイゴン
行きが実現するよう諸手配をしてくれます。

13 (288x400)
チャン・レ・チャ

彼らはグエン・タッ・タンの為にサイゴンの「Li
ên Thành」会社へ行くように薦め、サイゴ
ン到着時の当面の居住先としてチュン・ヤ
ー・モの母方の親戚レ・バン・ダット(Lê Văn
Đạt)の家を紹介します。

さらに「Ban Va」と言う名前でグエン・タッ・タ
ンのパスポートを取得してくれます。
グエン・タッ・タンはフエのクオック・ホック高校
時代に反税デモに参加してフランス秘密警
察に危険人物として調書を作成されている
ので、本名でのパスポート取得は困難でした。
Ban Vaという名前は数多くあるホーチミン主席
の最初の偽名です。

そして1911年3月、グエン・タッ・タンはドゥク
タン学校を後にし、サイゴンに向かいます。


コラム ドゥクタン学校 14 (400x222)
ドゥクタン学校
số 39 phố Trưng Nhị, phường Đức Nghĩa,
Phan Thiết

ドゥクタン学校は東遊運動拡大の過程で中
部ベトナムの中心的教育機関として愛国者
によって、1907年に創立されました。
ファン・チュウ・チン(Phan Châu Trinh)はフ
エの宮廷で働いていましたが、官僚の腐敗を
見て、職を辞し南部ベトナムを初めとして全
国遊説の旅を始めます。

1905年にはファン・チュウ・チンはチャン・ウ
ィ・カップ、フイン・トゥック・カン(Trần Quý
Cáp、Huỳnh Thúc Kháng)と共にファンティ
ットを訪問し、この地に愛国者の学校を創設
し、愛国的若者の教育を通じてベトナム独
立の礎にしようと行動します。
当時はファン・ボイ・チャウの東遊運動の影
響で、全国にベトナム独立のために次代を
担う人材の育成が急ピッチで行われていた
時代でした。

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ファン・チュウ・チン

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チャン・ウィ・カップ

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フイン・トゥック・カン

6人の創業者(全員儒学者でした)

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左上からHồ Tá Bang、 Nguyễn Trọng Lợi、
Nguyễn Quý Anh、
Nguyễn Hiệt Chi、Trần Lệ Chất、
Ngô Văn Nhượng

ファンティットは東遊運動の教育面のルーツ
となった場所なのです。

フエの官僚チュン・ヤ・モーの仲介で愛国詩
人Nguyễn Thôngの2人の息子
Nguyễn Trọng Lợi, Nguyễn Quý Anhと
Hồ Tá Bangが東遊運動を広めるために会合
します。その後Ngô Văn Nhượng,
Nguyễn Hiệt Chi, Trần Lệ Chấtの3人が
加わり、6人は東遊運動の3つの信条、
『知識の向上、連絡網の拡大、民生の向上』
の達成を政治的、文化的、経済的に結び
つける為に結束し、次々と組織を結成して
いきます。

1905年 愛国的書籍の普及の為「Liên
Thành Thư Xã」を設立。
Nguyễn Hiệt Chiによって主宰されたこの会
社はファン・チュウ・チンを初め、多くの講師
を招き講演会を開催し、熱狂的な喝采を浴
びました。

1906年6月6日 経済活動に資金を提供
し、人々のための雇用を創出するためにヌッ
クマム製造販売会社「Liên Thành Thương
Quán」を設立。

ファンティットはフーコック島と並んで、魚から
造る醤油「ヌックマム」の二大産地で、「Liấn
Thành会社」はファンティットで製造されたヌ
ックマムをサイゴンに移送し、サイゴン港から
輸出していました。
この会社の活動から生じた資金はファン・ボ
イ・チャウの東遊運動の秘密資金として貢献
したり、後の民族解放運動の資金にもなりま
した。

1907年 劣悪な労働に従事している愛国
少年の為のオープンスクール「Dục Thanh
Học Hiệu」を設立。
この学校は北部ベトナムに設立された日本
の「慶応義塾」まねて設立された「東京義塾」
と同じ年に創設されました。

学校の教室は木造立てが2つあり、自習室
や遠方から来た先生や生徒の為の寄宿舎
も建てられていました。

学校の運営資金は地元の名士Huỳnh Văn
Ðẩuと「Liên Thành Thương Quán」からの
寄付でまかなわれました。
生徒の授業料は無料で教師の給料も寄付
金から支払われました。

学校はNguyễn Quý Anh校長の他に
Nguyễn Hiệt Chi、Trần Đình Phiênが教
師として4クラス約100人の生徒を教えまし
た。

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サイゴン、ダナン、ホイアンをはじめ、中南部
や南西ベトナム地方から優秀な生徒が集ま
り、ほとんどの生徒が寄宿舎で一緒に過ごし
ました。
教科書はハノイの「東京義塾」で使用されて
いるものをTrần Lệ Chấtの友人であるフエ
宮廷の軍人Đào Nguyên Phổが運んで来ま
した。

授業はとても厳しく管理され、朝6時から午
後5時まで勉強し、授業が終わると起立し、
胸に手を当てファン・チュウ・チンが1907年
に書いた詩を基に作られた愛国ソングを歌う
のが日課でした。

1911年の後半には、愛国書の出版や講演
会を主宰していた「Liên Thành Thư xã」が
閉鎖され、ズックタン学校もいろいろな理由
で閉鎖の一歩手前になっていました。

ズックタン学校の校長をしていたNguyen
Quy Anhは唯一元気に活動していたチョロ
ンにあるLiên Thànhの販売会社に責任者
として赴任してきます。

現在あるズックタン学校はグエン・タッ・タンが
教えていた時の生徒が中心となり再建され
たもので、ベトナムの歴史的場所をして博物
館になっています。

20

グエン・タッ・タンが世話をした木々と、毎日
水を汲んだ井戸は現在も大切に保存されて
います。

ザーロン帝 その6 陵墓
ザーロン帝廟

王宮から香河(フォン川)を舟で15kmほど
遡り、左岸を南に歩いて30分行くと、山中に
グエン王朝初代皇帝のザーロン帝の墓所、
天授陵があります。

墓所の造営はザーロン帝の生前1814年か
ら始まり、1820年に完成していますが、ザー
ロン帝は1820年2月3日(57歳)に死去し
ていますので、墓所の完成と前後してなくな
りました。

ザーロン帝が墓所の造営を思い立ったのは、
第一婦人の皇后、承天佐聖厚徳慈仁簡恭
斉孝翼正順元高皇后宋氏が1814年に死
亡した為です。

1816年11月
ザーロン帝は「山陵条禁」を定めました。
それによると、陵の境界を示すため建てられ
ている石柱内では樹木を伐採し、土や柴を
採取し、竈を設けて炭を焼いたり、放火して
山を焼くこと、陵の四方の内に人がほしいま
まに入ること、雑木を栽培することなどが禁
止されています。

1820年2月3日
ザーロン帝が崩御します。
後継者のミンマンは1カ月近く、フエの宮殿で
ザーロン帝を弔い、「必ず治癒する」と診断し
た医師らが拘禁され、問責されましたが、臣
下の奏上によって結局釈放しました。
3月に嘉隆帝の亡骸は天授陵に運ばれ、埋
葬されました。

8月にはザーロン帝の功績を誌した「聖徳神
功碑」が設置されました。

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ザーロン帝の墓所に続く山道。1926年の写真

墓所の場所は風水や陰陽の世界観に基づ
て造営されましたが、周囲は36の山々に囲まれ
自然と一体化し、墓所には月湖と呼ばれる
龍形をした湖が作られています。

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自然と一体化した墓所

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墓所の正面

14
段台状テラスの奥に壁に囲まれてザーロン
帝と承天皇后のふたつの石屋の並んでいま
す。合葬陵です。

北西方には第2婦人、皇后順天の陵と廟も
あります。さらにその北方の香河側には嘉隆
帝の家族や過去のグエン氏などの陵と廟が
多数建ち並んでいます。

ザーロン帝陵はフエ宮廷と併せて世界遺産
に登録されていますが、後の皇帝の陵墓に
比べれば非常に素朴で、観光客もほとんど
訪れません。

ザーロン帝 その5 レヴァンズエット
レ・ヴァン・ズエット

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墓所の中にあったレ・ヴァン・ズエットの像

純粋な銅で作られ、高さ2.65メートル、3
トンの重量がありました。

Lê Văn Duyệt (黎文悅)
生年 1764年(1763年) 南部ベトナム
ディントゥオン(Dinh Tuong)生まれ
没年 1832年7月3日 ザーディン城
(サイゴン)

<功績の歴史>
レ・バン・ズエットはグエン朝建国の功績者の
1人で、建国後はザーロン帝に南部を治める
副王に任命され、南部メコンデルタを統括す
るヤーディン総鎮に2度任命されました。
1812年~1815年 ザーロン帝の時代
1820年~1832年 ミンマン帝の時代

1780年
メコンデルタのティエンザン近くの農民の家庭
に生まれたズエットはグエンアインが1777年、
タイソン軍に追われて、南部ベトナムに逃亡
してきた時、父親のLê Văn Toạiと一緒に住
んでいました。
もともと一家は中部ベトナムのクワンガイ省
の出身でしたが、広南グエン氏のメコンデル
タへの拡張政策によって、引っ越してきまし
た。

17歳の時、ズエットはアインの宦官となり、タ
イソン軍との戦闘に参加するようになります。
彼の軍事能力はすぐにアイン軍で頭角を現
し、アインは彼のボディーガードの責任者にズ
エットを任命しました。

1782年
タイソン軍は広南グエン残党の追討のため、
再びザーディンを攻撃、アインはズエットの先
導でフーコック島に逃げざるを得ませんでし
た。

1787年
ズエットは彼自身の下士官兵を募集し、
指揮官となって軍隊を組織しました。

1788年
アインが助けを求めたフランス人カトリッック
司教アドランがアインの領土でのカトリック布
教の特別優遇を期待して、アインのために戦
うフランス人将校を集めて援助し始めたため、
軍事情勢はアインに有利になってきました。

アインはザーディンを奪回し、再び侵略される
ことがないようにザーディンに要塞を築きます。

1789年
アインはズエットを将軍にし、その後のタイソ
ン軍に対するアインの多くの軍事作戦に共
に参加します。

ザーディン奪回後、アイン軍は南部中央海
岸のニャチャン、クイニョンと進軍して行きます。
クイニョンはフエと共にタイソン軍の強力
な根拠地でした。

1801年 
クイニョンでの戦いは1792年、1793年、
1799年と3回小規模な戦闘が繰り返され
ていましたが、双方にとって決定的な戦いで
はありませんでした。
しかし1801年の戦いは歴史に残る大激戦
となり、グエン軍の輝かしい勝利の第一歩で
あり、タイソン王朝の実質的な滅亡でした。
(クイニョン、ティナイ潟の戦い)

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クイニョンの港。上方がティナイ潟

1799年の戦いでは、アドラン司教が敵軍に
捕まり、赤痢のかかって死亡します。

ズエットはタイソン軍を徹底的に崩壊させる
ための転換点となるクイニョン要塞の海上か
らの進路である「ティナイ潟海戦」の作戦計
画をフランス人将校と一緒に作ります。

アインは首都フースアン(フエ)に軍を進める
ために、タイソン軍のすきをついて、まずクイニ
ョンの奪回を開始しましたが、フースアンへの
海上入口であるTu Dung周辺のタイソン軍
から激しい反撃を受けます。
正面攻撃によって敵の防御を破ることが出
来ないと見たアインはズエットに命じて海軍に
よって背後から敵防衛軍を攻撃することを命
じます。
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赤色がタイソン軍。アインとズエットは右下の
軍艦に乗っています。

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大海戦

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タイソン軍軍艦

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クイニョン港から引き揚げられた大砲

ズエットと副官のLe Chatはタイソン陸軍を
殲滅し、敵の司令官Nguyen Van Tri,を逃が
すことを命じます。
逃したのはアイン軍がフースアンの要塞を攻
撃する道を固める為の作戦でした。

この年の2月7日、皇太子カインはザーディン
で天然痘のため死亡してしまいます。ザーロ
ン帝は戦闘中の為、カインの葬儀には出席
できませんでした。

1802年
2月27日、タイソン軍のクイニョン要塞が陥
落します。
4月、ダナン陥落
5月3日、ついに首都フースアンが占領され、
王族一家は北部べトナムに落ち延びていき
ます。

タイソン軍に対する勝利を決定的にしたアイ
ンは自らをザーロン皇帝と宣言し、ズエットを
官僚のトップに任命してタイソン軍の旧臣と
の和睦を担当させます。

そして衰退しながらも未だ北部ベトナムを支
配下に置いていたタイソン政権を攻撃するよ
う命令します。

10月、ズエットはBắc Hàと呼ばれていた北
部ベトナムを平定し、タイソン政権に対する
全面的勝利を勝ち取り、北部ベトナムをBắc
Hàから Bắc Thànhと呼ぶようにしました。

アドラン司教によって雇用されたフランス軍
隊の援助の下にズエットの戦略はグエン王
朝建国に重要な役割を演じました。
.
ズエットは1802年~1812年までの間、フエ
の宮廷で最高位の官僚として勤めます。

1812年
ザーロン帝はズエットをザーディン総督として
任命し、南部ベトナムとカンボジア地域の管
理を任せます。

ズエット総鎮には司法権や官僚の任命、解
雇など、すべて宮廷には事後報告をすれば
良いほどの絶大な権限を与えられていまし
た。
北部ベトナム総鎮と違ってザーロン帝は南
部総鎮のズエットと彼が任命した部下をとて
も信頼していました。

権限の大幅な委譲でズエット総鎮と側近た
ちは南部大衆の支持を受ける市政を実行で
きました。

彼は南部ベトナムでのグエン王朝への支持
基盤の拡大のために、有能な人物はタイソン
軍の旧臣であろうと、中国明朝崩壊時に南
部ベトナムに移民してきた中国人であろうと
官吏として採用しました。

ズエットは無料の武術訓練所や教育機関も
無料で建設しています。

ズエットは毎年2回、大きな祭典を主宰しま
した。
一つは皇帝の誕生日、そして旧正月の祭り
を盛大に行い、人心の安定に努めました。

南部ベトナムをグエン王朝の領土として安定
させるのに3年が費やされたといいます。

当時の制度ではズエットのような軍事政権は
部下と共にひとつの集団とみなされていて、
数年間に職務を移動させられるのが通例で
あったため、ズエットはザーロン皇帝に忠実に
従うことを心がけていました。


この年、シャムに支援されたカンボジア国王
アンチャン(Ang Chan)の弟が反乱を起こし、
王位を略奪した為、アンチャンがザーディン
に逃亡してきました。

ズエットはザーロン帝の許可を得て、10000
の兵力をカンボジアに送り、シャム軍を退却
させ国王アンチャンを復活させます。

そしてカンボジア領内のNam Vang と La
Liemに要塞を築き、カンボジアを正式にベト
ナムの保護国とします。

加えてズエットの国内政治も効果的で安定
していたので、庶民は彼を「Cọp Gấm Đồng
Nai」 (ドンナイのタイガー)とあだ名をつけま
した。

ズエットはザーロン帝が最も信頼していた官
僚だったので、皇帝とベトナムを訪れた欧米
商人代表団の調整役も引き受けていまし
た。

ズエットはカンボジアの保護国化が定着した
後、シャムに対抗してビルマと同盟し、シャム
を打ち破り、東南アジア全域の支配するとい
う外交政策に自信を示していたので、1820
年代にはイギリスからの武器購入を考え、イ
ギリス人将校と接触しようとしましたが、失敗
しています。

1815年
ザーロン帝はズエットを中部ベトナムの反乱
を制圧する為に召還します。

1819年 
ズエットは北部ベトナムのザーロン帝に対す
る反乱を制圧する為にゲアンやタインホアに
移動していました。
この時、ズエットは以前カオバンの少数民族
の反乱グループのリーダーだったレヴァンコイ
と協力していました。その後、レヴァンコイは
ズエットの養子になり、宮廷に連れてこられ、
ザーロン帝の高級官僚になりました。

1819年12月19日
ヤーロン帝が崩御すると皇太子だったミンマ
ン帝が皇位に着きますが、大臣だった実力
者ズエットはミンマンがヤーロン帝の第2夫人
の息子だったため、ミンマンの即位に反対し
ます。しかしザーロン帝は皇太子だったカイン
の子供はまだ幼く、家系がカトリックであった
ことなどを考慮して、ズエットの反対を押し切
ってミンマンを後継者に遺言しました。

そしてズエットには5つの宮廷軍隊の指揮を
取るように言い残しています。

この件がミンマン帝とズエットの確執の始まり
でした。

1820年
中部、北部ベトナムの反乱を鎮めた後、ズエ
ットはミンマン帝によって再度、南部ベトナム
とカンボジアを治める総鎮に任命されます。
さらにミンマン帝は彼の支配下にある地域の
すべての外国貿易の管理権限やカンボジア
からの徴税権限をズエットに与え、彼の権限
を拡大しました。

この処置はズエットをして南部地方の肥沃な
農業、豊富な木材などの経済資源を管理さ
せ、特に南部の土地開発を促進させました

南部地域は南下してきたベトナム人と中国
からの移民によって人口が増加していったの
ですが、ズエットの政策によって、この地域は
急速に発展していきました。

南部総鎮として2期目のズエットは、クメール
人の反乱を抑え、10000人の新規納税者
が生れ、グエン王朝の財政が潤いました。

彼は南部ベトナムにとって重要なチャドックと
ハティエンを結ぶビンテ(Vĩnh Tế)運河の改
修(1819年~1924年)を自ら監督し、外
国貿易を奨励、発展させます。

17
ビンテ運河

ズエットの政策は南部ベトナムを開発し、安
定と裕福な生活を生み出しました。

ミンマン帝はズエットの貢献に対して、通常
は皇帝にだけ与えられるヒスイで造られたベ
ルトを贈って報い、さらに王女をズエットの養
子、レヴァンコイに与えました。

ズエットと南部ベトナムの社会はキリスト教徒
に好意的で、カインの息子たちを支持してい
ました。結果としてズエットもカトリック社会に
よって尊敬されていました。
ズエットは学者や貴族の出身でもなく、伝統
的な儒教の教育を受けたわけでもなかったの
で、伝統に重点を置くよりも軍隊の必要性に
もっと重点を置いていたので、ヨーロッパとの
強い絆を維持することに関心があり、西洋文
化の社会的影響を心配するより、彼らから
武器を購入することにより関心がありました。

しかし、ミンマン帝はカトリックを制限し始めま
す。
彼は カトリックを"異端教義"として「カトリッ
ク宗教の禁止の布告」を制定し、キリスト教
を非難します。
宣教師のベトナム到着がますます増えていた
状況の中で彼は、カトリック教徒が国内を分
裂させる可能性のある原因として考えまし
た。 

ズエットはグエン軍とタイソン軍の戦争過程
でカトリック教徒や西洋人をミンマン帝の鎖
国政策や儒教政策の命令による抑圧から
保護しました。

そしてミンマン帝に手紙をしたためます。
「われわれが米を食べられないで空腹でいた
時に、宣教師たちは我々に米をくれたのです」と。
この宮廷に対する上奏に対してミンマン帝は
宣教師に対し、布教地域を離れ、首都に来る
ように命令します。それは表面的には宮廷
が通訳者を必要としたからですが、狙いは布
教活動の制限にありました。

ベトナム中部と北部の政府官僚はこの命令
に従い、行動しましたが、ズエットは命令に従
いませんでした。
ミンマンと周囲の官僚は南部ベトナムの土地
はズエットの威厳で徹底的に守られていると
考えていた為、時期を待つことにしました。

グエン王朝の初期に時代には中部や北部で
の反乱が頻繁に起きていました。
1810年代にズエットが北部や中部で鎮圧
した反乱軍人で死刑を逃れた人々は南部に
送られ、土地開発などに従事させられまし
た。

ズエットとザーロン帝は人材の不足もあって、
旧タイソン軍の将校たちを雇用しており、ズエ
ットはこの政策を続けようとミンマン帝に上申
しましたが、ミンマン帝は儒教の倫理に反す
るとし、「木に登るサルを解放するようなもの
だ」と答え、拒否します。しかしズエットは実
用的な価値があると考えていました。

1821年 
ミンマン帝は2人の側近を南部ベトナムに送
りました。その目的の一つは教育制度と科
挙試験の実施状況の観察にありました。南
部ベトナムの人々も試験に受かれば中央政
府の官僚になることが出来たからです。しか
しこの企てはズエットの官僚達に拒否され、
2年後には失敗に終り、目的を達成できませ
んでした。

1820年代、ズエットは移民してきた中国人
と良好な関係を保っていましたが、多くの移
民たちの存在はミンマン帝との摩擦を引き起
こしていました。

ズエットは移民してきた中国人商人を息子の
ように扱い、貿易事務の柱になる職務に就
任させ、優遇していました。 
日本の歴史家はズエットは実業家でもあり、
中国人を商売のエージェントとして使い、中
国人商人から賄賂の金や品物もらっていた
と指摘しています。

当時、南部ベトナムでは米は豊富に取れて
いましたが、輸出はミンマン帝によって禁止さ
れていました。しかしベトナム産の米は他国の
米よりも50から100%高かったのです。
一方、アヘンのベトナムへの流入は増え続け
ていました。
それは中国人商人がズエットの支援の下、
非合法に米を高い値段で輸出し、帰りの船
でアヘンを輸入していたからといわれていま
す。

栄誉とは裏腹にズエットは北部総鎮の
Nguyen Van Thanhや中部の司令官との
宮廷内部の紛争に巻き込まれます。

ズエットはThanhの元腹心だったグエン•フー
ギー(Nguyen Huu Ngh)によって助けられま
が、その後、Thanhに使えている兵士がズエ
ットの軍隊に紛れ込んでいるのを発見され、
拘束されます。その男はズエットを暗殺する
為に送られたと自白したとズエットは主張しま
した。

またズエットは皇太子カインの長男と相姦関
係を持っていたため、1824年にカインの妻
を溺死させたと糾弾されます。この件はカイン
の子孫が皇帝に事実無根を主張して一見
落着となっりましたが、ミンマン帝は以前から
この事実を知っていたとされています。

1827年
ミンマン帝は海上貿易から中国人を排除し
ようとしましたが、ズエットが死ぬまで出来ま
せんでした。
ミンマン帝は彼の父がズエットに認めた優遇
とその当時のズエットの態度や地位から、ミ
ンマン自身の政策を緩和せざるを得ない状
況でした。
そして南部ベトナムにおいてはキリスト教宣
教師を抑圧することはしませんでした。

しかしズエットとミンマンとの緊張は増加する
一方でした。
ミンマン帝は南部ベトナムに関してはズエット
の側近を少しずつ減らすことにより、緩やか
に中央集権体制を構築していきました。

1823年
ズエットの側近Tran Nhat Vinhが宮廷官僚
によってフエで起訴されました。訴因は米の
闇取引と売春宿の営業でした。
ズエットは怒り、法的手続きの中止と起訴し
た官僚を非難するよう皇帝に要求して事態
は膠着状態になっていましたが、2~3年後、
Vinhは北部ベトナムに移送され、投獄されま
した。1826年Vinhは官位を剥奪されまし
た。
ズエットは宮廷官僚によって地方官僚が除
去されたことに対し、翌年「生と死の問題を
決定するための究極の権限は宮廷に属する
のか」と宮廷を非難します。

1829年
ズエットにまた宮廷との摩擦を起こす事態が
発生します。
ズエットがカンボジアの管轄を任せていた
Nguyen Van Thoaiが死去したため、ズエット
は彼の同僚であったNguyen Van Xuanを後
任者として選任しましたが、ミンマン帝は認め
ず、宮廷官僚のBui Minh Ducを任命し、ズ
エットに協力するよう要請しました。
そしてズエットの意思を無視して、カンボジア
支配を担当する軍事部門のトップのポストを
与えました。

1824年
宮廷を訪問した後、ズエットは同僚に宮廷の
雰囲気は心地よくないと打ち明けています。
「宮廷は文官を雇用し、彼らによって支配構
造を構築しようとしている。我々の考えとは基
本的に異なっている。我々は職を辞したほうが
いいかもしれない。」

ズエットと側近のLe Chat将軍は南部ベトナ
ムでの職を辞し宮廷での職務を申し出たが、
宮廷のなかにはズエットがクーデターを起こす
のではないかと疑う官僚がいて申し出は拒
否され、南部ベトナムに戻されてしまいます。

1825年
ザーロン帝のフランス人軍事顧問であったシ
ョニーJean-Baptiste Chaigneauの甥
Michel-Duc Chaigneauがフランス政府の使
節としてザーディンを訪れた時、ズイットを回
想して、
「ズイットは軍事と管理の両方に優れていた。
人々は彼を恐れたが、公平だったため、南部
の人々には尊敬されていた」と。

1831年
ズエットの死の直前、ミンマン帝は彼の軍事
力を希薄する為に、宮廷防衛の将軍
Nguyen Van Khueをザーディンに派遣しまし
た。
南部ベトナムの自治に対するこれらの動きは、
地元住民の感情を次第に立腹させました。


<ズエットの死とその後>
1832年7月3日
彼はザーディン城で死去します。68歳でした。
彼は現在のホーチミン市3区、レバンタン公
園に埋葬されました。
ズエットの死は南部ベトナムにもミンマン帝の
政策を施行する道を開きました。ズエットの
死後、部下達だけでは宮廷に反抗すること
は出来ませんでした。

ミンマン帝はズエットの部下たちの政治権力
を削ぐために総鎮制度を廃止し、ミンマン帝
の直接統治を押し付けました。

ミンマン帝は宮廷官僚のBach Xuan Nguyen
をザーディン城に送り、ズエットの管理地域を
引き継がせ、ズエットの治世を調査させ、報
告させます。
「ズエットとその側近は腐敗と虐待の政治で
あった」
と言う報告書をミンマン帝に送り、結果として
ズエットに死後の屈辱を与えることを命じま
す。

ズエットの墓には100回の鞭打ち刑が行わ
れ、16人の親族が処刑、彼の部下たちは逮
捕されました。

父親に対する仕打ちに怒ったズエット養子レ
ヴァンコイは脱獄して、1833年5月10日、ミ
ンマン帝に対して反乱を起こします。(レヴァ
ンコイの反乱)

反乱はシャムの侵略軍の支援を受け、3年
間続き、一時は南部ベトナムを支配下に置
きますが、ミンマン帝が送った軍隊により鎮
圧されました。反乱制圧後、ミンマン帝はズ
エットの墓を破壊し、「ここに国家に反逆した
管官レヴァンズエットが横たわっている」と書
かれた石碑を建てます。

1841年
荒廃した墓所はそのまま放置されていました
が、次の皇帝ティウチ帝によってズエットの名
誉が回復され、墓は修復されました。

1848年
そして次の第4代皇帝トゥドゥック帝はズエッ
トの墓の傍に霊廟を建築し、国家の記念碑
に指定しています。

コーチシナ(南部ベトナム)がフランスの植民
地になってからもベトナムにおける皇帝のシス
テムと儀式はフランスの政策とは合致しませ
んでしたが、ズエットは尊敬され、毎年の記
念儀式にはコーチシナを治める政治家が出
席していました。

1937年
植民地政府の官僚や多くの実業家からの
寄付によってズエットの墓は最改修され、墓
所も拡大されました。

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2008年以前の墓所
妻のĐỗ Thị Phậnと一緒です

19
トゥドゥック帝が建築した墓所の祈祷所

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トゥドゥック帝が建築した墓所の正門。
人々は「Lăng Ông Bà Chiểu」と呼んで
いました。

しかし過去のいろいろなトラブルからズエット
の墓は故郷のティンヤン省ロンフン村にある
という説があります。

ベトナムの旧正月には、年輩の女性達が、
入れ替わり立ち替わりやって来ては、礼拝し
て”おみくじ”を引いていました。

21

そしてズエットは偉大な国家英雄と考えられ、
べトナム共和国の時代には紙幣にも印刷さ
れています。

22

これとはまったく対照的にベトナム共産党の
評価は低く、グエン王朝は封建と反動政治
を行ったと評価する共産党の指示に従い、
ズエットはベトナムにフランスの影響力を拡
大した役割を担った人物として、まったく評
価されていませんでした。

1975年
サイゴン陥落後、ベトナム共産党は真っ先に
ズエットの墓を破壊し、荒廃したまま放置さ
れる状態が2008年まで続いていました。

現在の共産党政権はズエットの墓を改修し、
彼の生涯を描いた演劇を公開することも認
めています。

23

政権がどう変わろうと、ズエットは南部ベトナ
ムで長年生活している人や移民してきた中
国人にとっては最も偉大なヒローと見なされ
ています。

仏教徒、キリスト教徒にかかわらず、サイゴン
の住民はズエットに熱狂的な賛辞を送ってい
ます。
これはフエや北部ベトナムには見られない現
象なのです。


<レヴァンズエットの家族と生活>
レヴァンズエットにはĐỗ Thị Phậnという妻が
いましたが、ズエットは去勢している為、子供
は養子です。
1人はLê Văn Khôiですが、もう1人養子が
いました。
Lê Văn Yenという名前でザーロン帝の娘、
Ngoc Nghienと結婚しました。

ズエットは厳格で短気な人とされていますが、
公平な人だったようで、人々からは”Ông
Lớn Thượng“ (偉大な神)と呼ばれました
が、官僚たちには人々に恐れられてはいまし
たが、尊敬もされていました。
高級官僚はいざ知らず、多くの下級官僚や
軍事将校は直接彼に話しかけるのを嫌って
いて、ズエットはかなり風変わりの人物だった
ようです。

Nguyễn Văn Nhơn、 Nguyễn Huỳnh Đức、
Long Vân Hầu、Trương Tấn Bửu.と共に
“Cọp Gấm Đồng Nai"(ドンナイの虎)5人の
1人とされて恐れられていました。

30人の山岳民族を召使として使い、家には
100匹の鶏と犬を買っていました。彼は公務
を終えてザーロン城に帰ると、虎と犬50匹を
従えて毎日散歩をしました。

ズエットは闘鶏、ベトナムオペラ(hát bộ)宮
廷の踊りが好きなことでも有名だった。
彼は闘鶏の面白さをザーロン帝に冗談交じ
りに長々と話をしたり、時には自らドラムを叩
いてhát bộiの俳優を応援したりしました。

彼はまた南部ベトナムの民族宗教である精
霊の女に対する儀式の後援者であったり、
ディン「村落社会の中心となっている祠」の
主導者でもありました。



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