べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ザーロン帝 その4
3.政治体制

3-1.地方分権政治

阮朝は現在のベトナムにほぼ等しい領域を支配した最
初の統一政権であり、それ故に建国当初は性急な集権
化を行なわず、現在のハノイを中心とした北部には北城
総鎮を、ザーロン(嘉定 現在のサイゴン)を中心とした
南部には嘉定城総鎮を置いて、総鎮には大幅な自治権
を認めました。

3-2 南部総鎮 レ・ヴァン・ズエット将軍(別掲)


3-3.法整備 皇越律令の制定

ザーロン帝はタイソン朝の改革を否定し、古典的な儒教
や科挙制度を復活させました。

1815年
国内制度の整備を進め、中国清の律令にならった嘉隆
律例(皇越律令)が発布され、中国的な制度が導入され
ます。そしてグエン朝の建国に貢献の大きかったフラン
ス人たちを顧問として好遇しています。
「皇越律例」は世界遺産となっています。

13
皇越律例20cmX30cm チュノムで書かれています。

3-4.対外関係
産業革命を経験したヨーロッパでは通商貿易の拡大を
求めアジア市場に進出してきました。

1804年阮朝成立直後、イギリス使節ロバーツが通商
関係の改善を求めてダナンに来航し、1832年にはアメ
リカからの使節も来航しています。

フランスは当初、フランス革命やナポレオン戦争の影響
で、グエン朝建国でアドラン司教が活躍した後はしばら
くベトナムとの交渉がありませんでしたが、ナポレオン
戦争終了後は通商関係を求めてベトナムに使者を派遣
しています。
ザーロン帝は建国の功績を認めフランス人を優遇して
いましたが、通商要求に対しては一貫して拒否しまし
た。

3-5.キリスト教
建国の経緯もあって建国当初はフランス人をはじめとす
る欧米人やキリスト教を敵視することはありませんでし
た。

加えて、ザーロン皇帝はキリスト教徒ではありませんで
したが、アドラン司教がベトナムの伝統的な祖先崇拝は
死者に対する単純素朴な儀式であって、キリスト教信仰
とは相反するものでないとの見解を示していたので、キ
リスト教が特に問題視されることはありませんでした。

嘉定城総鎮のレ・ヴァン・ズエット(黎文悦)もキリスト教
徒でしたので、キリスト教に対する寛容さは北部と南部
ベトナムでは若干温度差がありました。しかし徐々に中
国的な支配体制が整備されてくると、儒教のウェイトが
高まり排外的な傾向があらわれるようになり、第2代皇
帝明命帝の時代になるとキリスト教が禁止されてしまい
ます。

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ザーロン帝 その3
2.タイソン朝への復讐

1802年
ザーロン帝は即位の礼を挙行しましたが、同時に「Hiến
Phù」と呼ばれる報復の儀式も行いました。報復の儀式は
ベトナムの封建制度の下で、慣例的に行われていた儀式
なのですが、ザーロン帝のそれは残忍きわまるもので、
現在でも逸話として語り継がれています。

北部ベトナムでレヴァンズエット率いるグエン軍に破れた
タイソン朝の皇帝クワントン(Quang Toan)の一族や将軍
らは捕獲され、フエに送られてきました。

11
タイソン朝最後の皇帝クワントン

儀式はクワントンの父親グエンフエの祭壇の前で行われ
ました。墓から発掘されたクワントン親族の骨は大きなカ
ゴに入れられ、クワントンの目の前で兵士に小便をかけら
れた後、粉々にされます。

その後、クワントンにはおいしい食事が出され、親族は口
に布を詰められ、泣き声が聞こえないようにされます。

象が4頭やってきて、クワントンの両手両足がしっかりと象
の足に結ばれます。象使いの掛け声でクワントンの体は
像に引っ張られ、4つに引き裂かれ、血だらけの肉が骨か
ら削ぎとられ5つにわけられます。
5つの肉は未だに旧政権に忠誠を尽くしている人々への
見せしめの為、5つの市場で公衆の面前に晒されました。

次の犠牲者は皇太子でしたが、彼は親孝行で評判だった
ので、斬首刑にされました。

タイソン軍の女性部隊の隊長、ブティソンの14歳の娘が
次の犠牲になりました。「お母さん 助けて!」娘は叫びま
したが、ブティソンは声を荒げ「こんなごろつきの狼と生き
るより、あなたのお父さんのように死になさい!」

象は娘を空中に高く飛ばし、牙で止めを刺しました。


夫と娘の残酷な処刑を目の当たりにして、ブティソンはもう
恐ろしさを感じず、ただ静かに殺人象を待ちました。娘と同
じようにタイソン軍のヒロインは処刑されました。

グエンフエの妻子はフースアン(フエ)がザーロン帝に占
領される前に脱出したのですが、運悪くアイン軍に見つけ
られ拘束されました。子供2人の処刑を見て、妻のレゴック
ハン(LÊ Ngọc Hân)は自殺しました。

親族で処刑されずに唯一生き延びた人がいました。
レゴックハンの妹レゴックビン(LÊ Ngọc Bình)は皇帝
クワントンの若い妻でしたが、天使のような美貌の持ち主
だったので、ザーロン帝は自分の第3番目の妻にしてしま
います。

フエのいたる所で、うわさが飛び交いました。
「まあ! なんと奇妙な宮廷なんだろう。プリンセスは2人
の皇帝と結婚したよ!」と。

ザーロン帝 その2
1-3 即位

1802年
5月1日
フエを陥落したグエン・フック・アインは即位の礼を行い、
黎朝の滅亡と自分の治世の始まりを宣言します。

7月22日
重臣のレ・ヴァン・ズエット将軍はさらに北上してタンロン
城を攻め落とし現在のベトナム全土の統一が成し遂げら
れます。

グエン・フック・アインは年号をベトナム全土の統合を意
味する嘉隆(ザーロン)と改めます。嘉隆とは南の嘉定
(ザーディン)の「嘉」と北の昇隆(タンロン)の「隆」を合
わせたものです。

1804年
タンロン城が陥落した後、グエン・フック・アインは清国へ
使者を送り封冊を請います。

国号を「南越」として清朝に申請しましたが、昔、中国の
南端、広州を首都にして、ベトナム北部までを領土とし
た「南越国」が、当時の中国の弱体化を背景に独立国を
建国した故事があるので、認められませんでした。

仕方なく、「南越」を逆にして「越南」として再申請し、清の
嘉慶帝から「越南国王」に封じられ国王の印鑑を授かりま
す。

越南のベトナム発音は、越=ベト、南=ナムで、ベトナ
ムと言う国名はこの時生れました。

しかし、グエン朝は歴代国王ともこの国名には不満で、
清に朝貢する時には「越南国王」と称していましたが、
清以外の国や自国民に対しては「大南国大皇帝」と称し
ました。

「承天興運」を国是としてベトナムに小中華帝国を築き
上げます。
公文書の冒頭には、国号・年号・国是が必ず記載されま
した。

現在のベトナム国土全土をはじめて統一し支配したのは、
グエン・フック・アインでした。そして、その後1世紀にわた
るフランス植民地時代のきっかけを作ったのもまた彼がグ
エン王朝復活の為に外国軍団の力を借りたことが遠縁に
なっています。

ザーロン帝 その1


11

Gia Long(嘉隆  南部発音はヤーロン)
Nguyễn Phúc Ánh(グエン・フック・アイン 阮福映)
生没年  1762年2月8日(5月15日説あり)
―1820年2月3日(57歳)
父 Nguyễn Phúc Luân  母 Nguyễn Thị Hoàn
ベトナム最後の王朝、グエン王朝の初代皇帝
在位 1802年-1820年2月3日

<主要な話題>
1.建国の歴史
  1-1 逃亡生活の始まり
  1-2 アドラン司教との出会い(失地回復)
  1-3 即位
2.タイソン朝への復讐
3.政治体制
  3-1 地方分権政治
  3-2 レ・ヴァン・ズエット将軍
  3-3 皇越律令の制定
  3-4 対外政策
  3-5 フランス人とキリスト教
4.遺言と霊廟の建設


1・建国の歴史

グエン氏は元来ハノイを首都とした黎朝(1428年~
1789年)の重臣でした。

1-1 逃亡生活の始まり
グエン・フック・アインは広南グエン氏第8代当主
Nguyen Phuc Khoatの皇太子Nguyen Phuc Luanの
長男でした。

幼少の頃から聡明な子供で父親の皇太子の愛情を
一身に受けていました。

1765年7月
Khoatの臨終に際して広南グエン政権の高級官僚
Truong Phuc Loanは遺言を書き換え、12歳の自分
の弟グエ・ンック・トゥアン(阮福淳)を当主にし、後継者
だったアインの父親は牢屋に閉じ込められ死亡しまし
た。

1771年
タイソン村の3兄弟(阮文岳グェン・ヴァン・ニャク)・
阮文恵(グェン・ヴァン・フェ)・阮文侶(グェン・ヴァン・
ルー)が農民を組織して武装蜂起します。

12
グェン・(ヴァン・)フェ

1774年
広南グエン氏の当主、阮福淳はこの事態を打開できな
いでいたため、これを機に北部ベトナムを支配していた
鄭森(チン・サン)は広南グエン氏への侵攻に出てその
根拠地富春(フースアン 現在のフエ)を攻め落とし、
広南グエン氏の王族や官僚は南部のビントゥアン省に
逃れ、さらにザーディンに逃亡して行きます。

1775年
広南グエン氏の当主、阮福淳は退位して甥のグェン・
フック・ズオン(阮福晹)に譲り、体制の立て直しを図り
ます。

1777年
7月
タイソン軍は広南グエン氏の残党狩りにザーディンに兵
を送りますが、広南グエン氏の大臣、宋福和が軍を率い
て、一旦は勝利をおさめますが、8月グエン・フエが兵を
率いて追撃してくると、防戦できず阮福晹と阮福淳の当
主は宋福和ら18人の大臣とともに殺害されてしまいます。
グエン・フエさらにカントーに進軍してメコンデルタの
広南グエン氏の全領土を占拠し、広南グエン氏は滅亡
してしまいます。

タイソン軍の追撃から逃れ、広南グエン氏の直系で
唯一生き残ったのはグエン・フック・アインとその弟で
した。

グエン・フック・アインはタイ湾の島から島へと逃げ延び、
フーコック島のはるか沖合いにあるトーチュ島
(Thổ Chu)に逃げ延びていましたが、島を脱出し、
ハティエンにやってきます。
ハティエンは広南グエン氏の将軍が治めていたカンボ
ジアとの国境の町で、フーコック島への航路もある港町
です。タイソン軍はメコンデルタを制圧したものの、この
地までは追撃してきませんでした。

13
ハティエン(左上)とホンダットの位置


1-2 アドラン司教との出会い(失地回復)

14
アドラン司教

コーチシナでの布教の監督を命じられていたアドラン司
教はマカオからハティエンに来て、布教活動をしていま
したが、ハティエン総督マック・ティエン・ティからよく招待
され、そこで逃げ延びていたアインと出会います。

アインはアドラン司教に窮状を訴え、アドラン司教はイン
ドシナでの布教の拡大を狙ってアインへの援助を承諾し
ます。そして9月から10月までアインはアドラン司教の
神学校に避難しています。この時、アインはまだ15歳で
した。

15
若き日のグエン・フック・アイン

アインとの出会いでアドラン司教は、宣教師としてよりも
政治家のとしての道を歩み始めます。

11月
メコンデルタを制圧したタイソン軍のグエン・フエは
クイニョンに戻っていった為、アインは南部ベトナムの
ロンスエンに戻り、ここで兵士を雇い、軍団を組織します。
そしてサデック、ロンホー、ヤーディンと進軍します。

1778年
さらにタイソン軍をビントゥアン省まで撤退させたアイン
は陸軍、海軍を強化し、シャムと外交関係を結び、カン
ボジアを占領します。
アインの政治的措置の多くは、アドラン司教のアドバイ
スによるものでした。

1780年
1月、南部ベトナムの領土を回復したアインは国王を
宣言します。

アドラン司教はフランスの冒険家、マヌエル(Manuel)の
助力によって多くの兵士を集め、新しい武器や3隻の
ポルトガル製軍艦をアインに提供しました。マヌエルは
アインの将軍となり軍艦の司令官になります。

1781年

アインの軍隊は約3000人80隻の船、ポルトガルから
の大型船3隻、さらに2隻のポルトガル人傭兵が加わる
軍団になっていました。そしてタイソン軍の本拠地クイニ
ョンのすぐ南に位置するフーイェン(Phú Yên)港に侵攻
します。

しかしタイソン軍の強力な軍団の前に最終的に撤収す
ることになります。


16
フーイェン港

1782年
2月 
タイソン軍は南部ベトナムに新たな攻撃を仕掛け、現在
のホーチミン市のカンゾー(Cần Giờ)を流れるニャバイ
川(Ngã Bảy)でアイン軍と激戦が繰り広げられます。

タイソン軍の軍艦は貧弱でしたが、アイン軍のポルトガ
ル船を沈め、勝利を収めます。マヌエルは、この戦いで
軍艦を指揮している時に戦死してしまいます。

アドラン司教とアインはたった4隻の小船でフーコック島
に撤退を余儀なくされ、タイソン軍はクイニョンに引き上
げます。

しかしアドラン司教とアインは反撃を諦めませんでした。
軍団を再編成し、10月になるとサイゴンに戻ってきま
す。

1783年
2月 
タイソン軍は再び南ベトナムに侵攻し、アインの軍を打
ち破ります。

3月
アドラン司教とアインはまたもフーコック島に逃れます。
アイン軍の司令官Châu Văn Tiếpも陸路カンボジアを
経由してシャムに逃亡し、シャムのラーマ1世に援助を
要請し、秘密裏にアインにシャム王宮に来るよう手紙を
書きます。
フーコック島に逃亡したアドラン司教とアインはシャムに
向かうためフーコック島を離れますが、シャムに達する
まで、島から島へと追われてやっとシャムに着きます。

11月 
アドラン司教はバンコクのシャム宮殿を訪れます。

1784年  
2月 アインもまたバンコク王宮に到着し、1782年に
ラタナコーシン朝を建国したシャム国王ラーマ1世に
ベトナムを奪回する軍隊の援助を正式に要請します。 

17
ラーマ1世

カンボジアを占領しようと企んでいたラーマ1世はアイン
一行を歓待し、アインの援助要請を受け入れます。

4月 
シャム王は約30000人の兵士を援助部隊として南部
ベトナムに派遣します。

7月 
シャム王はさらに300の軍艦に20000人の兵士を
乗せ、タイ湾からコーチシナのキエンザンに送ります。 
アインもまた3,4千人の兵士を集めます。

対するグエン・フエの軍は20000から40000の兵士
でしたが、重火器を備えていました。

1785年
1月19日、20日  
メコン河の戦い。(ベトナム語ではTrận Rạch Gầm –
Xoài Mút)。

1月の初め、タイソン軍のグエン・フエはミトー付近に到
着し、奇襲攻撃の地形探査のために小船を数隻向かわ
せ、さらにシャムの将軍たちの強欲さを知っていた
グエン・フエは敵の将軍に賄賂の金塊を渡し、和平を
したい旨アイン軍に伝えさせ、敵を油断させます。

シャム艦隊とアイン軍は共同作戦で、タイソン軍の
グエン・フエとティエンザン省のメコン川沿岸のミトー
付近で対峙します。そして1月19日の夜から20日の
明け方にかけて大海戦が行われます。

18 (2)
ミトー付近。現在では日帰りメコンデルタ観光のメッカ
となっています

タイソン軍は少数の小船でアイン軍をミトー川の中州
両側の狭まった水路にアイン軍をおびき寄せ、急に
反転してアイン軍に襲い掛かります。川の沿岸で待ち
受けていたタイソン砲兵軍も一斉に砲撃を加え、アイン
軍は大敗を帰してしまいます。

19

20

21

22
タイソン軍の帆船

23
タイソン軍が使用した大砲

24
ティエンザン省Châu Thànhにあるメコン川海戦勝利
の記念碑

グエン•アインは再びシャム宮廷に避難し、再びシャム王
に助けを求めることを試みますが、ラーマ1世は2度目
の援軍には消極的で軍団派遣を引き伸ばします。アドラ
ン司教はフランスの援軍を依頼することアインにほのめ
かします。アインもこの困難な状況を回復するために
西洋列強のどんな国からも、援助してくれる可能性の
ある国からの援助を受け入れることを考えます。

アインは、フランスからの軍事援助をアドランに依頼し、
一人息子のプリンス、カインを人質として差し出すことを
申し出ます。

同時にアドラン司教はマカオのポルトガル総督に支援
が受けられないかと手紙を送ります。

1786年
12月
カインを連れたアドラン司教の一行はインドのフランス
植民地ポンディシェリーに到着します。ポンディシェリー
は暫定知事のCoutenceau des Algrainsが統治していま
したが、ベトナム南部への介入は国益に反するとして断
固として反対しました。

25
ポンディシェリー総督府の記念碑

しかし、アドラン司教はアインへの援助要請をフランス
本国の宮廷に直接訴えることを許可されます。

彼はまた、マカオのポルトガル総督府へ援助を依頼しま
すが、アドラン司教の行動ニュースはローマにも届き、
ローマにあるスペインのフランシスコ会から非難されま
したが、アドラン司教はアインの息子カインを預かって
いることを伝え、彼のポルトガルへの政治的使命を表明
しています。

最終的にバンコクで1786年12月、アインとポルトガル
の間での同盟条約の署名がなされています。

1787年
2月、アドラン一行はポンディシェリーからルイ16世が
統治していたフランス、ベルサイユ宮殿に到着します。
 
しかし、当時のフランスはフランス革命の前夜で財政が
逼迫しており、アインのために遠征軍を派遣することは
とても無理な状況にありました。

アドラン司教は、以前ベトナムでフランスの利益のため
に働いてたピエール・ポワーヴル(Pierre Poivre)に助
けられます。

26
ピエール・ポワーヴル

5月5日、6日
アドラン司教はフランス国王ルイ16世、海軍大臣の
Castries、外務大臣Montmorinに面会し、アインに的確
な軍事指示と戦争資材を提供して、ベトナムに進出でき
れば、フランスは中国の海とその列島をも支配すること
が出来ると、フランスの国益を説きます。

27,
ルイ16世

28_20130525012254.jpg
海軍大臣 Castries
本名 Charles Eugène Gabriel de La Croix de Castries,
生没年 1727年2月25日~1801年1月11日
カストリー家はフランスの名門中の名門で孫の代の
Christian de Castries(1902年~1990年)はベトナム
の独立戦争、「ディエンビエンフーの戦い」のフランス軍
司令官です。ホーチミン率いる「ベトミン」軍に大敗を帰
しました。

29
Christian de Castries

30
外務大臣 Montmorin
本名 Armand Marc, comte de Montmorin de Saint
Herem
生没年 1745年~1792年


一方、プリンスカインはルイ16世の宮殿で一大センセ
ーションを引き起こしました。

カインは「コーチシナのプリンス」としてフランスの著名
なヘアースタイリスト、レオナルド(Léonard)によって、
目も眩むほどに変身し、宮廷画家Maupérinによって描
かれた肖像画は、現在でもパリの外国宣教師教会の神
学校に飾られています。

31
1787年 フランスでのカイン(7歳)

カインは、同い年であったルイ16世の子供、
Louis-Joseph,の遊び友達になります。

11月21日
アドラン司教の粘り強い説得が実って、グエンアインの
名の下に、フランスとコーチシナ間で「ベルサイユ協定」
が締結されます。

内容は4隻のフリゲート艦(帆走船)と1650人の兵士
(カフィア兵1200、砲兵200、黒人兵250)の派遣見返りに、
コーチシナはコンダオ島の割譲、トゥーラン
(Tourane ダナン)港のフランス軍艦の自由入港と排他
的貿易権が取り決められ、遠征軍のリーダーには Fresne
が任命されましたが、この企画はポンディシェリーの
現地司令官の反対にあって実現しませんでした。

30 (1)
François Ébaudy de Fresne

32
ベルサイユ協定書の署名、外務兼軍事大臣のMontmorinと
アドラン司教のサイン

33
アドラン司教の印章


12月2日
条約が署名された数日後、Montmorin外相は、インド
のフランス植民地ポンディシェリーの知事トーマス・コン
ウェイに指示を送りました。

ベルサイユ条約の実行(遠征軍の派遣)をいつにするか
はアジアの動向を勘案して、トーマス・コンウェイ知事の
意向に委ねられていました。

コンウェイ知事はコーチシナへの遠征軍派遣は無理で、
フランスの国益にもならないとの上申書をフランス本国
に送りました。

12月
ベルサイユ条約を締結したアドラン司教一行は
Kersaint艦長指揮下のパンドゥール兵が乗船していた
Dryade号でフランスを離れ、ポンディシェリーに向かい
ます。

1787年
メコン河の戦いで破れたアインはタイ国内にいましたが、
軍勢を整え、再びベトナム国内へ戻りますが、戦いどころ
かコンダオ島に逃げ延びる結果となります。

1788年
アドラン司教一行は5月にポンディシェリーに到着しま
す。

ポンディシェリーの知事コンウェイはDryade号はコンド
ール島まで引き続き航海し、コンダオ島に逃避している
アインにフランスで調達した1000丁のマスケット銃を
引き渡し、アドラン司教の信奉者である宣教師Paul Nghi
に会うように命令します。

Dryade号には義勇兵としてフランス人軍人兼建築家
Olivier de Puymanelが乗っていて、アドラン司教の説得
によって、アイン軍の参謀を務めるようになります。

アドラン司教はコンウェイがベルサイユ条約を履行する
ための援助を嫌がっているのを理解します。

フランス政府の二枚舌に、アドラン司教はふてくされな
がらも「私は一人でコーチシナで革命をしなければなら
ない」と決心します。

イギリスはアドラン司教に援助の申し出をしますが、アド
ラン司教は拒否し、フランスで調達した資金やポンディ
シェリーのフランス商人からお金を調達し、自ら義勇兵
を募り、武器弾薬を調達する行動に出ます。

仕方なくコンウェイ知事はFrançois Étienne de Rosily-Mesros
が指揮していたMéduse号ともう1隻の
フリゲート艦、計2隻をアドラン司教に提供します。

ジャン・マリー・ダヨー(Jean Baptiste Marie Dayot )は
Méduse号に武器弾薬を調達し、兵士を調達する任務に
つき、アイン海軍で主導的な役割をになうようになりま
す。

34
グエン•アインの海軍の主導的な役割を果たしたジャン・
マリー・ダヨー(左)とグエンアイン

アドラン司教はさらにDragonとPhoenixと名付けられた
2隻の商業船を購入して、武器弾薬を積み込み、兵士と
して義勇兵や脱走兵を雇い入れます。

1789年
6月19日
ベトナムに向けてアドラン司教が組織した遠征海軍が出
航し、7月24日にブンタウに到着、アイン軍が合流し、
サイゴン川を遡上してサイゴンに上陸、占領します。

アドラン司教もカインを連れて到着します。アインはアド
ラン司教にザーディン(サイゴン)での住居を贈ります。
その住居は現在ホーチミン市のグエンディンチュウ通り
180、サイゴン地区の司祭の事務所内に保存されてい
ます。

35
アドラン司教の住居

1790年
遠征軍はザーディンに城砦を建設し、軍事力を強化しま
す。

36
ヴォーバン(Vauban)方式のサイゴンの城砦はテオドー
ル•ルブラン(héodore Lebrun)の設計に従って、アインの
参謀になったOlivier de Puymanelによって建設されまし
た。

アインはこのフランス方式の城砦に興味を示し、設計図
などの参考資料を徴収しています。

ザーディン城砦は現在のレ・ズアンとハイ・バ・チュン通
りの交差点を中心として建設されたサイゴンで最初の都
市建設と言われています。現在でもこの地域はホーチミ
ン市の政治活動の中心地で米国領事館を初め、仏国、
英国など多くの領事館や、5つ星ホテルがあります。

1792年
9月16日
タイソン軍の名将、グエン・フエが突然白血病でこの世
を去ります。タイソン政権、凋落の兆しです。

37
旧来のアイン軍の狙撃手

Puymanelは、アインの陸軍兵士50000人に大砲の近
代的用法やヨーロッパ歩兵のメソッドを教え込み、自らも
600人の陸軍軍隊を指揮しました。

一方、ジャン・マリー・ダヨー(Jean-Marie Dayot) とジャ
ン・バティスト・シェニョー(Jean-Baptiste Chaigneau)の
フランス人海軍将校はアインの海軍を強化する為に尽
力し、2隻ヨーロッパ製軍艦とフリゲート艦15隻で結成
された大規模な海軍艦隊を編成します。

38
ジャン・バティスト・シェニョー

フランス人将校にはDayot、Olivier de Puymanel、
Jean Baptiste Chaigneauの他にPhilippe
Vannier、
Guilloux, Laurent Barisy、De Forçant、Theodore
Lebuen. などがいました。


Puymanelはニャチャン奪回の計画を練り、アドラン司教
やカインと共にニャチャン近くにDuyên Khanh要塞を築
き、タイソン軍に対する防御を固めて、ニャチャンを攻略、
占領します。

39
Duyên Khanh要塞

1793年
海軍を指揮していたダヨーもクイニョン近郊フーイェン港
の戦いではフランス製の爆弾を使用し、タイソン軍船60
隻を撃沈する成果を挙げました。

それはグエンフエの死亡後、タイソン軍を敗北させたア
イン遠征陸海軍の進撃の始まりであり、アインの軍隊が
近代的な軍隊訓練を受けた軍団に生まれ変わった証拠
でもありました。

1794年
アドラン司教はカインを連れて、すべての作戦に参加し
ていました。タイソン軍によってクイニョンのDien Khanh
城壁が包囲された時は防衛軍を組織し、反抗しました。

1795年
アインの海軍を指揮していたダヨーは陸軍を指揮してい
たPuymanelの助けを借りてクイニョン海岸の地図を作
成していて、現在はパリに保管されています。

40
1795年ダヨーの描いたクイニョンの港

1799年
クイニョンでの激戦中にアドラン司教は捕らえられてし
まいます。彼は赤痢にかかり、10月9日死亡します。
タイソン軍の根拠地であったクイニョンの陥落後、彼の
遺体は最高の栄誉をもってサイゴンに運ばれます。

12月8日
葬儀の演説でアインはアドラン司教への個人的な友情
とアインと彼の息子カインに代わってグエン王朝再興の
ために働いたこれまでで最も輝かしい外国人として彼の
業績を賞賛しました。

41
1799年12月8日 ピニョー•ド•ベエーヌに対するアイン
の葬送演説(抜粋)

彼の遺体は皇太子カイン、宮廷のすべてのマンダリン、
12000人の近衛兵と40000会葬者のもと1799年
12月16日に現在のサイゴン、タンソンニャット空港近く
に埋葬されました。

43
アドラン司教の墓


<コラム  アドラン司教>

アドラン司教

本名 Pierre Joseph Georges Pigneau
別名 Pigneau de Béhaine、Pierre Pigneaux、
    Bá Đa Lộc , Cha Cả
生没年 1941年11月2日(2月2日)~1799年10月
9日
1771年 ローマ教皇クレメンスXIVからアドラン司教と
して叙階されます。

ベトナム最後の王朝グエン王朝の建国の立役者でもあ
り、フランスがベトナムを植民地にする遠縁になった人
でもあります。
フランスの貴族の家に生まれ、父は不動産業を営んで
いました。

1765年
フランスのパリ外国宣教師教会(Société des Missions
étrangères de Paris)の神学校で宣教師としての訓練を
受け、司祭に任じられた後、ベトナム南部での布教のた
め、12月にフランスのロリアン港(Lorient)から出航し、
インドのフランス植民地ポンディシェリに向かいます。

50.jpg
パリ外国宣教師教会

1766年
6月21日
ポンディシェリ(Pondicherry)に上陸します。

51
ポンディシェリの位置

1767年
3月
その後シャムのアユタヤ、ポルトガルの植民地マカオで
数ヶ月過ごした後、3月に中国船でハティエン(ベトナム
とカンボジアとの国境の町)に到着し、多くの宣教師と連
絡を取り合います。

アジアでのカトリック神学校は、パリ外国宣教師協会に
よってシャムのアユタヤに設立されましたが、1767年、
ビルマのアユタヤ侵略によってアユタヤ王朝が滅亡す
るとハティエンの東南約60Kmにあるホンダット(Hòn
Đất》と言う町に移動していました。


ホンダットでアドラン司祭は神学校の校長として働きま
す。神学校には中国、シャム、ベトナムから約40人の
学生が集まってきていました。

神学校は逃亡中のシャム王子に避難所を提供していた
ので、敵軍ビルマからハティエン総督マク・ティン・トゥ
(Mạc Thiên Tứ)がクレームをつけられ、アドラン司教を
初め宣教師たちは拘束され、3ヶ月間投獄されてしまい
ました。

1769年
ハティエンの町がカンボジアの海賊に襲われ、神学校
の学生も何人かが虐殺され、ホンダット神学校も放火さ
れ閉鎖されます。
その後もハティエンでは騒乱が続いていたため、アドラ
ン司教は12月に13人の神学生を連れてハティエンを
離れ、マラッカを通り長い航海の末、インドのフランス領
ポンディシェリに逃げることを余儀なくされます。

1770年
アドラン司教はポンディシェリの北方に神学校を設立し
ます。
神学校には39人の学生が学んでいました。
中国人12人、南部ベトナム人16人、北部ベトナム人5
人、タイ人4人、カンボジア人1人、マレー人1人で4つ
の委員会に分かれ、それぞれ神学、宗教一般、文献研
究、ラテン語勉強をしていました。

1771年
ポンディシェリで神学校を開校していたアドラン司教は
コーチシナでの布教の監督を命じられます。

1773年
アドラン司教はアレクサンドル•ド•ローズの足跡を踏
襲して、8人の南部ベトナム人の助けを借りて中国語
をローマ綴りのベトナム語に編纂し、完成させます。

52
アドラン司教によって編纂されたベトナム語(漢字)ー
ラテン語の辞書の原稿。

1774年
ハティエンでの仕事再開ため、マカオに行き多くのスタ
ッフを集めます。マカオで彼はローマ字綴りの聖書の印
刷にを行うことが出来ました。

1775年
3月
1日、アドラン司教はマカオを離れ、3月後半に再び
ハティエンの町に来ます。

1777年
ハティエンで広南グエンの生き残りグエン・フック・アイン
に出会います。(これ以降のアドラン司教の足跡は本文
参照)

53 )
1838年 Jean-Louis Taberd によって出版されたアド
ラン司教編集の辞書

アドラン司教の墓はベトナム政府によって解体され、跡
地は現在公園になっています。
彼の遺骨は、焼却されてフランスに送られ、現在はパリ
の外国宣教師教会に保管されています。

54
アドラン司教の遺骨

55
アドラン司教の銅像
サイゴン大聖堂の前の広場にはグエン王朝の初代皇帝
ヤーロン帝の長男カインと一緒のアドラン司教の銅像が
1903年フランスから送られてきて、1945年まで立っ
ていました。右手には「ベルサイユ協定書」がしっかりと
握られています。


<コラム  グエン・フック・カイン>
60

Nguyễn Phúc Cảnh(阮福景)
生没年 旧暦 1780年3月―1801年2月7日
父 Nguyễn Phúc Ánh(ザーロン帝)
母 Nguyên phi Tống Thị Lan (sau là Thừa Thiên Cao
   Hoàng hậu)]
ザーロン皇帝の第1子

1783年 3歳の時、グエン・フック・アインがアドラン司
教を通じてフランスに軍事援助を依頼する際に人質とし
て司教によりフランスに連れて行かれました。

1789年7月
アドラン司教と共にPhilippe Vannier (ベトナム名 Nguyễn
Văn Chấn), とJean Baptiste Chaigneau (ベトナム名
Nguyễn Văn Thắng)らフランスの将校と多くのフランス兵
を連れてサイゴンに戻ってきます。

1793年春 
アインはカインのために東宮を建て、勉強させると共に
ザーディン(サイゴン)の防御を命じます。

1801年 
カインは天然痘にかかり、2月7日死亡しました。アイン
は戦場にいたので、葬式には出席できませんでした。
21歳でした。

カインはBình Dương 省に埋葬されました。



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