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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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南シナ海紛争まとめ
中華人民共和国の南シナ海への侵略の歴史


1.フィリピンが実効支配していたミスチーク島を占領。

1955年、ソ連崩壊後、アメリカ軍はフィリピンと共同
軍事演習を行ったのを最後にフィリピンから撤退をし
ました。

アメリカの撤退を確認した中国は、フィリピン海軍がモ
ンスーン期でパトロールをしていない時、ミスチーク島
に漁民を守る為として、小屋を建設し、現在ではヘリ
ポートまである軍事基地を建設してしまっています。



2.ベトナムが実行支配していた西沙諸島の西半分を
侵略、占領。

戦後の中国国民党と中国共産党の内戦で、西沙諸島
の西側に逃げ込んだ国民党員を追って共産党軍が駐
留していました。
一方、西沙諸島の東側は1955年10月に成立したベ
トナム共和国(南ベトナム)がアメリカの支援の下に占
拠していました。

その後、1973年までは軍事衝突もなく、この状態が
継続していましたが、1973年に締結された「パリ和平
協定」に従ってアメリカの南ベトナムから撤退に伴い、
南ベトナムの弱体化を見届けた中国は突如1974年
1月、軍事行動を起こして南ベトナム軍の護衛艦1隻
を撃沈し、西沙諸島の西半分に侵攻し、占領してしまいます。

その後、現在まで西沙諸島は中華人民共和国の実効
支配下にあります。


3.南沙諸島の赤瓜島でベトナム海軍と交戦。赤瓜島
他周辺さんご礁を占領

ベトナムはベトナム戦争後のカンボジア侵攻、中越戦
争、西側諸国の経済制裁で世界の最貧国に陥ってい
ました。
1986年、市場経済体制に切り替える「ドイモイ(刷新」
政策が発表された矢先、近代装備の中国海軍軍艦に
よる虐殺とも表現できるような発砲事件から海戦が開
始されました。

1988年3月14日 赤瓜礁海戦 
交戦の様子

http://www.youtube.com/watch?v=BsmheRCrNTk

ベトナム軍に勝利した中国は、この海戦で赤瓜礁の
ほか、永暑礁、華陽礁、東門礁、南薫礁、渚碧礁の岩
礁(珊瑚礁)を手に入れます。

これで南シナ海の紛争シリーズを一旦、終えます。
中国はどんな時期に侵攻作戦を強化してくるのか、歴
史が示しています。
尖閣諸島紛争では日本が毅然とした態度で臨むこと
が必要です。

考えさせられたことは、憲法改正と自衛隊の役割、核
兵器の保有、国境の廃止、共同統治などたくさんあり
ました。最終的にはそこに住んでいる人々の安定した
平和な生活に寄与するための政策であることが基本
であるべきです。

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南沙諸島 太平島

太平島

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南沙諸島最大の島、太平島

太平島(たいへいとう) は、南沙諸島の北部に位置する南沙諸
島最大の島で、中華民国(台湾)が実効支配しています。

太平島とは1945年、日本の敗戦に伴い中華民国海軍軍艦の
“太平艦”が現地に赴き接収事務を行ったことにより命名されまし
た。それ以前は「黄山馬峙」と称されていました。

台湾にとってこの島はシーレーン防衛の要衝にあたり、警備のた
め軍人と警察官が常駐させています。

台湾政府は2013年に国営の台湾中油と協力して本格的な石
油探査を行うと発表しています。

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(領有をめぐる歴史)

1907年
日本漁船が付近で操業します。

1929年4月
日本人による太平島での硫黄採掘事業が開始されましたが、世
界恐慌の影響を受け間もなく採掘は中止されます。

1933円4月10日
フランス軍が太平島を占拠、日本人を退去させます。

1935年4月
フランスが30名のベトナム人を太平島に移住させる。

1936年12月
平田末治と海軍省、台湾総督府が協力して設立した開洋興業株
式会社が硫黄採掘調査を実施。

1938年8月9日
日本海軍により日本人の島内開発を顕彰する石碑を建立。

1938年10月30日
日本海軍により守備隊及び台湾人労働者が太平島に派遣され
る。

1939年4月
日本軍による太平島占拠が行われ、海軍陸戦隊、気象情報部
隊、通信偵察部隊が駐屯します。

1944年
日本海軍が潜水艦基地が建設。

1945円12月12日
日本の敗戦に伴い、中華民国政府は「南沙管理処」を広東省政
府に設置。発電施設及び気象観測施設を修理

1946年10月5日
フランス軍による南威島及び太平島上陸が行われる。中華民国
の抗議により両国で帰属を巡る協議が行われる予定であったが、
インドシナ戦争の影響でフランスは会談を放棄。

1946年11月4日
中華民国政府は南沙諸島に「中業号」「永興号」「太平号」「中建
号」を派遣。

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中華民国軍艦「太平号」の寄航記念碑

1946年12月12日
中華民国政府、太平島を広東省政府の管轄とする。

1950年
フィリピン民間人が太平島に進出、硫黄の採掘を行う

1952年
日華平和条約で日本が南沙諸島の放棄を確認し、太平島が中
華民国に帰属することが明記されます。

1956年6月5日
中華民国海軍陸戦隊が駐屯を開始。

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1967年
中華民国が領有を示す石碑を建立

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1975年
中華民国政府がフィリピン、ベトナム、マレーシアに対し南沙諸
島の領有権は中華民国に帰属するとの声明を発表

1980年2月16日
中華民国が太平島を高雄市に帰属させることを発表

2006年
中華民国による滑走路の建設が開始されます。2008年1月26
日太平島空港が完成します。

2008年1月26日
全長1150メートル、幅300メートルの軍用空港が完成します。

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2008年2月2日
中華民国の陳水扁総統が軍用機で上陸、島を視察します。

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滑走路完成後、中華民国総統が訪れます。

チュオンサ島(南威島)

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南沙諸島の西南部にある軍事上重要な島で、1974
年ベトナムが侵攻して占領し、実効支配している
中国、台湾、ベトナム、フィリピンも領有権を主張して
います。

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北東から南西にかけて長さ750m、最大幅350m、
面積は0.15平方キロメートルあり、海抜は2.5mあ
ります。
島には漁民が掘った井戸があり飲料できます。
(領有の歴史)

太平洋戦争中は日本軍が占領し、西鳥島と呼ばれて
いました。

194612月、日本の敗戦後、中華民国海軍は軍艦
“中業号”、“永興号”、“太平号”、“中建号”を南海諸
島に派遣して占領し、領有の石碑を建立します。

1956年、中華民国は太平島、南威島、西月島に 石
碑を建立し、国旗を掲げて、“南沙守備区”とします。

1973年7月から1974年2月にかけて南ベトナムが
南沙諸島に侵攻し、占領していきます。

1975年,サイゴン政権が崩壊すると,北ベトナム軍
が南ベトナムの守備隊に降伏を受け入れるように島
に上陸し、守備隊は投降します。

1985年,ベトナム(ベトナム社会主意共和国)国防部
長が南沙諸島を視察します。

2004年4月,ベトナムはチュオンサ島に観光団を上
陸させます。

2012年6月,ベトナムは南威島に国旗を掲げ領有を
宣言します。

島には600mのコンクリート製滑走路があり、小型の
プロペラ飛行機が離着陸することができます。
ヘリポートや港湾施設も整備されていて、観光船も訪
れまず。

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ベトナム海軍の石碑

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約500人のベトナム人民軍が常駐しています。

島は熱帯植物や海鳥の宝庫で、ベトナム本土から観
光客が訪れます。

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ホーチミン主席の祠

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チャンフンダオの銅像
チャン・フン・ダオは外国軍隊の侵略を撃退したことで、
ベトナムの歴史上尊敬されている将軍です。


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島の豊富な漁業資源

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熱帯の珍しい植物もたくさんあります

南沙諸島 パグアーサ島(中業島)
パグアーサ島(中業島)

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中業島(タガログ語でパグアーサ島)は南沙諸島にある島で、
平均海抜は3.4m、面積0.33平方キロメートルの太平島に
次ぐ2番目に大きな島です。現在はフィリピンが実効支配し
ています。

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海中はとてもきれいです・・・・・・
13

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パグアサ島から中国が実行支配している渚碧礁までは約2
8キロメートルしかなく、晴れの日にはお互いによく見えるそ
うです。
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2008年時点でのパグアサ島には軍隊を除いて約300人
の住民が定住しています。島内には未舗装の1400m滑走路を
もつ、「ランクド飛行場」があります。

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島には軍隊だけでなく、漁民も定住しています

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定住者の町長さん


(領有の歴史)
1945年に中華民国が実効支配を開始しましたが、その後の
アメリカの支配からフィリピンが引継ぎ、1970年から実効支配
しています。

2012年4月 フィリピン政府は島に幼稚園を建設し、
2013年1月には空港滑走路など施設を整備することを発
表しています。

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幼稚園

フィリピンが南沙諸島で島とさんご礁を合わせて9つ実効支
配していますが、一般人の定住者がいるのはこの島だけで
す。
各基地への物資補給などは輸送艦「ラグナ」が月に一度巡
回しています。

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パグアーサ島以外の基地

南沙諸島 中国占拠の島
南沙諸島 中国占拠の島
赤瓜島の海戦に勝利した中国が占拠したさんご礁は
数箇所にのぼり、現在も着々と軍事基地として拡充し
ています。

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南薫礁(Gaven Reefs)

鄭和群礁の南西端の礁。2.5Km離れた2つの礁(長さ
1.8Kmの南薫礁と1.4Kmの小南薫)から形成されてい
ます。

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永暑礁

長さ22Km、幅約7Km、水深14.6~40mのさんご礁で、
永暑礁自体は、低潮時にはいくつかの岩がわずかに水面に
露出するものの、高潮時には水面下50cm~1mに没してし
まいます。

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渚碧礁(Subi Reef)

長さ6.5Km、幅3.7Kmの環礁。渚碧礁自体は、高潮時
には水没してしまいます。南側の一部に小型船が出入りで
きる埠頭があります。

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左側のドームはレーダー施設です

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小さな埠頭も造られています

渚碧礁は、フィリピンが実効支配するバグアサ島(中業島)
から北西に約28キロメートルしか離れていないので、「晴れ
の日にはよく見える」とバグアサ島カラヤン町のビトオノン町
長が話しています。



東門礁(Hugh Reef)

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九章群礁(Union Banks and Reef)の北縁にある礁。
東門礁は、南北2km、東西1.9kmの楕円形をしており、面
積は約2平方km。低潮時には大部分が海面から露出し、
高潮時にも露出する岩礁が一部あります。

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構造物上階に据え付けられている37mm連装機関砲。


華陽礁(Cuarteron Reef)

尹慶群礁(London Reefs)の中で最小の礁。
華陽礁自体は三日月の形をしており、長さは5.5km。低潮時
には海面に露出します。

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南沙諸島 赤瓜礁

赤瓜礁

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赤印が中国支配

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赤瓜礁(あかうりしょう、ジョンソン礁)は南沙諸島九章
群礁の西南端に位置する三角形の群礁で、長さ約5
km、幅約400mの暗礁で低潮時にだけ部分的に海面
に1.3mぐらい露出します。

一般人は住んでおらず、中国人民解放軍兵士が駐留
しています。地下水がないため、船舶による飲料水の
供給が行われています。


(領有の歷史)
1983年,中國がこの地域を赤瓜礁と名付け公表しま
す。この海域の島で赤瓜がもっと収穫できるようにと
の願いから名付けられたそうです。

1988年3月14日 赤瓜礁海戦 
(Hải chiến Trường Sa)
ベトナム海軍と中国海軍の交戦
時: 1988年3月14日
結果: 中国軍の勝利。
戦力:
ベトナム海軍  HQ-505(大破)、HQ-604(沈没)、
HQ-605(沈没)
中国海軍     502 南充、556 湘潭、531 鹰潭
被害者数:
ベトナム  死亡64名(内、3名の遺体を収容)、9人
が捕虜
中国側   負傷1名

3月14日朝の干潮を期してHO-604武装輸送船か
らベトナム海軍兵士43人が赤瓜礁に上陸し始めまし
た。これを見た中国海軍は艦艇502南充から33名、
531鹰潭から58名をタグボートに載せ、赤瓜礁に上
陸させました。中国兵士はベトナム国旗を引き下ろす
よう怒鳴り散らしますが、らちがあかず、艦船に引き揚
げます。

中国人民解放軍は赤瓜礁に上陸しているベトナム海
軍兵士に警告後、艦船から発砲し、交戦状態になりま
す。

交戦の様子

http://www.youtube.com/watch?v=BsmheRCrNTk

ベトナム軍に勝利した中国は、この海戦で赤瓜礁の
ほか、永暑礁、華陽礁、東門礁、南薫礁、渚碧礁の岩
礁(珊瑚礁)を手に入れます。

赤瓜礁周辺の海面すれすれの岩盤の上に「高脚屋」
と呼ばれる木造の小屋を建て人工建造物を造成し、
後にはさらにコンクリート等で建造物を建築し、「中国
 赤瓜」、「祖国万歳」の文字を掲げて、排他的経済水域
(EEZ)の存在を主張しています。

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高脚屋

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現在の基地

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現在の基地

2010年3月にアメリカのスタインバーグ国務副長官
とベイダー国家安保会議アジア上級部長が中国を訪
れた際、中国政府は南シナ海を『自国の主権および
領土保全と関連した「核心的利害」地域』と見なしてい
るとの立場を、公式に通知している。

ベトナム側の報道によると本来、赤瓜礁は満潮時には
海中に沈んでしまうとされているが、これが事実な
ら赤瓜礁は領土として認められないことになります。

南沙諸島 ミスチーフ礁(美済礁)

ミスチーフ礁(美済礁)

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ミスチーフ礁は東西9km、南北5.2Kmの浅瀬の環礁で、南沙
諸島で中国が実行支配する最大規模の基地です。現在も建造
物の増築が行われています

(領有の歴史)
ミスチーフ礁はタガログ語でPanganibanと呼ばれ、過去フィリピ
ンがこの領域を支配下に置いていました。

1995年、ソ連崩壊後、アメリカ軍はフィリピンと共同軍事演習を
行ったのを最後にフィリピンから撤退をしていました。

中国はフィリピン海軍がモンスーン期でパトロールをしていない時、
ここに建築物を建造してしまいます。

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この海域はパラワン州よりおよそ209kmと、フィリピンの排他的
経済水域(EEZ)内であり、フィリピンはすぐさま中国に対して抗議
を行ないましたが、中国はこれに応じず、建造物は「自国の漁師
を守るためのもの」であると主張します。

1998年末から1999年にかけて中国は実行支配のため、港を
備えたコンクリート土台、ヘリポート、3階建ての鉄筋コンクリート
製施設、パラボラアンテナが設け、ミスチーフ礁の軍事要塞化を
進めました。

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2007年、中国農業部南海区漁政局は、漁民を組織し、いけす
養殖のプロジェクトを開始しています。

最近、風力発電装置やヘリポート施設を新設したことが確認され、
周辺には艦船を常駐させています。

南沙諸島(スプラトリー諸島)
南沙諸島(スプラトリー諸島)
Quần Đảo Trường Sa (Spratly Islands) 
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主要な島
太平島(台湾支配、最大の島)、南威島(ベトナム支配、3
番目に大きい)パグアサ島(中業島、フィリピン支配、2番
目に大きい)、ミスチーフ礁と赤瓜礁(中国支配)、インベス
ティゲータ礁(マレーシア支配)があり、一発触発の紛争地
帯です。
どの島(礁)にも原住民はいません。

南沙諸島(スプラトリー諸島)は、南シナ海に浮かぶ約10
0の小さな島々。諸島全体は大変小さな島々で構成され、
互いの距離は十数キロメートルから数十キロメートル程度
で位置しています。

一般の人が普通に居住できる環境ではなく、島そのもの
にはほとんど価値が無いのですが、海洋・海底資源が見
込め、通商路の確保や軍事政策の必要から、周辺各国が
領有権を主張しています。

(領有権をめぐる歴史 )

1.スペインの領有
フィリピンを植民地にしていたスペインが支配していました。

2.アメリカの領有
1898年、南沙諸島はパリ条約でスペインから割譲を受け
たフィリピンを植民地にした米国の支配となります。

3.フランスによる領有
ベトナムを植民地支配していたフランスが1930年からい
くつかの島々を実効支配し、1933年12月21日、バリア
省の一部としました。

4.日本による領有
1938年に日本が領有を宣言し、新南群島と命名。以降
1945年の第二次世界大戦終結まで支配します。
行政区分は1938年12月23日外甲第116号閣議決定
により台湾の高雄市の一部としていました。リン鉱石の採
取が主な産業で従事者が住んでいましたが戦火の拡大に
より撤退しました。

5.中華民国(台湾)による領有
1946年、日本の敗戦後は中華民国が軍艦“太平号”を派
遣して南沙諸島を支配します。

6.フィリピンによる領有
1949年にフィリピンが一部の領有を宣言します。

7.南ベトナムによる領有
1951年のサンフランシスコ講和条約で日本が領有権を
放棄した後、1956年10月22日に南ベトナムが143/NV
号大統領決定により同国のバリアの一部からフォクトイ省
の一部に編入した。

南ベトナム政府が1973年9月に再び、フォクトイ省への
編入を宣言したことに対し、中国も翌年1月に抗議声明を
出して領有権主張を本格化させていきます。

1970年末南ベトナムが南シナ海沖に海底油田(バホー
油田)を発見してからは、広大な排他的経済水域内の海
底資源や漁業権の獲得のため、近隣に位置する周辺国
のみならず、遠く離れた中国を含む各国が相次いで本格
的に領有を宣言し始めます。

また広大な地域に広がる島々は軍事的にも価値があり、
中国を含めたASEANでの会議で軍事介入はせず現状維
持の取り決めが結ばれたが、近年、中国の人民解放軍が
建物を勝手に建設しマレーシアなどから非難を浴びていま
す。

1983年にはドイツ人のアマチュア無線家のグループが
キャンプを張っての移動運用を試み、ベトナム軍の守備隊に
銃撃されて死傷者が出る騒ぎが起こっています。

8.中国による領有
赤瓜礁海戦(中国とベトナムとの軍事衝突)
1988年3月14日、南沙諸島における領有権をめぐり中
国とベトナム両海軍が衝突し、勝利をおさめた中国は、こ
の海戦で赤瓜礁のほか、永暑礁、華陽礁、東門礁、
南薫礁、渚碧礁と後に名付けられた岩礁または珊瑚礁を
手に入れます。

2004年9月に、フィリピンと中国が海底資源の共同探査
で2国間合意成立。

2005年3月には、フィリピンと中国の2ヶ国に続きベトナ
ムも加わり、探査が行われている。

2007年11月、中国の人民解放軍が西沙諸島の海域で
軍事演習を行ったことや、同月中旬に中国が中沙諸島だ
けでなく、南沙、西沙の両諸島にまで行政区「三沙市」を海
南省の中に指定したことをきっかけとして、同年12月にベ
トナムで「中国の覇権主義反対」などと唱える反中国デモ
が行われています。

2010年3月にアメリカからスタインバーグ国務副長官と
ベイダー国家安保会議アジア上級部長が中国を訪れた際
に、中国政府は南シナ海を『自国の主権および領土保全
と関連した「核心的利害」地域と見なしている』との立場を、
公式に通知したことが報じられました。

2011年2月末から5回以上にわたり、中国探査船がフィ
リピンが主張する領海内において探査活動をくり返し、5
月には無断でブイや杭などを設置したため、フィリピンの
アキノ大統領はこれを領海侵犯とし、同年6月国連に提訴
した。

2013年1月 フィリピン政府は南沙諸島の海を「西フィリ
ピン海」と名付けました。

<中国の主張>

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中国の防衛ライン

南沙諸島が中国領であることに疑いの余地はない
「人民網日本語版」
2011年年6月8日

南沙(英語名:スプラトリー)諸島は中国の領土だ。中国は
これについて十分な歴史的根拠および国際法上の根拠を
持つ。

南沙諸島を最初に発見し、命名したのは中国人だ。中国
人は早くも紀元前2世紀に、長距離航海と生産活動の過
程で南沙諸島を発見。南中国海の島嶼、砂州、暗礁につ
いて一定の認識も持っていた。

航海の発展に従って南沙諸島への認識は一層深まり、
唐・宋代には「万里長沙」など南沙諸島の古い地名が現れ
始めた。

唐・宋以降の多くの文献に南沙諸島を含む南中国海諸島
の数十カ所の地名が詳しく記されており、島嶼、砂州、暗
礁、水道の大小、地形、方位などが具体的に描写されて
いる。

南沙諸島を最初に開発し、経営したのは中国人だ。紀元
前1世紀の『異物志』と晋朝の裴淵の『広州記』にはすで
に中国の漁師が南中国海で漁をしていた記述がある。

明・清代、南沙諸島で漁をする海南島の漁師が次第に増
え、活動範囲も広がり、定まった操業ルートが形作られた。
中国の漁師は島で樹木を栽培し、荒れ地を開墾し、島を
開発した。

19世紀以降の外国の航海者や侵略者も、自ら目撃した
事実に基づき、中国人が南沙諸島を開発・経営しているこ
とを認めざるを得なかった。

英国海軍測量局の『中国海指南』は南沙諸島の鄭和群礁
について「海南島の漁師はナマコや貝殻を捕って暮らして
いる。その足跡は各島にあり、長く暮らしている者もいる」
と描写している。

南中国海の主権を最初に管轄し、行使した国も中国だ。
明代の『鄭和航海図』に記された「万生石塘嶼」とは今日
の南沙諸島のことだ。

1716年の『大清中外天下全図』、1817年の『大清一統
天下全図』では「万里石塘」として南沙諸島が版図に組み
込まれている。

1883年、ドイツは清政府の抗議を受けて南沙諸島への
調査活動を停止した。

1933年、フランスが南沙諸島の一部島嶼を占拠すると中
国の漁師が抵抗。中国政府はフランス側に厳正な申し入
れを行い、撤退を余儀なくさせた。

1946年、中国政府は「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」に
基づき南中国海の島嶼を回収。「永興」「中建」「太平」「中
業」の軍艦4隻を派遣して4大諸島を接収した上、島で接
収式典を行い、改めて主権碑を建てた。
軍艦は台湾政府が派遣しましたが、台湾は中国の一部と
の見解でこのような表現になっています

1947年、中国は「南中国海諸島新旧名称対照表」を公布。
南中国海の島や岩を広東省政府の管轄下に置いた。翌
年2月、中国政府は「南中国海諸島位置図」を公布。新中
国成立後もこの図を用い、南沙諸島に対して主権を行使
し続けた。

周恩来総理は1951年に「米英の対日講和条約案および
サンフランシスコ会議に関する声明」を発表。「西沙・南沙
諸島および東沙・中沙諸島はずっと中国の領土」であり、
米英の対日講和条約案の影響は受けないと厳正に指摘し
た。

1958年、中国は「領海に関する声明」を発表。「領海を1
2海里とする中国の規定は東沙、中沙、西沙、南沙諸島お
よびその他中国に属する島嶼に適用される」と明確に宣
言した。この後、南沙諸島への外国による主権侵害に対し、
中国政府は「争う余地のない主権を有する」と繰り返し表
明してきた。

既存の歴史的根拠および国際法の「発見の原則」「先占
の原則」「禁反言の原則」に基づき、中国は南沙諸島およ
びその周辺海域に対して争う余地のない主権を有す。

国際社会も南沙諸島に対する中国の主権を承認し、南沙
諸島の中国帰属は多くの国々の地図に明示されている。
例えば1954年にドイツ連邦共和国で出版された『世界大
地図』、1957年にルーマニアで出版された『世界地理図
集』、1970年にスペインで出版された『アギラール大地図
帳』、1973年に日本の平凡社が出版した『中国地図帳』
などだ。

中国政府は一貫して強く責任ある姿勢で、極めて強い自
制を保ち、かつ建設的な姿勢で「係争棚上げ、共同開発」
を主張し、対話と交渉を通じた南中国海係争の適切な処
理・解決に尽力してきた。中国は国連海洋法条約の基本
原則と法制度を含む、広く認められた国際法および現代
海洋法に基づき、関係国の二国間協議によって、平和的
方法で係争を解決することを望んでいる。


<南シナ海におけるアメリカの政策>
アメリカは、南シナ海の公海における「航行の自由、港な
どへのアクセスの自由」のために地域の平和と安定を強く
主張しています。理由は2つあります。

南シナ海はアメリカにとって重要な海上交通路で、毎年約
5兆3000万ドルの物資が南シナ海を通過する内約1兆ド
ル超はアメリカの物資なのです。
もう1つは、米軍の世界地域おける軍事政策上、南シナ
海周辺国の港湾や施設へのアクセスの自由が不可欠で
あることです。

1994年に中国がミスチーフ礁を占領したことを受けて、
アメリカの対南シナ海政策が規定されるようになってきま
した。

1995年にアメリカ国務省が発表した南シナ海政策
1.紛争の平和的解決
2.平和と安定
3.航行の自由
4. 紛争に対する中立的立場
5.国際法の原則を尊重

アメリカの明確な外交メッセージにより、中国はASEANに
歩み寄り、南シナ海問題では2000年から2006年まで比
較的穏当な態度をとりますが、2007年以降、再び強硬路
線に転じます。

2010年には、ベトナムの石油会社の採掘や漁業活動を
妨害したり、フィリピンの海底調査活動を妨害したりと、中
国は南シナ海で他国との紛争を次々と引き起こしたのをき
っかけにアメリカのクリントン国務長官はより強い調子でア
メリカの国益の在り処を示しました。

1.国際法規を守ることは米国の国益である。
2.領土紛争の解決のため、すべての関係国による協調
的な外交プロセスを支持する。
3.南シナ海における領有権をめぐる紛争に対し、いずれ
の側にも与しない。
4.「南シナ海行動規範」を支持する。

この発言は中国を強力に牽制するとともに、これまで南シ
ナ海の騒動には不介入だったアメリカの姿勢転換を意味
していました。

2011年、オバマ政権は米軍の重心を中東から東アジア
へ移す「ピボット(転換)戦略」を発表し、南シナ海を含む西
太平洋に対して、アメリカはこれまで以上に「濃い」関与を
するのだと表明します。

2011年8月23日、ベトナム戦争終結後初めて米海軍ル
イス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦「USNSリチャー
ド・E・バード」(排水量41,000トン)がメンテナンスと補修の
ためにベトナムのカムラン湾へ入港します。

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2012年4月28日、アメリカ軍の戦略変更を受けて、日本
は戦略的ODAの一環としてフィリピン、マレーシア、ベトナ
ムの3カ国を対象に、巡視船供与などを決定しました。名
目は南シナ海におけるテロ・海賊対策への協力ですが、
同海域で覇権主義的な行動を強める中国への包囲網を
構築する狙いがあります。

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これに対し、中国では「2007年~2010年の南シナ海で
の手法は行き過ぎだったのではないか、係争相手をむや
みに脅した結果、とうとうアメリカの関与を濃くさせる結果
となってしまった。」とする見方が生れました。
南シナ海で中国が得点を稼ぐのは容易ではなくなりました。

そこで中国の政権移行期に対外政策の手詰まり感を払拭
する為に、目を転じたのが東シナ海―尖閣諸島―という事
情があります。
日本政府による尖閣諸島国有化だけが現在の東シナ海
の緊張を生んだというわけではありません。

中沙諸島 スカボロー礁(黄岩島)

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スカボロー礁(中国語名:黄岩島)は、フィリピン共和国の
ルソン島西方沖にあり、その名称は18世紀にこの地点で
難破した茶貿易船「Scarborough号」にちなんでいます。
スカボロー礁は周囲55km、面積150km²、水深10~20
mの礁湖を持つ二等辺三角形の環礁で水深3500mの
海盆上にあり、海底の山が水面に3m近く露出した部分が
黄岩島です。
礁湖の南端には水深が9~11mある路があって、漁船が
漁業活動を行なったり風を避けることができます。

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(領有権をめぐる争い)

(フィリピン共和国の主張)
スカボロー礁の付近海域は16世紀にはフィリピン漁民の
漁場だったとし、スカボロー礁がルソン島の西沖約220キ
ロと近接していることから、1980年、フィリピン政府はスカ
ボロー礁を200海里排他的経済水域内であると主張して
います。

しかしスペインがフィリピン諸島をアメリカ合衆国に割譲し
た1898年のパリ条約、1900年のワシントン条約、
1930年の英米条約では、東経118度をフィリピンの西限
としており、スカボロー礁はこの範囲の外側にあります。

1935年のフィリピン共和国憲法及び1961年の領海基
線法にも同様の規定がありますが、フィリピン外務省は、
スカボロー礁は「島」ではなく「岩」であって、これらの条約
等の対象とされていないと主張しています。

そして、フィリピン外務省は国際公法上の判例を踏まえる
と、領有権は歴史的な主張や領有ではなく、管轄権の有
効な行使、実効支配(effective exercise of jurisdiction)に
基づいて判断されるべきであると主張しています。

1990年後半スカボロー礁周辺海域の地下に天然資源が
確認されたから領有権争いが表面化します。

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中国国旗が立てられたり、フィリピン国旗が
立てられたりします。

1992年、フィリピンから撤退する米軍から中沙諸島の実
効支配を継承します。

1997年、フィリピンが軍艦と軍用機を出動して台湾の民
間組織のラジオ局による領海侵犯を追跡、監視。

1997年4月30日、フィリピン人2人の国会議員が軍艦に
乗って上陸、旗と碑を立てる。

1998年1月から、中国海南省の4艘の漁船が領海侵犯し、
フィリピン海軍に拿捕され、51名の漁民がフィリピンに半年
間拘禁されます。

1999年5月23日、フィリピン軍と中国の漁船が衝突。中
国外交部スポークスマンはフィリピンへ抗議し、交渉を呼
びかけた。

1999年6月、フィリピン教育部は新しい地図の中で、スカ
ボロー礁と南沙諸島を版図に表記し、8月には「南沙諸島
はフィリピン領土」である旨の憲法改正を行ないました。

1999年11月3日、フィリピン海軍の艦船がスカボロー礁
のパトロール中に座礁。フィリピンは艦船は救援参加時に
故障が発生したと発表したが、中国は座礁した艦船の撤
去を求め、フィリピン側はすぐに撤去して以来、島の陸地
を実行支配する国はなく、島周辺の水域はフィリピンの
艦船が監視しています。

2000年、フィリピン海軍が領海侵犯した中国の漁船船長
を射殺した。

2009年には、フィリピンが南沙諸島の一部とともにスカボ
ロー礁を自国領有とする「領海基線法」を国会で成立させ
ました。
これに対し、中国政府は「違法かつ根拠のない主張であり、
厳重に抗議する」との声明を出します。

2012年4月8日、フィリピン海軍がスカボロー礁近くに中
国の漁船8隻が停泊しているのを発見し拿捕したのを受け、
中国の監視船が現場に急行、フィリピン海軍の進行を阻止し、
睨み合う状況が2カ月近く続きました。

4月17日、フィリピンのデル・ロサリオ外相は国際海洋
裁判所に判断を仰ぐ提案をしたが、中国外交部辺海局
の鄧中華局長はスカボロー礁は法理上自国の領海で
あることは明白だとして拒否しています。


フィリピンの領有主張は無理があるようで、フィリピン紙
ニラ・スタンダード・トゥデイは2012年4月28日付で
フィリピンの投資家Victor・Arches氏の寄稿「それは中国
に帰属する」を掲載しています。

寄稿の要旨は以下の通り。

スカボロー礁は確かに中国に帰属する。中国は元朝の
1279年にはすでにスカボロー礁を発見し、地図に記載
していた。それ以来、中国の大陸と台湾の漁師はここで漁
をしてきた。
実は当時元朝の統治者フビライに仕えていた天文学者、
技師、数学者の郭守敬が南海諸島の測量を行った際、
基準点としたのがスカボロー礁だった。

それと対照的に、わが国の外務省が領土の証拠として
持ち出した「古地図」は、中国の地図から541年後の
1820年になってようやく製作されたものだ。Edgardo
Angara上院議員が、540年以上も遅れてようやく製作
された地図が、それよりずっと前の中国の地図よりも説得
力があると主張していることは、私にとって大きな驚きだ。

米国から独立を宣言した1946年の時点で、われわれの
領土はどうだったか?1899年、1935年、1943年、
1973年、1986年、1987年のわれわれの歴代憲法の
いずれにもスプラトリー諸島やスカボロー礁が領土として
含まれていないのはなぜか?われわれはどこから、あるい
は誰から、突然これらの島嶼を手に入れたのか?まさか、
どこからともなくではあるまい。

1970年代後半に中国はスカボロー礁周辺で科学調査活
動を行い、後に碑も建てた。だがこれはフィリピンによって
権限のないまま1997年に撤去された。

フィリピン政府発行の地図は1990年代まで全てスプラト
リー諸島とスカボロー礁を領土の範囲から除外している。
1961年にわが国の議会で承認された共和国法令第30
46号は、われわれをこれらの島嶼の保有から押しとどめ
ている。

だが48年も後の2009年3月10日になって、われわれは
この法令を改正し、これら係争中の島嶼の保有を一方的
に宣言した。

しかし、これらの島嶼に対する中国の主権を支持する国際
条約が3つあるという事実を軽視することはできない。
1898年の米国とスペインのパリ条約、1900年のスペイ
ンと米国のワシントン条約、1930年の英米条約だ。
これらはいずれもフィリピンの領土の境界を東経118度
と定めている。

一方で、フィリピン側の領有権主張の根拠は1982年の国
連海洋法条約のみだ。私の理解では、これは「convention」
に過ぎず、宗主国間で締結された 「treaty」や「agreement 」
を覆したり、取って代わることはできない。たとえ「law」と見
なしたとしても、遡及効果を持って過去の事実を変えること
はできない。


(台湾の主張)
スカボロー礁は中国人に最も早く発見されたとされ、その
付近海域も海南島の漁民の古くからの漁場だった。

1279年、著名な天文学者郭守敬が「四海測験」を行なっ
た時、南シナ海ではこの島を測量地点としたとされる。

1935年1月、台湾水陸地図審査委員会はスカボロー礁
を台湾の版図へ入れます。

1947年末、台湾内政部が正式に編纂出版した「南海諸
島位置図」でスカボロー礁を「断続国界線」内へ入れ、この
線を法的効力のある歴史的境界線として、台湾は線内の
島、礁、浅瀬、砂州の主権を主張しています。


(中国の主張)
元王朝時代に黄岩島で測量を開始し、その後も周辺海域
で漁業、開発・調査など主権を行使してきたことを理由に、
フィリピンの主張を退ける。

1983年、中国地名委員会は「我国南海諸島部分標准地
名」を公布して「黄岩島」を標準名称とした。

中沙諸島
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中沙諸島は、南シナ海にある諸島の一つ。西沙諸島
の東南、東沙諸島の西南、南沙諸島の北方にかけて、
北約740km、東西約430kmの広大な範囲に含まれる
複数の岩礁がある海底地形で、大きく四つエリアにわ
かれており、中心になるのは西沙諸島に近いマックル
ズフィールド堆と呼ばれる海域です(写真左側)。

唯一海上に露出している地形は、フィリピンに近い
スカボロー礁(黄岩島 写真右側)のみであり、
国連海洋法条約上の「島」に該当するか否かについて
は議論が分かれています。

中沙諸島と称されるエリアは広大で、そのマックルズ
フィールド堆とスカボロー礁を除いたエリアは水深40
00m以上の深海です。

フィリピンは一時的にスカボロー礁に座礁した艦船を
利用し実行支配しようとしましたが、中国政府のクレ
ームにより座礁した艦船をすぐに撤去しています。

島の周囲の領海、経済水域はフィリピンが監視、取締
を行っていますが、中国、台湾、ベトナムも主権を主
張しています。

中沙諸島が存在する範囲は、南シナ海の他の海域と
同様、漁業資源が豊富であることに加えて、石油や
天然ガスの資源の埋蔵可能性があるためです。>
西沙諸島 中建島(トリトン島)


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島の位置

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島の位置

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島の全景

西沙諸島の西南端に位置し永興島から178海里に位置
する西沙諸島の西南端島で、面積は1.5平方Km、
平均海抜2m,長さ1200m、幅1000mの島。
満潮時は2サッカー場位の面積で、引き潮時には白砂の
珊瑚砂が現れます

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北東モンスーンの影響を受け、毎年台風の洗礼を受ける
厳しい自然環境にありますが淡水は2フィートも掘ると湧
き出てきます。

毎年春から夏の初めにかけて、無数のツバメがこの島に
渡ってきますので、鳥の糞による汚染が問題になっていま
す。島の近海は巻貝の産地をしても有名です。

満潮時には水没するところが多い為、植物が育ちません
でしたが、1970年代から島の守備兵が植樹を始め、
現在は緑化されてきています。

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中国にとっては南沙諸島への中継基地として非常に重要
視されている島です。

(領有の歴史)
1946年、日本の敗戦後、台湾が軍艦“中建号”を派遣し
て島を接収。島の名称は“中建号”から命名されました。

1974年 南ベトナムとの西沙諸島海戦に勝利して、島を
占拠し、翌年から正式に中国人民解放軍、
中国人民武装警察部隊が常駐します。

1996年、中国政府がこの島が領海内であることを
声明し、島に領海起点を設けます。

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中国領を占める石碑

西沙諸島 趙述島(ツリー島)

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永興島から約8海里の距離にあります。島は長さ600m、幅300m
で周囲は白沙の海岸で囲まれ、島内は椰子の木で覆われています。

2012年には島内に新しい道路が竣工し、現在では海水淡水化事
業が実施されています。
島のインフラが急ピッチで行われている一方、ゴミや汚染水で島の
環境保全が問題になっています

島には中国人民解放軍、中国人民武装警察部隊と共に漁民200
人余りが居住しています。

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気象台

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漁民が定住しています

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魚介類の宝庫です。アワビもたくさん取れます。

(領有の歴史)

1930年代、ベトナムの宗主国であったフランスが気象台を建設し
ています。

1974年、西砂諸島海戦後、中国が実効支配。span>


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