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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ベトナム学生生徒の日


ベトナム語 NGÀY TRUYỀN THỐNG HỌC SINH, SINH VIÊN VIỆT
NAM

ベトナムでは毎年1月9日は「ベトナム学生生徒の日」で記念日と
なっています。

1949年中頃から1950年初めにかけて学生、生徒を中心にフラ
ンス植民地政府やアメリカの南べトナムへの軍事援助や進駐に
対する抗議運動が高まってきました。

学生達の要求は、ベトナムの独立、テロリズムの取り締まり、フラ
ンス語ではなくベトナム語の授業増加、学生への安全保障などで
したが、特にサイゴンはフランスの直轄植民地であったため、酷
税に対する反発も加わっていました。

1950年1月9日、サイゴンーチョロンの愛国的な高校生や大学
生の代表団2000人がフランス植民地政府の教育省やフランス
総督府に向かってデモ行進をし始めます。

この集会にはY Dược(医科薬科), Pháp Lý(法律)、Kỹ thuật
(技術)、Khoa học(科学)大学の学生やPétrus Ký(レホンフォ
ン), Gia Long(サイゴン), Nguyễn Văn Khuê, Huỳnh Khương
Ninh高校の生徒を初めとして、サイゴンーチョロン地区の学校の
ほとんどすべてが参加しました。

さらに学生達の教師や家族、7000人のサイゴン市民も加わって、
集会に集まった群衆は50000人を超える大集会になりました。

フランス植民地時代にはベトナム人の集会は禁止されていました
ので、フランスがサイゴンの治安のために雇っていたビンスエン
(ヤクザ集団)や警官、フランスの外人部隊が出動しデモの抑圧
を始めます。

彼らは増え続けるデモ隊に対して発砲をしました。デモ隊は混乱
し、デモを主導していた多くの学生指導者が逮捕されました。

そして逃げ惑う混乱の中に一人の学生が倒れていました。
Pétrus Ký高校(現在のレ・ホン・フォン高校)のチャン・バン・オン
(Trần Văn Ơn) でした。

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チャン・バン・オン

1月12日、犠牲になったチャン・バン・オンの葬儀が行われます。
葬儀には約5000人近くが集まり、ファン・チュウ・チンの葬儀を
超える参会者がレ・ホン・フォン高校の校庭には入りきれず、道路
に溢れかえり、ベトナム全国各地でも追悼式が行われました。

12 (400x301)
参会者

1950年2月、フランス軍に対するホーチミンの抵抗基地があっ
た北部ベトナムの山岳地帯(ベトバック)で創設されていた、「ベト
ナム青年連合議会」(Đại hội Liên đoàn Thanh niên Việt Nam)
は、1月9日をベトナム学生の侵略者に対する抵抗の歴史を後世
に伝える為、この日を「ベトナム学生・生徒の日」として記念日に
することを決定しました。

現在この日は、ボランティア活動とコミュニティ活動に貢献してい
る大学生らの団体や個人を表彰する日となっています。>
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ファン・チュー・チン更新
生没年: 1872年 – 1926年3月24日
11 

ファン・チュー・チンは、20世紀初頭のベトナムの民族運動家。
フランスによるベトナムの植民地支配終焉に尽力し、暴力革命と他
国への支援要求に反対し、国民教育及びフランスの民主主義原理
への訴えによるベトナム解放を主張しました。

1872年
ベトナム中部、クアンナム省の学者でもある地主の子に生まれる。

1885年(13歳)
フエの宮廷官吏がフランスに抵抗しまが失敗し、ハムギ帝は都を
落ち全国に抗仏、勤皇の激を発しフランス植民地支配に対する抵
抗運動を起こします(勤皇運動)。
ファン・チュー・チンもこの運動に参加します。しかし彼の父は反乱
指導者に反逆の疑いを掛けられて殺害されてしまいます。父の死
は武力による抵抗運動が悲惨な結果になることを彼の脳裏に刻み
ます。

1887年(15歳)
勤皇運動は失敗に終わり、彼は家に帰ります。彼の兄は、ファン・
チュー・チンに古典語の教育を受けさせ、彼は勉学に勤しみます。
フランスの植民地支配は拡張し、仏領インドシナ連邦を完成させま
す。

1901年(29歳)
科挙の試験に合格。

1903年(31歳)
官僚としてフエのグエン王朝の宮廷で働きます。宮廷で彼は官僚
の不正蓄財を見せつけられる一方、中国を通じて入手した本によっ
て、西洋思想に触れることができました。
この年、ファン・ボイ・チャウとも出会います。

1905年(33歳)
宮廷での職を自ら辞し、ベトナム南部への旅行を皮切りに、君主制
の廃棄と民主共和制への移行を主張して全国を遊説します。

1906年(34歳)
ベトナム北部に行き、フランスへの抵抗運動を継続していたデタム
に会いますが失望してしまいます。その後、中国を経由して日本へ
行き、ファン・ボイ・チャウと再会し、学生を教育するため、横浜に
「ビン・ゴー・ヒエン(丙午軒)」という2階建ての寮を設立し、6月に
は日本の教育と政治形態を視察するため東京へ行きました。

ファン・チュー・チンは日本の富国強兵政策を信頼していなかった
ので、日本からの軍事援助を求めるファン・ボイ・チャウの考えに反
対し、さらに他にも彼との意見の相違点を持っていたため、ファン・
チュー・チンがベトナムに帰国する前の数週間、彼らは密接な議論
を行っていました。

帰国後の10月15日、ファン・チュー・チンはフランス領インドシナ
総督ポール・ボーに「投法政府書」という書簡を送り、その中でフラ
ンスに協力するベトナム人による地方官僚の汚職を非難し、フラン
ス人による啓蒙活動の実践、ベトナムの近代的な法律機関・教育
機関・経済機関の発足、保守的官僚の残存勢力の一掃などをフラ
ンス政庁に要請します。

彼は植民地政策は「植民地当局―フエの朝廷官吏―士民」という3
層の支配構造になっており、特にフエの官吏の腐敗が野ざらしにな
っていることを訴えています。

1907年(35歳)
ファン・チュー・チンのベトナム改革はファン・ボイ・チャウが主唱す
る改革とは異なっていましたが、「ベトナム人の教育水準を高め、
人材の育成をする」ことでは、二人は一致していました。

ファン・チュー・チはチァン.・クィ・.カップやフイン・.チュック・.カンらと
一緒にファン・ボイ・チャウが始めた「東遊運動」をベトナム国内に
広めます。

福澤諭吉の慶應義塾に倣い、ハノイに 「東京義塾」という愛国的な
近代式の学校を設立してその講師となり、授業の教本の中にはフ
ァン・ボイ・チャウの著書も使用します。義捐金に基づき学費は無料
で、教育班、財政班、宣伝班、著作班の4部門があり、これに影響
された地方でもこれに模した「梅林義塾」や「玉川義塾」などの学校
が建学されました。

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東京義塾は非合法な活動の一切を避けながらフランスの厳しいベ
トナム支配を非難する一方、フランス人から近代化の道を学んでい
ました。学生に対しては貴族主義的な風潮を放棄し、労働者階級
から学ぶことを求め、小作人などにクオック・グーを用いて近代教
育を教授します。ファン・チュー・チンは伝統的にベトナムを支配し
てきた儒教観からの脱却を目標として、活発な議論を行う自由な公
開講義を行い、その中で近代化や西欧思想に関する理論を中心と
した討論を行ないました。

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東京義塾で使用された教本

1908年(36歳)
中折(フエを中心としたベトナム中部)ホイアンの農民の抗税デモに
参加し、首謀者として嫌疑をかけられ逮捕されます。フエの朝廷か
らは死刑判決を受けますがフランスの政友の口ぞえで終身刑に減
刑され、コンダオ島に流刑されます。
そしてインドシナ総督の指示で東京義塾は建学1年余りで閉鎖され
てしまいます。

1910年(38歳)
10月12日 恩赦により釈放されます。

1911年(39歳)
釈放されたファン・チュー・チンはフランス人権会の援助を受けて渡
仏し、1925年まで滞在しますがフランスの秘密警察からは監視さ
れます。彼はフランス人権会とのつながりから、フランス社会党系
の人物、Roux や Naris Moutet という人物と交流します。
フランスでの滞在費はフランス人権会から支給されていたようで
す。

1914年(42歳)
クオン・デ候と通じていたとの密告を受け、10カ月近く投獄されま
す。人権会からの援助資金も打ち切られます。

1915年(43歳)
パリへ向い、ここで、ホー・チ・ミン、ファン・バン・チュオン、グエン・
テー・チュエン、グエン・アン・ニンらとともに「在仏ベトナム人愛国
者団」という団体で活動をし、ホー・チ・ミンが代表としてグエン・
アイ・クォック(阮愛國)という名で愛国的な記事を書きます。
フランス滞在中、自活のため写真加筆者として働きました。

1916年―1920年
フランス秘密警察の資料から、この時期ファン・チュー・チン、
ファン・バン・チュオンとグエン・アイ・クォックは共同して行動してい
ることがわかっています。グエン・アイ・クォックは一時ファン・
チャウ・チンのもとに寄寓しており、彼らはフランス社会党系の人々
と頻繁に接触を持っていました。

1919年(47歳)
グエン・アイ・クォックは「安南人民8か条の請願書」を提出し一躍注
目を浴びます。この請願書はベトナム労働党史ではグエン・アイ・
クォックが作成したことになっていますが、後世の歴史家はホーチ
ミンの署名があるものの、要求の内容や言葉使いから、草案は
ファン・チュー・チンが作成したものだと言われています。

1920年―1921年
ファン・チュー・チンはフランスの植民地大臣、サローと何度か接触
しています。

ホーチミンは1920年以降、マルクス・レーニン主義を彼の政治思
想に取り入れますので、ファン・チュー・チンとは別の道を歩むよう
になりますが、決裂したわけではなく、共に共産グループの多くの
会合に出席しています。ファン・チュー・チンもマルクス・レーニン主
義に理解をもっていました。

1922年(50歳)
ファン・チュー・チンは仏越合作政策に戻ります。この年の末には在
仏インドシナ人社会主義協会設立準備がすすめられ、ファン・
チャウ・チンが首席に予定されていたとのスパイ報告があったこと
が明らかになっています。

ファン・チュー・チンは「グエン・アイ・コック君に送る手紙」の中で、
ホーチミンの活躍に期待をかけると同時に自分の政治思想は
「人権の理論によって、士気民情を鼓舞する」と伝えています。

1924年(52歳)
フランスでは国会選挙で社共が議席を増やし、インドシナ総督には
社会党穏健派のヴァレンヌが就任します。

1925年(53歳)
ベトナムへ帰国し、11月には「君冶主義と民冶主義」「東西の倫理
と道徳」を講演します。

1926年(54歳)
3月24日にサイゴンで病死します。

4月4日
彼の葬儀にはサイゴンだけでなく全国から数千人が参列し、ベトナ
ムで最大の葬儀になりました。そしてフランスの植民地支配の終焉
を要求する大抗議が国内の至る所で起りました。この時に参列した
人々がベトナム独立の主要勢力へと育っていきます。

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お葬式は4月4日に行われました。場所は54、Pellerin
(現在のパスター (Pasteur)通り)

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現在も家屋(2階建ての長屋)は残っています。1階はスイスレスト
ラン「SWISS CHALET RESTAURANT」

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Phan Châu Trinh
ファン・チュー・チンの墓(ホーチミン市タンビン区)


サイゴンではベンタン市場の両側の道路に「ファン・チュー・チン
通り」と同時代の民族主義者「ファン・ボイ・チャウ通り」が並んで
名付けられています。


<ファン・チュー・チン幼年時代の家の跡>
クアンナム省タム.ロック村落に幼年時代をすごした60平方メート
ルの家の土台と、500平方メートルの蓮池、階段など、全部で
2000平方メートルぐらいが残っていて、全て竹林に囲まれていま
す。
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<ファン・チュー・チン直系の孫娘>
南ベトナム解放民族戦線のスポークスマン、南ベトナム共和国
臨時革命政府の外務大臣、ベトナム社会主義共和国副大統領の
グエン・ティ・ビン女史はファン.チュー.チンの孫娘です。
彼女の言葉「おじいさんの名声を傷つけないように生きてきました」

彼女が南ベトナム共和国臨時革命政府の代表としてパリ和平協定
にサインしました。

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協定書にサインするグエン・ティ・ビン


<ファン.チュー.チンの参考書>

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フランス人の銅像
フランスがサイゴンを直轄植民地としていた時代に、サイゴン
のロータリーには3人のフランス人銅像が立てられていました。


<1人目   メリン広場> 
「メリン」とは北ベトナム北西に位置する地名です。ベトナム
を建国したフン王(雄王)が統治した場所と推定されていま
す。

1859年2月18日、フランスはダナン攻略を諦め、ブンタオ
岬からサイゴン川を遡上し、現在のルネッサンス・リバーサ
イド・ホテルの前に上陸、ヤーロン(サイゴンの旧名)城を攻
め落としました。

フランス軍が上陸したこの場所は「メリン広場」と名づけられ
ていて、フランス・スペイン連合艦隊の指揮官であったリゴ
ール・ド・ジェヌイ(Rigault de Genouilly)の銅像が立てられ
ました。

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リゴール・ド・ジェヌイ

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<2人目   市民劇場前広場>
サイゴンを占領したフランスはメコン川を遡って中国の雲南
に行こうとしますが、探検によって不可能なことがわかり、北
部ベトナムの紅河の通行権を得る為にハノイ城へのを攻撃
を開始します。

この時の司令官が探検家でもあった海軍大尉フランシス・
ガルニエ(Marie Joseph François Garnier)で、彼は戦死し
ますが、後に北部ベトナムがフランスの保護領になる先陣で
した。

彼の銅像は市民劇場前の公園広場に建てられました。

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フランシス・ガルニエ

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<3人目   統一会堂前広場>
フランスがベトナムを植民地化していく時にフランス本国で
首相や外務大臣を勤めた政治家がレオン・ガンベッタ(Léon
Gambetta)でした。
彼の銅像は当初、ガンベッタ広場と呼ばれていたグエンフエ
通りのホーチミン市財務省のところに建てられましたが、財
務省建設のためノロドム宮殿(現在の統一会堂)前の広場
に移動しました。

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レオン・ガンベッタ

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ガンベッタ通りの銅像


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ノロドム宮殿前の広場


3人の銅像は1954年フランスがディエンビエンフーの戦い
で敗れて撤退後、すべて破壊されました。



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