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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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グエン・ティ・ミン・カイ 更新

11 )

Nguyễn Thị Minh Khai
本名 グエン・ティ・バイ(Nguyen Thi Bay)
生没年  1910年 - 1941年8月26日
誕生日には諸説があります。Hội Liên hiệp phụ nữ Việt Nam
(Vietnam Women's Union)によれば11月1日, Báo Đại đoàn
kết(The Great Unity)によれば、9月30日となっています。

ゲアン省ヴィン市ヴィンイェン村落の生まれ。
1930年から1940年にかけてのインドシナ共産党のリーダーの
一人。


父親グエン•フイ•ビン(Nguyễn Huy Bình)はハノイ生まれですが、
ヴィン市で公務員を養成する仕事をしていました。

母親ダウ・ティ・トゥ(Đậu Thị Thư)はハティン省ドゥックトー県ドゥ
ックトゥン村落の出身で中小企業に勤めていました。

1919年からクウォック・グー(現在のベトナム語)を学び、ヴィン
市のカオ・ソン・ズック(Cao Xuân Dục)学校に入学します。

1925年頃の先生はチャンフー(初代インドシナ共産党書記長)
でした。

1927年、労働運動に参加していたグエン・ティ・ミン・カイはチャ
ン・フーが中心となって創設した共産主義団体「新越革命党」に
参加し、執行委員会のメンバーになり、ゲアン省のベン・トゥイ
(Bến Thủy)村で党員の教育を行い、ファン・ボウ・チャウの恩赦
運動やファン・チャウ・チンの追悼大会に党員を動員していまし
た。  

1929年初め、グエン・ティ・ミン・カイは革命運動に専念する為
に家族と離れて暮らすようになります。

1930年 インドシナ共産党に入党し、宣伝活動担当になり、
ベン・トゥイ市場で共産党員の訓練をします

12

その後、香港に向かい、コミンテルン東方局でグエン・アイ・コック
(ホーチミン主席)の秘書をします。グエン・アイ・コックは直接、
彼女を教育し、グエン・ティ・ミン・カイは官憲からグエン・アイ・
コックを守る為に全力を注いでいました。

インドシナ共産党の成立後、1930年から1931年にかけてベト
ナムでは「ゲティン・ソヴィエト」と呼ばれる農民や勤労者を中心
にした労農政府の樹立を目指して、蜂起が頻発し、フランスは大
衆組織の蜂起に脅威を感じ始め、共産党員の大弾圧を始めま
す。

1931年、グエン・アイ・コックはタイに拠点づくりに行っていまし
たが、秘書をしていたグエン・ティ・ミン・カイは香港で逮捕され、
投獄されます。

1934年に釈放され、上海で合法活動していた時にレ・ホン・フォ
ンと出会い、結婚します。結婚セレモニーはアパートに同志2,3
人が集まったとても質素なものでした。(別項)

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1935年3月
夫のレ・ホン・フォンと共に1931年の大弾圧以来、壊滅的状態
にあったインドシナ共産党組織の建て直しに努め、第1回インド
シナ共産党全国大会をマカオで開催することに成功します。

この年の7月にモスクワで開催されるコミンテルン第7回会議の
インドシナ共産党の公式使節団にレ・ホン・フォンと共に任命され、
モスクワへ向かいます。

会議に出席したグエン・ティ・ミン・カイはレーニン婦人に会い、
グエン・アイ・コックにも再会します。
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(左)レーニン婦人 (右)がグエン・ティ・ミン・カイ

会議終了後、グエン・アイ・コックはグエン・ティ・ミン・カイを食事
に招いた席で、グエン・アイ・コックは、いずれベトナムに戻りたい
と話しています。

その後グエン・ティ・ミン・カイはモスクワの「東方勤労者共産大
学」(Đại học Phương Đông)で勉強します。

1936年、コミンテルンの要請でグエン・ティ・ミン・カイは「Năm
Bắc」という偽名でベトナムに帰還し、インドシナ共産党南部委員
会に属し、サイゴンーチョロン地区の書記を務めます。

夫のレホンフォンは1937年年末頃にベトナムに戻り、1938年
3月にはサイゴン近郊のホックモン(Hóc Môn)で開かれたインド
シナ共産党中央委員会に出席し、『インドシナ民主統一戦線』
(Mặt trận Dân chủ Đông Dương)の設立を決定します。

そして南部ベトナムでの反仏蜂起の組織作りをベトナムに戻った
夫と共に精力的に行います。しかし行動はお互いに別々に行っ
ていました。

しかしフランスの秘密警察は、夫レ・ホン・フォンとグエン・ティ・ミ
ン・カイが、その首謀者であることは知っていました。

1939年6月22日に夫のレホンフォンが逮捕され、9月にはグエ
ンティミンカイも逮捕され、サイゴンのカティナット警察に収容され、
投獄され、拷問されても彼女は外部と接触を図り、革命運動を指
導し続けます。

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第2次世界大
戦が始まります。フランス政府はインドシナに総動員令を発令す
ると共に、「インドシナ民主統一戦線」による活動も非合法とされ、
インドシナ共産党や革命勢力を戦争遂行上の邪魔者とみなして
再び大弾圧を加えます。

1939年10月11日 北部ベトナムのバクニン省のチュウソンで
共産党第7回中央委員会で南部委員会のファン・ダン・ルウは南
部蜂起を主張しますが、時期尚早として退けられます。しかし南
部ベトナムでは中央委員会の決定を待つことなく、蜂起の準備が
進んでいました。

1940年11月22日深夜から23日にかけて「南部蜂起」(ナム・
キー・コイ・ギア)と呼ばれる大規模な反仏蜂起がミトー省を中心
に南部ベトナム8省で一斉に起こりました。


15

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一斉蜂起にはフランス軍内のベトナム人兵士と貧農など約3千
人が立ち上がりました。

ベトナム人なら誰でも知っているこの大規模な反乱も10日後に
はフランス軍によって鎮圧され、20000人が逮捕されインドシナ
共産党の幹部はことごとく逮捕、処刑され南部の共産党組織は
壊滅状態になり、共産党員はメコンデルタ先端の「ウミンの森」に
たてこもり組織の再建にとりかかります。

グエン・ティ・ミン・カイの家族はヴィン市のQuang Trung Street
132に住んでいましたが、南部一斉蜂起が失敗に終わった
1940年末には母親の実家であるハティン省ドゥックトゥン村
(Đức Tùng)村に引っ越しました。

フランス植民地政府は彼女に死刑を宣告し1941年8月28日に
ホックモンの三叉路でVo Van Tan, Phan Dang Luu, Nguyen
Van Cuらと共に銃殺されます。

処刑の直前、彼女は囚人服を脱ぎ捨て「ベトナム共産党万歳」
(Đảng Cộng sản Việt Nam muôn năm!)と叫び、不屈の精神を貫
ぬき通しました。


<グエンティミンカイの子供と兄弟>
レホンフォンとグエン・ティ・ミン・カイには1939年に生れたグエ
ン・ティ・ホン・ミン(Nguyen Thi Hong Minh)と名づけられた一人娘
がいます。名前は両親の名前の一字をもらっています。

1954年に中国に勉学の為送られ、その後ソ連の大学で機械工
学を勉強して、ベトナムに戻ります。

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ソ連レニングラードへ留学中のグエン・ティ・ホン・ミン(1963年)

ベトナムに戻ってからは、ベトナム共産党の研究に従事し、
1976年からはホーチミン市共産党の組織委員会に在籍し、
1995年に引退しています。

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グエン・ティ・ホン・ミン

19 (2)
グエン・ティ・ホン・ミン。この姿は母親ゆづりかも



グエン・ティ・ミン・カイは3人兄弟で、グエンティミンカイの実妹,
グエン・ティ・クワン・タイ(Nguyễn Thị Quang Thái)はヴォーグエンザップ
将軍の最初の妻でしたが、ザップが1941年ベトミンを創設したため、
ザップの妹と共にフランス植民地政府に逮捕され、獄死しています。

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グエン・ティ・クワン・タイと若き日のザップ将軍

グエン・ティ・ミン・カイの実弟グエン・フイ・ズン(Nguyễn Huy Dung)
はチョーライ病院の副医院長を勤め、心臓の専門医です。
数冊の書籍が出版されています。

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グエン・フイ・ズン


<グエン・ティ・ミン・カイの記念物>

グエン・ティ・ミン・カイの道路名はベトナム各地にありますが、サ
イゴンでは統一会堂側面の道路名になっています。この道路は
以前は「ソヴィエトゲティン」(ゲティン省の評議会(ソビエト)))通
りと呼ばれていましたが、サイゴン陥落後はグエンティミンカイ通
りに改名されました。

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グエン・ティ・ミン・カイ通り

サイゴンのディエン・ビエン・フー通りには彼女の名を冠したサイ
ゴンの名門高校があります。

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グエンティミンカイ高校に建つ胸像

2012年11月23日、1940年11月23日のナム・キー・コイ・ギ
ア(南部一斉蜂起)を記念して、主導者であったグエン・ティ・ミン・
カイの記念切手が発行されました。

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サイゴン中央刑務所
仏語 Maison Centrale de Saigon
越語 Khám Lớn Sài Gòn(カムロン・サイゴン)
現在 Thư viện Khoa học Tổng hợp(総合科学図書館)
場所 69 Lý Tự Trọng, District 1, HCMC

現在のホーチミン市国家図書館(総合科学図書館)が建っている場所に
はフランス植民地時代に建設されたベトナムで最大のサイゴン中央刑務
所がありました。建設は1866年に始まり、1890年に完成しました。


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サイゴン中央刑務所

ホーチミン主席の独立宣言に「フランス植民地政府は学校より多くの刑
務所を建設した」とあります。

1917年フランス本国はこの刑務所に50Kgもある「ギロチン」の刃を運
びこみました。

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ギロチン

この刑務所にはフランス植民地時代に多くの政治犯が投獄され、処刑さ
れましたが、今でもベトナム人の心に残る歴史的な人物が2人います。

1926年 中国 広州で活動していたグエンアイ・コック(後のホーチミン
主席)の秘密連絡員をしていたリー・トゥ・チョンは1931年11月20日、
わずか17歳でギロチンにかけられました。

当時フランス植民地政府は男女とも16歳以上を成人とみなしていたので、
17歳になっていたリー・トゥ・チョンに減刑は適用されませんでした。

1930年にホーチミン主席の秘書をしていたグエン・ティ・ミン・カイ(女性)
はこの刑務所から南部一斉蜂起を指導しましたが、1941年8月に刑務
所外で銃殺刑になっています。

1954年、ディエン・ビエン・フーの戦いでフランス軍が敗北、撤退後しば
らくの間は、刑務所と言っても立派な建物だったので図書館として使用さ
れていたようですが、その後取り壊されました。

1955年、南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権の時、跡地に国立図書館
建設の構想がありましたが、実現せず延期されていました。

現在の図書館は1968年に刑務所の跡地にベトナム人建築家Bui
Quang HạnhとNguyễn Hưu Thiênが共同してデザインし1971年12月
23日に完成しました。

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総合科学図書館

概観はサイゴン病院と並んで、南ベトナムの気候に対応した建築デザイ
ンで有名です。

敷地面積は7070平方メートル、2練の建物で構成されています。1棟が
図書館、もう1棟が大学の研究機関が使用しています。

サイゴン陥落の1975年前は南ベトナム国立図書館(National Library)と
呼ばれていました。

1978年4月14日からはホーチミン市人民委員会の決定により、現在の
名称Thư viện Khoa học Tổng hợp (Genral Sience Library HCMC  
ホーチミン市総合科学図書館)と改称されました。

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前庭にあるサイゴン中央刑務所の歴史を刻んだ石碑

1931年、17歳でギロチンにかけられたリ・トゥ・チョンの胸像が図書館の
庭に置かれ、正面前の道路はリ・トゥ・チョン通りと改名されています。


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リ・トゥ・チョンの胸像

レ・ホン・フォン
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本名    Lê Văn Dục
別名   Lê Huy Doãn, Lê Văn Duyện, Lê Hồng Phong
      一般にはLê Hồng Phong として知られています
生没年  1902年9月6日―1942年9月6日
誕生地  ゲアン省フングエン県フントン村落(xã Hưng Thông,
huyện Hưng Nguyên, tỉnh Nghệ An)生まれ

インドシナ共産党第2代書記長
在位 1935年3月31日–1936年7月26日

家族   父Lê Huy Quán 母 Phạm Thị Sau
     妻Nguyễn Thị Minh Khai


貧乏な農家に生れ, 父は彼が少年の時に亡くなってしまいました。母は
彼に学校に行くことをしばしば薦め、母のお陰で学校でチュノム(漢字表
記のベトナム語)を学びます。その後、2年間フランス語を学びました。

1918年 16歳の時
彼は Lê Huy Doãnと改名し、家計を助ける為、ヴィン市にある問屋に
働きに出ます。しばらくして、Bến Thủyのマッチ工場に移りましたが、工
場での労働運動に参加した為、解雇され、それ以降は革命運動に専念
するようになります。

1923年1月
革命の道を探す為にPham Hong ThaiらPhạm Văn Tích村の10人の
若者と秘密裏にタイに向かい、その後、中国の広州に行きました。

広州で彼は抗仏組織「タムタム社」(Tâm Tâm Xã)を, Ho Tung Mau,
Le Hong Son, Pham Hong Thai, Lam Duc Thuらの同士と共に設立し
ます。

1924年
グエン・アイ・コック(ホー・チ・ミン主席)がソ連の秘密工作員ボロディン
の通訳として広州に赴任してきました。

レ・ホン・フォンは広州で同士のLê Hồng Sơn、Lê Quang Đạtらとグエ
ン・アイ・コックに出会います。
グエン・アイ・コックとの出会いはレ・ホン・フォンにとって最大のターニン
グポイントになり、グエン・アイ・コックが最も信頼する協力者になります。

レ・ホン・フォンはグエン・アイ・コックが主宰する「共産主義トレーニング
スクール」の開校に向けて尽力し、スクール運営の重要なスタッフになり
ます。

1925年6月21日
レ・ホン・フォンはグエン・アイ・コックとの話し合った結果、「タムタム社」
の精鋭部員を中心にして「ベトナム青年革命同志会」
(Việt Nam Thanh niên Cách mạng Đồng chí Hội)を創設し、
中核9人のうちの1人となります。

1925年夏
グエン・アイ・コックの指示で彼とLê Hồng Sơn, Lê Quang Đạtは
「黄埔軍官学校」に入学します。1年後レ・ホン・フォンはソ連の空軍パイロット
の養成機関であった広州の空軍学校(Trường Không quân Quảng
Châu)に配属されました。

1926年2月
グエン・アイ・コックの紹介で中国共産党に入党します。

1926年10月から1927年10月まで
ソ連のレニングラードで軍事理論を学び、12月から翌年1928年11月
まで、ソ連のボリソグレブスクでエアーフォース2に参加します。

1928年12月から
コミンテルンの「東方勤労者共産大学」に入学し、卒業後、中佐となり、
紅軍(ソ連の共産党軍(Hồng quân Liên Xô)に参加します。

1930年から1931年
1930年に設立された「ベトナム共産党」(すぐにインドシナ共産党と改名
されます)の指導によって、「ゲティンソビエト」(労農者政府)樹立の為の
ストライキや蜂起が各地で頻繁に発生しました。
フランス植民地政府は大衆が主体となった氾濫に脅威を感じるようにな
り、大弾圧を始めます。

1931年
チャン・フー、グエン・ティ・ミン・カイ、グエン・アイ・コックらインドシナ共産
党中央委員の全員がフランス当局の指示によって、ベトナム国内や香港
で逮捕されてしまい、インドシナ共産党は壊滅的状況に陥ります。

1931年後半
レ・ホン・フォンはコミンテルンの指示でVương Nhật Dânと名前を変え中
国に入国します。

1932年6月
インドシナ共産党はコミンテルンの承認の下に活動指針を作成します。

1934年
レ・ホン・フォンは中国で活動している同志Ha Huy Tap, Nguyen
Vanover, Nguyen Van, Tran Van Chanらに会うために上海に向かいま
す。
そして6月16日から21日まで,コミンテルンの指導に従って、同志と
ベトナム国外に「インドシナ共産党指導委員会」を設立し、その委員長
となり,ベトナム国内で離散した党組織の再統一にあたります。

香港で逮捕され、この年1934年に釈放されたグエン・ティ・ミン・カイも
また上海で活動していました。2人は恋に陥り、結婚します。

1935年3月
レ・ホン・フォンはインドシナ共産党第1回全国大会をマカオで開催するこ
とに成功します。この大会でレ・ホン・フォンは党書記長に選出されます。
レ・ホン・フォンはインドシナ共産党のコミンテルン代表として、恩師のグ
エン・アイ・コックを指名します。

1935年7月
モスクワで開催されるコミンテルン第7回大会に党の代表使節団を率い
て会議に参加します。グエンティミンカイも代表団の一人となります。コミ
ンテルンはインドシナ共産党を公式な支局として認め、レ・ホン・フォンを
コミンテルンの常任委員会のメンバーとして選出します。

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コミンテルン第7回大会のIDカード(名前は Hai Anという偽名です)


1936年1月
7月に上海で開催されるインドシナ共産党中央委員会に出席する為、
上海に向かいます。

1937年11月10日
ベトナムに戻るため、「La Britain」と偽名を使います。

1938年3月
サイゴン近郊のホックモンHóc Mônで開かれたインドシナ共産党中央
委員会に出席し、『インドシナ民主戦線』(Mặt trận Dân chủ Đông
Dương)の設立を決定します。

1939年6月22日
フランス植民地政府によりサイゴンで逮捕され、6カ月の懲役刑、3年間
の保護観察処分に付されます。

故郷のゲアン省で保護観察を受けているときも、共産党の機関紙に投
稿し、革命運動の精神は活発でした。
第2次世界大戦が欧州で勃発するとフランスはベトナム人民に総動員令
を発します。

1940年2月6日
レホンフォンはゲアン省を離れようとしましたが、官憲に捕まり、サイゴン
の「カティナット警察」に移送され、5年間の懲役刑、10年間の保護観察
を宣告され、コンダオ島の監獄に収監され拷問されます。

1942年9月6日正午
コンダオ刑務所で拷問によって衰弱しきっていたレ・ホン・フォンは、配ら
れた飯の器で頭を殴られ、血の滴った飯を静かに食べ同志に言います。
革命の勝利を信じていた彼の最後の言葉は「同士諸君! ありがとう」
だった。この日は彼の満40歳の誕生日でした。

2012年9月6日午前
ゲアン省ビン市で、ベトナム共産党第2代書記長だったレ・ホン・フォン生
誕110周年を記念する式典行われました。式典には、グェン・フー・チョ
ン共産党書記長をはじめとし、ベトナム共産党と政府の指導者、老革命
家ら多数が参列しました。

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式典で、グェン・フー・チョン共産党書記長は「生前、レ・ホン・フォン氏は
ホーチミン主席の優れた生徒の一人であり、才能ある指導者で、祖国の
独立、自由と国民の幸福のため犠牲になりました」と語りました。


レ・ホン・フォンとグエン・ティ・ミン・カイとの間にはLê Hồng Minhと名づ
けられた娘がおり、ソ連の「東洋勤労者大学」で勉強した後、ベトナム共
産党のために働き、1995年に引退しています。

闘鶏

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鶏と鶏が戦う闘鶏は、東南アジアでは古くから行われていて、
タイの軍鶏がよく使われていましたが、現在では世界各地に
広まっています。

発祥地は中国で唐の玄宗の時代に皇帝が酉年だった為、
清明節(4月初め頃)に催したのが始まりだそうです。

日本では平安時代の頃より鶏合(とりあわせ)と呼ばれ宮中や
貴族の間で3月3日に行われていましたが、平安後期には、
さらに庶民の間にも広く親しまるようになりました。
しかし庶民の間で賭の対象とされることが多くなり、明治時代
には法的に禁止されてしまいました。

サイゴンの繁華街では見かけませんが、ティサック通りでたま
に見ることが出来ます。賭けはやっていません。ベトナムでは
国営の競馬を除いて賭け事は基本的に禁止ですから、路上で
闘鶏をして賭けをしていると、鶏はきっと公安に無条件で没収
されてしまいます。

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戦闘開始

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赤の勝ち

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戦闘終了

ベトナムの伝統版画

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紀元前にはじまるベトナムの長い歴史で、中国との攻防を繰り
返してきたベトナムは、中国の政治制度を取り入れながら、庶
民は文化面においても中国からさまざまな影響を受けていま
す。

厄除け、家内安全、招福の目的でテト(旧正月)に家庭で飾ら
れる民間伝承の木版画、「ドンホー版画」もまた中国からベトナ
ムに伝えられたものです。

伝承時期については中国の宋の時代、あるいは明から清の時
代にかけてと諸説があり定かでありませんが、17世紀から18
世紀頃に隆盛期を迎えました。

<ドンホー村>
「ドンホー版画」はベトナム北部のバクニン省ドンホー村(ハノ
イ東方約26km)で製作されている版画で、昔は村全体が版画
作りをしていましたが、現在では人口約2000人のうち約50
人が版画製作に関わり、版画刷りだけで生計を立てている家
は2軒のみとなってしまったそうです。

<ドンホー版画の製作>
現在はほとんどが新年の飾りとして使われるため、題材はお
めでたい絵柄が多く使われますが、日常生活、風物詩、風刺
など多種多様あります。
手すきの紙、「ディエップ」は中国との国境周辺に自生するゾー
と呼ばれる樹木から作られ、色合も植物から採った4~5色の
天然素材で手刷りされます。

版画で使われる漢字は「チュノム文字」で絵柄を説明する言葉
や風刺的な言葉が添えられています。


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レホンフォン高校
建設時   ペトリュス・チュオン・ヴィン・キー高校 
       (Petrus Trương Vĩnh Ký High School)
現在    レ・ホン・フォン高校  
    (Lê Hồng Phong High School)
場所    グエン・ヴァン・クー(Nguyễn Văn Cư)通り  
 
11
  
1925年にフランス植民地政府により建設が許可され、1927年
11月28日にチョークワン(Chợ Quán)に仮校舎が建設されまし
た。


12
建設中のペトリュスキー高校1


13
建設中のペトリュスキー高校2

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ペトリュスキー高校の正門

全校舎は1928年に完成し、8月11日にレウィドン高校から20
0名が移ってきました。

15  1931年
1931年ペトリュスキー高校の校庭

16  1931年フィリッピン代表団の訪問
1931年2月、フィリピン政府の代表団が見学に訪れています


第2次世界大戦中に一時的に移動したり閉鎖されたりしましたが、
1946年4月に再開され、1947年にはチョークワンに戻ってき
ました。

17-1  1931年
1947年の校舎

18-2 (400x244)
校舎の中庭

1961年にベトナム人を教育する学校になりました。

南北統一後の1976年にベトナム共産党書記長を務めたレホン
フォンに因んで、レホンフォン高校と改名されます。
レホンフォン高校の優秀な学生はベトナム共産党青年部員とな
っています。

1990年にはレホンフォン高校は他の高校とは違って、英才教育
をするクラスが設置され、基礎科学、社会科学、言語分野で特異
な才能を持った学生を授業無料で受け入れています。

<学生の政治活動>
1949年、ペトリュスキー高校の学生は先生や家族、サイゴンの
他の高校生と団結してフランス植民地政府の政策に抗議する集
会に参加した為、学校は閉鎖され、多くの生徒が逮捕されまし
た。

1950年1月9日、ペトリュスキー高校の学生も含めてサイゴン
の高校生20000人がフランス植民地政府の教育省や総督府前
での抗議集会に参加します。政府はデモ隊を排除しようとしまし
たが、群集は50000人に膨れ上がりました。

警官は発砲しはじめ、ペトリュスキー高校のチャンヴァンオン
(Tran Van On)が射殺されました。

19  Tran_Van_On
チャンヴァンオン

3日後、彼の葬儀のための集会が開かれ、ミトー、カントー、ハノ
イからも参加者が集まり1926年のファンチュウチンの葬儀を超
える大集会となりました。

20
黒いリボンをつけて集会に参加する学生達

21
校舎の前に集まった会葬者

1954年7月14日、ベトナムの南北分断後、ペトリュスキー高校
生はジュネーブ協定を支持するスローガンを学校の壁や黒板に
書き、独立と民主を要求する運動を開始します。

1955年3月30日、南ベトナム政府軍とマフィアのビンスエンと
の交戦時にペトリュスキー高校はビンスエンの基地になりまし
た。

1970年ペトリュスキー高校生はカンボジアのロンノル政権がカ
ンボジア居住のベトナム人虐殺したことに抗議して、デモを敢行
し、カンボジア大使館を占拠します。 

1972年、ペトリュスキー高校を卒業したグエンタイビン
(Nguyen Thai Binh)はアメリカで勉強していましたが、アメリカの
ベトナム反戦デモに参加し、ニクソン大統領を非難する手紙を書
きました。 強制退去処分を受けた彼はベトナムに帰還するため
に乗せられたパンアメリカン航空機がサイゴンに近づくと、航空機
をハイジャックしようとして射殺されました。

1975年4月30日南ベトナム解放民族戦線のチャンヴァンチャ
(Trần Văn Trà)将軍はペトリュスキー高校を基地にした為、学
校は1975年7月まで閉鎖されました。

22
2012年9月4日、グェン・タン・ズン首相はレ・ホン・フォン高校の
新学期始業式に出席しました。


<映画の舞台>
マルグリット・ドユラス(Marguerite Duras)の小説『愛人/ラマン』
はサイゴンの高等学校へ通うフランスの下層階級の少女が主人
公で、レホンフォン高校が映画撮影の舞台になりました。

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マルグリット・ドユラス


<校名の由来>
24     (317x400)
レ・ホン・フォン

生没年 1902年9月6日―1942年9月6日
インドシナ共産党第2代書記長 
    1935年3月31日–1936年7月26日
妻はグエンティミンカイです

グエンティミンカイ高校

植民地時代  Áo Tím all-girls school
現在       Nguyễn Thị Minh Khai High School
場所   ディエンビエンフー通り

グエンティミンカイ高校は「Áo Tím all-girls school」として知られ、
1915年に設立された女子高校です。

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1918年の校舎正門


<学校の歴史>
20世紀の初め、ベトナムの儒教は女性に対してあまり重要性がなく
なっていました。

1908年 数人の知識人はフランス植民地政府に対して、女性の為
の総合教育をする学校の建設を提言しました。建設は了承されまし
たが資金不足のため、1913年になって、現在のディエンビエンフ
ー通りの土地に建設が始まります。

校舎は1915年に完成し、当時のインドシナ総督であった
Ernest Nestor Roumeとサイゴンの知事だったCourbeilが開校式
のテープを切り、新学期の開始を宣言しました。最初の学生は42名
でした。

制服がバイオレット色のアオザイだったので、学校はÁo Tím
(Violet Dress) all-girls schoolと呼ばれました。

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多くの学生はサイゴン在住でしたが、郊外に住んでいる人のために
寄宿舎が用意されていました。

フランス人運営の学校でしたが、1920年ごろから植民地支配に反
抗する気概が醸成されていきました。

1922年、単科大学が増設され、校門の前に"COLLÈGE DES
JEUNES FILLES INDIGÈNES" (College of indigenous girls 先住民
族の女子大学)と書かれた大理石の石碑が建立されました。

単科大学の1年生からはフランス語が公式の言語として教えられ、
ベトナム文学の授業は週に2時間しかありませんでした。

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1925年の校舎

1941年に南ベトナムに進駐した日本軍によって校舎が使用された
ため、学校はタンディン(Tân Ðịnh)地区に移動し、校名もLycée
Gia Longと変更されました。

1945年にはベトミンを助ける為、多くの女子学生がベトミンにクオ
ックグー(ベトナムの国語)を教えたり、北部ベトナムでの飢餓支援
を行ないました。

1950年、学校はディエンビエンフー通りに戻り、校長はベトナム人
になります。

1953年、制服はドレスに黄杏の花刺繍紋章が付いた紫色アオザ
イから白いアオザイに変更され、フランスの教育カリキュラムからベ
トナム人の為の教育に少しずつ変わっていきます。

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制服は白のアオザイになりました

1965年の学生数は、午前、午後を合わせて100クラス、3000人
近くになりました。

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1969年

1975年、サイゴン陥落後、校名はグエンティミンカイ高校(Nguyễn
Thị Minh Khai High School)と改名されます。

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1978年からは男女共学となりました。

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2003年、グエンティミンカイ高校の校舎は政府により保存すべき
55の建築物のひとつに指定されました。

2011年、外壁を塗りなおしてきれいになりました。

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現在の校舎には図書館もプールもあります。

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図書館に通じる廊下

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<校名の由来>

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グエンティミンカイ

生没年  1910年-1941年
1930年から1940年にかけてのインドシナ共産党のリーダ
ーの一人。



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