べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ベトナムの楽団
サイゴンに住んでいてオーケストラを聴こうと思ったら、年に数
回開催される市民劇場での開催を見逃すとチャンスを失います。
クラシック音楽に関してはベトナムはまだまだ後進国です。

昔からサイゴンには庶民が楽しめる劇場などなかったので、祝
日などには劇団が金持ちのスポンサーをつけて路上で出張演
奏します。

現在でも数件の劇場しかありません。

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出張公演の楽団1

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出張公演の楽団2

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出張公演の楽団3

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楽団の出張は台車がトラックに変わっただけで現在でも続いて
いて、新年や旧正月には路上で演奏します。

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この商売をしているのは華人です。


16
ベトナムの伝統的なオーケストラは4-5つの楽器で構成され
ます。

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ベトナムのカジノ 更新1
ベトナムにカジノを持ち込んだのはフランス人で、楽しめたのは
勿論サイゴンに来た外国人だけでした。
現在でもカジノは外国人だけに認められており、ベトナム人には
禁止されています。入場するにはパスポートの提示が必要です。

現在のレロイ通りには「バクダン」というアイスクリーム屋さんが
あります。日本の旅行雑誌でも取り上げられている有名店ですが、
お味はお金を払っても食べたいというほどではありません。

11  BACH DANG )

しかしこの「バクダン」アイスクリーム屋さん、歴史的には由緒あ
る場所なのです。

フランス植民地時代に建設されて、フランス人をはじめとする外
国人が楽しんでいた場所です。

12  1920ダカオ
1920年、レロイ通りとパスター通りの交差点にあったカジノ

フランスの撤退後、ベトナム共和国(南ベトナム)が建国されても、
健在でしたが、そのころは「ビンスエン」というヤクザ集団が取り
仕切っていたようです。


もうひとつ、サイゴン郊外ダカオにもカジノがありました。

13  1917年 ダカオ)
1917年のダカオもカジノ


<現在のベトナムのカジノ>

ベトナム国内法でディラーのチップの取り扱いが禁止されている
為、タッチパネル式でルーレット、ブラックジャック、バカラなどを
楽しむので、ゲームセンターと同じ感覚です。

カジノはヴェトナム各地の主要都市の5つ星ホテルに付属してあ
りますが、近年は人民委員会から指導や営業停止処分を受ける
例が多くなっています。

<現在サイゴン中心街で営業している主要なカジノ>

①ビンゴクラブ(ファーストホテル内)
②ビンゴクラブ(レックスホテル内)
③ロイヤル(マジェスティクホテル内)
④クラブベガス(カラベルホテル内)
⑤パラッツオクラブ(シェラトンサイゴン内)
⑥インターナショナルツーリストクラブ(ニューワールドホテル横)
⑦パルム(グランドホテル)

サイゴン総合病院
Bệnh Viện Đa Khoa Sài Gòn

ベンタン市場の斜め前、鉄道管理局の隣にあるサイゴン総合病院
もフランス植民地時代に建設された市民の総合病院です。
しかし、利用できたのは上流階級のベトナム人で、庶民は漢方薬な
どベトナムの伝統的医療に頼っていたようです。

11_20121026184058.jpg


ベトナム戦争中には日本人医師も勤務していました。

建築学的には現在の総合科学図書館を並んでベトナムの気候を
考慮した傑作とされていますが、現在では老朽化が激しく、改築
のウワサがあります。

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現在のサイゴン病院。実際は写真より老朽化していて、とてもこの
病院で診察してもらいたいとは思いません。

市民劇場 更新1
Nhà Hát Thành Phố
オペラハウス、人民劇場

10 (1)
現在の市民劇場

ドンコイ通りとレロイ通りの交差点にある市民劇場は,建築計画は
1895年ぐらいからあったようですが、完成したのは1900年でした。
バロック様式の 劇場です。夜間は毎日ライトアップされ,ホーチミン
市観光の出発点としての目印的存在となっています。

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ライトアップ 1

10 (3)
ライトアップ 2

建築は当時のフランスの都市計画、「ビスタ」と呼ばれる手法で、
埋め立てられたレロイ通りの終点にあたる位置に建設されました。

10 (4)
道路の行き止まりに目印的存在として建築されます。「ビスタ」


10 (5)
建設当初

10 (6)
鳥瞰図

建物はフランス人の建築家フェレ(Eugene Ferret)の設計で、正面
部分に施された彫刻装飾や室内の調度品はフランス本国から運ば
れてきたものです。

10 (7)
正面玄関

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来客を迎える女神像 1

10 (9)
来客を迎える女神像 2

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左右の彫刻 1

10 (11)
左右の彫刻 2


10 (12)
中段の装飾

10 (13)
最上段の装飾

左右の庭には「横笛を吹く少年」と「バイオリンを引く少女」の
ブロンド像があります。

10 (14)

10 (15)


完成後は母国の文化の香りを懐かしむフランス人がシクロ、人力車
で市民劇場前を散歩している写真がたくさん残っています。

10 (16)
正面はコンチネンタルホテル、劇場正面道路は現在の
ドンコイ通りです


1906年には正面入り口前の広場にフランスの海軍将校でコーチシ
ナの割譲をベトナムのグエン王朝に認めさせたフランシス・ガルニエ
の像がフランスから運ばれ、建立されましたが、フランス撤退後、
撤去されました。 

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ガルニエ

10 (18)
ガルニエ像 1

10 (19)
ガルニエ像 2


第2次世界大戦中は閉鎖され、1943年、日本軍進駐の時代に
室内の調度品はどこかに移動されてしまいました。

10 (20)
入口には日本とフランスの国旗が掲げられています。


1946年、第2次世界大戦終了後、修復して再オープンします。

1954年フランスの撤退に伴い、南ベトナム政府の議会として使用
するため、外部の装飾が取り払われ、内部も簡素化されました。

1955年から1975年のサイゴン陥落までは南ベトナム政府の
下院議会として使用されます。

10 (21)
下院議会 1

10 (22)
下院議会 2


ベトナム戦争中には南ベトナム軍の兵士の像が下院議会として
使われている市民劇場の前に建てられましたが、議会に銃を向け
ているとして不評でした。1975年のサイゴン陥落後、すぐに破壊
されました。

10 (23)
兵士の像

10 (25)
現在は母子のオブジェになっています


1968年、北ベトナム軍のテト攻勢より、右側屋根が損傷してしまい
ます。

10 (24)
テト攻勢による被害

1975年以降、臨時の修復がなされ再び市民劇場となりました。



1995年にはホーチミン市の市制300年の記念行事(1998年施行)
に向け、多くの歴史家と建築家の努力で「玄関前の裸体の白い
像、壁面の彫刻、花崗岩の床、シャンデリア、ブロンズの像」などが
原型に復元されていきました。

市民劇場は普段は入場不可ですのでコンサートがあるときなどに
チケットを買って入場しないと内部は見学出来ません。 1800席
あります。

植民地時代の食事風景
基本的にベトナムは箸文化ですが、現在の都市部では箸に
加えてスプーンが使われています。
箸だけしか使わない食事文化は「日本独自」の文化だそうで
す。

フランス植民地時代の庶民の食事風景です

11

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サイゴンの美術博物館に行くと、大金持ちの食卓が展示さ
れています。

サイゴンカルメル会修道院
Đan viện Cát Minh, Saigon
場所 トン・ドゥック・タン通り 33

サイゴンカルメル会修道院は1861年に創設された東洋で最初の女性の
修道院です。

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カルメル会修道院

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内部のホール

13
礼拝室

14   (400x293)
内部の彫刻物

1844年、フエで投獄されていたサイゴンのルフェーヴル(Lefebvre)司教は、
1849年に釈放されるとフランスのノルマンディー地区リジューの街
に住む従姉妹Philomeneにサイゴンに修道院を建設するよう手紙を書き
ます。

Philomeneは賛成しましたが、ベトナムでのカトリックへの迫害が小康状
態になるまで待つよう返事を書きます。

そして1961年7月1日、Philomene他3人のカルメル会修道女がカトリッ
クの聖地のひとつであるリジューの街を出発し、3ヶ月の航海を経て
1861年10月9日にサイゴンに到着します。

グエン王朝の皇帝トゥドゥックはこの年の2月初めに. Theophane Venard
slashed司教を斬首にし、キリスト教弾圧を一層強めていましたが、
修道女達はサイゴンに最初のカルメル会修道院を創設します。

修道女はサイゴンに到着して数日後、ルフェーヴル司教が修道院を造り
たいと思った土地を見に行きました。そこは現在のセントポール教会の向
かい側にありました。

建設された最初の修道院は木造作りの小さなものでしたが、1962年に
はサイゴンの女性も修道院に参加するようになります。
しかし、この修道院の礼拝堂は嵐で破壊されてしまい、あらたな修道院を
建築するため、建設資金をフランスのカルメル会に依頼します。

1967年10月8日、新しく建築される修道院の礎石がJean Claude Miche
司教によって置かれ、1876年12月9日に彫刻物も含め、新しい修道院
が完成します。

修道院は中庭をブロック塀で囲んでいて、フランスのカルメル修道院を
真似て造られていますが、内部の礼拝堂はベトナムの建築要素が取り入
れられているそうです。

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中庭 1

16   (400x247)
中庭 2

17
中庭 3

シャルネ通り(グエンフエ通り)
植民地時代  シャルネ通り(Charner)
現在 グエンフエ通り(Nguyễn Hue)

10 (1)

ホーチミン市人民委員会から一直線にサイゴン川のメイン桟橋に
延びるグエンフエ通りはフランス植民地政府が最初に開発した埋立て
道路で、サイゴン川に向かって左側はドンコイ通りに沿ってすでに
建設された建物があったので、右側に新しい建物を次々と建設しま
した。
なおグエンフエの発音は南部ベトナムでは「ウィンウェ」となります。
「グエンフエ」ではまったく通じません。

<通りの右側に建設されたフランス植民地時代に建造物>

1.  ホーチミン市人民委員会
10 (2)
ホーチミン主席の銅像は南北統一後です。

2.  レックスホテル
10 (3)
建設当初はガレージでした。


10 (4)
現在のレックスホテル

3.  国営デパート
10 (6)
建設当初

10 (7)
現在の国営デパート

4.  キムドーホテル
10 (8)
現在のホテル
フランス植民地時代には「KIMDO INTERNATIONAL」と呼ばれ、
外国人専用のホテルでした。

5.  調停裁判所(現在スンワタワー)
10 (9)
調停裁判所

10 (10)
現在のスンワタワー

6. 旧ベンタン市場(旧インドシナ財務局、現在ホーチミン市財務局)

10 (11)
旧ベンタン市場。火災のため焼失し、現在の場所に移転しました。

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現在のホーチミン市財務局

7.  ホーチミン市税関
10 (13)
1900年当時の税関


10 (14)
現在の税関

8.  観光用埠頭
10 (15)
現在の埠頭

10 (16)
昔の埠頭の名残です。


<グエンフエ通りの歴史>

<運河であった時代>
10 (17)
1866年の写真

10 (18)

10 (19)

10 (20)


<埋立直後>

1868年からフランス植民地政府は沼地や運河の埋立てを始めま
した。
グエンフエ、レロイ、ハムギ、パスター通りと次々に埋め立てていき
ます。

10 (21)

10 (22)
左下の階段が今でも残っています。よく探検しないと発見できませ
んが。

10 (23)
引き潮の時にはもっとよく見えます。


10 (24)
7月14日、フランス建国記念日のグエンフエ通り 

10 (25)
1908年のグエンフエ

10 (26)
1909年のグエンフエ


<埋立後の道路整備>

10 (27)
右側建物は税関です

10 (28)
1911年の写真。正面にトレビュー号(Amiral Latouche Tréville)が
停泊しています。後のホーチミン主席が救国を胸にフランスへ旅立
った時に乗った貨客船です。

ホーチミン主席はニャロン桟橋(現在のホーチミン主席記念館、昔
のドラゴンハウス前の桟橋)から旅立ったとされていますが、それは
史実ではなく、実際はグエンフエ通り突き当りの、この桟橋から旅立
ちました。

この写真の説明にもニャロン桟橋ではないと書かれています。
Năm 1911 anh phụ bếp Văn Ba rời Việt Nam từ bến này
chứ không phải từ bến Nhà Rồng


10 (29)
当時の船会社各社の桟橋


10 (30)
中央奥に現在のホーチミン市人民委員会が見えます。
フランスの都市計画手法「ビスタ」によって都市が建設されているの
がわかります。

10 (31)
道路に分離帯が出来、車が走るようになります。

1890年代の後半、フランス海軍の楽団はグエンフェ通りのサイゴ
ン川の近くで夕食後のコンサートを週に1回開いていました。

フランスの居住者はサイゴン川のさわやかな風を受けながら、カフ
ェやベランダから通りを散歩する人々を眺めながらコンサートを楽し
んでいました。

10 (32)
オーペンエアーのカフェレストラン

10 (33)
上の写真の場所には現在 「KITA Cafe Shop」があり、店内に
は上記の写真が飾ってあります。


<南北統一後>

10 (34)
1979年の写真

10 (35) (400x264)
1979年のメーデー

10 (36)
2011年(テト旧正月)のグエンフエ通り。フラワー道路に
なります。

10 (37)
2011年 グエンフエ通りに昔の道路名をつけたカフェ&レストランが
オープンしました。

パスツール研究所
Pasteur Institute

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Louis Pasteur

サイゴンのパスツール研究所はパスター(パスツール)通りの終点に
あります。

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パスツール研究所

フランスの著名な化学者であり細菌学者であったパスツール(Louis 
Pasteur)の研究所は1891年、彼のアシスタントであったカルメット
(Albert Calmette)によって建設され、現在もその機能を発揮していま
す。

パスツール研究所は世界各地に32の支所がありますが、ベトナムに
はサイゴンのほかにニャチャンにある研究所が古くから有名です. ニャ
チャンのパスツール研究所はペスト菌の発見で有名なフランス人医師
ヤーシンによって建設され、研究所の壁にはヤーシンの名が刻まれて
います。

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ベンゲ運河 更新1

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整備がほとんど終わった現在のベンゲ運河

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ベンゲ運河の位置

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フランスがサイゴンを植民地にする前からベンゲ運河はサイゴ
ンとチョロンを結ぶ重要な水路でした。

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1865年 ベンゲ運河を行くサンバン

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1882年 ベンゲ運河を行くサンパン


<中国人埠頭>

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1886年 サイゴン川からのベンゲ運河の入口(左側) 中国人
埠頭(Arroyo Chinois)と呼ばれていました。

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ベンゲ運河の入り口、中国人埠頭です

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中国人埠頭(Arroyo Chinois)
中央やや右の建物は商工会議所です。

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中国人埠頭の向かい側。 右上はドラゴンハウス、現在のホー
チミン主席記念館です。


<タウフー埠頭>

ベンゲ運河はチョロン地区に入るとタウフー(Tau Hu)運河と呼
ばれました。

20_20121007205904.jpg

タウフー運河
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タウフー埠頭 1


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タウフー埠頭 2

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タウフー埠頭 3


<チョロン埠頭>

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チョロン埠頭。 右側には精米所が並んでいます。


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1926年 チョロン埠頭での米の積出し

メコンデルタで収穫された米はチョロンに集荷され、チョロンの
精米工場で精米されてから、運河を小船(サンパン)でサイゴン
の中国人埠頭に送られ、ハムギ通りとトンドゥックタン通りの交
差点にあるフランスのインドシナ政府が運営する税関で税金を
払ってから各地に運送されていいました。

第2次世界大戦中には、米不足の日本にも「外米」として、商社
の三井物産を通じて、ここから米が日本に輸出されました。


フランスの植民地になってから、サイゴンーチョロン間には鉄道
と2本の市電が走るようになり、まさにサイゴンの商業を支える
大動脈に発展していきます。

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チョロンへ向かう途中には陶器村がありました

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チョロン鉄道駅

28_20121007210927.jpg
蒸気機関車から電車へと進化していきます。

バソン造船所
Xí nghiệp Ba Son
場所 2 Tôn Đức Thắng, quận 1, thành phố Hồ Chí Minh.

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現在のバソン造船所 1

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現在のバソン造船所 2

バソン造船所はベトナムの第2代大統領、トンドゥックタンが働いていた
工場で、1915年から1928年にかけて、トンドゥックタンが中心になっ
て南ベトナムで最初の労働運動が発生した歴史的場所です。

19世紀の初めにはサイゴン川(当時はBinh Tri川と呼ばれていまし
た)にそった現在のバソン地域には、いろいろな技能を持った職人が集
まり、船の修理、銃や大砲の製造をしており、フランス海軍の兵器廠に
なっていました。

13
フランス海軍兵器廠の入口。1928年


1863年、フランス政府は兵器廠の奥に造船所を建設します。

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右側が造船所の建物です

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バソン造船所での「Albert Sarraut」の進水式(全長85m)

16 係留ドッグ
造船所の係留ドック

1956年12月9日、ディエンビンフーの戦いで大敗したフランス植民地
軍がベトナムから引き上げ、バソン造船所は南ベトナム政府に引き渡
されます。

1975年のサイゴン陥落後はベトナム社会主義共和国の国防省が管
轄します。

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現在のバソン造船所の正門

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造船所の事務所棟。左側に大砲が飾られています。

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造船所側面の従業員の出入口


1906年2月20日、フランス政府はバソン造船所で働く技術者を養成
することを主な目的としてサイゴンにアジア地域の機械技術専門の学
校を設立します。学校の名称は「Eecole des mecaniciens Asiatiques de
Saigon - Cao Thang Technic」、現在の「カオダン技術大学」です。

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カオダン技術大学

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技術実習はバソン造船所の工場で行われました。

ホーチミン主席もフランスへ旅立つ直前3か月間、この学校で勉強しま
したが、フランスへ向かう貨客船で得た仕事は「厨房補助人」でした。

フランス植民地軍 陸軍病院

NAVAL HOSPITAL
改称後 THE GRALL HOSPITAL-SAIGON
現在  BENH VIÊN NHI ĐONG 2


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現在の病院正面

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病棟

タイバンルン通りの終点でリートゥチョン通りとの三叉路にニーヨンという
小児科病院があります。もしベトナム語が全く読めなかったら、とても病院
とは想像しません。緑いっぱいの広大な敷地の中にはフランスコロニアル
建築物がたくさん残っています。


<コロニアル建築の病院建物>

13).jpg

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ベトナムでは完全看護がないので、家族が寝泊りしたりして看護している
そうで、病院内には食堂もスポーツ施設もあります。

病室はすべてが個室のようでした。健康保険を持っていれば、自己負担
はゼロです。

しかしベトナムの医療技術はまだまだ低く、高度医療が必要な場合には
タイかシンガポールに移送されます。海外障害保険に加入しているか、
現金を持っていないと移送も出来ないので、死んでしまいます。ツケはき
きません。

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祈りの場所もあります

この病院にはなぜかイエロータクシー(Vinataxi)のみが入れる特権を
持っています。  


<ニーヨン病院の歴史>
1862年6月 フランスは第1次サイゴン条約を結び、南部ベトナムを
植民地にした際、政府が最初に必要だったのは郵便局と病院とでした。

ニーヨン(Nhi Dong)病院は1867年工事が開始され、1873年に
完成しました。完成当初は「Naval Hospital」と呼ばれ、フランス軍隊
と政府要員のための病院でした。建築材料はすべてフランスから運ば
れましたが、多くは中古の資材でした。

17_20121001193915.jpg
完成した陸軍病院 1

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完成した陸軍病院 2

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完成した陸軍病院 3

20 (400x254)
フランス建国記念日

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警備兵

1905年、主任医師だった Grall医師は病院をベトナム人にも開放
しました。

この時代にはGrallの他にもパスター(Pasteur),サイゴンのパスツール
研究所を創設したカルメット(Calmette), ヤーシン(Yersin), などの
フランス人医師がいました。この3人の医師名は現在でもサイゴンの
道路名として残っています。

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当時の医師達

1925年 病院は主任医師Grallの功績を讃えて「 Grall Hospital 」
と改名されました。現在でも病院正面の看板には小さな文字で「Grall」
という表示が残っています。

1958年 1954年フランスはベトナムから引き上げ、病院はベトナム
外務省に引き継がれ、ベトナムの市民病院として機能します。

しかし、フランス人医師は病院で働き続けます。

1976年 小児科中心の病院になりました。

2008年7月からは小児科がさらに充実されました。日本もODAを
通じて援助しています。



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