べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
カテゴリ

FC2カウンター

リンク

このブログをリンクに追加する

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ホーチミンと愛弟子
ホーチミンと愛弟子ファンバンドンと
ヴォーグエンザップの出会い

ホーチミンが生涯、全幅の信頼を置いたのは、
何といってもこの2人です。

この3人の共通点は
1.中部ベトナムの生まれであること
2.両親が知識人であった
3.ベトナム第一の名門校クオックホック高校
で学んでいることです。
4.政治犯として3人とも刑務所に入れられた
こと
5.3人ともフランス語が堪能であったこと

1945年からはこの2人に秘書の青年、ブー
キーが加わります。


<ホーチミンとファンバンドンの出会い>
1925年ファンバンドンは広州でホーチミンの
共産主義トレーニングの第1期の受講生とな
った。

11_20120823191806.jpg

<ファンバンドンとヴォグエンザップの出会い>
1936年から1939年の間にハノイで知り合っ
ている。

<ホーチミンとヴォグエンザップの出会い>

12_20120823191806.jpg

1940年中国昆明でファンバンドンとヴォグエ
ンザップは一著にホーチミンに会いに行ってい
る。
第2次世界大戦は欧州で始まると、欧州各
国の植民地に対する弾圧が強まっていき、イ
ンドシナ共産党も非合法政党とされ、9月から
は弾圧が強化されたため、幹部党員は他国
に逃避するものが出てきました。

ファンバンドンもヴォグエンザップらも中国共産
党と共に活動していたホーチミンに会いに同
志のいる中国、昆明を通過して、延安に向か
おうとしていました。

しかしホーチミンは昆明に留まるように連絡し、
昆明で3者が会談します。

この会談でベトナム独立のための具体的な準
備が話し合われ、ホーチミン帰国のための秘
密基地の構築、ゲリラ部隊の創設などが話し
合われます。

ホーチミンはザップに向かって言いました。
「軍事部門の責任はお前がやるべきだ。出来
るか」
ザップは即座に答えました。
「やります」

1945年8月革命の成功後。ザップは
ホーチミンに言いました。
「ベトナムの大統領はあなたがやるべきだ」
ホーチミンは無言でしたが、翌日からベトナム
独立宣言の起草に取り掛かります。

独立宣言会場ヘ向かう車の後部座席にはホ
ーチミンとザップが乗っていました

スポンサーサイト
南部ベトナム婦人博物館

Bảo Tàng Phụ Nữ Nam Bộ

11_20120822173716.jpg

ホーチミンシ3区、ボ・ティ・ソウ通り(Võ Thị
Sáu) 通りにある南部婦人博物館は1983
年共産党政治局の承認のもとに「南部女
性史」の歴史的研究所として設立されまし
た。

その後の学術研究の発展と蔵書の増大によ
り1983年3月8日に博物館として開館しまし
た。

敷地は3000m2あり、女性の活躍を中心と
した蔵書が約11000冊収納されている閉架
式の図書館があります。

ベトナム現代史はフランス、日本、アメリカ、中
国と頻繁な侵略を受けているため、ベトナムの
男性は戦地で多くの時間を費やさざるを得な
かったため、女性が家庭での中心となって働
いていました。
この博物館には建国から現代に至るまで、ベ
トナムで活躍した女性の歴史が展示されてい
ます。

特にベトナムの南北分断後、戦争終結まで
南ベトナムに残って北ベトナムに南ベトナム
の軍事情報を送り続けた女性諜報員
グループの写真は歴史資料をとしてとても
貴重な証明書です。

12_20120822173715.jpg
北ベトナムに情報を送り続けた秘密諜報員。
Contact Womenと呼ばれていました。

この博物館では展示品の他にフランスコロニ
アル建築を見ることが出来ます。現在、博物
館の事務所として使用されている建物は、フ
ランスの金持ちの邸宅だった建物で、フランス
のベトナムからの撤退後は南ベトナム共和国
の国軍警察長官が邸宅として使用していまし

13_20120822173714.jpg

14_20120822173713.jpg





ファン・バン・ドン

11_20120810210154.jpg

Phạm Văn Đồng (范文同)
生没年1906年3月1日 ― 2000年4月29日

1955年9月20日から1976年7月2日まで
ベトナム民主共和国(北ベトナム)の首相。
南北ベトナム統一後も引き続き1976年7月
2日から1987年6月18日の引退まで
ベトナム社会主義共和国の首相を務め、
合計32年間に渡りホー・チ・ミン主席の
愛弟子としてベトナムの首相を務めた。

<1906年―1925年>
3月1日、ベトナム中部のクアンガイ省
モドゥック県ドゥックタン村の役人の名家に
生まれました。父はグエン王朝の官吏で、
大地主でした。

12_20120810210153.jpg
生家

ベトナム最高の名門校クオック・ホック高校
(フエ市)に学び、同時期に抗仏運動にも
参加しました。ホーチミン主席の後輩で、
同志のザップ将軍もクオック・ホック高校の
卒業です。

13_20120810210152.jpg
高校生時代(後列右側)

ハノイ大学に進学、卒業します。

<1926年>
3月4日に逝去した愛国者ファン・チュー・チンの
死を悼む学生集会に参加します。この頃か
ら共産党およびベトナム独立への関心を高め
、中国・広州へ向かい、国共合作で同地に
開校された黄埔軍官学校(校長・蒋介石、
副校長・周恩来)に入学。ベトナム青年革命
同志会にも参加してホー・チ・ミンが講義して
いた共産主義の訓練コースを受講します。
第1期生です。

14_20120810210151.jpg
ホー・チ・ミンが講義した共産主義の訓練コース

15


<1929年>
ベトナムに帰国した彼はサイゴンで「青年革命
同志会」の活動をしていましたが、フランス植
民地当局に逮捕され、懲役10年の判決を
受けてコンダオ島の監獄に送られます。

<1936年>
フランス本国に左派のブルム人民戦線政権
が誕生し恩赦で釈放されます。釈放後、ハノ
イで活動していた時、6歳年下のヴォー・
グエン・ザップと出会います。

<1939年>
9月 ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発し、
フランスはインドシナ共産党員の弾圧を強め
ます。

<1940年>
ホー・チ・ミンが中国の延安を中心に活動して
いることを知ったファム・ヴァン・ドンはヴォー・
グエン・ザップと共に密かにベトナムを脱出し
延安に向かいますが、昆明の同志の家に着
いた時にホー・チ・ミンから昆明で待機するよう
連絡があり、同志の家で待機し、ホー・チ・ミン
と再会します。

3者でベトナム独立の具体的な話し合いが
深夜まで続きました。ヴォー・グエン・ザップが
軍事部門を、ファム・ヴァン・ドンが内政面を
担当することも、この時の話し合いで決まりま
した。
ホー・チ・ミンは2人に中国とベトナムの国境近
くにベトナム革命の基地を作ることを指示します。


<1941年>
ホー・チ・ミンがベトナムに帰国。ホー・チ・ミン
の指示でベトナム独立同盟(ベトミン)の結成
に加わります。

<1945年>
ベトナム八月革命の後、ホー・チ・ミンが
ベトナム民主共和国の建国を宣言しても、
フランスはこの独立宣言を認めませんでした。
ファム・ヴァン・ドンは新政府の財務相に任命
され、1954年までこの職にありました。

<1946年>
フランスからの独立を求めてフランスの
フォンテーヌブローで開催された独立交渉の
ベトナム側代表団長を務めます。

16_20120810210321.jpg
独立交渉のためフランスに向かう
ファン・バン・ドン

17_20120810210321.jpg
ホー・チ・ミンもパリにやって来ますが、この会
談は失敗に終わり、帰国後フランスとの全面
戦争が始まります。(ホー・チ・ミンの後方がフ
ァン・バン・ドン)

18_20120810210320.jpg
ハノイを占領されたベトミンは、一旦ベトナム山
岳地帯のベトバックに抵抗基地を移します。
左からファム・バン・ドン、 ホー・チ・ミン、 ヴォ
ー・グエン・ザップ

<1954年>
フランスは1946年からの第一次インドシナ戦争
において、1954年ディエン・ビエン・フーの戦い
で大敗北を受け、5月から
ジュネーヴで和平会談が始まります。副首相兼外相に
就任したファム・バン・ドンはベトナム民主共和国新政府の
代表団を率いてパリに向かいホー・チ・ミンの指示受け
て条約締結の交渉を行います。

<1955年>
9月、第1期第5回国会において、ホー・チ・
ミンが兼任していた首相職を継ぎ、以降32年
間に渡りベトナムの首相を務めます。

19_20120810210733.jpg
執務するファン・バン・ドン


20
外国人記者団のインタビューに答えるホー・チ・ミン
「今 この国を動かしているのは彼だよ」

ファン・バン・ドンは中華人民共和国政府とも
緊密な関係を保ち、アメリカのリンドン・ジョンソン
及びリチャード・ニクソン政権期には、戦闘終結
のための和平会談に関わりました。


<1969年>

21_20120810210955.jpg
5月 ホー・チ・ミンの後継者とされている党第
一書記、レ・ズアンと話し合うファン・バン・ドン

22_20120810210954.jpg
9月2日 ホー・チ・ミンが死去します


<1973年>

23_20120810210953.jpg
ベトナム和平パリ協定調印後、1973年2月
10日 アメリカのキッシンジャー大統領首席
補佐官のハノイ訪問で会談するファン・バン・ドン


<1975年>
サイゴン陥落後はホー・チ・ミン主席を引継
いだレ・ズアン政権によって次第に権力から
遠ざけられていきまます。

1987年までファン・バン・ドンは首相を務
めましたが、この時期の首相ポストは飾り物に
なっていました。党が全てを決定する社会主
義国にあって、政府の長に実権は与えられま
せんでした。レ・ズアン党書記長とレ・ドク・ト
政治局員がすべての権限を握っていて、ヴォ
ー・グエン・ザップ将軍でさえ、深慮遠謀に長
けた彼ら二人組の前に手も足も出ない状態
であったといわれています。

元「ニャンザン」副編集長で亡命したタイン・ティン
(ブイ・ティン)によれば、かつてファム・ヴァン・ドン
は、「私は最年長の首相だが、最も非力な首相で
もある」、「私には権力がないから、しゃべっても誰
も聞きやしない。次官の交替だって、私はただ提
案するだけで実権はない。大臣の選出に至っては
推して知るべしだ」と不満をこぼしたことが再三あ
った、
「ファム・ヴァン・ドンは、政治局の中で最も寡
黙な人である。おそらく恥ずかしい思いで、あ
らゆる権力争いや派閥を外側から眺めてい
るのだろう」。と著書で述べています。

<1981年>
スタンレー・カーノウとのインタビューで、ファン・
バン・ドンが述べた有名な言葉があります

「ええ、我々はアメリカを打ち負かしました。しか
し今、我々は様々な問題に悩まされています。
食糧も十分ではありません。我々は貧しい、発
展途上の国家です。あなたもご存知のとおり、
戦争を遂行することは簡単です。しかし、一国
を運営することはとても難しいのです。」

24_20120810210952.jpg
インタビューに答えるファン・バン・ドン
このノンタビューはWEBで公開されています。


<1987年>
第6回共産党大会において、ベトナム独立の
第一世代の引退に際し、戦友ザップ将軍と
共に彼も引退します。

引退後
公的機関からは引退したものの、彼は1997
年まで、党中央委員会顧問を務め、しばしば
汚職を止めるため、大きな努力をするよう党
幹部に働きかけています。


晩年まだ元気だった頃、ファン・バン・ドンは重
い鬱病にかかった夫人をかばいながら、よくホ
アンキエム湖畔の公園を散歩して、読書をす
るのを楽しみにしていました。若き日に彼が身
につけたフランス風の教養は、ホー・チ・ミン主
席との人間的ふれあいを厚みのあるものにし
ましたが、その後の共産党内にあっては、かえ
ってファン・バン・ドンの教養が「軟弱」に写って
しまったようです。

晩年は視力を失い(白内障らしく、全視神経
が機能しなくなってしまっていた)。人民服に黒
いサングラスをかけた姿が、至高な雰囲気を
漂わせていました。手を使うことができず他の
者が彼の言葉を代筆しています。

<2000年>
5月2日、ベトナム政府は、ファン・バン・ドンが
数ヵ月の闘病生活の後、4月29日午後11
時10分老衰のためハノイで死亡したことを
発表しました。94歳でした。


彼の死は4月30日の南部解放記念行事
が終わるまで発表されませんでした。

5月6日に記念行事と葬儀がハノイで執り行
われました。そこには長年、ホー・チ・ミン主席
の愛弟子として共に働いたザップ将軍が静か
に見送っていました。

25_20120810210951.jpg
白い軍服で敬礼しているのがザップ将軍
26_20120810211020.jpg


2009年、生家の近くに建設された記念館



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。