べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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フランス植民地軍 海軍兵舎
トンドゥックタン通りにはフランス植民地時代に
建造された建物がたくさん残っていますが、その
中でもこの建物は植民地支配の初期に建造
されています。

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1959年2月18日 フランス遠征軍はブンタオ
岬からサイゴン川を遡り、現在のメリンポイント、
チャンフンダオの銅像が建っているサイゴン川に
面した広場に上陸し、ヤーディン城を占領しま
す。

当時、ヤーディン城と呼ばれていた要塞は現在
のレズアン通りとハイバチュン通りの交差点を中
心に築かれていました。

そして士官や兵士の宿舎として最初に建築され
たのが、この建物のようです、その後兵士の
宿舎はレズアン通りとトンドゥックタン通りの交差
点にも立てられます。

現在この建物はベトナム人民軍の海軍宿舎
として使用されています。

真黄色な外壁は南フランスの建築様式の特徴
だそうで、他にはホーチミン市人民裁判所があり
ます。

この建物の前にはベトナム戦争の終期に対岸の
2区からサイゴン川を渡って攻撃をしてきた
北ベトナム軍を迎え撃った大砲や機関銃が展示
されています。

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グエン・タイ・ホック


11

Nguyễn Thái Học(阮太學)
生没年 1901年~1930年6月16日
ベトナム国民党の指導者

現在のベトナムは共産党の一党独裁の国です
が、以前は共産党以外の政党もありました。そ
の代表格が中国国民党の影響を強く受けて創
設された国民党です。

1901年
出生は北部ベトナム、ヴィン・イェン県ヴィン・トゥ
オン郡トー・タン村。
父親は農夫で、母親は木綿を売る商売をしてい
ました。

ハノイの師範学校とインドシナ大学の商学部に
学び、社会主義による社会改革に興味を持ち
ます。

1925年(24歳)
フランス植民地当局に対し意見書を提出。ベト
ナム人の生活条件改善や祖国の商工業を発
展させる為に新たな高等工業学校の建設とベト
ナム人が自由に学校を開設する権利を要求し
ますがフランス当局には無視されます。

1926年(25歳)
フランス当局に対して行政制度の改善と言論
自由の実施を求めますが、これも無視され何の
結果も得られませんでした。

友人と国民党の前身「南同書社」を設立して、
社会改革を主張する出版物を発行します。
グエン・タイ・ホックはベトナムの自由を獲得する
ためには非暴力主義で平和的活動をすべきと
考えていましたが、現実の活動はフランス秘密
警察に散々妨害されたため次第に暴力革命の
道を選択するようになります。

1927年(26歳)
12月25日ベトナム国民党(Việt Nam Quốc
dân đảng)を結成し、議長に選ばれます。

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ベトナム国民党旗。中華民国の国旗とそっくりで


13
中華民国の国旗  

ベトナム国民党は、武装闘争によって祖国の主
権を奪回し、共和制政府を樹立して、国家建設
計画を実行する旨を主張する一種の革命政党
で、党設立に先立つ国民党の指導者たちの改
良主義的な諸政治活動が実を結ばず仏当局
から弾圧を受けたことから、北ベトナム地域の知
識人や民族主義者を中心に結成された党でし
た。

ベトナム国民党の指導部は、武力蜂起を目ざし
て植民地政府軍のベトナム兵士や北部ベトナム
を中心にした中流階級知識人、教師、下級官
吏、ブルジョアジーに支持を訴え、党員を獲得し
ていきます。

ベトナム国民党は政党組織を整備し、フランス
への抵抗組織を作り上げた最初の政党でもあり
ました。

1928年(27歳)
インドシナ総督府は「南同書社」の出版物は政
治的意図があるとして、事前検閲を義務付けま
す。この検閲がベトナムでの出版物検閲の第1
号で、検閲制度は現在でも続いています。

1929年(28歳)
2月には、鉱山やゴム園で荒稼ぎをし「新世界」
(娯楽場)の社長をしていた在住フランス人商人
バザンをハノイ路上で暗殺します。

フランス当局は国民党のテロとして、烈しい弾圧
を強行しましたが、グエン・タイ・ホックは幸い逮
捕をまぬがれ、全国を東奔西走して地下活動
の強化を図り、各地の支部や新同志の拡充に
努めると共に、党の潜行工作を強力に推進し、
民衆を鼓舞して反フランス武装抵抗を呼びかけ
ます。

党員の家で武力闘争を開始するため保管して
いた爆弾が暴発し、党員が次々に逮捕されてしまいます。

この年の年末、機が熟していないのを知りながら
、武力蜂起を計画します。そして「祖国を解放し
、復興するアピール書」が作成されて省レベルの
組織に配布されます。

1930年(29歳)
2月9日
「イエンバイ蜂起」と呼ばれている武装蜂起に踏
み切ります。
この日の未明、イエンバイ(北部ベトナムの北西
部)のフランス軍兵舎の周辺に秘密攻撃部隊
が集合し、2月10日午前1時総攻撃が開始さ
れます。

午前5時にはフランス軍の主要宿舎を制圧。し
かし翌日からフランス軍の反撃と捜索が始まり
付近の森林に退却しますが、フランス軍に大量
の武器を押収され党員も次々に逮捕されていきます。

イエンバイの他の各地でもフランス軍の武力の
前に総敗北を帰します。

2月20日
グエン・タイ・ホックはハイズオン県のコ・ヴィット部
落で誰何されて逃げようとしたところを足を撃た
れて逮捕されてしまいます。

3月28日
イエンバイで軍事法廷が開かれ、グエン・タイ・ホ
ックとその妻を初めとして40名に死刑が宣告さ
れます。当時の北部国民党員70000名のうち、
3000人が犠牲になった蜂起でした。

6月16日
グエン・タイ・ホックは処刑の日を前にして、獄中
からフランスの下院とインドシナ総督宛に手紙を
書いています。
● 蜂起は自分に責任があり、他の者には責任
● はないので罪に落としてはならないこと。
● フランスの非人道的な政策を即刻あらため、
● 抑圧者ではなく友人として振舞うこと。
● 自由と人権、新聞の自由を復活させること。
● 不正を働く官僚を使っては成らないこと。
などを要望しています。
処刑場でも崇高な姿勢を崩さず、「ヴェトナム万
歳」を叫んだ直後、ギロチンの刃が落ちてきまし
た。

イエンバイ蜂起によって国民等組織は壊滅状
態になり、残党員は主に中国 昆明へ逃れ、
1945年、第2次世界大戦での日本の敗北

後、中国国民党軍の進駐とともに帰国します。
そしてべトミンと激しく民主共和国の主導権を争
うことになります。

1945年
八月革命によってベトナム民主共和国が成立し
ます。当時の蒋介石の国民党軍の圧力のため、
ベトミンはベトナム国民党の政府参加を一時容認
しましたが、第一次インドシナ戦争の勃発後
間もなくベトナム国民党員を追放してしまいます。

1948年
親仏諸派とバオダイを擁立し南部で「ベトナム
国」の建国に参加します。

ベトナム国民党員は、1954年7月のフランス軍
撤退後も南ベトナムへ留まりました。

1975年
サイゴン陥落に伴い、ベトナム国民党も解散され
ました。

ホーチミン主席の足跡 1944年捕捉 昆明の同志
1943年9月10日 ホーチミンは柳州の監獄か
らは釈放されますが中国からの出国が認められ
たのはホーチミンが蘭州(Lan Châu)で活動して
いた1944年8月9日でした。

柳州での監獄生活はたらい回しにされた他の監
獄に比べれば多少待遇が良くなったのですが、
所詮、監獄での生活ですからホーチミンの体調
は非常に衰弱していました。

ベトナムへ戻る途中、ホーチミンは昆明で共産主
義活動をしている同志の家を訪ねようと1ヶ月
かけて歩いて行きます。

この時、ホーチミンに従ってきた同志はMinhと
言う人とPhùng Thế Tàiというベトナム人の兵士
で、彼は後日、最初のホーシミンのガードマンに
なります。

昆明の同志は現在のハノイ市Đống Đa地区にあった
Kim Liên村の出身で、両親が農地を持ってい
なかった為、生活が苦しく故郷を離れ昆明に移住
してきたTrần Việt Hoaという女性で、既に
Tống Minh Phươngという男性と結婚していまし
た。

彼女は文字が読めなかった為、コーヒーショップ
を営みながら、在中国を中心とした海外在住の
ベトナム人にマルクスの本や新聞「Tiếng Dân」
や「Thời thế」のコピーを作って売っていました。

昆明には1930年にイェンバイ蜂起(フランスに
対する抵抗闘争)で敗れたベトナム国民党の残
党が多く逃避して来ました。

その後、第2次世界大戦が始まると、アメリカ人
イギリス人が中国の抗日戦争を援助するために
昆明に来ます。アメリカの諜報機関OSSは昆明
に抗日戦争援助の本部を置きます。

Trần Việt Hoaのコーヒーショップの商売は順調
で売上金の一部を同志のVũ Anhに渡し、ハノ
イのドンスアン市場で革命運動に必要な物品を
買っていました。

Trần Việt Hoaはヴォーグエンザップとファンバン
ドンが1940年にホーチミンと昆明で会った時に
も2人の滞在中の食料や衣服の世話をしていま
す。

10月のある朝、中国国民党の服に身を包み、
サンダルを履き、肩から毛布をかけた老人、ホー
チミンが、突然Trần Việt Hoaの夫Tống Minh
Phương訪ねてきました。
ホーチミンの従者は塩、油脂、唐辛子が1Kgづつ
入った長い竹筒を担いでいました。

ホーチミンを迎えたのは、インドシナ共産党から
昆明のTrần Việt Hoaのもとに派遣されていた
Pham Việt Tử と彼女の夫 Tống Minh
Phương でした。

昆明に来る途中でも熱を出し、2日間休養した
ホーチミンは目は異様なほど輝いていたものの、
体は非常に弱っていて、すぐに高熱を出し寝込
んでしまいます。ホーチミンはマラリアに冒されて
いたのです。

同志のPham Việt Tử 買ってきた(おそらくアメリ
カの諜報機関から)キニーネをホーチミンに打ち
ました。2日後にホーチミンの熱は下がりましたが
、体力の回復の為にいくつかの薬を飲むように
ホーチミンに薦めますが、彼は薬を買うための
お金を使わせることを拒んだので、Trần Việt
Hoaは、この薬は家に保管されている物だから
とウソをついて、彼に飲ませます。
後日、ホーチミンはこのウソに気づきます。

ホーチミンの体調は回復に向かいます。Trần
Việt Hoaは毎日ミルク入りのコーヒーを飲ませ、
ホーチミンは茶碗3杯のご飯を食べるようになり、
体力も回復します。

元気になったホーチミンは毎日2時間コーヒーシ
ョップの手伝いをしました。

そしてベトナムに戻っていきます。
ホーチミンがベトナムに戻った月日は10月から
12月の間と思いますが諸説があってはっきり
していません。

ホーチミンと8人のサムライ 1947年捕捉
フランスのベトナム再侵略に対してホーチミン主
席は1946年末、全国民に向けて「徹底抗戦の
アピール書」を発した後、1947年年初からはタ
ンチャオ村を皮切りにベトバック地方(北部ベトナ
ムの山岳地帯)を転々と移動しながら、反撃の
態勢を整えていきます。

この時期、ホーチミン主席に常時付き添って行
動した21歳から30歳までの若者が8人いまし
た。

若者達の最大の使命は主席の安全を確保する
ために秘密裏に行動することでした。

ある日主席はこの8人に愛称を付け、フランス軍
に悟られないよう、本名を使うことを禁じました。

Trường、Kỳ =Longを意味します。 Kỳは主席の
秘書です。
Kháng、Chiến =Resistance
Nhất、Định =Bound
Thắng、Lợi =Win

Trường、Kỳ、Kháng、Chiếnの4人はベト族
Nhất、Định、Thắng、Lợiの4人は少数民族の
出身で革命運動に参加していました。

この8つの愛称を繋ぎ合わせると「The Long
Resistance is Bound to Win」という意味になり
ます。

主席はこの愛称を呼ぶごとに、国民から自分に
与えられた義務を全力で果たせるよう自らを勇
気付けていました。


スタッフが交代してもこの名前は引き継がれて
使用されました。

各スタッフはそれぞれの得意分野で(狩猟が得
意な人、工芸が得意な人、地理に詳しい人など
多彩でした)ホーチミン主席を助け、現地の山岳
民族もフランス軍の動静を掴むと、各スタッフに
知らせてくれました。

1950年の国境作戦、ドンケの戦いにはベトバッ
ク地方の多くの山岳民族が兵士として参加し、
フランス軍の要塞を陥れ、フランスの支配下から
多くの都市を解放しました。

現在のベトナムでも、特にこの地方の人々に
とっては、ホーチミン主席は「バック・ホー」と
尊敬をこめて呼ぶ以上の存在なのです。

1990年 ホーチミン主席誕生100周年記念
日にホーチミン博物館がKỳ の努力によって
オープンしました。白髪になった最後の8人の
スタッフは記念館に集まり、困難で苦しい時代を
ホーチミン主席と過ごした栄誉をたたえあいました。
この8人は(実際には交代した人が4人いましたの
で12人)今でもベトナムのヒーローとされていま
す。

各人の詳細は後日アップします。

ホーチミン主席の最後の日々 1969年捕捉
1969年8月12日 パリで開かれている和平会
談の北ベトナム代表団が一旦帰国します。

いずれ代表団がホーチミン主席に会談の経緯を
報告に来ることは解っていましたが、この日は強
い風が吹きまくり、霧雨が降る寒い日でした。主
席は心待ちに待っていましたが、この日は悪天
候の為、代表団がやってくる気配はありませんで
した。

午後3時にホーチミン主席は車を用意することを
スタッフに伝えます。彼は代表団が宿泊していた
ハノイの西湖に行くと言い出したのです。
「今日は悪天候だから、彼らは家にいるに違いな
い」

彼の健康を24時間見守っている私設の医師
Lê Văn Mẫn を始めとして主席を取り巻くスタッ
フは皆「この悪天候に外出したら主席はきっと風
邪を引くに違いない」と非常に心配しました。

主席の秘書ブーキーが主席に「今日は外出しな
いよう」強くアドバイスしますが、主席の意思を変
えることは出来ませんでした。

ブーキーには代表団を大統領府に呼び寄せるこ
とは簡単なことでしたが、主席の気持ちを十分に
わかっていて、厚い信頼を得ていたブーキーにそ
れは出来ませんでした。

スタッフは主席が少しでも風雨に当たらぬよう最
大限の注意を払いながら、西湖へと向かいま
す。

ホーチミン主席は和平会談の成行きが心配でい
ても立ってもいられなかったのです。彼は代表団
にどんなアドバイスをしたのでしょうか?
「安易な妥協はするな。アメリカ軍の撤退が和平
への最優先事項だ」そんな声が聞こえてきそうで
す。

しかしこの日の主席の行動は彼の命を奪うこと
になります。

案の定、彼は翌日には風邪を引き熱を出します。
そして主席の体力は目に見えて衰えていきます。

8月18日 医師団は医療施設の整ったハウス
67へ移るよう主席に薦めます。
 
ハウス67は当初、主席の防空シェルターとして
建設されましたが、主席は防空シェルターを拒否
して政治局の会議室としました。この部屋に医
療機器が運び込まれて、万が一の主席の容態
に対応できるように準備されていました。

8月24日 主席は心臓に痛みを覚え、夕方医
師団が診察をします。心電図は主席が心臓麻
痺に襲われたことを示していました。

その後も主席の容態は改善されることはなく、容
態は日増しに悪くなっていき、ハウス67でのベッ
ト生活を余儀なくされていました。27日頃からは
寝たきり状態になったようです。

政治局のメンバーは心配して毎日主席の見舞
いに来るようになりました。主席はいつもだんだん
と良くなっているからと話していましたが、内心は
カールマルクスやレーニンとの会談を用意してい
ました。(死への旅立ち)

主席はザップ将軍に南ベトナムでの戦況を尋ね
ました。この頃には北ベトナム正規軍が非武装
地帯を越えて南ベトナムに侵攻していった時期
ですので、その戦況は主席の関心事であったに
違いありませんが、既に主席もザップ将軍も救
国反米戦争には勝利することを確信していまし
た。

翌日からザップ将軍は主席を安心させるために
毎日戦況の報告に来ました。最後には主席は
「まだ戦局の報告に来てるよ」と冗談交じりに言
いました。

9月1日 もう主席はベットから起き上がることも
出来ませんでした。
レズアン党第一書記とファンバンドン首相が見
舞いに訪れた時、主席は翌日の建国記念日の
式典の準備状況を心配し、式典には花火を打
上げて、主席の健康を心配してくれている国民
を元気づけてほしいと依頼します。

9月2日朝 主席の心電図の波はまもなく臨終
が訪れることを意味していました。

最後に主席はベトナム労働党南部委員会で前
年のテト攻勢を指導したグエンヴァンリンの手を
握り締めます。自分の生きている間に統一国家
の建設が出来なかった事をすまないと思うと共に
、南ベトナムの同志が統一に向けて今なお勇敢
に戦っている事に感謝し、もう話す事も出来着
なかった主席はグエンヴァンリンをじっと見つめま
す。

看護婦達が歌う故郷のフォークソングを聞きな
がら、コップに注がれた一杯のココナツジュースを
静かに飲みます。

静かに主席を仰いでいたブーキーの手が止まり、
すすり泣きに変わりました。

時に1969年9月2日午前9時47分でした。

最後に主席が手を握ったグエンヴァンリンは、主
席の死後20年間続いたレズアン体制をひっくり
かえし、ドイモイ政策を実施して、今日のベトナム
発展の基礎を築づきました。

「ドイモイ政策」とは「ホーチミン思想」への回帰
に他ならないのです。

ホーチミン主席の禁煙 1968
ホーチミン主席が喫煙を徐々に諦めるようになっ
たのは、1966年(76歳)初頭に脳血管の障害
で体の左側の一部に麻痺が生じてからでした。

主席は若い時に喫煙を覚え、主席の長年の唯
一の楽しみになっていました。

しかし主席の体に麻痺が生じてから医師団は、
主席の年齢からして、若い時からの長年の習慣
を諦めさせることはとても難しいことを理解してい
ましたが、あえて喫煙を辞めるよう何度も主席に
注意します。

「喫煙をやめることは健康にいいことだが、私に
はとても難しい」と当初は消極的だった主席もつ
いには医師団の注意を無視できなくなり、禁煙
へ向けて努力し始めます。

主席の取った禁煙への方法は、一本のタバコを
2回に渡って吸いというものでしたが、医師団か
らは余計、健康には良くないと諭されます。

しかし主席はこの方法を取り続けた為、スタッフ
はタバコを半分にカットしてから主席に届けてい
ました。

主席が完全に禁煙したのは1968年(78歳)の
時でした。

この年の3月、主席は軽い風邪を引きます。この
時から主席の机の上に置かれていたタバコが全
く減っていませんでした。スタッフは1週間様子を
見た後、主席にタバコを届けるのを辞めました。

1ヶ月後、ベトナム青年共産団の書記
Vũ Quangが主席を訪問した時、ホーチミン主
席は語っています。
「私は喫煙を諦めました。だから、あなたから若い
人々にも私に続くよう説得してください」

禁煙の生活の素晴らしさを知ったホーチミン
主席は無題の詩を残しています。

Abstaining from wine and tobacco
for three years
Without disease, Life is as a fairytale
Happy to see the South’s great victories
I feel that one year has four springs

ホーチミン主席の最初の健康障害
1960年頃からホーチミン主席(70歳)の健康
状態は徐々に低下していったようですが、健康
障害が最初に発生したのは、最初の遺書を書
き終えた翌年の1966年になってからです。

1966年 ホーチミン主席は脳の循環系統に軽
い障害が生じ、体の左側の一部に痺れをを感じ
る時があり、時々杖を使うようになります。

12_20120709191705.jpg
この写真は1966年1月21日にホーチミン主席
が軍事施設を訪問した時の写真ですが、既に
杖を持っていますので、主席の脳障害は1966
年の年初ぐらいに発生したと思われます。

1965年に最初の遺書を書いた直後にベトナム
労働党中央委員会は主席の健康維持の為に
2人の医師が公式に任命されていましたが、これ
以降秘書のブーキーは主席に密着して看護す
る3人目の医師(Lê Văn Mẫn)を非公式に主
席に薦め、主席の私邸での日常生活も医師の
観察下に置かれるようになります。

<毎日の生活>
起床するとマッサージを受け、その後、私邸のす
ぐ近くに造られているシャワー室に向かいます。

朝食を取りに指定から200メートル先のダイニン
グルームまで時々は杖の世話になり、時々は杖
を手に持ち歩いて行きます。
雨の日でも食事を私邸まで運ばせることは決し
てありませんでした。

ダイニングルームには主席だけでなく、主席のため
に働いている同志も時間は多少づれるものの
一緒に食べる部屋で、オカズは大皿に盛られて
いました。食べ残ったオカズの皿が夕食時にも
残っていると、主席は昼を同じオカズを夕食にも
食べるので、残ったオカズの皿はいつもスタッフが
取り下げていました。

彼の朝食はほぼ毎日、ベトナムの麺類(フォー)
が多かったそうです

私邸とダイニングルームの間には賓客を迎える
ゲストルームが造られ、食事の後、大統領府に
行かなくても、私邸に戻る途中で賓客を迎えら
れるように変更されました。

午前11時、昼食を取りにダイニングルームに向
かいます。
但し、毎週火曜日の昼食は取りません。主席は
困難を抱えている多くの国民に思いを馳せてい
たのです。

食事後は、ベトナム人の習慣になっているシェス
タ(昼ね)を30分程度して午後1時には医師の
指導の下にリハビリを兼ねた運動を行っていま
す。

昼寝から目覚めると、主席はミルクスープかトウ
モロコシのスープ、蜂蜜のスープを飲んでから公
務に戻りました。

午後5時に夕食を取ります。夕食のオカズもとても
質素で、塩漬けの野菜やナス料理、ボラの蒸
し煮が多く、主席の故郷であるゲアン省のキムリ
ン村で食べていた頃の味付けを好んだそうです

食事後は私邸の池の周りを散歩をしてから執
務室で新聞を読み、就寝前にはマッサージを受
けます。

ホーチミン主席の遺言捕捉 1969年
ホーチミン主席が75歳になる1965年5月に、
主席は初めて遺言を書きます。主席の長年の
秘書ブーキーは「THE TOP SECRET
DOCUMENT」と題する手記を「HỒ CHÍ MINH
from His Assistants」と言う書籍に投稿してい
ます。

手記によれば、ホーチミン主席は自分の健康
状態について知っていたので、自分が死去して
も国民が混乱しないように、75歳の誕生日に
遺書を書く事を決心していたそうです。

彼はブーキーに5月10日からの数日間、午前
9時から10時の1時間をなるべく公務のスケジ
ュールを避けるように指示します。

20年間秘書をして、絶大な信頼を得ていた
ブーキーにはこの時間が何をするための時間
か、すべてがわかっていました。

そして1965年5月10日からの数日間は
ブーキー氏にとっても忘れられない日として
回想されています。

5月10日月曜日、この日はとてもすがすがしい
朝で、ホーチミン主席の私邸にはさわやかな風
が流れ、小鳥達がさえずっていました。

主席は午前9時に私邸の書斎で遺書の最初
の一行目を書き始めました。

「TOP SECRET・・・・・・
今年私は75歳になる。誰でも年をとるに
つれて、体は弱くなるものだ・・・・・」

1時間が過ぎ、「TOP SECRET」は封筒に入れ
られ、注意深く書棚に置かれました。そして平常
通りの公務に戻ります。


翌5月11日、主席はいつもより早く5時45分
に起床し、大統領府でイタリア共産党代表団
と会います。

その後、私邸に戻ると、昨夜、南部の戦闘で
勝利をおさめた状況が電話で報告されます。

この5月は主席の75歳の誕生日であることを
知っている南部の市民や兵士が頑張り、主席
にプレゼントを贈ったのです。

9時きっかりに主席は封筒から「TOP SECRET」
を取り出し、書き続けます。

共産党への感謝、党と人民の団結、自己批判
の大切さについて記述します。

そして12日、彼は書き続けます。
「わが国の青年達は勇敢である。党はこれらの
青年達を育てなければいけない・・・・・将来の
革命世代に対する教育とトレーニングは最も
重要である・・・・」

13日も彼は書き続けます。
ソ連と中国の不仲に心を痛め、ベトナム労働党
は国際共産主義運動に貢献しなければならな
いと説きます。

14日 午前6時、彼は予告なしにハノイ近郊
のXuân Phương村の田んぼを見に行き、
豊作であることに満足して10時に私邸に
戻ってきます。
10時から共産党政治局の会議に出席したた
め、この日は予定通りに「TOP SECRET」が書
けませんでした。

昼食後、昼寝をしてから午後2時から4時まで、
彼は最後の章を「TOP SECRET」に書き加えま
す。
「盛大な葬式は無用。火葬にしてTam Đao と
 Ba Vì 付近の丘に埋葬してほしい。もし国が
統一される前に私が死んだら、南の同胞にも私
の遺灰を送ってほしい」

全章を書き上げた遺言は主席自身によってタイ
プされます。

遺言書は5月14日午後4時に完成します。

4時にホーチミン主席の私邸に呼ばれていたレ
ズアン共産党第一書記長がホーチミンの執務
室に入ってきます。

ホーチミン主席は遺言書を提示して、自らサイ
ンすると同時にレズアンのサインを求めます。

しかしなぜか遺言書の作成日は「1965年5月
15日、ハノイ」となっていました。

ホーチミン主席は翌日から長期の旅に出かけて
しまうため、この日、午後6時に共産党政治局
のメンバーは主席の誕生日祝いに大統領府に
駆けつけます。

大統領府の広間のテーブルの上には新鮮な花
が飾られていました。
ホーチミン主席は微笑みながら言います。「だれ
がこのような誕生日祝いを企画したの?」

レズアンが笑いながら、ファンバンドンとチュオン
チンに目をやり、チュオンチンが代表して祝辞を
述べます。

主席は礼を言いながら、秘書のブーキーに尋ね
ます。
「KỲ ゲストを歓迎する物を持っているか?」

主席とブーキー秘書が用意していたものはキャ
ンディーとクッキィーでした。

誕生日祝いが終わってから7時30分に主席は
「ベトナム青年共産団」創立24周年記念式典
に出席します。
午後9時に大統領府に戻った主席をブーキー
秘書が私邸まで送り届けます。

ホーチミン主席は書棚から「TOP SECRET」の
封筒をブーキー秘書に渡し、そして言います。
「厳重に保管しておいてください。そして来年の
5月15日になったら私に下さい」と。

<余談>
ホーチミン主席の誕生日には諸説があって、ベ
トナム共産党史では1890年5月19日となって
いますが、これとて物証となる文書が残っている
わけではないようです。
5月19日は「ベトナム独立同盟(ベトミン)」の創
設記念日です。

所詮、昔のことで物証もないようなので、この日
をホーチミン主席の誕生日にしてしまったという
話もあります。

しかし、ブーキー氏の手記を読むと、5月15日
らしく思えてくるのですが??

ホー・チ・ミン主席秘書  ブー・キー

11_20120703152326.jpg
晩年のブーキー夫妻

Vũ Kỳ
本名 Vũ Long Chuẫn
生没年 1921年9月26日―2005年4月16日


1921年9月26日
HaTay省,Thường Tin県Mễ Son村落の公務
員家庭に生まれました。

1940年4月
学生時代からフランス帝国反対青年団の革命
運動に参加するようになります

1940年10月25日
インドシナ共産党の党員になります。

1942年
ハノイのインドシナ共産党の物資の運搬係りをし
た後、通信部隊として働きます。

1943年
中頃から1945年8月までインドシナ共産党の
物資運送の仕事をします

1945年8月28日
ホー・チ・ミン主席の秘書となります。

1950年初め
インドシナ共産党の中央委員会に出席します

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フランスの再植民地化に対する抵抗戦争でブー
キーから戦況を聞くホーチミン主席

1953年3月
インドシナ共産党の書記になります。
ホーチミン主席により共産党青年団のリーダー
の役割を与えられます。

1956年4月から1969年まで
大統領府でホーチミン主席の秘書を務めます。

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1956年8月14日 中部高原の政治センターを
訪れたホーチミン主席に同行するブー・キー
(右後)


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1957年6月3日 大統領府内の別錬の建物
(nhà 54と呼ばれていました。大統領の執務室)
でブーキーと打ち合わを行なうホーチミン主席


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1957年6月14日 50年ぶりに実家のキムリン
村を訪れたホーチミン主席(の右側後方、ブーキ
ー)

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1957年8月 ソ連レニングラード、Xmônưi宮殿
の中庭にあるレーニン像の前での記念撮影
(右端ブーキー)

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1959年3月31日 ハイフォン港に向かう途中、
船上で国土の北東海岸の地図を興味ぶかげに
見ているホーチミン主席(右側ブーキー)


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1961年12月16日 大統領府内のゲストハウ
ス厨房人と外国要人との会議に出されるメニュ
ーについて打ち合わせをするホーチミン主席
(中央、ブーキー)

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1964年5月14日 大統領府ゲストハウスで
中国雲南省昆明士林地区の芸術団と記念
撮影するホーチミン主席(後方はブーキー)


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1965年2月2日 クアンニン省Yên Hung県
Yên Lập村で、新しい共産青年団と記念撮影
をするホーチミン主席と(前列右から2番目)


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1966年7月16日 大統領府で侵略者アメリカ
軍に対し、全国の兵士に徹底抗戦のアピール
書の原稿を説明するブーキー



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1969年2月16日 旧正月にハノイのバクマイ
飛行場の兵士を訪れたホーチミン主席(右側、
ブーキー)

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1969年4月27日 ハノイ、バーディン地区の
人民評議会投票所で。

8月ごろからホーチミン主席は急激に衰弱してい
き医療器具が運び込まれていたハウス67(私邸
の裏側にある当初シェルターとして建設された
建物)に移り、ベットの上で仕事や読書をするよ
うになります。

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1969年9月2日 永遠の眠りにつくホーチミン
主席
左からファンバンドン、チュオンチン、ヴォグエン
ザップ、トンドゥックタン、レズアンそしてホーチミン
主席に手をおいているのがブーキー

ホーチミン主席の死去後、ブー・キーが全力を
注いだのはホーチミン主席の私邸を保存すること
とホーチミン博物館を作り上げることでした。

ブー・キーは24年間ホーチミン主席の秘書を務
め、ホーチミン主席から遺言状を託されるほど
厚い信頼を得ていました。
「ブー・キー」という名前はホーチミン主席がつけ
たあだ名で、いつもは「Kỳ  キー」と呼ばれていま
した。

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1969年9月13日 ホーチミン主席の私邸での
生活を支えた全スタッフの記念撮影。中央が
ブーキー


1970年―1980年
ホーチミン廟の建設委員を務めます。

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1975年6月1日 子供たちにホーチミン主席
の話をするブーキー

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1975年7月18日 ホーチミン主席の遺体が完
成したホーチミン廟に移されます。翌年の旧正月
1976年1月27日、ブーキーがリーダー格となっ
て、ホーチミン博物館建設に賛同するスタッフを
引き連れ、ホーチミン廟に参拝します。(最前列右側。
隣の背が高くてサングラスをかけている人
がファンバンドン首相、首相はこの頃から既に目
の病気にかかっていたのかもしれません)

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1975年11月19日 ホーチミン博物館建設の
支援をするためベトナムを訪れたソ連のレーニン
博物館の代表団と会談するファンバンドン首相
とブーキー

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1977年2月13日 ホーチミンの父親の新しい
墓所の完成式典で記念撮影をするホーチミン
博物館建設担当委員会の代表団


1980年―1987年
ホーチミン博物館建設担当委員会の筆頭を務
めます。

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1985年8月26日 ホーチミンが独立宣言書を
書いたハノイ、ハンガン通り48にある家を再訪し
たザップ将軍とブーキー
ホーチミンが独立宣言書を書き始める前日、
「ベトナム独立同盟(ベトミン)」の総意として
ザップ将軍はホーチミンに向かって話しかけます。
「あなたが大統領をやるべきだ」と。


1987年―1990年
ホーチミン博物館の館長を務めます。

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1990年5月19日(ホーチミンの誕生記念日100周年)
の日に、ホーチミン博物館の除幕式が行われます。
左から共産党書記長グエンヴァンリン
(Nguyễn Văn Linh)、ブーキー、ファンバンド
ン顧問(前首相)

ホーチミン博物館の完成を機にブーキーは
第一線の仕事から引退します。


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1993年3月22日 ベトナム共産党の仕事に
一生を捧げたブーキーの人生に対してベトナム
最高の勲章である「ホーチミン勲章」が授与され
ます。


2005年4月16日
一生、ホーチミン主席に忠誠を誓ったブー・キー
氏は2005年4月16日朝4時にハノイの友好
病院(Bệnh viện Hữu nghị)で静かに息を引き
取りました。84歳。詳しい死因は明らかにされて
いませんが、長年闘病生活を送っていたそうで
す。



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