べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ファン・ボイ・チャウ


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Phan Bội Châu
生没年1867年12月26日-1940年10月29日

ファン・ボイ・チャウは1867年、ヴェトナム北部に
てファン・ヴァン・フォー(父)とグェン・ティ・ニャン
(母) の子として生まれました。

ファン家は由緒ある家系で、父は村で塾の教師
として漢学を教えており、母も漢字の知識があり、
ファン・ボイ・チャウは母の口授により
「詩経周南」の数編を覚え、6歳より父から漢学
の手ほどきを受け始めます。そして8歳で県試-
童子科に首席で通るなど、はやくから 文才を示
し始めたことが知られています。

その後、父親は地元の漢学者のもとにファン・
ボイ・チャウを弟子入りさせ、さらに勉強させま
す。

ファン・ボイ・チャウは勉学しながら、全国各地の
知識人に会い植民地政治の実態を見て、フラ
ンスに対する抵抗精神が芽生えたと言われてい
ます。

1885年(18歳)
18歳の時、母が死去し、栄養失調の妹2人と
働けなくなった父を抱えるファン・ボイ・チャウは文
筆をもって生計を立てます。

1886年-1896年(19歳―29歳)
19歳の時、同士を集めて「試生軍」を組織して
抗仏活動をしようとしますが、フランス軍の進軍
に抵抗できず、失敗に終わります。

1900年(33歳)
ファン・ボイ・チャウは郷試(地方公務員試験)に
合格しますが、この年に父が死去します。両親を
失ったファン・ボイ・チャウは革命運動を本格的
に開始します。 しかし最初の蜂起は計画が漏
れて失敗してしまいます。

1901年-1904年(34歳―37歳)
その後は慎重に計画を練り直していきます。フエ
の国子監の学生をしつつ、ベトナムの王族たちと
接触して盟主に擁立する人物を捜し、さらに北
へ南へと足を伸ばして同志を募っています。

1904年(37歳)
ファン・ボイ・チャウはベトナム北部に基地を作り、
フランスに抵抗していたデタムを訪問しますが、
意見が合わなかったようで、失望して帰ってきま
す。

ファン・ボイ・チャウは同志のグエン・タインと
「革命運動会」という秘密結社を組織。グエン
朝皇族のクォン・デ(Cường Để、グエン朝初代
皇帝の長子カインの第5代子孫)を盟主としま
す。「革命運動会」はその後「ベトナム維新会」
と呼ばれるようになります。

ファン・ボイ・チャウは堕落しきっていたフエ宮廷
を真っ向から批判しました。この批判はファン・チ
ュウ・チンやチャン・クイ・カップを始めとして、ベト
ナム革命の政治路線が異なっていた人々にも多
くの共感を与え、反仏運動の下地になって行き
ます。

「ベトナム維新会」ではフランスを放逐するために
必要な資材の収集、外国への援助要請が定め
られ、外国の援助を求めるためクオンデ候の代
理としてファン・ボイ・チャウが選ばれます。そして
どこの国に支援を求めるかということについて、
中国の清国は先の清仏戦争後にベトナムの宗
主権を放棄し内憂外患に苦しんでいることから
新進気鋭の日本に期待をかけます。日本はロ
シアを相手に戦果を挙げているところであり、兵
器を買うくらいの金なら出してくれるかもしれない
という推測のもと、ファン・ボイ・チャウは日本へ
行くことを決心します。しかし日本はフランス、そ
して後にイギリスから戦費を借りまくって戦争をし
ているのをファン・ボイ・チャウは知りませんでし
た。

後のホーチミン主席の姉や兄は「ベトナム維新
会」に協力して資金集めや武器の収集をしてい
ました。ファン・ボイ・チャウはしばしばホーチミンの
父親を尋ね、国政について語り合っています。


1905年(38歳)
ファン・ボイ・チャウは「ベトナム維新会」の会員2
人を伴ってベトナムを密出国して中国領内に潜
入し、広東、香港、上海を経て4月中旬に横浜
に上陸します。(1904年12月に出国したとの
説もあります)

横浜で清国戊戌(ボジュツ)の政変で清国から
日本に亡命中であった梁啓超に相談に行きま
す。(「越南亡国史」はファン・ボイ・チャウが書き、
梁啓超が出版したものです)。

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ファン・ボイ・チャウは梁啓超に率直に日本に来
た目的を話します。後のファン・ボイ・チャウの
「獄中記」によれば「フランスと戦う武器がほしい。
それを得てベトナムとは歴史的な繋がりのある広
東の軍閥の協力を求めて武装蜂起する」という
ものでした。

しかし梁啓超はファン・ボイ・チャウの意図してい
ることが無理なことを説得します。「日本は大国
ロシア戦っており、ベトナムに武器を回すほどの
余力は全くない。ベトナムを支援すれば、フランス
のみならず欧米諸国を敵に回すことになり、日
本にそのような決断はできない。」そして「日本に
は軍備の援助ではなく、外交援助を求めるべき
だと諭しました」。

梁啓超はさらに日本の実情やベトナムの現状を
理解してもらうために日本の政治家と会うことを
勧め、犬養毅、大隈重信、柏原文太郎などをフ
ァン・ボイ・チャウに紹介します。

犬養や大隈らは、日本政府がベトナム革命闘
争の為に武器援助をすることは無く、それより革
命の為の人材養成が先決であることや、運動の
象徴であるベトナム皇族のクォン・デ候を早く日
本に迎えるよう促します。この会談は筆談で行
われました

犬養はさらに留学生の受入先の相談者として
陸軍参謀次長の福島安正や東京同文書院々
長の根津一らを紹介してくれます。

ファン・ボイ・チャウはその後の数カ月間に多数
の日本政財界の要人の知遇を得ます。その中
には後藤新平、頭山満などの名もありました。

彼らからのアドバイスで「ベトナム独立のためには
まず人材育成が必要であることを悟されたファ
ン・ボイ・チャウは2つの決断をします。

1.「ベトナム維新会」のリーダーであるクオンデ
候を日本に亡命させること、
2.ベトナムの青年を日本に留学させること

7月、ファン・ボイ・チャウは体制を立て直すため
一旦ベトナムに帰国します。

帰国したファン・ボイ・チャウは、「勧遊学文」を
作成してベトナム国内に配布し、ベトナム青年の
日本留学を進めるとともに、日本国内での受け
入れ準備を進めていきます。

そして「ベトナム維新会」リーダーをしていたクオン
デ候に日本へ行くことを薦め、クオンデ候はベト
ナム独立のため喜んで引き受けます。

ファン・ボイ・チャウはホーチミンにも日本への留
学を薦めますが、ホーチミンの父親は断りまし
た。

1906年(39歳)
1月、ファン・ボイ・チャウは再び訪日し、グエン朝
皇族のクォンデ候とファン・チュウ・チンを迎え入
れます。

13
左がクォン・デ、右がファン・ボイ・チャウ

ファン・ボイ・チャウは日本の実情が解るに従い、
ベトナム民衆と日本人の意識の格差に愕然とし
ていたファン・ボイ・チャウは、「越南亡国史」、
「遊学を勧むる文」、「海外血書」などを次々と
書き上げベトナムに送り込みます。


1907年(40歳)
ベトナム北部の青年4人が留学のため日本へと
旅立ちます。留学生4人は中国人の為の軍人
養成校「振武学校」と東亜同文会の運営する
中国人のための学校「東京同文書院」へ入学
します。

いわゆる「東遊運動」が始まりました。

その後、留学生は順調に増えていきましたが、ほ
とんどの留学生が密入国だったので、中国人に
なりすましていた留学生がたくさんいたそうです


東京同文書院はこれらの留学生のために教室
や寮を増設し、軍事教練も組み込んだ特別科
をつくってベトナム留学生を受入れました。

ベトナム本国では、「ベトナム維新会」が宣伝文
書の配布や資金集め、留学生の送り出しを組
織的に担当しました。

ホーチミン主席の姉グエン・ティ・タンもファン・ボイ・
チャウが組織した「維新会」のメンバーとして
資金集めや武器の獲得に走り回った1人です。

日本に戻ったファン・チュウ・チンはファン・ボイ・
チャウの「東遊運動」の精神をベトナム国内にも
広げるために、日本の慶応義塾をまねてハノイ
北方に「東京義塾」と名付けられた学校の設立
に努力します。
「東京義塾」は新時代に対応できる進歩的な愛
国的青年の育成を目的をし、学費は無料でし
た。

そして地方にも「梅林義塾」や「玉川義塾」が設
立されました。

日本は日露戦争経費の2/3を外債を発行して
欧米から調達していました。フランスも調達先に
入っていましたので、フランスとの間に「日仏協
定」を結びます。「


1908年(41歳)
東遊運動はピークを迎え、在日ベトナム留学生
は200人を越えたと言われています。

フランスは「東遊運動」の動きに危機感を覚え、
留学生の親族や支援者に対し摘発を始めまし
た。日本政府に対しても「日仏協約」にしたがっ
て留学生の取締まりを要求してきます。

日本政府は留学生の国外退去命令を出し、
留学生はフランス官憲の逮捕を恐れ、多くは中
国やタイへ逃れました。しかし退去命令にもかか
わらず日本に残った留学生を抱え込んだファン・
ボイ・チャウは、資金も底をつき生活は困窮を極
めていました。

借金のあても無くなったファン・ボイ・チャウは、以
前行き倒れになった同志の阮泰抜を助けてくれ、
そして東京同文書院への入学手続きや学費ま
で払ってくれた、浅羽佐喜太郎先生にお願いす
るほかはないと阮泰抜に相談をします。阮の件
があり、浅羽佐喜太郎は義侠の人としてベトナ
ム留学生の間でも良く知られていました。

ファン・ボイ・チャウは窮状を書き、阮に書状を託
します。しかし、浅羽佐喜太郎のこれまでの厚志
に何のお礼らしきこともできていないのに、また援
助を求めるのは厚かましいことだと心苦しく思っ
ていました。が、朝持たせた手紙の返事が夕方
には戻ってきました。手紙と一緒に1,700円と
いう大金が出てきました。(当時の東浅羽小学
校の校長の月給は18円でした)

その手紙には『手元には今これだけしかありませ
んが、またお知らせ下されば出来るだけのことを
します。』と簡潔な手紙ながら、温情のある言葉
が添えられていました。

14
浅羽佐喜太郎

1909年(42歳)
3月、クォン・デ候とファン・ボイ・チャウも日本政
府から国外退去を命令されます。10日以内の
退去を命令されたファン・ボイ・チャウは、数々の
浅羽佐喜太郎の支援へのお礼と別れの挨拶のために、
小田原・国府津の浅羽邸を訪ねます。
阮に紹介され、まず今迄の不義理を詫びますが、
佐喜太郎は早々にファン・ボイ・チャウの手をとり
招き入れ歓待をします。佐喜太郎はよく飲み、よ
く談じ、ファン・ボイ・チャウらを守れなかった大隈
や犬養を酷評します。

ファン・ボイ・チャウも日本に失望して香港に活
動拠点を移し, 次にタイへと移っていきます。

1912年(45歳)
タイで暫く過ごしていたときに中国で革命が発生
し、中華民国が成立したとの知らせを聞いたファ
ン・ボイ・チャウは孫文率いる国民党の助力を得
るため上海経由で香港へ戻ります。

国民党の快諾を得ると、ベトナム愛国者達が集
まっていた広東で孫文の国民党にならい「越南
光復会」(Vietnam Quang Phuc Hoi)
を結成し、会長に就任します。

「越南光復会」は「仏賊を駆逐し越南を回復し
て共和国たる越南民国を成立させる」事を主旨
としていました。そしてベトナム本国でテロや暗殺
を繰り返して行きます。


1913年(46歳)
3月、サイゴンの植民地政庁爆破テロで口火が
切られ、4月にはビン市で政府役人を暗殺。そ
の2週間後にはハノイのホテルに爆弾が投げ込
みフランス人2人を殺します。この事件で250余
人が逮捕され、9人に死刑判決、7人がギロチン
で首を落とされます。残る2人は亡命中のファ
ン・ボイ・チャウとクオン・デ侯で、逮捕されればた
だちに死刑が執行される状況でした。


1914年(47歳)
ベトナム国内で「維新会」が保管していた手投げ
弾が暴発し、関係者が逮捕され14人に死刑が
宣告されます。ファン・ボイ・チャウも欠席裁判で
死刑宣告を受けます。


1914年―1917年(47歳―50歳)
1914年 ファン・ボイ・チャウは、専制を強めて
いた中国 袁世凱の軍隊によって逮捕され広東
の監獄で過ごすことになります。
ファン・ボイ・チャウが何故逮捕されたのかは、ま
だ勉強していません。

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1917年 中国広東は袁世凱支配下の竜済
光が敗れてファン・ボイ・チャウ釈放されます。そ
の後のファン・ボイ・チャウは日本、中国を転々と
しながら活動を継続し「ベトナム国民党」結成に
向けて動き出したりしていたようです。


1918年(51歳)
日本退去後9年、1918年ファン・ボイ・チャウが
日本の土を踏んだ時には浅羽佐喜太郎はすで
になく、佐喜太郎への報恩のために立てられた
のが、静岡県浅羽町梅山の常林寺にある大き
な記念碑です。




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ファンボイチャウが建てた報恩の碑

フエ市と日本の静岡県袋井市はファン・ボイ・チ
ャウを絆に現在でも交流が続いています。

1924年(57歳)
グエン・アイ・コック(後のホーチミン主席)がソ連
の工作員ボロディンの通訳として広東に派遣さ
れてきます。
グエン・アイ・コックは15歳の時、日本への留学
を進められたファン・ボイ・チャウと劇的な出会い
を行います。二人はベトナム革命路線について
徹底的に話し合いましたが、ファン・ボイ・チャウ
がコミンテルンの政治路線に迎合することはあり
ませんでした。ファン・ボイ・チャウ57歳、グエン・
アイ・コック34歳でした。結果的にこの後のベト
ナム革命はグエン・アイ・コックによって引き継が
れていきます。

「越南光復会」の活動は停滞していましたが、グ
エン・アイ・コックは「越南光復会」のメンバーと会
って、マルクス・レーニン主義による革命の道を
説きます。

1925年(58歳)
ファン・ボイ・チャウが中国の国内旅行に出かけ
た後、グエン・アイ・コックは集会を開き「世界の
被抑圧・未開発の人民・アジア局・ベトナム支
部」を結成し、
1.ベトナム人民の愛国精神を高める
2.べトナム国内の抵抗闘争への財政支援を行

ことを活動目標におきます。

ファン・ボイ・チャウの側近ラム・ドゥック・トウが資
金集めのため、ファン・ボイ・チャウにかけられた
賞金目当てに、香港のフランス領事館に勤務し
ているヴィという人物にファン・ボイ・チャウの動静
を連絡し、ファン・ボイ・チャウに電報を打ちます。

「世界の被抑圧・未開発の人民・アジア局・ベト
ナム支部」の結成式典を開くので出席してほし
いと。

ファン・ボイ・チャウの乗った列車が上海駅に着
いた途端、ファン・ボイ・チャウはフランス官憲に
逮捕され、フランス軍艦でハノイに送られ、裁判
にかけられます。

この事件にグエン・アイ・コックが関与していたか
どうかは定かでありません。ベトナム共産党は勿
論、関与を否定していますが「将来の競争相手
になりそうなファン・ボイ・チャウを排斥した」とする
記述もあります。

11月23日 フランス軍事法廷はファン・ボイ・チ
ャウに対してフランス人に対するテロ行為の罪状
で終身懲役刑を宣告します。

中国の主権を侵害して逮捕したこの事件は世
界の関心を呼びファン・ボイ・チャウの恩赦を求
める世論が盛り上がり、新しくインドシナの総督
になったヴァレンヌは関係者の意見を聞き、12
月24日ファン・ボイ・チャウに恩赦を与え釈放し
ますが、ファン・ボイ・チャウはフエで自宅軟禁さ
れ、政治生命が閉ざされます。

政治路線は異なっても同志であったファン・チャ
ウ・チンはフランスから帰国した1926年ファン・
ボイ・チャウの釈放を聞き、会いに行こうとしまし
たが病床にあり、叶いませんでした。ファン・チャ
ウ・チンは翌年3月死去します。


1940年(73歳)
失意の内に過ごしていた彼のもとに何人かの学
生がこっそりと通い、その中にはやがてホー・チ・
ミンの右腕となるボー・グエン・ザップも交じってい
ました。

ザップ将軍は当時を省みて語っています。ファ
ン・ボイ・チャウは「日本のことも話してくれた。ベ
トナムがどうすればいいかも。話を聞いているとじ
っとしていられなくなった」と。

10月29日 軟禁状態のまま、ファン・ボイ・チャ
ウはフエの自宅で死去します。
最期の言葉はベトナム人が語ることを法律で禁
止されていた正式の国名「ベトナム」だったそうで
す。

ファン・ボイ・チャウの死去1カ月前、彼が武器
援助を依頼しに行った日本は軍隊を北部ベトナ
ムに進駐させ、その後フランス軍を駆逐すること
になります。


フエにはファン・ボイ・チャウの記念館があります。
住所:121 Phan Boi Chau St., Hue

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ファン・ボイ・チャウの頭像
この像はベトナムの彫刻家レ・タイン・ニョンによ
って1973年に建立されたもので、高さ3m、重
量が5トンあり東南アジア最大の頭像とされてい
ます。

2012年3月25日、この頭像はフオン川沿岸の
レロイ通り19番地のファンボイチャウ公園に移
動されました。


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ファン・ボイ・チャウの住居(レプリカ)

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ファン・ボイ・チャウの墓


サイゴンではベンタン市場の東側出入口前の通
りが、ファ・ボイ・チャウ通りと名付けられていま

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ホーチミンの父親の墓
100  晩年

Nguyễn Sinh Sắc(阮生色)
別名 Nguyễn Sinh Huy  Cụ Phó bảng
生没年 1862年―1929年

父親は1911年サイゴンでホーチミンのフランス
への船出を見送ってから、南部ベトナムに留まり
、故郷に帰ることはありませんでした。そして2度
と家族に会うことはありませんでした。

1926年にはフランスで息子の面倒を見てくれて
いた旧知のファンチュウチンがサイゴンに戻ってき
たので、ミトーで会い、いろいろと息子の現況を
聞いたようです。

死の1年前ぐらいからは、息子のグエンアイコック
(後のホーチミン主席)が中国広東で結成した
「ベトナム青年革命同志会」の南部支部の人々
と頻繁に連絡しあっていて息子の活動を影なが
ら応援していたようです。

彼自身は小乗仏教の教えが愛国心に通じると
ころがあると信じて、僧侶の鹿資格を取り、托鉢
をして土地の子供達の教育や愛国心を説いて
周り、生涯を閉じました。

ホーチミン主席の墓所はハノイのバーディン広場
にありますが、父親の墓所は南部ベトナムのドン
タップ省カオランにあります。

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1945年ホーチミンがベトナムの独立宣言をして、
大統領になってから1954年フランスがヂエンビ
エンフーの戦いで大敗するまでベトナムの兵士が
密かに父親の墓を守ります。

102 (3)
墓が現在の場所に移動したのはベトナム戦争
後の1975年です。

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現在の墓所の入り口

ホーチミン主席は遺言で、「火葬にして北部、
中部、南部の丘に埋め、人々が休める休憩所
を造ってほしい」と願いましたが、ベトナム共産党
は政治的理由から、遺言は現在でも実行してい
ません。

その反動からか、父親の墓所は1ヘクタールの
広大な土地に植林がなされ、休憩所が造られ、
息子のホーチミンが住んだハノイの私邸と池の
レプリカが墓所内に造られています。

ホーチミン主席の遺言の政治的理由からの
不実行は、「これで勘弁して下さい」と訴えている
ような造りです。

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納骨堂までの道途中の植林と休憩所


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休憩所

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墓石

107
墓所の中心全景
墓所全体は外壁に囲まれていて1ヘクタールあ
ります。一番奥が納骨堂。手前にはベトナムの
5星を模った広場があります。

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納骨堂

109.jpg
土葬ですが、骨は移動時に1度洗浄されている
かもしれません

110_20120626142743.jpg



納骨堂の反対側には托鉢をしている父親の像と
ホーチミン主席が死去するまでのハノイの私邸
と池のレリーフが原寸通りに造られていて、親子
が一緒に住めるように配慮されています。


111_20120626142742.jpg
托鉢姿の父親の像

112_20120626142741.jpg
ホーチミン主席の私邸と池のレプリカ

サイゴンの西バスターミナル(BX Mien Tay)から
カオランまで直行バスが運行されていて、約3時
間で到着しますで、日帰り旅行が可能です。

ホーチミン主席の足跡  1910年捕捉

1910年 グエン・タッ・タン(後のホーチミン主
席)の父親は官職を追放になってしまった
ので、グエン・タッ・タンも学校へ行けなくなり
就職を自活の道を探さねばなりませんでした。
父親はグエン・タッ・タンの就職を助けるため
旧知親友であったフエ宮廷の官僚チュン・
ヤー・モ(Trương Gia Mo)に就職斡旋の
手紙を書きます。

捕捉1
チュン・ヤー・モ


チュン・ヤー・モは愛国者達によって運営されて
いたファンティットにあるドゥクタン学校で教師を
しているホー・タ・バン(Hồ Tá Bang)を紹介し、
ホーチミンはその紹介状を持ってドゥクタン学校
を訪ねたのです。

捕捉2
ホー・タ・バン

1911年9月19日 ドゥクタン学校での予備
教師の職に着いたグエン・タッ・タンは第2
学年の中国語とベトナムの国語(クオック・
グー呼ばれます)教えていましたが、時間の
あるときには生徒達をファンティットの海岸
に連れて行き、課外授業をよく行ったそうです。 

当時の生徒の1人だったNguyỗn Kinh Chi
はその後医者になり、ベトナム民主共和国の
建国と共にホーチミン内閣の厚生副大臣に
なります。

1907年に設立されたドゥクタン学校の創立
経緯にはファン・チュウ・チンも関与しています。
この当時はファン・ボイ・チャウの東遊運動の
影響で、全国にベトナム独立のために次代を
担う人材の育成が急ピッチで行われていた
時代背景があります。

学校の運営は2人のベトナム人によって運営
されていましたが創立資金や学校の運営資金
はHuỳnh Văn Đẩuという地元の名士と
「Liên Thành Thương Quán」というヌックマム
の製造会社が負担していて、学費は無料でした。

ファンティットはフーコック島と並んで、魚から造る
醤油「ヌックマム」の二大産地で、Liấn Thành
会社はファンティットで製造されたヌックマムを
サイゴンに移送し、サイゴン港から輸出していま
した。

̉
6カ月間、ドゥクタン学校で教師をしていた時に
グエン・タッ・タンはフランスへの海外渡航の夢
を同僚達に話します。

同僚の愛国者ホ・タ・バンとチャン・レ・チャ
(Trần Lệ Chất)は海外に行くには何よりも
サイゴンに行って渡航のチャンスを掴まねば
ならないと話し、グエン・タッ・タンのサイゴン行き
が実現するよう諸手配をしてくれます。

捕捉3
チャン・レ・チャ

彼らはグエン・タッ・タンの為にサイゴンの
「Liên Thành」会社へ行くように薦め、
サイゴン到着時の当面の居住先として
チュン・ヤー・モの母方の親戚レ・バン・ダット
(Lê Văn Đạt)の家を紹介します。

さらに「Ban Va」と言う名前でグエン・タッ・タン
のパスポートを取得してくれます。
この「Ban`Va」青年がホーチミン主席の第1号
の偽名です。


そして1911年3月、グエン・タッ・タンは
ドゥクタン学校を後にし、サイゴンに向かいます。
>


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