べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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78 ホーチミン主席の足跡 死後 その1 ホーチミンを語る
ヴォーグエンザップ将軍は「ホーお
じさんは全生涯を祖国解放に捧げた戦士だ。民衆を
愛し、全人類を愛した。しかし私個人の感想を言え
ば実に率直な人で人間を最も尊敬している人だった、
ヒューマニストだった。彼は偉大な人物だが、非常にシ
ンプルな人間なのだ。彼はベトナムの民衆に独立と自
由、幸福をもたらす事だけ考えていた。彼は始終
“人間は金持ちの国と貧乏な国とで違うはずがな
い” と言っていた。ベトナム革命は人間革命なのだ。
私はこれを胡志明ヒューマニズムと呼びたい」と語る。


ファンバンドン元首相は 「胡志明
主席、民族の精華と気迫、時代の良心、それはベト
ナム民族の心に永遠に生きるだろう。おじさんは我が
人民の革命事業に永遠に生き、そしておじさんがまい
た種子は、わが祖国を永遠に美しい春とするだろう」と
語る。


哲学者・吉野源三郎氏は「人類の歴史上でベトナム
革命はやがてフランス革命やアメリカ独立戦争に匹
敵する位置づけを持つだろう」と語る。


ベトナム共産党一幹部は「胡志明の詩はさしてうまく
ないかもしれない。だが毛沢東の詩と比べると違いは
極めて明白だ。毛沢東は詩の中で自分を帝王にたと
え、人民を見下している。しかし胡志明の視座は常に
人民と同じところにある」と語る。


江沢民総書記(元中国国家主席)は「ベトナム人民
の偉大な指導者、中国人民の親密な友人、胡志明
主席は永遠に朽ちることはない」と綴る(2002年2月
訪越、ホーチミン廟参拝の際)。


「アメリカはホーチミンが共産主義者であることを過大
評価しすぎ、彼が民族主義者であることを過小評価
しすぎてしまった」と。
アメリカの国務長官であったマクナマラのベトナム戦争
の回顧録

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77 ホーチミン主席の足跡 1969年その6 ホーチミン廟の建設

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ホーチミン主席の遺体の保存に加えて、霊廟を建設する
ことはベトナム議会とベトナム労働党中央委員会の最
大の関心事であり、課題でした。どちらも主席が望んだ
ことではありませんが。

建設に当たり、旧ソ連は設計図の段階から協力し、数名
の代表団をベトナムに派遣し、全面的な支援を行います。

ベトナム国内においても霊廟の建設に貢献したいと多
くの建築家、技術者、兵士、一般人が協力を申し出、国
家的事業として、霊廟の建設が行われます。
主席自身は、戦争中でもあり、生活が苦しい庶民の生活
を思い、遺言でも自分の葬式には金をかけないように言
い残しているのですが、国民の主席に対する思いはそれ
をはるかに上回っていました。

国民の建設に対する貢献の熱望に答えて、中央委員会は
霊廟のデザインを公募することを決定します。

いくつかのデザインの候補が選ばれ、さらに国民の意見
を聞くために、ハノイ以外の各地の省で展示会が行われ
ます。展示会には1745487人が訪れ、34022
通のコメントが寄せられます。

多数のデザインから斬新かつベトナムの伝統的要素を
組み合わせた最終デザインが決定されます。

基本構造は3段階の基壇、5つの部屋、3層の屋根とい
う構造になりました。

1971年11月3日、主席の一番弟子で首相のファン・バ
ン・ドンは霊廟建設の書類に正式に署名し、副首相のド・
ムオイを最高責任者に任命します。

しかしながら、不幸にもアメリカ軍の攻撃が激しくなり、
被害がハノイにも及ぶかも知れないという危惧から、建
設は一時延期されたままになります。

建設が再開されるのは、1973年1月28日、アメリカが
パリ和平会議に署名し、ベトナムから引き上げることが
決まってからでした。

軍隊が建設の中心となり、北ベトナム国民や旧ソ連の支
援者が作業を開始します。しかしこの年、旧ソ連には支
援金額が予算に計上されておらず、近代的な建設機械は
旧ソ連の会社がベトナムに貸与するという形式で始ま
ります。

旧ソ連の会社はホーチミン主席の霊廟建設に必要な建
設機械を優先的にベトナムに送ってくれました。ベトナ
ム国内でも霊廟建設に必要な物資の運搬には最優先の
旗が立てられます。ハイフォン港や鉄道駅をはじめ、建
設に必要な機械器具や材料が各地から送られてきます。

霊廟の基礎工事には1200本のパイプを埋め込まねばな
らず、その作業は雨季が始まる8月には終了させねばい
けませんでした。この時間との戦いに、ベトナムの要職
にあった人も、教師や学生も建設作業者に協力して一緒
になって働きました。そして建設開始から60日後、基
礎工事は完成します。


第2ステップは霊廟の本体の建設です。この建設には多
くの人員よりも多くの技術者や多くの時間が、そしてす
べての原材料に最高品質のものが要求されました。高品
質の材料は主席の遺体の永久保存には欠かせない要素
なのでした。

最初の課題はセメントでした。当時のセメントは品質が
悪く、新たに高品質のセメントを開発しなければなりま
せん。新たな高品質のセメントはThuy Nguyên地方の岩
石や土を使って新しい技術によって作り出されました。
そして大量のセメント袋には「Đ̀i đ̀i nhớ ơn Chu tich
Hố Chí Minh vĩ đau (偉大なホーチミン大統領は永遠)
と印刷されました。

砂利は現在のThái NguyênとBắc Can省に住む少数民族
の採石場から運ばれました。

そして黄砂と呼ばれる高品質の砂は砂は以前のフラン
ス調査団の調査によればロー川(Lô River)のものがベ
ストとありましたが、多くの砂のサンプルを検証した結
果、Hoà Bình省のBôi River産を使うことに決定しまし
た。
Hoà Bình省に住む少数民族はこのイエローサンドを総
出で袋詰めし、トラックでハノイに運びました。

旧ソ連からの建設機械は1974年になってベトナムに搬
送されてきました。しかし機械の設置や操作はベトナム
側で行うことになっていたので、霊廟建設に携わってい
る兵士を管轄する国防省は高級技術者をかき集めます。

ドアーや手すりなどに使用される木材は樹齢数百年の
Nuという木材が使われています。この木材は中部ベト
ナムで軍務についていたベトナム解放民族戦線の兵士
たちがチュオンソン山脈から切り出し、ハノイに送って
きたものでした。

霊廟本体のコンクリート工事は1日200m2の進捗
を400m2にして、予定期間内に完成させます。

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そして内装工事と霊廟周囲の整地や環境整備が行われ
ます。

内装工事は霊廟全体の工事期間の50%を占める時間が
費やされています。

内装、外装の職人はベトナムには優れた人がたくさんい
ましたが、石材の切断などは旧ソ連で行われ、20000ピ
ースの大理石や花崗岩は旧ソ連から搬送され、ベトナム
産の石材とともに使用されています。

霊廟上部(Pedimen)にある「Chu tich Hô Chí Minh」と
いう文字はCao Bắng省から運ばれたルビーの原石に彫
られました。ルビーはホー主席の頭部に面した壁にも使
用されて、荘厳な雰囲気をかもし出しています。

電気設備、水道工事、空調設備、排気設備、電話工事、
ビデオシステムなどはベトナム人技術者にとっては始
めての経験でしたが、彼らの情熱は外国人技術者が賞賛
するほどの出来栄えでした。

100000人収容できるバーディン広場を始め、霊廟周囲の
道路が再構築され、霊廟の周囲にはホー主席が大事にし
た全国各地から送られた木々が植えられました。

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完成したホーチミン廟


そして1975年7月18日午後8時、労働党と国会の
すべてのリーダーが整列する中、ホーチミン主席の遺体
は完成した霊廟正面に到着します。最後の6回目の移動
でした。

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1945年、この場所で独立宣言を読み上げたホーチミン主
席は、フランスと戦い、アメリカと戦い抜いて、国土の
統一を勝ち取って、30年ぶりに帰ってきました。

1975年8月22日、霊廟の完成がベトナムの全国民に発
表され、披露されます。第144軍から選ばれた150人の
儀仗兵がホーチミン主席を守り続けます。

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戦争で疲労していて、金のなかった北ベトナムが、金に
糸目をつけず、外国の援助の下に建設したホーおじさん
の霊廟、ホーおじさんは夢の中できっと怒っているよう
な気がします。


コラム
バーディン広場
1886年 愛国的知識人はフランスの侵略に抵抗するため
にタインホア省ニャソンの3つの村に反抗基地をつくり、18
87年にフランス軍に負けるまで3つの村にフランス侵略軍
を閉じ込めました。

フランス侵略軍は抵抗者を男女容赦なく斬首してしまいま
す。ハノイのバーディン広場は北部ベトナム人のフランス侵
略軍に対する勇気ある抵抗の精神を象徴するために命名
されました。

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バーディン広場(Ba Đình)のBa=3、Đình=村 を意味しま
す。
ほぼ60年後の1945年にホーチミンはこの広場で、ベトナ
ムの独立宣言を読み上げたのです。>
76 ホーチミン主席の足跡 1969年 その5 遺体の移動
<再掲>

1969年9月9日に国葬は終了します。国葬の終了は主席
の遺体が安住の地を求めて放浪する始まりでもありました。
ベトナム戦争で北ベトナムへの空爆が激しさを増してきたから
です。

<1回目の移動>
国葬後すぐ労働党中央委員会は、空爆から主席の安全
を守るため、ハノイからの移転先を求めます。移転先はハタイ
省のBa Vì軍事基地へ行くときに、主席がよく昼食をとった
ダー川の丘の上と選定されました。主席はかつて、戦争が拡
大した場合には、この地に中央委員会の秘密基地を作るこ
とを決定してい束所です。

高級工兵隊と第144師団が移転プロジェクトの任命を受け
ます。このプロジェクトはK9と呼ばれました。

プロジェクトはこの場所の地下にシェルターを築き、水や電力
設備を整えることが必要でした。

シェルターは地下6mに幅5mが必要で、爆薬を使わず
1800個の手動ドリルで作られ、3トンもある鉄ドアーもクレーン
が使えず、レンチで6m地下に下ろされました。

遺体は螺旋レールによって、水平に振動や傾斜させないで
降ろすことになりました。

そして水の供給は川からではなく地下水を利用し、電気の
供給には3台のディーゼル発電機が採用されました。

最後の問題は遺体の運搬方法でした。ヘリ、船、車両のう
ち、最終決定は車両となり、通過道路は振動を抑えるた
め、事前に整備されました。

棺の積み上げや積み下ろしの練習は何回となく行われまし
たが、その過程で棺の下部と兵士の首を皮ベルトで結び、
兵士がスリップしても棺が地面にたたきつけられないようにしま
した。

1969年12月末、午後11時、ホーチミン主席を載せた特
別車両がプロジェクト75を出発しました。車両にはDr.
Quyênとロシアの技術者が主席の傍に乗り、常に遺体の状
態が監視出来るよう陣取りました。しかしこの席は主席の遺
体を冷やすため、大きな氷が積み込まれていたため、非常に
寒かったことは間違いありません。

勿論、この移動はトップシークレットで、遺体を守る兵士たち
は、地元の住民とも接触を絶たれ、食料も自給自足に近い
生活を強いられました。しかし彼らのホーチミン主席に対する
尊敬の念は絶大で、現在では「隠れた英雄」と称されていま
す。


<1970年>

1970年の初めには第69軍団が組織され、遺体の警護を
専門に担当するようになります。彼らは軍服を着ることは認め
られず、地元民との接触も禁じられていたため、この施設は、
地元民からは脱走兵の再教育キャンプ場と思われていたぐ
らいです。翌年のテト正月も野菜とトウモロコシ入りのご飯で
過ごさねばなりませんでした。彼らの任務はホーチミンの遺体
を最善のレベルに維持するとともに、労働党中央委員会の
訪問に対応することでした。

1970年8月、労働党中央委員会の代表団が訪れ、主席
の遺体が完全な状態に維持されていることを確認してから
は、この軍団が南北統一の日までホーチミン主席を守りま
す。


<2回目の移動>
1970年11月20日の夜、アメリカ軍の戦闘機とヘリが捕虜
となっているアメリカ軍パイロットを救出するため、近くのハタイ
省にある刑務所を急襲しました。

ベトナム労働党は最新鋭のアメリカ軍の偵察機によって、こ
の廟も発見され、攻撃されかねないと判断し、主席をハノイ
に呼び返すことを決定します。

ハノイへの帰還は前回の経験から、順調に実施されました。
ハノイに着いた兵士の待遇も少し向上しました。しかし依然
として移動はシークレットですので、兵士の手紙は開封され、
外出も不自由でした。


<1971年>

<3回目の移動>
1971年末、紅川の水位は14.1mにもなり、雨は止む気配
がなくハノイ市は大洪水になってしまいそうな気配でした。遺
体を管理する69軍団はすぐにK9の丘に遺体を移すよう進
言します。

移動準備は水位との戦いで、急いで行われ、悪天候のため
昼間の移動が許可されました。国防省のリーダーが直接指
揮をとり、車両には最優先の旗が掲げられました。途中で主
席を乗せた車両は洪水の道路を走れず、小さな車両に遺
体を移して、大型車両の上に乗せて走るというハプニングが
ありましたが、無事K9に着きました。

そしてアメリカ軍の攻撃に備えて、歩兵と砲兵部隊が秘密
裏に配置されました。


<1972年>

<4回目の移動>
1972年に入るとアメリカ軍は北ベトナムに対して激しい空爆
で破壊活動を行い始めました。北ベトナム政府は再び遺体
の避難を決定します。69軍団は数人の兵士に移転先を探
させます。

探し当てた場所はK9から15Km離れたダー川の傍の洞窟
でした。そこは高山の麓で森に囲まれた谷でした。ここはK2と
名づけられ、施設や道路整備は20日間で仕上げられまし
た。そして遺体は完全に無傷で移動に成功します。


<1973年>

<5回目の移動>
1973年になると、アメリカ軍はベトナムから引き上げます。そ
して遺体は主席のお気に入りの場所、K9、Ba Vìに戻されます。


<1975年>

1975年ベトナム戦争が終結しても、主席の遺体が埋葬され
ることはありませんでした。15年に及んだ戦争がベトナムに残
した傷は、あまりにも深く、300万人が死に、爆撃で焼かれた
緑豊かな国土はベトナム人自分の手で立ち直らせなければ
いけませんでした。その為にはホーチミンというシンボルが必要
だったのです。

<6回目の移動>
1975年7月18日午後8時、バーディン広場に新築された
ホーチミン廟に移され、今日に至っています。

75 ホーチミン主席の足跡 1969年 その4 ホーチミン主席の国葬
ベトナム戦争の最中、1969年9月9日 ハノイ バーディン
広場でホーチミン主席の国葬が行われます。

75 (1)
棺を守るベトナム労働党幹部
レ・ズアン、チュオン・チン、トン・ドゥック・タン、ファン・バン・ド

質素な軍服をまとったホーチミンの遺体の足元には愛用の
ゴムのサンダルが供えられました。

75 (2)
棺を守る南ベトナム解放民族戦線の女性兵士


75 (3)
ホーチミンの親戚ら

75 (4)
各国の参列者

75 (5)
キューバ代表団

75 (6)
南ベトナム臨時革命政府の代表団(Nguyen Huu Tho,
Trinh Dinh Thaoら)

75 (7)
南ベトナム解放民族戦線の代表団

75 (8)
中部高原の少数民族代表団



75 (9)

75 (10)

75 (11)

75 (12)
「悲しみを革命的エネルギーへ」と訴えるレズアン。ホーチミン
の後継者になります。


75 (13)
ホーチミンの愛弟子ファン・バン・ドン首相

75 (14)
ホーチミンの片腕 ヤップ将軍

75 (15)
ホーチミン死去の特集記事を組む日本の新聞


南ベトナムの解放区でのホーチミンの追悼式

75 (16)

75 (17)
カンボジアとの国境地帯



75 (18)
南ベトナム解放区

75 (19)
ロンアン省

75 (21)

75 (22)




74 ホーチミン主席の足跡 1969年 その3 ホーチミン主席の遺言

1965年5月15日、主席は3ページに渡る遺言を
自らタイプしました。これが正式な遺言で主席と党第
一書記のレズアンが署名しています。

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ホーチミン主席が遺書を書いたことを受けて、ベトナム
労働党中央委員会政治局メンバーは秘密裏に会
合を開き、2つの決定をしました。

1. ホーチミン主席の健康を維持すること。
2. 彼の遺体の長期保存のための準備をすること

ホーチミン主席の火葬にして欲しいという遺言は、生
前からすでに希望に添えない決定がなされてしまって
いたのです。



1968年に6ページにわたり手書きの補足文を書いて
います。

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1969年5月10日にさらに1ページの補足文を手
書きします。

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ホーチミンの遺言要旨
(全文の翻訳はまだ出来ていません)

「戦争に勝利した暁には、支援してくれた人々がいる
国々に代表団を派遣し、感謝の気持ちを伝えること」

「戦争に勝利して独立と自由を達成したら、国民の
幸福に思いを致すべし」

「戦争に勝ったら農業税を一年間免除すること」

「地方機関は負傷者や殉職者の父母,妻子で困窮
しているものに適切な生計の道を立てられるようにし、
けっしてかれらが飢えたり凍えるままに放置してはなら
ない。」

「私の遺体は火葬にして、遺灰を3つにわけ、北部、
中部、南部の人たちのために、それぞれの地域の丘
陵に埋めてほしい。丘陵には石碑、銅像を建てず、
訪問した人たちが休むことができるような建物、記念
に植樹ができるようにしてもらいたい。日が経てば、森
林となるだろう。」 

「山もある、川もある、人もいる、アメリカに勝ったら築き
あげよう、 今よりも10倍も美しく」


1969年9月3日、主席の死の翌日の午後、第3回
中央委員会の特別部会が開かれました。

遺言が中央委員会のメンバーには公開されたのか、
レ・ズアンが遺言の内容を報告したのか不明です。

国葬でホーチミンの遺言がレ・ズアンによって紹介され
ますが、当時の状況下で実施することが出来なかった
ことや不都合な事項、すなわち、農業税の免除と火
葬に関しては削除されて朗読されました。

しかし故人の遺書を改ざんし、ホーチミンの遺言を守
らなかったことがベトナム戦争勝利後のベトナムを窮
地に追い込んでいきます。ベトナム国民は「幸福」どこ
ろか、カンボジア進攻後の国際社会での孤立で世界
最貧国の一つに転落してしまいます。

世界最強の国、米国に勝ったと独善的に思い込ん
でしまったレ・ズアン政権はベトナムは自力で何でも出
来ると過信して、「感謝」を通じて国際関係の絆を強
めるのを怠ったのです。

「人間にとって「独立」と「自由」ほど尊いものはない。
しかし、国家としてそれが達成した暁には、「幸福」す
なわち国民生活の向上を図らなければ「独立」と「自
由」さえ絵に描いた餅になってしまう。」これがホーチミ
ンの気持ちでした。

ベトナム共産党がそのことに気づき、「ドイモイ(刷
新)」政策に着手したのは1986年の党大会でした。
レ・ズアンの死を待ってからです。

ホーチミン主席の遺言は生誕百年にあたる1989年
に全文を公表することが決定され、国民には翌1990
に公表されました。

73 ホーチミン主席の足跡 1969年 その2 ホーチミン主席臨終
1969年8月頃からホーチミンの健康は急激に衰弱し
ていったようです。

彼は最後の著書となった「Raising Revolutionary
Ethics and Wiping out Individualism」を書き残しま
す。アメリカとの抗米救国戦争の勝利が見えてきたこ
の時期に、彼は革命の精神を改めて兵士や国民に
伝えておきたかったのです。

彼のドクターはホーチミンに医療施設の整ったハウス
67へ移ることを進言します。

ハウス67とは私邸の裏側にシェルターとして建築され
た建物ですが、ホーチミンはシェルターとして使うことを
拒否し、改造してベトナム労働党の政治局の会議室
として使用していました。

1969年8月18日から彼はハウス67のベットで仕事
や読書をするようになります。彼は内心では死を覚悟
したでしょうが、最後の日まで彼は政治局員から戦況
の報告を受けることを欠かしませんでした。

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ホーチミンの健康を心配して大統領官邸前に集まる
市民

しかし9月2日、別れの時がやってきます。この日の朝
ベットに静かに横たわっているホーチミンの周りにはベ
トナム労働党の幹部やベトナム内外の知識人、医療
団が取り囲んでいました。

主席の遺書を託されていた長年の秘書ヴィーキーは
主席をうちわでゆっくりと扇いでいます。

しかし彼の心電図の波は遠くの海の水平線のように
なって行きます。

彼は最後の数分間、フォークソングが聞きたいと依頼
し、静かに彼の生まれ故郷を思い出します。そして彼
の両親が眠っている場所に言及し、ココナツジュース
を少し口に含むと、南ベトナムの人々に彼の思いを運
ぶように息を引き取ります。

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最後のココナッツジュースを飲んだコップ


ヴィーキーの手が止まり、すすり泣きに変わりました。

医師団は心臓マッサージを開始しましたが、彼の心
臓は微動だにしませんでした。

ホーチミン主席と出会ってからホーチミンの生涯の一
番弟子であった首相のファン・ヴァン・ドンが医師団に
心臓マッサージをやめるよう依頼します。

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臨終です。

Bac Ho(ホーおじさん)は生涯、貧乏、清貧な暮らし
をしました。しかし、いつの日からか彼はたった一つだ
け贅沢をする習慣を覚えてしまいました。それはアメリ
カ製のタバコを吸うことでした。それもかなりのヘビース
モーカーでした。1945年の独立宣言を発した翌日の
閣議で彼は、緊急になすべく仕事を6項目指示して
いますが、その1項目には、アヘンの撲滅があります。
ホーおじさん、、タバコもアヘンと同じようなものですよ。


「長い間、ご苦労様でした」と送るザップ将軍(右側の
黒い服)のやさしい顔が印象的です。

72 ホーチミン主席の足跡 1969年(79歳) その1

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1969年 ホーチミン最後の年賀状。年賀状
といっても南ベトナム開放のための檄文です。

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1969年2月3日 私利私欲を戒め、革命道徳を強
化するよう指示しているホーチミンの手紙の原稿。す
でにホーチミンは対アメリカ戦争に勝利することを確
信しています。

1969年の2月13日には南部解放戦線の若い兵士
達を中心にした派遣団が、28日には代表団が相次
いでホーチミンを訪問します。

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1969年2月13日 南部開放戦線の若い勇敢な
兵士を歓迎するホーチミン

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1969年2月13日 南部開放戦線の派遣団に革命
道徳を思慮深く話すホーチミン


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1969年2月28日 南部開放戦線派遣代表団と

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1969年2月28日 南部開放戦線派遣代表団と

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1969年2月28日 南部開放戦線の兵士達と


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1969年2月 東ドイツ共産党使節団を迎える
ホーチミン



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1969年4月27日 ハノイの人民評議会投票所

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投票するホーチミン


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1969年5月11日 北ベトナムの最高幹部の会合。
ホーチミン,レズアン、ファンバンドン、ザップ将軍と会


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1969年」5月11日 陸軍将校から長寿を願う花束
を受け取るホーチミン


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1969年6月6日には南ベトナム共和国臨時革命政
府を樹立します。

南ベトナム共和国臨時革命政府は、ベトナム共和国
(南ベトナム)に対抗するため樹立された政府で、
ベトコン、民族民主平和勢力連合、人民革命党に
よって結成されました。名目上は無党派の政府でし
たが、実際はベトナム労働党政府(北ベトナム)の
傀儡政権でした。

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1969年6月12日 南ベトナム臨時革命政府の
特別代表団とホーチミン、ファンバンドン首相


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1969年6月13日 ベトコン代表団と。
左にトン・ドゥック・タン副大統領がいます。


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1969年6月14日 南ベトナム臨時革命政府の
誕生を祝うリーダーのDr. Phung Van Cungと
ホーチミン

71 ホーチミン主席の足跡 1968年(78歳)
1968年1月29日 旧正月(テト)から開始された共産側の
大攻撃は”テト攻勢“と呼ばれ,ベトナム戦争の終結を決定
付ける戦いでした。この戦いは戦術的には失敗であったにも
かかわらず、サイゴンでのベトコンの必死の戦いはテレビカメラ
で全世界に流され、全世界の人々はベトナム戦争の真実を
画像によって知るようになります。全世界で反戦デモが起こり、
もはやアメリカは核兵器を使う以外ベトナム戦争には勝てな
いという意識を植え付けました。


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1968年3月10日 ホーチミンがレ・ズアン(Le Duan)に宛て
た手紙。彼が南ベトナムの兵士や同胞を訪れるよう要請して
います。


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1968年5月13日 パリで和平会談が始まります。


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1968年7月2日 南部解放戦線の派遣団と


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1968年12月20日 第8回南部開放戦線創立記念式典
に出席するホーチミン


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1968年12月22日南部の劇団員と大統領府で記念写真


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1968年 南ベトナムでアメリカ軍と戦った勇敢な少年と。

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同上

70 ホーチミン主席の足跡 1967年(77歳)

「独立と自由ほど尊いものはない」とのアピール
を発して全党全軍全人民の革命精神を鼓舞し
ました。同時に救国抗米闘争を支持する中ソ
両国の不和を悲しみ、プロレタリア国際主義に
基づく連帯を主張し続けています。


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1967年1月2日 ベトナム共産党員とベトナム
戦争で英雄的な働きをした部隊との会食

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1967年1月12日 イギリスの哲学者バートラン
ドラッセルンの訪問を受ける。ラッセルはベトナム
におけるアメリカの戦争犯罪を糾弾していまし
た。

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1967年1月12日 民間人の反米団体を訪れ
るホーチミン


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1967年1月17日 ベトナムにおけるアメリカの
侵略戦争に批判的な3人のアメリカ人の訪問を
受けるホーチミン



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1967年2月8日 北ベトナムを訪れた南部解
放戦線代表団


歴史に残る名言はここで生まれました。

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1967年2月9日空軍部隊を訪れるホーチミン。
ここでの訓示で歴史に残る名言が生まれます。

Không có gì quí hơn đôc lâp, tự do
「Nothing is more precious than independence
and freedom」
「独立と自由ほど尊いものはない」
諸君が戦場へ向かうとき、いつもこの精神を忘
れないように。


1967年2月8日 アメリカのジョンソン大統領は
ホーチミンに親書を送り、北ベトナムとアメリカの
直接対話を呼びかけますが、ホーチミンは北爆
や戦闘行為の無条件停止がなされた後で無け
れば対話に応じられないと返書します。


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1967年 南部ベトナム人に贈られたりんごの木
を育てるホーチミン


1967年7月1日 レ・ズアン第一書記は労働
党南ベトナム中央局に対し、翌年旧正月の「総
攻撃・総蜂起」の準備を指示します。


しかしホーチミンの愛弟子であるファン・バン・ドン
首相は7月25日.アメリカとの秘密接触に関す
る事前協議をします。

そして8月25日に アメリカのキッシンジャーとマ
イ・バン・ボ在パリ北ベトナム代表はパリで秘密
の接触をします。


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1967年12月19日 子供たちに話をする
ホーチミン


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1967年12月28日 アメリカの侵略に対して新
たな対応策を話合う政治局メンバー。右側が
レ・ズアン、左側がレ・ドクトのようです

贈答文化

ベトナムの歴史を紐解けば、紀元前111年から
約1000年もの間、中国の王朝の支配下に
あり、やっと938年にゴ・クエンという人が中国の
南漢軍を破り、ベトナム人の王朝になったとあり
ます。

その後は1945年まで、短期間、中国に占領さ
れたことはありましたが、ベトナム人王朝が続くの
ですが、短期間の王朝は別として、ほぼすべて
の王朝が中国の王朝に朝貢をしたとあります。

ベトナム最後の王朝、グエン王朝の初めごろま
では、アジアとかヨーロッパなどと言う概念はベト
ナムには無く、中国が世界を支配しているように
感じていたのだろと思いますが、国家の名前も
中国の王朝にお伺いを立てて許可をもらい、毎
年ベトナムの皇帝に特産品を送り、「現在は私
がベトナム国を治めていますので、よろしくお願い
します」と挨拶をしていたのですから、贈答品を
送る習慣はとても長い伝統があります。

そういえば日本も昔、中国から「倭の国の国王」
とかの印鑑を中国からいただいたとか。
皇帝の名称は本来、中国の王朝しか使っては
いけないそうで、ベトナムも日本も「国王」を名乗
りました。

さて、ベトナムではもうすぐお正月ですが、スーパ
ーでも露天の雑貨屋さんでも、贈答用バスケット
を売っています。

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街角の雑貨屋さん。普段は露天の食堂をやっ
ています。

贈答は何かにつけて行われているのですが、特
に旧正月の前は、昔の日本のお歳暮と同じで、
ベトナムでこれを怠ると、特に公務員は出世でき
ません。

昔は日本もそうだったんです。

69 ホーチミン主席の足跡 1966年(76歳)


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1966年1月19日 新年(旧暦)の挨拶に来た南部解放
戦線の兵士達と


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1966年1月21日 軍事施設を訪問


1966年1月24日 ホーチミンは各国首脳に書簡を送
り、ベトナム問題解決のため、アメリカ軍の北爆停止と19
65年4月8日にファン・バン・ドン首相が表明した「四項目」
の承認を訴えます。


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1966年2月5日夜 ファンバンドン首相と共に、ホン川を渡る
橋を修理している工兵隊を訪問


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1966年2月8日 ラオス、カンボジアの兄弟共産党代表の訪問
を受ける。


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1966年5月14日 新しい共産党員に話をするホーチミン


1966年7月17日 ホーチミンは声明を発表 我々は「10
年、20年、それ以上でも戦い続ける」と徹底抗戦を国
民にアピール。


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1966年8月17日 南ベトナムの作家 Trán Dình
Vân と Phon Tứと会談するホーチミン


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1966年9月25日 ハノイを防衛した高射砲の部隊を訪問


19 (2)
1966年10月24日 南部戦線の展覧会を見るホーチミン


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1966年10月29日 キューバ大統領を代表とする政府使
節団を歓迎するスピーチするホーチミン

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1966年12月 アメリカ軍を勇敢に戦ったヒローたちの集
会で話をするホーチミン


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1966年12月 アメリカの爆撃下でもボートで兵士を運んだ
民間人に会い、話しかけるホーチミン


1966年12月14日 13日、14日と続いたハノイの住宅地
に対する空爆に対して、ホーチミンは米国民宛のメッセー
ジ発表「我々は武力には屈服しない」と

68 ホーチミン主席の足跡 1965年(75歳)

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1965年1月30日 ベトナム労働党結成35周年記念式典

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1965年1月31日 ハノイPhu Dien Villageで植樹を
した後、村の人々に話しをするホーチミン

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1965年2月 クワンニン省のホンゲイ炭の炭鉱を視察
するホーチミン

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1965年2月15日 ハイズオン省コンソン寺で木版を読
むホーチミン


1965年3月8日 アメリカは海兵隊をダナンに上陸
させ、地上軍も投入して本格的にベトナム戦争に介入
してきます。

1965年3月22日 ベトナム労働党(書記長はレ・ズア
ン)の関与が深い南ベトナム解放民族戦線は「五項
目」の戦いのスローガンを掲げます。①アメリカ帝国主義
の排除、②独立、民主、平和、中立の南ベトナムおよ
び祖国統一の実現、③南ベトナムの解放および北ベト
ナムの防衛、④世界人民との連携、⑤敵国アメリカと売
国奴に対する決定的勝利。

これに対して4月8日の北ベトナム第二回国会で、ホー
チミンの愛弟子ファン・バン・ドン首相が表明した「四項
目」を対比してみましょう。①アメリカ軍の南ベトナムから
の撤退。アメリカ政府の干渉の停止。②南北ベトナムの
他国との軍事同盟締結の禁止。③解放戦線綱領を
基礎として、南ベトナム問題の人民自身での解決。④
ベトナム統一間題のベトナム人民自身による解決。

レ・ズアンの思考がホーチミンの考えていた南北統一方
法より微妙に独善的になってきているようです。

1965年5月10日 ホーチミンは遺言書を作成して、長
年の秘書ヴィーキーに預けます。遺言は1968年、196
9年の補足、追加されています。遺言書の内容は1969
年に掲載します。

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遺言書の最初のページ


5月13日 アメリカのジョンソン大統領は北爆を一時停
止して北ベトナムの交渉開始を促します。

しかしホーチミンはベトナムから撤退しないアメリカとの停
戦は南北分断国家を固定化するものと理解しており、
ラジオ演説を行います。「北爆一時停止は陳腐な計略
だ」と非難します。

5月20日 北ベトナム政府はアメリカのベトナムからの撤
退を条件に和平を提案しますが、今度はアメリカが和
平条件を拒否し、戦争は激化していきます。


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1965年6月24日 イギリス共産党代表の訪問


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1965年7月23日 ハノイで開かれた「南ベトナム同胞
のアメリカ侵略を防ぐ決意」展示会を訪れるホーチミン


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1965年8月7日 兵士の表彰式で肩をたたいて
直接兵士をたたえるホーチミン。


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1965年11月11日 南部解放戦線の使節団と


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1965年12月21日幹部や兵士にホーチミンバッチを
与えるホーチミン


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1965年12月29日 少数民族グループの展示会を見
るホーチミン


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外国人ジャーナリストのインタビュ-に答えるホーチミン。
左はファン・バン・ドン首相。寡黙で忠実だった首相の
笑顔の写真は珍しい1枚です

67 ホーチミン主席の足跡 1964年(74歳)

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1964年3月8日 国際婦人デーに参加した少数民族
と会談するホーチミン


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1964年3月27日 特別政治会議で演説する
ホーチミン。
「南部同胞に答えるため、我々はいまの2倍働かなけれ
ばならない」

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1964年4月23日 ベトナムを訪れる親友の
P.Bill(フランス共産党員)


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1964年5月 ディン・ビン・フーの戦い勝利10周年を
記念して、ディン・ビン・フー博物館に記念フラッグを贈
るホーチミン。フラッグには書かれています。
「帝国主義者の侵略戦争は必ず失敗し、人民の自由
への戦いは必ず成功する」と。


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1964年8月 イギリスの哲学者 バートランドラッセルに
電報を打ちます。

1966年11月13日 ヴェトナム戦争犯罪法廷メンバー
第1回集会でのラッセル(94歳)のスピーチより

「我々は、無関心な人間のみが公平な人間であるという
考えを拒否しなければなりません。我々は偏見のない広
い心と空っぽな心とを混同するような人間の知性につい
ての堕落した考え方は拒絶しなければなりません。」

ラッセルはベトナム戦争に対して厳しい批判行動を展
開し、1967年にはフランスの哲学者サルトルらとともに、
ストックホルムでアメリカの対ベトナム政策を糾弾する
国際戦争犯罪法廷を開廷します。


1964年10月15日 共産青年同盟のグエン・バン・チョイ
がサイゴンを訪れたマクナマラ米国防長官を暗殺しようと
して、逮捕され、この日公開処刑されました。ホーチミンは彼の
毅然とした態度に対して、後日寄せ書きを贈っています。

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1964年11月24日 南ベトナム民族の解放のため、
「ベトナム民族の団結のための国際会議」がハノイで開
かれ、各国から仲間が参集します。

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国際会議に参加したメンバーと


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アメリカの代表団長 Mrs. Anna Louis Strong


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ソビエト代表団


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ラテンアメリカの代表団


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南ベトナム解放戦線の使節団


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南部の少数民族と南部開放労働団体の代表団


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南ベトナムのベンチェで戦っている若い兵士
Nguyên Văn Bột に質問しているホーチミン>
66 ホーチミン主席の足跡 1963年(73歳)

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1963年3月2日 Vinh Phucの民衆に話しかけるホーチミン


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1963年10月19日 私邸で南ベトナム解放労働団体の
代表団と会議をするホーチミン


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1963年11月11日 日本の民間伝承ダンスグループの訪問
を受ける。


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1963年12月1日 南部の少数民族代表団が北ベトナム
を訪れ、話をするホーチミン

65 ホーチミン主席の足跡 1962年(72歳)

10  (1)
1962年2月16日に開催された南ベトナム解放民族戦線の
中央委員会で南部ベトナムの解放を誓い合います


10  (3)
1962年2月27日 ドンナイのロンタン空港からAD6戦闘爆撃
機2機飛来し、南ベトナムの独立宮殿(大統領官邸)が爆撃
されます。

10  (2)
中央の女性がマダム・ヌーです

ジェム一族は無事でしたが官邸の左側が大破し、官邸は立て
替えることになります。犯人は南ベトナム空軍将校ファム・フク・
オクとグエン・バン・クウでした。


10  (4)
1962年4月23日 キューバ代表団が訪問


10  (5)
1962年7月21日 「アジアーアフリカ人民の団結委員会」と
ソ連、中国、韓国、東ドイツ、インドの代表団がベトナムで会議



10  (6)
1962年7月26日 ハイズオンの陶器工場を訪れ、「努力、進
歩」と製品に書いているホーチミン


10  (7)
1962年8月13日 労働組合の会議に出席するホーチミン


10  (8)
1962年10月20日 南ベトナム開放戦線代表団が始めて北
ベトナムに来てホーチミンと会談

10  (9)
1962年10月 祖国戦線中央委員会書記のNguyen Van
Hieuを暖かく迎えるホーチミン


10  (10)
1962年12月1日 第3回文化芸術会議で新しい音楽を作り
出した南部ベトナムの音楽家Tam Danhを気遣って問いかける
ホーチミン

10  (11)
1962年12月22日 フランス再侵略の頭書から軍事作戦の
すべてを任せている ヴォ・グエン・ザップ将軍と。>
64 ホーチミン主席の足跡 1961年(71歳)
いわゆるベトナム戦争が始まりますが、この時期には実務はすで
にレ・ズアン労働党第一書記長、ザップ将軍、ファン・バン・ド
ン首相に任せており、彼は元首としの大統領職に専念します。


64 ホーチミン主席の足跡 1961年(71歳)

この年の旧正月にハノイのワイン工場で働く労働者の寮を訪
れます。

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時間の許す限り、彼は前触れ無く庶民の生活を見に行ってい
ました

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カオバン(Cao Bảng)省パックボー(Pác Bỏ)の少数民族を
20年ぶりに訪れるホーチミン


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同上



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1961年2月23日 世界平和委員会アジアアフリカ団結
委員会の代表団らを歓迎するホーチミン


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1961年3月12日 全国婦人会議に出席する少数民族
代表団


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1961年3月20日 トゥインクワン省タンチャオ(Tan Trao)村を
訪れるホーチミン。ここは1945年のベトナム8月革命を決意し,
ベトコンを組織した思い出の場所です。


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1961年4月25日 第2回ベトナム祖国戦線の会議で話をす
るホーチミン


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1961年5月18日 中国 孫文(Ton Truong Son)霊廟を訪
れるホーチミン

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中国Quang Tay 省Que Lamで中国語で詩を書くホーチミン



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1961年12月9日 ゲアン省キムリン村の父親の家を訪ねる
ホーチミン

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1961年12月9日 生家を訪れた後、村の人々に話しをする
ホーチミン



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1961年ベトナムと外国の子供達に囲まれるホーチミン


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1961年ベトナム婦人会議で話すホーチミン



ホーチミン主席の石の彫刻
ホーチミン主席の姿はいろいろな媒体で表現されている
のですが、銅像ではなく石にエポックとなった姿を刻んで
表現している芸術家がいて話題になっています。

フー・トー省ラム・タオ県ソン・ヴィ集落に住むチエウ・ホア
ン・ザンさんは、1997年にタイン・ホア省で彫刻に適した
石を捜し求めて以来、30以上の作品を完成させていま
す。

20 (1)
チエウ・ホアン・ザンさん

20 (2)


20 (3)


20 (4)


20 (5)


20 (6)


20 (7)


20 (8)


20 (9)


20 (10)

いずれも有名なシーンなので、私も「ホーチミン主席の足
跡」シリーズで写真と説明を掲載しています

64 ホーチミン主席の足跡 1961年(71歳)

ベトナム戦争から死去まで(1961年―1969年)
いわゆるベトナム戦争が始まりますが、この時期には実務はすで
にレ・ズアン労働党第一書記長、ザップ将軍、ファン・バン・ド
ン首相に任せており、彼は元首としの大統領職に専念します。


64 ホーチミン主席の足跡 1961年(71歳)

この年の旧正月にハノイのワイン工場で働く労働者の寮を訪
れます。
10_20120110181309.jpg
時間の許す限り、彼は前触れ無く庶民の生活を見に行ってい
ました

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カオバン(Cao Bang)省パックボー(Pác Bo)の少数民族を
20年ぶりに訪れるホーチミン

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同上


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1961年2月23日世界平和委員会アジアアフリカ団結委員
会の代表団らを歓迎するホーチミン


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1961年3月12日 全国婦人会議に出席する少数民族
代表団


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1961年3月20日 トゥインクワン省タンチャオ(Tan Trao)村を
訪れるホーチミン。ここは1945年のベトナム8月革命を決意し,
ベトコンを組織した思い出の場所です。


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1961年4月25日 第2回ベトナム祖国戦線の会議で話をす
るホーチミン


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1961年5月18日 中国 孫文(Ton Truong Son)霊廟を訪
れるホーチミン

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中国Quang Tay 省Que Lamで中国語で詩を書くホーチミン



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1961年12月9日 ゲアン省キムリン村の父親の家を訪ねるホ
ーチミン

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1961年12月9日 生家を訪れた後、村の人々に話しをするホ
ーチミン



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1961年ベトナムと外国の子供達に囲まれるホーチミン


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1961年ベトナム婦人会議で話すホーチ
ミン

63 ホーチミン主席の足跡 1960年(70歳)

63 (1)
1960年1月1日 ベトナム民主共和国の憲法の署名
するホーチミン

1960年から南ベトナムでジェム政権打倒の動きが顕在
化してきます。

1960年1月17日 ベンチェ(Ben Tre)省のモカイなど
3県で民衆蜂起(ドンコイ)が開始され、24日には5県
に波及します。民衆蜂起は単なるデモではなくジェム政
権の手先を処刑するという武力を伴ったものでした。

63 (2)
ベンチェ蜂起。女性が中心だったので「長い髪軍団」と
呼ばれました。

1月26日にはタイニン省のサイゴン軍第21師団の司令
部が占領される事件が起きます。


1960年1月にレ・ズアンはソ連、中国を訪れ、武装蜂
起について相談しますが、いずれも時期早尚として釘を
刺されます。



63 (3)
1960年1月10日 ハイフォンでタイ在住ベトナム人の
子供達と

63 (4)
1960年1月29日 タイ在住のベトナム人の子供達と
大統領府で歓談


63 (5)
1960年1月29日 ハノイの文廟を訪れるホーチミン。
難関中の難関、科挙の試験に合格した人が碑に刻ま
れています。


63 (6)
1960年2月3日 私邸に恩人である弁護士のロードー
ビ夫妻を招くホーチミン

63 (7)
1960年2月23日 ランソンの少数民族に語りかけるホ
ーチミン

63 (8)
1960年3月13日 Vien Bac Zoneでの社会主義青
年会儀の席上で農業生産の改良に寄与した全盲の
青年を激励するHCM。

63 (9)
山岳地方ベトバックの子供達を訪れるホーチミン

63 (10)
Thai Nguyen省の山岳高原地帯の少数民族
を訪れるホーチミン


63 (11)
1960年5月4日 アルジェリア臨時政府代表団が訪


63 (12)
ラオス愛国戦線の議長であるSouphamouvon皇太子と
会談

5月10日には中国代表団もベトナムを訪れます。


63 (13)
1960年6月 大統領府で閣議の議長をするホーチミン

63 (14)
1960年6月10日 5カ年計画を作成する労働党中央
委員会のメンバー



1960年7月7日―15日 第3期国会が開かれます

63 (15)
第3期国会第1回会議で副大統領に選ばれたトン・ドゥ
ック・タン(Ton Duc Thang)を祝福するホーチミン


63 (16)
第3期国会第1回会議に参加した女性。


63 (17)
同上



63 (18)
1960年7月16日 農林省で改良された稲作機械をテ
ストするホーチミン

63 (19)
ホンゲイ炭鉱も急速に拡大されます


63 (20)
1960年8月1日 Political Women の会議に出席
するホーチミン


1960年9月5日から10日 第3期ベトナム労働党大
会が開かれます

63 (21)
ベトナム労働党大会出席のため、来越したフランス共
産党代表団の団長で親友のFRANSOIS BILLOUX

63 (22)
同上

63 (23)
1960年9月5日 第3回労働党大会で演説するホー
チミン。「この国会は北部の社会主義建設と国家統一
のための戦いのための会議です」

9月10日 ホーチミンに代わり、レズアンが労働党第一
書記に選ばれます。

63 (24)
大会閉会後、楽団の指揮をとるホーチミン

63 (25)
大会閉会後、参加した陸軍幹部と会談するホーチミン


11月2日から12月6日まで第43回ロシア10月革命の
式典に参加するため、モスクワを訪問します。
63 (26)

63 (27)
1960年11月 共同宣言に署名するホーチミン


11月11日 南ベトナムではグエン・チャンチ大佐が率い
る約500名の空挺部隊兵士に大統領官邸をはじめ
とする政府機関が襲撃されます。

1960年12月20日 サイゴン北方のタイニン省ビエンホ
ア近郊のゴム農園で南ベトナム開放民族戦線(Mặt
trận dân tộc giải phóng miền Nam ViệtNam)が結
成されます。時の南ベトナム大統領ゴ・ジン・ジェムは「ベ
トコン」と名づけました。以後ベトコンが南ベトナム開放に
重要な役割を果たします。

63 (29)

63 (30)
南ベトナム開放民族戦線の結成を祝う人々



63 (31)
私邸で

和菓子屋さん

サイゴンで日本の甘いものが食べたくなったら「MOF
モフ」というお店が3店舗あります

「ぜんざい」なんかはとても美味しいのですが、量がとても
少なく、これだけ!!という感じで、値段もベトナムにして
は、高額です。

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和菓子はなかったように思いますが、最近、レタントン通
りのビンコムセンターB2階に和菓子屋が開店しました。

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これを食べると時はやはり日本茶がほしくなります。

畳みに座って、暖かい日本茶に和菓子。日本文化を
感じます。

62 ホーチミン主席の足跡 1959年(69歳)



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1959年1月5日 ハノイの歴史博物館を訪れたホーチミン


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1959年1月8日 衣料工場を訪れて品質向上や作業
時間の短縮についてコメントするホーチミン


1959年1月13日 北ベトナム労働党第15回拡大中
央委員会が開かれます。ホーチミンの指名にもとづき、
レ・ズアンが基調報告を行い、休会の後、5月に再開さ
れ、ベトナム労働党「第15号決議」と呼ばれる南ベトナ
ム政府に対する宣戦布告が国家意思として表現されま
す。

その骨子は、、平和、民主、中立的な南ベトナムの建
設のため、
① ゴ・ジン・ジエム独裁を打倒
② 南部に民族民主連合政権を樹立
③ 独立と民主に基づく国家統一を実現
④ 東南アジアと世界の平和の防衛に積極的に貢献する

この目的遂行のため、南ベトナムにおいて、政治闘争に
加えて、武力闘争を行使する。

ホーチミンの武力闘争は時期早尚であるという主張は、
南ベトナムに秘密裏に設立されていたベトナム労働党
南部委員会では、ゴ・ジン・ジェム大統領の共産主義
者に対する弾圧もあって、待ちきれない状況になってい
ました。

レ・ズアンは「第15号決議」から後、ベトナム労働党の
指導者としての地位を固めて行きます。

1959年1月20日  ホーチミンは第21回ソ連共産党
大会出席のためモスクワに行きます。

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レーニン廟に花輪をささげるホーチミンとベトナム労働党
代表団

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1959年1月27日 第21回ソ連共産党大会で挨拶
するHCM

ソ連のフルシチョフ首相からホーチミンは北ベトナムでの
強制的な農業集団化について忠告を受けます。。


1959年3月 ホーチミン、ベトナム全土統一のための
人民戦争を宣言。


2月26日から3月9日までインドネシアを訪問します。

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1959年3月5日 スカルノ大統領をともにインドネシア
20万人の聴衆の前で挨拶するホーチミン

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インドネシアの国会で演説するホーチミン



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1959年4月3日 クワンニン省カンファ鉱山を訪れる
ホーチミン

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1959年4月3日 同上



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1959年5月2日 メーデー式典の参加するため、
ハノイに来た少数民族と話をするホーチミン


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1959年5月12日 イタリア共産党ジャーナリストの訪問
を受ける

1959年5月19日 ベトナム人民軍はチュオンソン山脈
の西側のラオス・カンボジア領内を迂回して南部ベトナ
ムのメコンデルタへ通じる道路建設「559道路」の開始
を決定します。(後にホーチミントレイルと呼ばれるジャン
グル内の道路です)

ベトナム戦争が拡大すると、この道路は南北幹線が5
本と南部ベトナムへの横断道路が21本作られていまし
た。


6月24日から29日にかけてインドネシアのスカルノ大統
領が答礼にベトナムを訪れます。

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1959年6月24日 ベトナムに着いたインドネシアの
スカルノ大統領

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スカルノ大統領にハノイのベトナム歴史博物館を案内
するホーチミン

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スカルノ大統領とダンスをするホーチミン

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1959年6月26日 ハノイの植物園で開かれているサマ
ーキャンプの子供達を訪れるスカルノ大統領とホーチミン

 
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1959年7月29日 ソ連訪問の前にカザフスタンの
少数民族の若者の踊り手を訪れます。


1959年8月 ホーチミンは北京で周恩来に会い、
南ベトナムに解放戦線を樹立し、軍事的手段を使って
国を統一する意図を明らかにします。周恩来は、5億ド
ル相当の武器弾薬装備などの援助を約束します。

そして10月にはファム・バン・ドンも北京を訪問し、周恩
来に軍事援助と中国人軍事専門家の派遣を要請し
ます。


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1959年 タイグエン省の少数民族のための学校を
訪問するホーチミン

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1959年9月 北部国境の町ラオカイで少数民族の
老人に贈り物ををするホーチミン

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1959年9月25日 世界平和委員会のMrs. Isabelle
Blum と歓談するホーチミン


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1959年 インドの大統領 Prasadをベトナム市民と
ともに歓迎するホーチミン


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仏教徒の代表団と


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カトリック教徒の代表団と

この2枚は1959年-1963年の期間なのですが、正確
な年代不詳です。


南ベトナムの大統領ゴ・ジン・ジェムは仏教徒が焼身自
殺するほど仏教を弾圧しましたが、ホーチミンが宗教を
弾圧することはありませんでした。しかし現在のベトナム
共産党は宗教をあまり好みません。それは共産党にとっ
てはホーチミンが神様ですから。


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1959年 海軍を訪れるホーチミン

61 ホーチミン主席の足跡 1958年(68歳)

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1958年1月12日 南ベトナム解放の決定をしたベトナム労
働党中央委員会の会議で話すホーチミン

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1958年2月3日 ジュネーブ協定の実行監視団の訪問を
受ける


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1958年2月3日 タイグエン省フンソン村(Hung Son)で
非公式の話をするホーチミン



1958年2月4日から17日まで北ベトナム民主共和国の
政府代表団がインドとミャンマーを公式訪問しました。

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1958年2月4日 インドのニューデリー空港でペラサット大
統領(P.Perrasat)とネール首相(J.Nehru)の歓迎を受ける
ホーチミン

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1958年2月4日 公式訪問のインドでの歓迎

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1958年2月4日 インドの女性から花束を受けるホーチミン

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1958年2月 インドのネール首相(J.Nehru)と会談するホーチ
ミン

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インド訪問中の2月6日 平和運動家Mrs.Aruna Aliaの
訪問を受けます。彼女の隣にいる美人は1966年、インド首
相になるインディラ・ガンジーです。

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2月7日 インドの知識人との会談会場に入るホーチミン。


インドからミャンマーに向かいます
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1958年2月14日 ミャンマー共和国連邦の人々と友好を
深めるホーチミン

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1958年2月 ミャンマーの民族衣装を着て、民衆に答える
ホーチミン


1958年3月7日 北ベトナムのフアン・バンドン首相は、南
ベトナムのゴ・ジン・ジェム大統領に親書を送り、軍縮と通商
関係樹立を提案します。

1958年4月26日 ジェム大統領は、「北ヴェトナムが南のよ
うな民主的な自由を確立するまで、いかなる議論も拒絶す
る」と回答します。



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1958年5月10日 南ベトナムからハドン省に移住してきた
人々を訪ねるホーチミン


1958年、この年新しい私邸が同士によって新築されました。
1969年に亡くなるまでこの高床式の住居に住みました。

<ホーチミン主席の住居の変遷>

1941年、ベトナムの独立を胸に抱いて30年ぶりに中国から
密かにベトナムに戻ったホーチミンの最初の住居は中国国
境に接したカオバン省パックボーの洞窟(Pắc Bó Cave in
Cao Bắng Province)でした。この時彼はすでに51歳になっ
ていました。

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ホーチミンの年齢を考え、見かねた同志はパックボーのクオイ
ナム川の近くに掘っ立て小屋を作ります。ホーチミンは付近
の少数民族と接触し革命の種を撒きます。

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その後中国で逮捕され、投獄されていましたが、1944年に
釈放されベトナムに戻ります。

ベトナム独立のためベトミンを組織して武力革命の準備をし、
1945年にベトナム8月革命と呼ばれる全国一斉蜂起の激
文を書きます。この時の住居はトゥインクワン省のナルフ(Nà
Lừ Hut in Tuyên Quang Province)でした。

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8月革命の成功を見て、彼はハノイに密かに潜入し、48
Hàng Ngang Streetに居を構えて、独立宣言書の作成に
取り掛かります。

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しかしベトナムの独立宣言は世界各国に認められず、フラン
スはベトナムを再植民地化します。フランス軍のハノイ侵攻に
対しっ徹底抗戦を国民に呼びかけます。その激文はハタイ
省のバンフック村(Vạn Phúc Village in Hà Tây Province)
で書かれました。

そして体制を立て直すため中国国境に近い北部山岳地方
ベトバックに抗仏作戦本部をおきます。

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1954年ディンビンフーの戦いでフランス軍を撃破し、フランス
軍が引上げるまでの9年間の抗仏戦争中は北部山岳地帯
で転々と作戦本部が移動し、萱葺き屋根の小屋で過ごしま
す。

およそ3畳位の高床式の家で、建築材料はその地で取れる
竹や草木を使って建てられ、野菜の栽培とスポーツの出来
る区画が確保されました。


1954年のディエンビンフーの戦いで勝利した後、ホーチミン
大統領はハノイに凱旋します。彼の部下は空家のフランス
総督府に入居するよう案内しますが、彼は笑いながら「ここは
悪臭がする」といいます。総督府はその日の内に大掃除が
なされ、それを知った大統領は翌日悪臭の意味を説明しま
した。「悪臭」は「植民地の匂い」だと。

彼は総督府の近くに住居を探し、電気技術者が住んでい
た平屋の家に住むことにしました。その家は小さくて質素なも
のでした。昼間でも暗く、彼が仕事をしている時には明りがつ
けられていました。しかし彼は多くのベトナム国民よりいい家に
住んでいると考えていました。そして彼の警護や当番兵がい
つも近くにいて連絡が取れることが何よりと考えていました。

自然を愛していたホーチミンは家の周りが木々で埋められ、
池が近くにあるこの家が気に入っていました。南ベトナムの
人々から彼にスターアップルの木が送られ、庭に植えられまし
た。南と北の気候の違いを気にして、冬には藁を木の回りに
巻くなど、彼は南に住む人々の気持ちを大切に育てます。

スターアップルの木は彼の死後、南ベトナムの人々の敬愛を
示すものとしてホーチミン廟にも植えられています。

1958年、彼の外遊の前に数人の同士が新しい家を建てよ
うと計画、提案してきました。彼は建築家に要望を話してい
ます。

高床式の1階(オープンエアーです)には労働党政治局のメ
ンバーとの会議室、要人を迎えるゲストルーム、子供達が会
い来た時の石造りのベンチを希望し、2階の廊下は彼が仕
事や読書を廊下でしている時でも誰もが楽に通れるように広
くしてほしいと要望します。そして最後に、建築材料は中位
の品質の竹を使うように指示します。彼は新築の家が住居
とともに大統領官邸としての機能を果たせるように要望した
のです。

1958年5月17日、住居が新築された折、彼はポケットマネ
ーで、建築に携わった人々全員を呼んで感謝の言葉を述
べます。が一つだけ苦言を呈します。ベトナム国はまだ貧乏
で、国民は困難に直面しているのに、この家は一人住まいに
は立派過ぎると。

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高床式です

彼のライフスタイルはシンプルで実用的でした。家の中には
日常必要最低限の備品しか置いてありません。ベット、タン
ス、テーブル、椅子、ランプ、花瓶、椰子の団扇、ラジオ、水
のペットボトル、日よけ帽子、読みかけの本、新聞、雑誌、タ
イプライターぐらいでした。そして廊下にも小さな机と籐椅子
が置かれました。

日々、彼はスターアップルの木の木陰になる廊下で新聞を
読み、ラジオを聴くことは彼の日課でした。彼がよく聞いたラ
ジオ番組は、ニュースの他に、詩の朗読、伝統的音楽、子
供達の歌声でした。食堂にはラジオをありませんでしたが、同
志がトランジスターラジオをプレゼントすると食堂で食事をしな
がらでもラジオを聞いていたそうです。


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1階の会議室では政治局のメンバーとの多くの重要な会議
の議長を務め、ゲストルームには子供達と同様に多くの外
国からの要人を迎えています。


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2階の彼の執務室には3台の電話が用意されていて、グリー
ン色は政治局、ブラック色はそれぞれ陸軍、空軍に繋がって
いました。

タイプライターからは国内外の多くの人々に手紙が打たれま
した
         
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寝室

ホーチミンの死後、この建物の保存に力を注いだのは、194
5年以来、ホーチミンの死去まで24年間秘書を務めたブー
キー氏で、信頼厚いブーキー氏はホーチミンの遺言書も預
かっていました。

<ホーチミンの愛用品>
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棺にも入れられたタイヤのゴムで作ったサンダル。外国の要
人に会うときもこのサンダルでした。



1958年7月7日 フランス共産党代表団の訪問
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フランスの平和運動家 Mrs.Raymonde Dienと Mr.Henri
Martinと談笑するホーチミン.


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1958年7月8日 土地改革によって、新たに組織されたハタイ
(Ha Tay)省の合作社の視察にきたホーチミン


インドネシアを訪問
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12月21日 南ベトナムのゴ・ジン・ジェム政権は、ジュネーブ協
定を廃棄すると発表します。平和的に南北を統一する道は絶
たれます。


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ハノイの小学校を訪問するホーチミン

60 ホーチミン主席の足跡 1957年(67歳)

2月23日 インドシナ労働党中央委員会は南部委
員会に対して15項目からなる質問状を発し、当時
南部委員会の書記であったレ・ズアンが文書で答え
ます。レ・ズアンは南ベトナム政府を武力打倒すること
を主張します。5月になるとレ・ズアンはハノイの党中
央に召還され、7月には労働党書記に任命されま
す。

ホ=チミンは勿論ベトナム統一を願っていましたが、当
面は北ベトナムの国力増大と南部ベトナムでの政治
闘争を主張していました。しかし高齢に達していたホ
ーチミンはこの時点でレ・ズアンの主張を容認せざるを
得ませんでした。

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1957年5月4日 イギリス議会の代表団を歓迎する
ホーチミン


1957年5月20日から24日までK.E. Vôrôsilốp大
統領をはじめとしたソ連代表団の公式訪問を受けま
す。

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ソ連大統領クリメント・ヴォロシーロフ

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ソ連首相ミハイル・ヤスノフを迎えるホーチミン


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1957年5月30日 ハイフォンのセメント工場を訪れる
ホーチミン



1957年6月14日 50年ぶりに生家のキムリン村を
訪ねます。

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1957年6月15日 ゲアン省の故郷を訪ねた帰り道
にビン市の子供キャンプに立ち寄るホーチミン



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1957年7月 ゲアン(Nghe An)省で訓練する南部
ベトナムの兵士を視察するホーチミン



1957年7月6日から8月30日にかけて党と政府の要
人を連れて東ヨーロッパの国々、チェコスロバキア、ポ
ーランド、東ドイツ、西ドイツ、ハンガリー、ユーゴスラビ
ア、アルバニア、ブルガリア、ルーマニアを歴訪します。

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1957年7月18日 ナチドイツの兵士によって村民が
皆殺しにされたチェコスロバキアのLidice村を訪れる
ホーチミン。

ポーランドを訪問
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1957年7月24日 ポーランドはホーチミンに文学賞
メダルを授与しました。


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東ドイツ大統領 Vihempich と会談


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1957年7月29日 ドイツ ドレスデンの国立美術博
物館を見学。

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1957年7月29日 ドレスデン訪問の記念としてサイ
ンをするホーチミン


ハンガリーを訪問
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アルバニアの首都Tiranaにあるパイオニアクラブ
を訪問するホーチミン


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1957年8月12日 ブルガリアの幼稚園を訪ね
るホーチミン。




帰国後のホーチミン

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大統領府の執務室

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大統領府の庭で執務するホーチミン 

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大統領府の庭で休憩するホーチミン

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大統領府の庭を耕すホーチミン


10月30日から12月24日まで ホー・チ・ミンとレ・ズ
アン、ファム・フンがロシア10月革命40周年記念式
典参加のためモスクワを訪問します。この訪問でロシ
アはベトナム統一のために武装闘争を行なうことを事
実上黙認します。

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ソ連で毛沢東と会談

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北朝鮮の子どもから花束を受けるホーチミン。



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1957年 ハティン省の労働党代表団と会談するホ
ーチミン


57年中に北ベトナムでは第2次土地改革が基本的
に完了します。地主の所有する土地80万ヘクタール
が接収され、210万戸の貧農に分配され、食料生産
量は戦前水準を大幅に上回りましたが、多くの地主
〈約50000人〉が処刑されたとされています。

この処刑はホーチミンの心の中にずっと残り、彼が死
亡した1969年、私邸の机の上には「チュオン・チンは
土地改革で3つの誤りを犯した」としてチュオン・チン
に回答を求める手紙が置かれていました。

チュオン・チン党第一書記は7月頃に解任されて
おり、党の実務はレ・ズアンに引き継がれます。

グランドホテル更新1
GRAND HOTEL
住所:8 Dong Khoi St., Dist 1, Ho Chi Minh City

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1930年、フランス植民地時代に開業したフレンチコ
ロニアルスタイルの白亜のホテル。
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開業当時


フランス植民地時代天気の良い日にはこのホテルの
テラスでワゴンセールが行われていました。アブサン、ア
ペリティフ、輸入ミネラルなどが人気だったそうです。

ここのカフェやレストランはとてもポプラーで、植民地時
代にはテラスでオーケストラの演奏が開かれました。

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1997年全面改築された4つ星ホテルになりました。

ホテルの外観やロビーはコロニアル調で、落ち着いて
いて気取らない雰囲気が欧米人に人気となっていま
す。

現在の経営はサイゴン観光総公社(サイゴンツーリス
ト 国営企業)で2009年にも改修が行われ客室数
は233室、そのうち旧館の歴史的な客室が78室あり
ます。ベランダのある部屋は4階のみです。

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なんとも趣があります。


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4階はベランダがついています。

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現在でもドンコイホテルの看板が残っています。

ホテルの名前はグランドホテル、サイゴンパレス、ドンコ
イホテル、そしてまたグランドホテルとサイゴンの政情を
反映してか、目まぐるしく変わってきました



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