べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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2011年サイゴンのクリスマス
サイゴン繁華街のクリスマスの飾りつけです。

サイゴンでのクリスマスも年々地味になってきています。
何といってもドンコイ通りの起点に聳える聖マリア教会
(サイゴン大聖堂)が一番の混雑場所です。
サイゴンっ子は大聖堂にもバイクでやってきます。

今年から私のアパートへの小道にも飾りつけがされて
いました。

クリスマスの飾り付けは新年、旧正月と共用なので、1
月末まで飾られています。


01キャラベル
キャラベルホテル

02シェラトン正面
シェラトンホテル正面

03シェラトン側面
シェラトンホテル側面

04レックス
レックスホテル

05ボンセン
ボンセンホテル
シェラトンホテルはちょっと高いからと思う人が泊まります。

06フンセン
フンセンホテル
お勧めのホテルです。ボンセンホテルより安くてサービ
スもいいです。両方ともシェラトン近くのドンコイ通りに
あります。ファニーのアイスクリームもこのホテルの経営
です


07国営デパート
国営デパート

08スンワ
有名な商業ビル。スンワタワー
ここの飾りつけが一番きれいでした。新年の大騒ぎもこ
のビルの前で行われます


09ベトナムハウス
ベトナムハウス
ベトナム料理のお店。フエ宮廷料理を食べたい時は
別に良いお店があります

10スカイガーデン
高給取りの日本人が住むサービスアパートメント。会
社払いがほとんどです


11アパ=ト2

12アパート1
私のアパートに続く小道、今年から飾りつけが始まりま
した。

13

14

P1220889.jpg
子供のために銀行や保険会社がサンタを飾っていま
した。いずれもドンコイ通りです。<
/span>
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59 ホーチミン主席の足跡 1956年(66歳)

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1956年4月2日 ソ連のミコヤン第1副首相を
はじめとする外交使節団とのレセプション。大統
領府で。


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1956年4月30日 モンゴル大使との会談


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14  1955年9月2日
1956年9月2日 バーディン広場で開かれた建国記念日の祝典


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1956年11月26日 北ベトナム共産党婦人
幹部会議に出席するホーチミン


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1956年12月 第2期国会の最初の会議で演
説中、話が南ベトナム同胞に触れた時に、思わ
ず涙してしまうホーチミン。ハノイのオペラハウス
で。

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1956年12月29日 第2期国会で憲法の改
正を決定しました。

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1956年12月 第2期国会で代表団に話をす
るホーチミン


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1956年12月29日 大統領府に南ベトナムの
同胞を迎えるホーチミン

58 ホーチミン主席の足跡 1955年(65歳)
この年ベトミンは祖国を解放したとして解散しますが、
組織は9月10日にベトナム祖国戦線として継承
され、現在に至っています。

1955年から1960年までの北ベトナムにはつかの間
の平和が訪れます。ホーチミン主席は集団指導性と
導入して日常実務を部下にまかせ、外交と国家の
復興に全力を注ぎます。

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1955年1月1日 戦没者に花輪を捧げるHCM


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1955年1月1日 9年間の抗仏戦争に勝利し、ハノ
イで歓迎式典が開かれます。

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1955年1月2日 少数民族代表から首都奪還の
祝いを受けるホーチミン。

北ベトナムの中国、ラオス国境付近は少数民族がた
くさん住んでいるところで彼らもホーチミンのもとで一
緒に戦いました。婦人や少数民族も銃を手に取り戦
ったのが、ベトナムの独立、自由獲得のための戦争
の特徴の一つに挙げられるかもしれません。


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1955年1月25日 北ベトナムの鉄道網を修
復している労働者や青年ボランティアーを訪れ
るホーチミン

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1955年1月27日 タイグエンのタックフン(Thác
Puống̣)ダムの修復地域を訪れるホーチミン

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1955年3月15日 フランスの平和運動代表団を
迎えるホーチミン

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1955年3月9日 カトリック教の全国大会に出席し
たホーチミン。

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1955年5月16日 フランス婦人代表団を大統領
府で歓迎するホーチミン

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1955年5月19日 林業の機器工場で労働者幹
部と話し合いをするホーチミン


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1955年6月1日 大統領府の庭で子供達とダン
スをするホーチミン

この日、ホーチミンは南ベトナムの学校の生徒や同
志にもて手紙を書いています
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1955年6月22日から7月22日にかけて、ベトナム
政府の幹部や国会議員を先導して中国とソ連に支
援のお礼に行きます。

30
1955年6月25日 中国を訪問、毛沢東主席と会
見します。


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中国の万里の長城を訪れるホーチミン

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中国の万里の長城を訪れるホーチミン


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1956年7月8日 モンゴルを訪問。Xedeban首相と
儀従兵を閲兵するホーチミン


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モスクワに到着します

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モスクワの空港で大歓迎を受けるベトナム代表団


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1955年7月13日 ソ連クレムリン宮殿内のレーニ
ン執務室を訪ねるホーチミン


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1955年7月 モスクワで勉強しているベトナムの子
供たちと。

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1955年7月 モスクワで勉強しているベトナムの大
学生。

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1955年8月28日 ドイツに留学に行く子供たちに
会うホーチミン


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1955年9月20日  国会で演説するホーチミン

ベトナム国歌はホーチミンによって修正されました。
32-1  国歌修正



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1955年11月19日 ハノイ人民大学の入学式

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当時のハノイ人民大学

57 ホーチミン主席の足跡 1954年 フランス軍捕虜の釈放

ベトミン軍はディエン・ビエン・フーの戦いで捕虜にしたフ
ランス軍兵士約10000名の存在を秘密にしていまし
た。ジュネーブ和平会議の交渉過程で明らかにし、フラ
ンス政府からの身代金と引き換えに捕虜送還の会議
に応じます。

1954年7月3日のホーチミンと周恩来の会談を受け
て7月4日からハノイ北方40Kmにあるチュンジア
(Trung Gia)でジュネーブ和平会議中に、フランス軍
兵士の捕虜釈放とフランス軍部隊の北部ベトナムから
の引き上げを議題とする会議が開かれました

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キャンプチュンジアのチェックポイントでジープの上から
撮影するSPI (Service Information Press) カメラマ



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会議場

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フランス軍の代表とベトナム人民軍(People's Army
of Vietnam PAVN)が、フランス軍の捕虜釈放と北
ベトナムからのフランス軍の引き上げの為の会議を開
きます。

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ベトナム人民軍代表 Van Tien Dung 将軍。
この時、彼は37歳でした。

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フランス軍代表Paul Lennuyeux,将軍

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フランス軍の代表Marcel Lennuyeux 将軍がベトナ
ム人民軍代表 Van Tien Dung と交渉している場面

フランスの建国記念日とされている7月14日
(Bastile Day)に手術が必要な傷病兵を開放するこ
とが最初に合意されました

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フランス軍代表団の秘書Jacqueline Barou


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人民軍が会議場に乗ってきたジープはディエン・ビエ
ン・フーの戦いでフランス軍から捕獲したもの。

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会議の写真を撮っているカメラマン

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会場を警護しているベトナム、フランスの兵士

フランス建国記念日は交渉も休みとなり寛ぐVan
Tien Dung 将軍

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1954年7月21日 ジュネーブ和平協定書が調印さ
れます。

生存している捕虜全員と1954年10月10日までに
フランス軍が北部ベトナムから引き上げることが合意
されます。



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1954年7月28日 ディエン・ビエン・フーから北部ベ
トナムの収容所へのフランス軍捕虜の行進が始まり
ます。.


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開放される捕虜に配る日用品の準備をするベトミン

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捕虜開放時にベトミンによって配られた日用品
a towel, a washcloth, cigarettes, a shaving brush,
shaving soap, razors and blades, writing paper,
envelopes, a pen, a mirror.


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1954年8月開放される捕虜を待つフランス軍

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1954年8月ハイフォン港に向かうフランス軍捕虜

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上陸用タンクの中で食事をとる開放された捕虜

ベトミンの捕虜となった約10000名のうち、フランスの
陣営に戻ることができたのは、3290人でした。


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ディエンビエンフーの戦いの勝利を象徴するポスター

56 ホーチミン主席の足跡 1954年 その4 大統領府

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ディエンビンフーの戦いで勝利後、ホーチミン大統領
はハノイに凱旋します。彼の部下は空家となったフラ
ンス総督府に入居するよう案内しますが、彼は笑い
ながら「ここは悪臭がする」といいます。総督府はその
日の内に大掃除がなされ、それを知った大統領は翌
日悪臭の意味を説明しました。「悪臭」は「植民地の
匂い」だと。

大統領府はもっぱら迎賓館として使用されます。

彼は総督府の近くに住居を探し、電気技術者が住
んでいた平屋の家を借り受けて私邸とします。その家
は小さくて質素なものでした。昼間でも暗く、彼が仕
事をしている時には明りがつけられていました。しかし
彼は多くのベトナム国民よりいい家に住んでいると考
えていました。そして彼の警護や当番兵がいつも近く
にいて連絡が取れることが何よりと考えていました。

自然を愛していたホーチミンの家の周りは木々で埋め
られ、池が近くにあるこの家が気に入っていました。南
ベトナムの人々から彼にスターアップルの木が送
られ、庭に植えられました。南と北の気候の違いを気
にして、冬には藁を木の回りに巻くなど、彼は南に住
む人々の気持ちを大切にして育てます。

スターアップルの木は彼の死後、南ベトナムの人々の
敬愛を示す象徴としてホーチミン廟にも植えられてい
ます。

1958年、ホーチミンの家が同志によって新築される
まで、この家に住みます。

<大統領府の写真>
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大統領の書斎のある建物 

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書斎

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食卓


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大統領府内の庭

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大統領府内の庭

55  ホーチミン主席の足跡 1954年 その3 ジュネーブ和平会議

1954年4月26日、スイスのジュネーブにインドシ
ナ地方に利害を持つ関係国代表が集まり、インド
シナ和平会談が開始されました。参加国はフラン
ス、アメリカ、イギリス、ベトナム国(バオ・ダイ
政府)、カンボジア、ラオス、ベトナム民主共和国
(ベトミン)、ソ連、中華人民共和国の9カ国です。

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1954年4月26日から開かれたインドシナ和平会
議。

1954年5月7日にディエン・ビエン・フーの戦いで
フランス軍がベトミン軍に大敗したことを受け、翌8
日に会議が召集されます。

ベトナムは強硬に統一国家の建設を主張し、和
平交渉は難航していました。

ディエン・ビエン・フーの戦いが終わるとファン・バン・
ドンはジュネーブに向かい和平交渉に参加します。

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6月になるとインドシナ完全休戦を主唱するピエール・
マンデスがフランスの首相に就任し、1ヶ月以
内の和平実現を公約したため、各国はようやく歩
み寄りを見せてきます。

ベトナム民主共和国側は国土の大部分を制圧し
ていることを背景に、軍事境界線の設定などにお
いて最後まで強硬姿勢を崩しませんでした

しかし7月3日 ホーチミン、ボー・グエン・ザップ将
軍、ホアン・バン・ホアン(Hoang Van Hoan)は中国
の柳州で周恩来と3日間にわたりインドシナの軍
事情勢について会談します。

周恩来は説得します。
「アメリカが軍事援助を強めている現在,軍事的
手段よりも平和的手段(統一選挙)のほうが望ま
しい。暫定的な分割を受諾し,二年後の統一自
由選挙を待つよう提案します。その上で,まず16
度線で主張し,必要ならば17度線まで譲歩する
よう」提案します。

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1954年 周恩来首相のパーティーに出席。周恩
来はインドシナ和平会議でのベトナムの主張に助
言しました

会談の最終日、ベトナム民主共和国(北ベトナ
ム)はソ連や中華人民共和国の周恩来の説得を
受け入れ、7月20日和平協定が成立しました。

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1954年7月20日の最終のインドシナ和平会議

和平協定の背景には、「植民地時代の終わり」を
告げる世界の潮流と第2次世界大戦によるフラン
ス本国の国力の疲弊があり、一時的な南北分断
はアメリカを敵に回して戦争を継続することは得策
でないとの判断が働いたものとされています。

この会議では9カ国の代表が出席していたので、
事務局はテーブルの配置や席決めに大変苦労し
ました。特にテーブルを円卓にするか、四角にする
かで1か月ぐらいもめたそうです。(上記の写真を参
照)

1954年7月21日 調印式です
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1954年7月21日 和平協定にサインする代表
団。ベトナム民主共和国は国防大臣のTa Quang Bau
がサインしました。

ベトナム国(バオダイ政府)とアメリカはサインしませ
んでした。
アメリカのアイゼンハワー大統領は協定調印に当
たり、「米国はジュネーブ会議の決定に参加もして
いないし、拘束されてもいない」と言明し、協定の実
施を保証した最終宣言に署名することを拒否して,
単独の宣言を出し,ベトナムでの統一選挙の実施
に反対の意向を明らかにしました。

<合意内容>
フランス軍とベトミン軍の停戦と相互撤退

北緯17度を停戦実施のための暫定的軍事境界
線とする

居住地選択のため、300日間の南北往来の自由
が認める

停戦監視団の派遣

1956年7月に自由選挙を行い統一を図る

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軍事境界線

北ベトナムと南ベトナムの間にはDMZを呼ばれる
非武装地帯が設けられましたが、具体的にはこの
Ben Hai 川にかかるHien Luong橋(Binh Linh,
Quang Tri)が軍事境界線となりました。


ホーチミンはジュネーブ協定の調印後、直ちに閣
議を招集します。
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1954年7月23日、キムクワン村(Kim Quan,
Tuyen Quang)の閣議で議長をするホーチミン

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フランス植民地支配からベトナムを開放した指導
者4人  
 
1954年7月共産党第6回中央委員会後、左か
らチュン・チン(Truong Chinh) ホーチミン、 ファ
ン・バン・ドン副首相(Phan Van Dong)、ヴォ・グ
エン・ザップ将軍(Vo Nguyen Giap) チュン・チン
は革命闘争を文化の面から支えた人です。

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1954年8月12日 ジュネーブ協定実行の国際
監視団


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1954年9月19日 ハノイに帰還途中、フートー
省の雄王(フン王)寺院で先鋒部隊の将校と会
議をするホーチミン。ベトナムを最初に建国したとさ
れている雄王に触れています。

「Các vua Hùng đã có công dựng nước, Bác
cháu ta phải cùng nhau giư lấy nước」
「雄王が苦労して作った国を、我々はお互いに力
をあわせて守っていかねばならないのです」


1954年10月10日 首都ハノイに凱旋する兵士
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1954年10月10日 ベトミン軍がハノイに帰還。
ホーチミンもハノイに戻り、政権を掌握。ホーチミン
直系のファン・バン・ドンが首相に就任します。

フランスと北ベトナムは文化交流協定を締結して、
関係修復に向かいます。フランスの植民地政策に
散々苦しめられたベトナムですが、フランスの文化
はとても魅力的なのです。

ホーチミンはディエンビンフーの戦勝を最後に直接
戦場に向かうことはなく、これ以降は関係国への
感謝の旅と国土の復興へ向けて、大統領として
国民の精神的支柱を果たそうとしたようです。

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1954年10月17日 インドのネール(Nehru)首
相を迎えるホーチミン


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1954年11月29日 ミャンマー首相の訪問

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1954年12月24日 ハノイ電気管理局の上級
労働者と話し合いをするホーチミン

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1954年12月25日 ポーランド大使の親任式

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1954年12月27日 Pedagogy Cllege の学生
と南ベトナムの生徒を大統領府に招いて記念撮


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チェコスロバキア大使の親任式

54 ホーチミン主席の足跡 1954年

1954年5月7日17時40分、ディエン・ビエン・
フーの戦いは終わりました。

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戦いが終わったディエン・ビエン・フーの盆地

しかしホーチミンは勝利に奢ることはありませんでした。
「この戦いの勝利は運が良かった」とも述べています。


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現地での戦勝式

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カストリー司令官の塹壕に一番乗りした青年兵士にホーチ
ミンバッチを授けるホーチミン主席

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ヴォー・グエン・ザップ将軍を不滅の名将軍にしたディエ
ン・ビエン・フーの戦勝。 その頭脳明晰で威張るところの
ない温和な性格はホーチミン主席を越えて、全ベトナム人
に慕われています。

現在はハノイのホーチミン廟の傍に眠っています。

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戦勝の喜びを分かち合う地元の人々。

ディエン・ビエン・フーはタイ族の人が多く住む地域でした。
ベトナムの少数民族に対して、ベトナム政府は「少数民族
担当相」を置いて、生活向上を支援しています。

前共産党書記長のノン・ドゥック・マインもタイ族の出身です。

Eden Cinema

コンチネンタルホテルからドンコイ通りをはさんだ真向か
いに6階建ての「エデンモール」というショッピングモール
兼集合住宅がありました。

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取り壊し前の建物

12
上部の看板に「Eden Mall」とあります

場所柄、周辺のビルがリニューアルされたり、新規高層ビ
ルが建設されて、サイゴン中心街の景観にあわなくなって
しまったのか、人民委員会は全住民に立ち退きを通告し、
現在はリニューアル中です。

このビル一帯はフランス植民地時代の映画館街で、エデ
ンモールも当時は「Eden Cinema」と呼ばれてサイゴンに住
むフランス人の憩いの場所でした。

13  劇場のあったころ

Marguerite Duras原作のヒット映画「ラ・アマン」もここで上
映されました。

2009年まではかろうじて1軒、小さな劇場が残っていまし
たが、再開発の波に飲まれてしまいました。

その後のベトナム戦争中にはこのビルの1階に「Givral
Café」(創業1950年)というコーヒーショップがあり、コンチ
ネンタルホテルのテラスと並んでジャーナリスト達の溜ま
り場として有名でした。

14  エデンビル
ベトナム戦争当時の「エデンモール」

2010年まではこの歴史ある「Givral Café」ショップが営業
していたのですが、再開発のため、取り壊されることにな
り、僅かな立ち退き料をもらって引っ越していきました。

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現在の「Givral Café」はレ・ロイ通りにあります。

エデンビルの上階に住んでいる人達が取り壊しに猛反対
をしたのですが、ここは一党独裁の社会主義国、人民委員
会の決定には抵抗するすべもありません

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通行人に訴える立看板と垂れ幕


ベトナムの憲法69条には
「人民は法の規定に従って言論及び報道の自由、情報を
受ける権利、集合の自由、連合の形成及び示威行為の実
施を享受するものとする。」
と書かれているのですが、庶民の抵抗は写真の如く、ささ
やかなものでした。

これらの自由は「共産党政権の体制維持内での自由」と理
解しないと公安に拘束されます。

昨年、エデンの斜前にビンコムセンターという高層商業ビ
ルが建設されましたが、エデン区画の開発も、ビンコムセ
ンターと同じ開発会社に依頼されています。

現在では既に取り壊されて、新しいビルの建設が始まって
います。フランスコロニアル建築がまた一つ壊されました。

The Water Tower 給水塔
ノートルダム教会(サイゴン大聖堂)の裏側から一直線に
伸びた道路を行くとロータリーに突き当たります。ここには
昔の給水塔の名残のモニュメントがあります。

給水等は地下水源が見つかった1878年、フランスはサ
イゴンの人口増加に伴って最初の給水塔を建設します。

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その後、給水塔に代わって、1927年、フランスは第一次
世界大戦で戦没したフランスやインドシナの兵士のために
戦没者記念塔を建設しました。

12_20111212165716.jpg

第1次世界大戦でフランスはインドシナ人民を徴兵し、そ
のほとんどはベトナム人でした。ドイツとの戦場や武器弾
薬の製造工場に送られ9万人が死亡したとされています。

1972年、南ベトナムのチュウ大統領はこの記念塔を
壊し、新たにサイゴン政権を支援してくれている連合国に
感謝するために「International Aid Plaza」と名づけられた
広場を造りました。

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街路灯 街路樹
1900年代初めにサイゴンにやってきたヨーロッパ人旅行
者は、広い道路に街路樹が植えられ、豪華なヨーロッパ人
の住居が建っていたと述べています。

サイゴンに最初の街路灯が設置されたのは1867年。燃
料はココナッツオイルでした。

B31 (2)

B31 (1)
この街路灯は現在の総合科学図書館内に保存されていま
す。
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図書館前庭の街路灯

燃料は1869年にガソリンに代わり、1873年には天然ガ
ス、1900年に電力に切り替わってきました。

1868年にはグエン・フエ通りを初めとして、運河の埋め
立てによる道路建築が始まり、1970年には街路樹が植
えられました。

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グエン・フエ通りの埋め立て

1873年には歩道が造られはじめます。

53 ホーチミン主席の足跡 1954年 その1 ディエン・ビエン・フーの戦い 再編集
<1953年の戦況>
1946年フランス軍のハノイ侵攻に対して、戦闘準備が整
っていなかったベトミン軍は一旦中国国境近くに退き、19
50年からは中国から大量の武器援助を得て、ゲリラ戦に
加えベトミン正規軍の戦いによって除々に劣勢を挽回し始
め、1953年にはフランス軍に対して対等もしくは優勢な
状況になっていました。


ベトバックの4号道路沿いの森蔭から進出し、いまや紅河
デルタの大半、ゲアンからクアンチ、フエ、ダナン、クイニョ
ンにつながる中部海岸地帯、サイゴン北方のカンボジア国
境へとつながる高原地帯、カントーから南のメコンデルタ
地帯を実効支配していました。さらに国境のチュオンソン
山脈を越えてラオス山間部にも影響力を拡大してきまし
た。

新たにフランス植民地軍司令官に任命されたアンリ・ユー
ジン・ナバール将軍は、フランス軍劣勢の勢力分布を根本
的に変えようとし、「2年以内に主導権を奪回する」と宣言
します。彼はアメリカの本格的な援助の開始と共にフラン
ス遠征軍の再構成を行い、ベトミン主力部隊の壊滅を計画
します。

この年の7月、朝鮮戦争が休戦に入り、アメリカは本格的
なフランス援助を開始します。9月、アメリカはフランスの
戦争経費の60%(約4億ドル)を援助し、朝鮮戦争で使わ
れていた兵器をベトナムに持ち込みます。

中国からベトミンへの武器弾薬は、中国の広西省からラオ
スの北部を通過して、ベトナムに運び込まれていました。
またこの時期ホーチミン主席はラオス、カンボジアの共産
主義勢力とも連携を深めており、ディン・ビン・フー盆地は
ベオナムへの通過地点として軍事上の重要拠点になって
いました。

1953年11月、サイゴンでの戦略会議の席上でナヴァー
ル総司令官は話し始めます。「私はディエン・ビエン・フー
盆地の占領を考えている」

その計画の骨子はベトミン軍とラオス革命勢力との連携の
遮断と、中国から北部ラオスを通過してベトナムに運ばれ
てくる武器弾薬ルートを遮断することにより、ベトミン主力
部隊をおびき出し、殲滅する事を目的として、ラオス国境
に近いベトナム北西部の盆地ディエン・ビエン・フー(ハノ
イから西へ480Km)に、要塞を建設することでした。(ナヴ
ァール計画)

ナヴァール総司令官はディエン・ビエン・フー盆地に基地を
建設することの優位さを次のように判断していました。

1.ディエン・ビエン・フーの地形や盆地の大きさを考慮す
ると迫撃砲や無反動砲程度では稜線外からフランス陣地
を攻撃することは困難であるし、それ以上の重火器を投入
することは、ベトミン軍の輸送手段が限定されているため
に不可能である。

2.ベトミン軍は補給能力が貧弱であり、ディエン・ビエン・
フー周辺に大部隊を展開することは困難である。これに対
しフランス軍は航空輸送により補給路を確保しうる。ナサ
ンの戦いでも航空機の支援により、ベトミンを撃退してい
る。

ディエン・ビエン・フーが選ばれたもう一つの要因は、南北
10キロ、東西6キロの細長い盆地の中央に旧日本軍が造
った1200m級の滑走路が2本残っていたからです。フラ
ンス軍はこの飛行場を整備し大空輸作戦で橋頭堡を築こう
としたのです。

しかしフランス軍のこのナバール作戦はトンキン(北ベトナ
ム地方の総称)軍管区司令官だったルネ・コニー将軍を始
めとして、計画の段階では冒険的過ぎるとしてフランス軍
の前戦司令官は全員反対でした。空軍は陸軍が「滑走路
を完璧な状態に保ち、敵火砲から脅かされない場合にの
み、必要な1日100トンの補給を供給できる」としていまし
た。

ナバール作戦ではベトミン軍は飛行場や兵営に届くような
長距離大砲などは持っていないので、平地戦を行わざる
を得ないと踏んでいました。しかしベトミンは中国、ソ連か
らの武器援助で長距離砲を持っていました。ホーチミンの
秘密裏の行動をフランスは掴んでいませんでした。

そして雨季になれば道路はぐちゃぐちゃになり陣地間の移
動が不可能になって、各陣地が孤立してしまうことも配慮
されていませんでした。

作戦を批判する将軍もいて、なかなか現地の司令官が決
まりませんでしたが、やっとナヴァール総司令官の
部下で、フランス軍人の名門であるクリスティアン・ド・ラ・
クロワ・ド・カストリ(Christian de Castries)大佐が司令官に
任命され、アメリカ空軍との共同空輸作戦を決定。陣地の
構築にあたります。(カストール作戦 Operation Castor)

02 (1)
アメリカの空軍は全面的にフランス空軍に協力します


02 (2)
ディエン・ビエン・フーの位置
ハノイから450Km,航空機の航続距離の限界距離でも
ありました。

02 (3)
細長い盆地で、周辺には少数民族のタイ族が生活してい
ました



<フランス軍の基地構築の開始> 

1953年11月20日(18時15分)、フランス軍総司令官ナ
ヴァールは1通の電報を受け取ります。ベトミン第316師
団が北ベトナムの北西部、ソンラ、ライチャウ方面へ急速
に移動していると。

02 (4)
ライチャウへ向かうベトミン316部隊

ナヴァールの決断はすばやく、即日カストール作戦を実行
します。

1953年11月20日、ハノイを発進したフランス軍ビジャー
ル少佐指揮下の第6外人空挺部隊の一個連隊3000名が
ディエン・ビエン・フーに降下します。

ベトミン軍は、ディエン・ビエン・フーに第148独立歩兵連
隊を駐屯させていましたが、カストール作戦当日には4個
大隊中3個大隊が同地を離れていたため、フランスのパラ
シュート降下作戦はさほどの抵抗もなく成功します。

02 (5)


02 (6)
ベトミン軍は少数のため、抵抗出来ませんでした。

02 (7)
上陸したフランス軍

続く11月21日、22日と増援落下傘部隊が降下し、ディエ
ン・ビエン・フーの占領に成功します。落下傘で降下した兵
員は総員4560人にのぼりました。(カストール作戦の開
始は21日とする説があります)

02 (8)

02 (9)


パラシュート部隊は旧日本軍が造った1200mの滑走路2
本を2日間で整備し使用可能にしました。

02 (10)
写真中央に2本の滑走路がかすかに見えます。

そして25日からは150機の対地攻撃機がディエン・ビエ
ン・フ-の周辺を巡回防衛する中、アメリカ軍の提供した1
00機の双発輸送機が、滑走路を使用して、連日のように
ピストン輸送を行い、40門以上の大砲や兵員1万6200
名を送り込みました。

02 (11)
C-47輸送機

02 (12)

飛行場が使用可能になってので、連日のように増派部隊
が送り込まれてきます。

02 (13)

02 (14)
分解された10両のM24軽戦車やジープも空輸されまし
た。ジープにはアメリカ軍の将校が乗っています。

タイ族の住む山間の一寒村は1954年1月には外人部隊
7個大隊、歩兵17個大隊、砲兵3個大隊を擁する一大要
塞と化してしまいます。

しかし増援部隊の兵士は

① フランスの外人部隊(主に第2次世界大戦で敗戦したド
イツ軍の兵士)
② フランス植民地部隊(アルジェリア、モロッコ、セネガ
ル)
③ ベトナム現地人兵士(少数民族のタイ族)でした。
フランス正規軍は1000人足らずでした。

タイ族のほとんどはベトミン軍として戦いましたが、少数は
フランス軍側について戦いました。

陣地の建設は1954年1月中旬始まりましたが、なぜか各
要塞にはカストリー将軍家の女主人の名前が付けられま
した。

ベアトリス陣地、ガブリエル陣地、アンヌ・マリー陣地、
ユゲット陣地、ドミニク陣地、フランソワーズ陣地、
クロディーヌ陣地(司令部)、
エリアーヌ陣地、ジュノン陣地、イザベル陣など

02 (15)

02 (16)

02 (17)
兵舎はテント張りです
この陣地の構築は堅牢な要塞の構築ではなく、兵営もテン
ト張りです。目的はベトミン主力軍をおびき出して、殲滅さ
せることだけにありました。


02 (18)
要塞を視察するカストリー将軍

02 (19)
フランス国防大臣に要塞の説明をするカストリー将軍

02 (20)
ルネ・コニー将軍の視察

要塞の建設には、フランスへの援助を通じてベトナムへの
介入を強めていたアメリカニクソン副大統領の強力なイニ
シアチブの下で進められ、要塞が完成する直前にはニク
ソン副大統領自らが現地を訪問し、視察しています。

02 (21)

02 (22)
要塞を視察するニクソン副大統領



<ベトミン前線へ集結>

フランス軍のこうした動きを察知したベトナムの政治局、国
防省、ホーチミン主席は、ディエン・ビンエ・フー奪回の作
戦計画を練り、1954年年頭に総司令官にヴォーグエンザ
ップ将軍を任命します。

03 (1)
1953年12月6日 ベトバックベースでディエン・ビエン・フ
ー作戦を練るホーチミンとべトナム共産党の指導者

同日、ザップ将軍はベトミン軍に対しディエン・ビエン・フー
への移動命令を発します。ベトミン軍の第304、第308、
第312、第316の4個師団が盆地周辺の丘陵に密かに陣
地を構築するために移動します。

1953年12月末、偵察中の第1外人落下傘大隊が、初め
てベトミンの待ち伏せ攻撃を受け、12月28日には、北部
峡谷を視察中のド・カストリ司令官の参謀長ギュット
中佐が、砲火を集中されて戦死します。

ザップ将軍は1954年年頭にホーチミン主席を北ベトナム
の山岳地帯ベトバックのベースに訪れ、戦いの最終指示
を受けた後、別れの挨拶をして、1月5日前線に向かいま
す。

03 (2)
ベトバックのホーチミン主席の住居

03 (3)
1954年1月 ディエン・ビエン・フー作戦の総指揮をとる
ヴォ・グエン・ザップ将軍に話しかけるホーチミン主席

ホーチミン「戦地に行くにあたり、何か心配することがあり
ますか」
ザップ「ディエン・ビエン・フーはここから遠いので、判断に
困ったときに、すぐにあなたに連絡できないことを、心配し
ています」
ホーチミン「オー、将軍!!」

ベトミン軍主力4個師団はディエン・ビエン・フー周囲の山
間部に向かい、砲列を整え始めます。

03 (4)

03 (5)
移動中のベトミン軍。トラックは大砲の輸送に使われ、兵
士は銃と15Kgの米と背負い徒歩で数百キロの道を歩い
て戦場に向かいました。


ザップ将軍はディエン・ビエン・フー前線の指令本部を作ります。

03 (6)
ザップ将軍の寝床

03 (1)
前線の指令本部

ザップ将軍には中国人民解放軍の支援将校が79人、残
留日本軍将校数名が参謀として支援していました。

03 (7)
ディン・ビン・フーへ向かう途中のザップ将軍

前線の軍事スタッフは1954年1月25日を攻撃日と定め、
前線の兵士に伝えます。軍事スタッフは戦闘は2-3日で
終了すると考えており、1月25日午後5時に戦闘開始を秘
密裏に指令します。この作戦は中国からの軍事顧問によ
っても支持されていました。

一方フランス軍の首脳人(Navarre, Cogny, Castries)も戦
闘は最悪でも1週間で終了し、ベトナム主力軍隊は壊滅す
るだろうという意見で一致していました。

しかしベトナム軍の総攻撃はぎりぎりのところで、ザップ将
軍の決断により延期されます。

後世、このザップ将軍の攻撃延期の判断がベトナム軍の
歴史的勝利を導いたものとして評価されています。



<ベトミン補給部隊>

ディンビンフーの戦いは、1地域での戦いでは56日間とい
う世界の戦争史上でもっとも長い戦いでしたので、前線へ
の補給物資の確保が重要な役割を果たしました。航空機
を持たないベトナム側の補給部隊には兵士の数より多数
の市民が参戦しました。

もともと北部ベトナムの北西地方は人口密度の低い地方
で1平方Kmに8.5人しか住んでいない少数民族地帯(タ
ーイ族が中心)でしたが、この戦いのために多くの青年ボ
ランティアーや労働者が北部ベトナムを中心に集結し、そ
の数は10万人にも達したと言われています。集結した人
は「バイク部隊」、「道路工事部隊」、「精米部隊」などに区
分けされ、補給部隊として戦争に参加します。前線兵士1
人につき10人の補給隊員が結成されたとされています。

この地方の少数民族は自給していた米を兵士のために供
出し、自分達はトウモロコシやタピオカなどを食べて凌ぎ
ました。紅河デルタ地帯から多くの精米機を借りて、兵士
へ送る米を袋詰めにし、15日から20日かけて昼夜兼行
で天秤棒や馬、自転車で前線に送りました。米の量だけで
も27000トンにもなりました。

04 (1)
補給はまさに人海戦術でした

04 (2)
天秤棒姿はベトナムの伝統です

04 (3)

04 (4)
馬や象も大切な戦力になりました

04 (5)

04 (6)

04 (7)

04 (8)
補給部隊の主役は自転車でした。

この地方では自転車は宝物でしたが、2万台の自転車が
補給のために供出されました。自転車はハンドル部分が
改良され一度に200Kgから300Kgを運びます。

フランス軍は補給路を遮断するべく、航空機によって道路
を爆撃し、化学剤を使用して雨を降らせ、地すべりを発生
させるなどして攻撃しましたが、ベトミン側は山岳地帯に地
元民しかわからない新たな補給路を人海戦術で数本完成
しており、フランス軍はこれらの道を発見することが出来
ませんでした。

とはいえ補給部隊にとってディン・ビン・フーへの道のりは
険しく、傷を負って帰ってくる人が絶えず、途上で命を失っ
た人も多数いました。

しかし、後に首相になるホーシミンの愛弟子ファン・バン・ド
ンは、ディン・ビン・フーの戦いはベトナムにとって負けら
れない一戦のため、共産党と政府を統合して「中央補給評
議会」を結成し、国民に激を飛ばします。

「すべての国民はディン・ビン・フーの戦いのために、労働
力のすべてとすべての財産を供出しよう」まさに国の命運
をかけた一戦だったのです。

国民はベトナムの真の独立と自由のために参戦します。
現在、高齢になっている市民兵士が自負を胸に口ずさみ
ます。
[ We are the soldiers of Dien Bien Phu Campaign ] 我々は
ディエン・ビエン・フーの戦いの兵士だと。

地域住民がディエン・ビエン・フー作戦に参加し、労働した
日数は延べ3百万日と見積もられています。

国民が何故これほどまでに協力したのかについては、国
家の真の独立のためという大義に加えて、前年の1953
年に行われた農地改革が影響しているものと思われま
す。

ベトコン側の補給部隊に対して、フランス軍の補給は航空
機に頼るしかなく、戦闘の開始直後にフランス軍が整備し
た2本の滑走路が攻撃を受けると、もはやパラシュートで
補給物資を投下するしか手段がなく、雨季の天候を作戦計
画に織り込んでいなかったフランス軍は致命的な欠陥を露
呈します。

補給部隊の明暗はこの戦いの成否を決定する重要な要素
でした。



<作戦変更>

ベトナムの戦争史の中で、自軍の軍事力が不利なため、
体制を立て直すために一時退却し反撃の準備をすること
はよくありました。世界史に記録されている戦史の中
では、自軍が軍事的には有利なのに一時退却し、敵の軍
隊をワナにかける作戦も記録されています。

しかし、ベトナム、ディン・ビン・フーでの戦いで決定された
戦闘直前の総退却は、少し事情が違っていました。

フランス植民地軍とベトミン軍の世紀の一戦は、フランス
軍がベトミン軍の攻撃を迎え撃つという構図が描かれてい
ました

この戦いは双方の主力部隊が集結し、ベトナムがフランス
植民地軍を追放して、自国の独立を勝ち取れるかの瀬戸
際の戦いでした。

ベトミン軍の総攻撃は、突発的な出来事が発生して、その
都度、延期されていました。

兵力は歩兵数や大砲の数ではベトミン軍が勝っていました
が、フランス軍には、戦車や航空機がありました。しかしベ
トミン軍も120mm迫撃砲や対戦車砲を中国やソ連から支
援されていました。軍事力ではベトミン軍のほうが有利で
あったと考証されています。

ベトミン軍兵士の士気は、自国民のフランス植民地政策か
らの開放という大義名分の下に非常に高く、開戦を今か今
かと待っていました。そしてVi Quoc Thanhを中心とする中
国軍事顧問団も早期開戦を支持します。

この戦いから、東側陣営、西側陣営のジャーナリストが従
軍記者として同行するようになります。西側記者はサイゴ
ンに上陸し、ハノイからディン・ビン・フーへと、東側記者は
中国を通ってディン・ビン・フーにやってきました。ベトナム
建国以来、外国人ジャーナリストがベトナムに入国して取
材するのは、この時から始まりました。

世紀の戦いの開戦命令はすべてベトミンの最高司令官ヴ
ォ・グエン・ザップ将軍の手中にありました。しかしザップ
将軍は慎重に慎重を重ねて考え抜いていました。それは
ホーチミン主席の言葉「勝利に100%確信が持てるまで
は、攻撃してはならない」と言う厳命があったからでした。

1954年1月14日 Tham Pha 洞窟にベトミン軍の指揮官
やスタッフが招集され、秘密裏に総攻撃は1月20日と決定
されます。

05 (1)

しかし一つの砲兵軍団が戦闘位置につけなかったため、
総攻撃は1月25日17時に延期されます。

そして1月25日にも不幸にも312部隊のベトミン兵士がフ
ランス軍に捕まり、総攻撃日が1月25日であるとの情報
がラジオで流れてしまいます。

総攻撃日はさらに翌26日に延期されました。

総攻撃の前日のことを、ザップ将軍は老年に回顧していま
す。
「その日私は、最も信頼している軍事スタッフであるHoang
Van Thaiからの報告を聞いた後、私は考え続けその夜は
眠ることが出来ませんでした。軍医のThuyが私の額にハ
ーブを乗せてくれました。その日の夜、私は司令官として
生涯で最も困難な決定をしなければならなかったので
す。」

ザップ将軍は前線指揮官が戦況が有利であることを、そし
て長期の補給が難しいことから、即、開戦を望んでいるこ
とを理解していました。

しかし一晩中考えていた将軍は3つの困難を考え始めて
いました。

第1 ベトミン軍は強固で組織化された要塞を攻撃すること
はNa Sanでの戦いの一度きりしか経験していない。そして
戦闘経験を持っている兵士は限られている。もし作戦に失
敗したら、我々の被害はいかに甚大であるか。

第2 今回の戦いはあらゆる武器を使う総力戦である。な
のにベトミン軍の砲兵や歩兵は正規に十分に訓練されて
いるといえるだろうか。

第3 ベトミンは夜間のゲリラ戦には長けているが、今回
は広い範囲での盆地での平地戦で敵の要塞と攻め落とす
攻撃である。夜間だけの攻撃ではない。敵の航空機や戦
車も戦線に参加してくる。果たして短期間で敵を殲滅でき
るのだろうか。

翌26日の早朝、ザップ将軍は軍事スタッフを招集します。
前戦指揮官であるVi Quoc Thanh は他の指揮官が集まっ
てくる前に、ハーブで額を冷やしている将軍を見てびっくり
し、将軍の健康を気遣かった後、まもなくの開戦を控え、現
在の状況を説明します。将軍はThanh指揮官からの報告
を基に、双方の軍事力を話し合います。

そして将軍は言い放ちます。「もし今戦えば、我々は負け
るだろう」

Thanh指揮官はどうすればいいか、将軍に尋ねます。ザッ
プ将軍は自分の意図を明確に話します。「攻撃は延期し、
すべての軍隊は現在の位置から総退却をして、もっと有利
な条件で戦えるよう準備する」

しばらく考えた後、Thanh指揮官はザップ将軍に同意し、他
の指揮官を説得する役割を担います。

会議で多くの前線指揮官は勝利について確信はできなっ
かたものの、開戦することを望んでいました。会議は結論
を出せないでいました。

05 (2)
「Sure」 or 「Can win」か?

最後にザップ将軍がホーチミン主席の言葉を引用しながら
尋ねます。

「この戦いに100%勝利する確信がありますか?」
「Sure」と言う言葉はどの指揮官からも返ってきませんでし
た。彼らの答えは「We can win」「我々は勝つことが出来る」
でした。

この答えでザップ将軍は一旦総撤退を決心します。

26日の午後遅く全ての前戦部隊に撤退命令が下されます。
数時間後の開戦のため、すべての準備を終えていた前戦
部隊は、誰もがこの撤退命令を信じることが出来ませんで
したが撤退の軍事命令が覆ることは勿論ありませんでし
た。

この撤退命令書はトップシークレットとされ、電信で伝達さ
れることはなく、すべてクーリエによって伝達されました。
北部ベトナムのバックボーにいたホーチミンや政治局員に
も3日後に伝えられ、ディエン・ビエン・フー戦いのすべて
を権限を与えられていたザップ将軍の判断に同意します。

フランス軍はベトミンの通信暗号を解読していました。そし
て25日、26日にはベトミン軍の攻撃が行われると踏んで
いましたが、両日とも攻撃はなく、加えてすべての砲兵が
引き上げ、ベトミン最強の308軍団も北部ラオスへと移動
していくのを知ったフランス軍は、ベトミンはディエン・ビエ
ン・フー作戦を放棄したものとみなしました。

その後1月、2月中もベトミン軍の軍事行動は何もなく時が
過ぎます。しかしベトミン兵士はディエン・ビエン・フーで旧
正月を迎えていたのです。。このことが何を意味している
かフランス軍はまったく理解していませんでした。フランス
軍は空からビラをまいてザップ将軍を盛んに挑発しまし
た。

フランス軍首脳はまったく無知でした。1月、2月にベトミン
軍は秘密裏にディン・ビン・フーに続く道を整備し、新たに
山岳地帯を通る6つの補給路を人海戦術で構築し、補給路
を堅固に作り変えました。作り上げた秘密裏の補給路から
は長期戦にも耐えられるように連日のように食料や弾薬
が後方から続々と送られてきます。

05 (3)

05 (4)

05 (5)

05 (6)

05 (7)

05 (8)

05 (9)
突撃用の手榴弾は女性によって作られ、前戦に送られま
した。


カノン砲をはじめとする大砲や対空砲は再配置されます。

05 (10)

05 (12)
カノン砲は人力で山上に引き上げられます。大砲がずり落
ちるときに身を呈して大砲の下敷きになった兵士もいまし
た。

ザップ将軍は、「人民の戦争 人民の軍隊」という書物で、
「ディン・ビン・フーの決戦でべトミンが勝つことができた原
動力は、ディン・ビン・フーの周囲の山に大量の大砲をか
つぎあげた民衆である。 フランス軍は「ナポレオンがイエ
ナの戦いで高地に大砲を引き上げ、プロイセン軍を壊滅さ
せた」あの貴重な戦訓をすっかり忘れていたようだ。」と回
顧しています。

戦後、フランス軍将校は、べトミンがまさか山の上に大砲
を設置し、いっせい砲撃をするとは思っていなかったし、
中国軍が一緒にいたこともはじめて知ったと。

05 (13)
再配置されたカノン砲を視察するザップ将軍

05 (14)

05 (15)

05 (16)
総攻撃の日までフランス軍の偵察機に見つからないよう
隠されます。

フランス軍陣地を取り巻くように塹壕が掘られました。確実
な勝利のための準備を着々と進めていたのです。塹壕を
掘る作戦は第2次世界大戦の残留日本兵がベトミンの作
戦計画に参加していたからとも言われています。

05 (17)

05 (18)

05 (19)
塹壕は寝床でもあり、病床でもありました。
一旦は北部ラオスへと移動した主力部隊308も秘密裏に
ディン・ビン・フーへと帰還してきます。


06(1).jpg
そして1954年2月 ディエン・ビエン・フーへの道はべトコ
ンゲリラによって封鎖されます。

撤退から1カ月半、総攻撃の準備を終えたベトミン
兵士は、ザップ将軍が漏らした言葉から総攻撃の日を読
み取っていました。「1954年3月13日は私にとって、とて
も長い日になるだろう。」

3月4日になると、フランス植民地司令官のナヴァール
(Navarre)総司令官とコニー将軍(Cogny)がディン・ビン・フ
ー陣地に視察来ます。カストリー司令官は2人を歓迎して
言いました。「我々の関心はベトミン軍が何もしてこないこ
とです。我々はベトミン軍が攻撃してくるのを待っているの
です。」。

コニー将軍が答えました。「何もすることはない。ベトミン
軍は変心したのだ。ベトミン軍が攻撃すれば、我々は大勝
利を勝ち取るが、彼らが戦いを拒否すれば、戦わずして勝
ったということを意味しているのだよ。」

1949年中華人民共和国の成立に伴い、翌年ホーチミン
は秘密裏に中国、ソ連を訪問し、毛沢東、スターリンに会
い武器援助と国家承認をとりつけており、以降大量の武器
が中国から供与され、ソ連からも中国経由で対空機関砲
などの供与を受けていたのです。特に重砲はすべて朝鮮
戦争で中国がアメリカから捕獲したもので、旧日本軍が中
国で使用した山砲も含まれていました。

ホーチミンのこの秘密行動にフランス軍は気づいていませ
んでした。



<第1回目のベトミン総攻撃>
1954年3月13日17時05分 ― 3月17日

ベトナム軍はディエン・ビエン・フー盆地のフランス軍 北
方軍事拠点を中心に攻撃を開始します。

07 (1)

07 (2)


3月13日、この日もハノイのGia Lam Airport空港からフラ
ンス軍の偵察機が飛び立っており、特に異常な報告を受
けていないカルトリー将軍は部下と共にワインを飲みなが
ら夕食を楽しんでいました。
07 (3)

07 (4)
くつろぐフランス将校

ディン・ビン・フーの盆地には夕日が沈みかけ、霧がかか
ってきましたが、前戦は静かでした。その時、突然ラジオ
放送に割り込みの声が聞こえます。

ザップ将軍の声でした。「準備はOKか」。
前戦司令官のダオ・バン・チュン(Dao Van Truong)が答え
ます。

「すべてOKです。攻撃開始のあなたの指令を待っていま
す」。霧が出てきていますので攻撃開始の命令をお願いし
ます」

ザップ将軍は攻撃を承認し、そして命令します。「Fire
connon, Fire hard, Fire with speed」 40門のキ
ャノン砲が一斉に火を噴きました。歴史的な戦いの始
まりです。

07 (5)
時に1954年3月13日17時05分でした。

ベトミン軍はフランス軍のディン・ビン・フー主滑走路2本へ
カノン砲による攻撃を開始し、しばらく滑走路への砲撃が
続いた後、砲撃目標をベアトリス陣地(ベトミン軍の呼び名
はHim Lam Post)へ切り替えます。

ベアトリス陣地を指揮していたのは、フランス外人部隊第1
3准旅団長のゴーシェ中佐で、ベトミン軍が保有していな
いと思われた105ミリカノン砲による砲撃を受け戦死して
しまいます。

山上からの砲撃に支援され、ベトミン歩兵は塹壕を進み、
フランス軍の陣地への接近を図ります。

07 (6)
ベアトリス陣地への砲撃

山上からのカノン砲の砲撃後、さらに接近して砲撃を加え
ます。

07 (7)
37mm砲

日が暮れてから機関銃などで後方支援を受けたベトミンの
青年兵士が手榴弾を絶え間なく投げつけます。

07 (8)

07 (9)
そして深夜、フランス軍陣地への突入を決行します

塹壕を掘ってフランス軍陣地への距離を縮めたベトミン軍
は夜になって突撃を開始し、22時30分ベアトリス陣地を
陥落させます。

07 (10)
3月13日22時30分ベアトリス陣地陥落

07 (12)
戦況の報告を受けるカストリー司令官



<ディンビンフーの戦いでの休戦>

56日間に渡って砲撃や塹壕をほる音が絶えなく続いたデ
ィンビンフーの戦いのなかで、2回だけ休戦時間が設けら
れたことがあります。



<第1回目は1954年3月14日 午前8時―12時>

3月13日の夜が明けると、勝敗は決していました。フラン
ス軍の陣地には死体がごろごろと横たわっており、べトミ
ン軍312師団の中尉は死体処理のため、3月14日の朝8
時から12時までを休戦時間とする手紙をフランス軍へ渡
して、攻撃はしませんでした。

08 (1)

フランス軍のカストリー将軍はハノイのCognyに連絡し、
Cognyはサイゴンにいるナバール総司令官の許可を得ま
す。

ナバールの許可が9時に下され、フランス軍の陣地から赤
十字の旗をかざしたジープが遺体の収容を始めました。5
00体以上の遺体を収容しましたが、ベトミン側には既に約
200人の捕虜がいました。

08 (2)

08 (3)

08 (4)
病床は足りませんでした

<第2回目は1954年3月15日 午前7時―10時>

休戦時間が終わった14日午後から夜にかけて、ベトミン
はフランス軍のガブリエル陣地(ベトミン軍の呼び名は
Doc Lap Hill)の攻撃に移ります。夜が明けた15日の朝に
は勝敗は決していました。ベトミン軍の司令官は7時から1
0時までを休戦時間としました。

この2回以降は特に定めた休戦時間はなかったようです。
戦闘は56日間にも及んでいるので、兵士は塹壕の中です
べての日常生活を過ごしました。

フランス軍は戦車を先頭に2陣地の奪回を図りましたが、
出来ませんでした。



<第2回目のベトミン総攻撃>
1954年3月30日 ― 4月26日  

09 (1)

フランス軍陣地周囲に塹壕を掘り進めたベトミン軍は、連
続的に突撃攻撃を繰り返す作戦で、フランス軍に反撃のチ
ャンスを与えません。フランス軍のベトナム人兵士は徐々
に戦意を失っていき、アンヌ=マリー陣地から脱走し始め
たため、フランス側はこの拠点を放棄、退却します。

09 (2)
フランス軍陣地は丸見えです。


<アンヌ=マリー陣地の戦い>
 
09 (3)

09 (4)

09 (5)

09 (6)

09 (7)
武器は手榴弾だけ。ベトミンの若年兵士は至近距離から
手榴弾を投げつける訓練しか受けず、前線に送られました。



<飛行場占拠に突撃する105部隊>

09 (8)

第2回目の総攻撃で滑走路はベトミンの手に落ち、フラン
ス軍はハノイから増援部隊と物資の補給を落下傘によっ
て行うしか手段がなくなってしまいます。しかしベトナム側
の対空砲火や天候不順のためなかなかうまくゆかず、戦
況はますます不利になっていきます。



<エレーヌC1陣地の攻防>
 
09 (9)

09 (10)

09 (11)

09 (12)

09 (13)
司令部東部エレーヌ基地のC1丘にあるフランス軍事基地
に突撃、殲滅させたベトミン316旅団。

日本の日露戦争そっくりのシーンです。ディエン・ビエン・フ
ーの戦いの作戦参謀には旧日本軍残留将校もいました。
ベトナム国営テレビの映像では前戦で指揮していた日本
兵がいたと地元民が証言しています。 

09 (14)
現在も残るC1陣地の遺構


4月9日から10日の夜半、フランス軍、第2外人落下傘部
隊700名と第3外人歩兵連隊や第5外人歩兵連隊からの
志願者数百名がクロディーヌ陣地(指令室があります)に
降下し、ベトミン軍と交戦します。

09 (15)

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09 (19)

09 (20)
攻撃する12.7mmカノン砲対空部隊(351旅団)。

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09 (22)
撃ち落とされたフランス軍機

09 (23)
捕虜となるパイロット


1954年4月、アメリカのケネディ上院議員(後、大統領)
は戦争さなかのベトナムを訪問。「インドシナにおいてど
れほどアメリカが軍事援助をしても、民衆の共感と支持を
得ている神出鬼没のベトミンを倒すことはできない」と警告
しています。



<原爆を使用しろ!!>
アメリカのニクソン副大統領は、ディエン・ビエン・フー要塞
が包囲されフランス軍が危機に陥った際には、要塞周囲
の山岳地帯に集結したベトミン軍に対して原爆の投下を
アイゼンハワー大統領に進言します。大統領は慎重で
した。英国、仏国と協議しましたが両国とも反対したため、
ニクソン副大統領の要請を冷たく拒絶します。ニクソン
自著『ノー・モア・ヴェトナム』 




<第3回目のベトミン総攻撃>
1954年5月1日-7日

10 (1)

5月1日、ベトミン軍は第3回目の総攻撃を敢行します。こ
の攻撃により最南端のイザベル陣地以外のフランス軍の
全要塞が陥落してしまいます。


10 (2)
塹壕でくつろぐベトミン軍。食料は豊富にあります。

10 (3)
不安げな顔つきのフランス軍


最後の砲撃、突撃が開始されます。

10 (4)

10 (5)

10 (6)

10 (7)t="279" />

10 (8)

10 (9)
司令官として最終決断を迫られるカストリー



フランス軍兵士は次々と降伏します
10 (10)

10 (11)

10 (12)

10 (13)



10 (14)
敵陣地を陥落させた208部隊の記念写真


5月7日17時40分、ド・カストリ将軍の司令部にベトミン兵
が突入し、将軍以下1万人近くの兵士が捕虜となって戦い
は終結します。

10 (16)
敵将カストリ司令官の要塞の屋根にホーチミンから授与さ
れた「決戦・決勝」旗を掲げるベトミン軍。

  
10 (17)
降伏、捕虜となるカストリ司令官。4カ月間収容所に入れら
れ、ジュネーブ和平協定締結後、釈放されます。

降伏の直前、ベトミン軍はフランスの名誉のために、降伏
ではなく戦闘の停止(停戦)という形をとりました。

10 (20)
1954年5月 ツインクワン地方で警護兵と昼食をとるホー
チミン



ホー・チ・ミン主席の言葉
「一つの国が自分の国家のために戦う決心をすると、だれ
も、どの国の軍隊も勝てないことをベトナムの歴史が証明
した。」 

   
この戦いでフランス軍の損害は、死傷者8300人と捕虜1
0000名。一方、ベトミン軍の死傷者は約23000人と言わ
れています。

10 (20)
収容所へ行進するフランス軍捕虜 約10000人。
このうち無事、本国に帰国できたのは約半数を言われて
います。

10 (21)
押収した各種武器は17784個にのぼります。


10 (18)
ディエン・ビエン・フー陥落を報じるフランスの新聞

10 (19)
朝日新聞

ディエン・ビエン・フーの敗戦でフランスはインドシナ戦争
中で最大の痛手を負った一方で、ベトミン側も軍事的に一
挙に首都ハノイを奪い返すという最終的な勝利を見込むこ
とが難しく、戦争の長期化でアメリカが本格的な干渉にの
りだすことを恐れていました。



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