べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ベトナムの菅笠と天秤棒  更新
ノンラー (1)

ノンラー (2)
日本の時代劇を見ると、お侍さんが蓑傘をかぶっているシ
ーンが出てきますが、ベトナムでは蓑傘より一回り小さい
菅笠を日よけのために女性がかぶります。

天秤を担いで物売りをしているおばさんや農作業をしてい
る人たちは必ずかぶっています。

アオヤイにもとてもよく似合うのですが、ホーチミンのよう
な都会では若者がアオヤイ自体をあまり着なくなってしま
ったので、ベトナムの風物詩が少しずつ消えていくような
感じです。

この日よけの帽子。ベトナム語でノンといいます。日本の
蓑傘よりもちょっと小さめで、帽子の角度は蓑傘より少し急
角度です。

ノンは「ノンラーの木」から作られます。パーム(やし科)の
木の葉を煙で燻して、太陽にあてないで乾燥させた葉を編
んで作ります。ノン(non)は「笠」、ラー(la)は「葉」、つまり
「葉っぱの笠」という意味です。ノンラーの葉が取れる木は
パームの木の中でも決まっているそうで、山で働いている
地元の人でないとわからないそうです。

ノンラーの有名な産地はフエ市で普通のノンラーのほかに、
葉が2層になっていて間に切り絵を挿入したノンバイトーと
呼ばれる伝統的工芸品があります。

実はベトナム人は傘をさす習慣があまりないので、傘は持
ち歩きません。特にホーチミン市では雨はスコールですか
ら、傘は持っていても役立ちません。雨宿りです。小雨に
なったら折りたたみのノンをもっていればとても重宝しま
す。ノンの外側には膠(にかわ)が塗ってあるので小雨ぐら
いなら防いでくれます。そうでないと服をちょいと頭にかぶ
って小走りすることになります。

安いノンは5000ドンぐらいから売っていますが、これは
パームの葉ではなく、藁で出来ているかも知れません。折
りたたみのノンは15000ドンぐらいしたと思いますが、い
ずれにしてもそれほど高価なものではありませんから、一
度チャレンジするのも楽しいです。一気にベトナム人にな
ったような気分になります。

ノンが一番似合うのは、何といっても天秤棒との組み合わ
せです。天秤棒で物売りをしているのは、ほとんどが女性
で重さは30Kgぐらいあるそうです。戦争に明け暮れたベ
トナム、男性は戦争へとかり出されてしまうので家計をす
べて取り仕切るのは女性でした。


天秤棒 (1)

天秤棒 (2)

天秤棒 (3)

天秤棒 (4)

天秤棒 (5)

天秤棒 (6)

天秤棒 (7)

天秤棒 (8)

天秤棒 (9)

天秤棒 (10)

天秤棒 (11)

天秤棒 (12)

天秤棒 (13)

天秤棒 (14)

天秤棒 (15)

天秤棒 (16)

天秤棒 (17)

天秤棒 (18)

天秤棒 (19)

天秤棒 (20)

天秤棒 (21)

天秤棒 (22)

天秤棒 (23)

天秤棒 (24)

天秤棒 (25)

天秤棒 (26)

天秤棒 (27)

天秤棒 (28)

天秤棒 (29)

天秤棒 (30)

天秤棒 (31)

天秤棒 (32)

天秤棒 (33)

天秤棒 (34)

天秤棒 (35)

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52 ホーチミン主席の足跡 1953年(63歳)

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1953年―1954年にかけてのWinter-Spring作戦を練る
ホーチミン

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1953年 反仏闘争をしているラオス自由戦線がViet Bac
Baseを訪れ、ベトミンと協力します。ホーチミンの左がSon
Ngoc Minh, 右がNguyen Thanh Son

<農地改革>

1953年12月1日、ホーチミンは戦況の現状と農地改革
の必要性を国会に報告します。ホーチミンは農地改革とフ
ランスへの抵抗戦争は表裏一体であることを強調します。
翌日、農地改革法は国会で採択されます。

<農地改革法の要旨>
1.地租の軽減、そのための省クラスの地租軽減委員会の
設置地主による農民の土地取り上げ禁止
2.8月革命以前の債務の取り消し
3.地租の累進課税(6%から50%)
貧農5~10%、中農10~20%、地主30~50%
4.荒地、フランス植民地者、逃亡地主の耕地の徴収と貧
農への分与
5.村の共有地の地主による独占の禁止のための条例作
   成
6.全農地の58%にのぼるフランス植民地政府、地主、富
農の土地を貧農に一時的に分与する。

国会終了後の12月3日、ホーチミンはスウェーデンの記
者の質問に答えて、「我々は世界中の平和への運動を支
持している。しかし私は平和が簡単にもたらせるような幻
想は決して持っていない。平和は苦難の闘争の後にもたら
されるものだ。」と語り、一旦北部ベトナムへ退却し、現在
はフランス軍と均衡を保つ状態になっていましたが、決し
て楽観はしていませんでした。

12月4日、政府によって提案された土地改革法が成立し
た後、政府に代わって人民の代表機関である国会は、抗
仏戦争の完全な勝利に人民を導き、国会と人民の信頼関
係に基づいて土地改革を成功させることを決意します。

そして来たるべくフランスとの大決戦、ディン・ビン・フー作
戦に備えるため12月6日、ホーチミンと共産党政治局はヴ
ォー・グエン・ザップ将軍をディン・ビン・フー作戦の司令官
として承認します。

ホーチミンはヴォー・グエン・ザップ将軍に話します。

「この作戦は軍事的に重要なだけでなく、政治的にも非常
に重要な戦いです。国内だけでなく、国際的にも注視され
ている重要な戦いです。

この作戦に勝利するためには軍も人民も党も一致団結し
て立ち向かわなければなりません」



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1953年12月6日 ベトバックベースでディエンビエンフー
作戦を練るホーチミンとべトナム共産党の指導者

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政府による土地の測量

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1953年末から行われた農地改革にトゥイクワン省の農家
を訪れるホーチミン

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タイグエン省の稲作地帯を訪れるホーチミン。この地方で
は1年に2回米の収穫ができます。

ホーチミンは「この国には食べるものは豊富にある」との
思いを強め、長期戦になるかもしれない抗仏戦争に自信を
強めます。

いよいよベトナムの解放に向けてフランスとの世紀の決戦
が始まります。

ブイ・ティン
ベトナム人民軍のエリート中のエリート将校ブイ・ティン大
佐は南ベトナムの解放後、ベトナム共産党の施策に疑問
を呈し、最終的にはベトナムの「国家反逆者」というレッテ
ルを貼られ、アメリカに亡命しました。彼がインタビューで
述べている言葉はホーチミン主席の考え方を大筋で踏襲
しており、統一後のベトナムがホーチミンが目指した国家
建設とは相容れない方向に進んでしまったことが、如実に
語られています。

<ブイ・ティン大佐の経歴>

ブイ・ティンがベトミンの組織に加わったのは1945年、18
歳の時である。フランス系の高校を終えてすぐにベトミン
に加わったのである。ベトナム共産党にもまもなく入党し
た。彼の父はフエにすんでおり、第2次世界大戦中に日本
軍が樹立したバオダイ政権の法務大臣を務めた。父はそ
の後、ホーチミン政府に加わり、国会議員に選ばれた。

1954年のディン・ビン・フーの戦いではベトナム人民軍第
304師団の大隊長を務めています。大激戦のこの戦闘で
ティンは負傷し、腹部がもぎ取られた傷跡は今でも残って
いる。以降はベトナム人民軍の情報・宣伝畑の道を歩むよ
うになります。

ディン・ビン・フーの戦いに負けたフランスが撤退してから
は、南ベトナムでの戦闘と北のハノイでの参謀本部勤務を
交互に続け、ヴォー・グエン・ザップ将軍やファン・バン・タ
イという名将軍の下でも働いた実績があります。

1970年代にはいるとベトナム人民軍機関紙「クワンドイ・
ニャンザン」の記者から編集者、主筆までを勤めた後198
2年にベトナム共産党機関紙「ニャンザン」に移り、副主筆
にまでなります。この間に大佐に昇格します。

しかし1990年秋になるとベトナム共産党やハノイ政府へ
の非難を公然と述べるようになりますが、意見は無視され
続けます。

1990年9月、フランス共産党機関紙が主催するシンポジ
ウムで、パリを訪問した際、イギリスBBC放送のベトナム
向け放送で「民主主義l、「政治的多元主義」、「経済の自由
化」などを訴え、ベトナム政府から「国家反逆者」とのレッテ
ルを貼られ、ベトナム共産党から除名されてしまいます。

その結果、フランス、アメリカと亡命することになります。ベ
トナムには彼の妻と娘夫婦、それに孫娘2人がいますが、
厳しい監視の対象になっているそうです。

<ブイ・ティン大佐の表舞台>

北ベトナム軍の捕虜となったジョン・マケイン少佐(後のア
メリカの大統領候補)の尋問を担当します。

1973年パリ和平協定では、在サイゴンの北ベトナム軍代
表を務めます。

1973年2月初め
北ベトナム人民軍や南ベトナム解放民族戦線の軍事代表
団が国際監視委員会事務所で南ベトナム政府の代表と会
談するため、始めてサイゴン市内の中心部へ入ります。ブ
イ・ティンは北ベトナム軍事代表団のスポークスマンとして、
南ベトナムの警備の兵士の肩をたたいている光景が写真
に残っている。それはまさに勝者の代表のようでした。


1973年3月29日
サイゴンのタンソンニャット空港から米軍の最後の撤退が
行われました。C141輸送機に60人ほどの米軍将兵が母
国に引き揚げます。ブイ・ティンは北ベトナム将校団の主
席として米軍のパリ和平協定遵守を見届けます。

ブイ・ティンは北ベトナムの寺院を描いた竹の簾を記念品
として、最後の搭乗者、タンソンニャット米空軍基地司令官
のポイント・オデル大佐に渡そうとしましたが、大佐は受け
取ろうとせず、握手も拒みました。大佐は目に涙を浮かべ
ていましたが、ブイ・ティンは嬉しそうに笑っている写真が
あります。
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1975年4月30日
南ベトナム大統領官邸「独立宮殿」に最初に突入し、ズオ
ン・バン・ミン大統領に銃を突きつけた北ベトナム軍の第一
陣にはティン中佐も加わっていました。この時ブイ・ティン
はベトナム人民軍機関紙「クアンドイ・ニャンザン」誌の従
軍記者をしていました。しかし彼は突入部隊の中で一番階
級が上だったので、ミン大統領からの降伏の宣言を正式
に受ける大任を授かったのです。

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サイゴン陥落 (40)
旧南ベトナム大統領宮殿の2階です。

大統領官邸に足早に入って来たブイ・ティンはミン大統領
の無条件降伏通告に対し、

「(実権を委譲するというが)あなた達の実権はすでに粉砕
された。無いものを委譲はできない」 「ベトナム人同士で
勝者とか敗者とか区別しても意味はない。負けたのはアメ
リカなのだ。これからはベトナム人すべてが和解し、祖国
の再建と繁栄に努めるのだ」と答えました。


しかし、統一後のベトナム共産党の施策に対して、彼は失
望し、1990年フランスに亡命します。

1991年、アメリカに移住します。

1991年 アメリカ上院公聴会
ベトナム戦争での行方不明の米兵問題を論じるこの会議
での証人は元ベトナム人民軍大佐のブイティンだった。

公聴会の議員側の中心に座ったマケイン上院議員はベト
ナム戦争時に尋問したブイティンと再会します。

ブイティンは故国の政権の共産主義独裁への失望を語っ
た。ベトナム共産党が民族の和解に背を向けて、旧政権
関係者を弾圧し、国民の自由や創造を踏みつぶしたと非
難した。

1991年のベトナム共産党大会でも、マルクス、レーニン
主義の教義に触れない範囲で経済改革を進めるという矛
盾に満ちた決定が採択されています。

アメリカ移住後のインタビュー。
「戦争での勝利の後、私が熱望していたベトナム民族の和
解も、ベトナム社会の繁栄も結局は実現しなかったのです。
今のベトナムを見てください。地球上で最も貧しい国にな
ってしまいました。無数の子供たちが栄養失調やさまざま
な病気に苦しんでいます。北部地帯は飢餓に悩まされて
いる。南部では住民が将来に全く絶望している。国民のた
めの保険とか公衆衛生は存在しないに等しいのです。」

「数え切れないほどのベトナム国民が今も国外に脱出して
います。戦争が終わって解放され、平和になったはずの故
国から命の危険まで冒してボートピープルとなって逃げ出
そうとするのです。ベトナムはしかも国際的にすっかり孤
立してしまい、最大の朋友だったソ連もベトナムをいまや
見放しています。」

戦争に勝ったのに、何故そんな悲惨な状態が起きたの
か?

「勿論ベトナム政府首脳部の政策の結果です。ベトナム共
産党の指導者たちは戦争中は歴史でもまれに見る立派な
政策と戦略で闘争を勝ち抜きました。民俗独立の闘争に勝
って、共産主義に基づく革命をも達成した。しかし平和をど
う保ち、育てていくかを知らなかった。新しい情勢の下でも
マルクス・レーニン主義の「プロレタリア独裁」とか「民主集
中制」という硬直した教理にしがみつき、国民の自由も創
造も踏みにじってしまった。経済面では非能率的な国営統
制システムだけを推進し、とくに農業や手工業を集団化で
押さえつけ、結果的に破壊してしまった。ことに旧南ベトナ
ムではアメリカ型の自由主義に慣れていたので、統制経
済の強制は産業全体を麻痺させてしまったのです」

指導者の統治の方法よりも共産主義の原則そのものが良
くなかったのか?

「両方なのです。指導者たちの考え方が余りにも硬直し、
独善的だった。誤りを認めない点は無責任でもあった。世
紀の革命闘争を勝ったと言う事で自己をすべて正当化し、
賛美するという一種のナルシシズムに陥ってしまったので
す」

「戦後はホーチミン主席の教えから離反してしまいました。
その一例は旧南ベトナムの政府や軍関係者を「再教育」の
名の下に長い年月、拘留し続けたことです。ホーチミン主
席は民族の団結と和解を常に念頭に置いたのに、戦後の
指導者たちは闘争が完全に終わった後、報復のように15
万とか20万人の南政府関係者を収容所に閉じ込めました。
そのために国の復興や再建のための貴重な人材が浪費
された。その上、拘束された人達の家族は新政権に何時
までも恨みを持ち続けることとなった。民族和解に逆行し
たわけです。」

「ベトナム共産党は多様な意見とかは一切認めない政治
体制になってしまいました」

ベトナム戦争での勝利は意味は何だったのか?

「空虚な勝利」です。意味のない勝利のために私の同士達
が生命を犠牲にして戦ったのか思うと、心が引き裂かれる
ように痛みます。私自身も一体何のための生涯を通じての
闘争だったのかと考え込んでしまいます。‘

ドイモイ政策については?

「共産主義の基本は頑なに変えないまま、経済の一部を自
由化するというのは矛盾しています。ベトナムには「言論
の自由」、「投票の自由」、「報道の自由」など民主主義の
基本権利は国民に与えられていないのです。」

出典:古森義久 「ベトナムの記憶」

51 ホーチミン主席の足跡 1952年(62歳)


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1952年の夏、Bac Kinhに行く途中のHCM

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トゥインクワン(Tuyên Quang̣̣)省ミーバン村に住むダオ族
の家族を訪問するHCM

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ベトミン以外の救国戦線の人々と

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カンボジア、ラオスの救国戦線の代表と


1952年10月5日 ホーチミンはソ連共産党第19回党大
会に参加しますが、スターリンとの面会は出来ませんでし
た。

10月30日、スターリンに手紙を書きます。
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スターリンに宛てた手紙


10月にはベトナム労働党第5回中央委員会も開かれ、土
地改革綱領を決定、発表します。土地改革綱領とは「土地
の封建的所有制を消滅させ、地主階級を廃絶し、土地は耕
すものが所有する」というものですが、あまりにも急激な改
革だったため、後に修正されます。


50 ホーチミン主席の足跡 1951年(61歳)

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1951年 Viet Bac Base で夕食を共にする画家のDiep
Minh Chau,  Nguyen The DoanとカメラマンのLe
Minh Hien


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執務中のHCM

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洞窟が住居になることはしばしばでした。  昼寝タイムに
は新聞を読んでいました。

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前線へ向かうホーチミン

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前線へ行く途中で休憩するホーチミンとヴォ・グエン・ザッ
プ将軍



1951年2月11日 ベトバックのトゥインクワン(Vinh
Quang commune, Chiem Hoa district, Tuyên Quang
Province)省で開かれた第2回インドシナ共産党代表会議
でインドシナ共産党の解党が再確認され、翌月ベトナム労
働党が発足します。この大会でホーチミンは演説し、フラン
ス侵略者に最後の勝利まで戦い、同時に新たな国家の建
設を訴えます。

ホーチミンは書記長にならず、党の主席に就任して、第一
線での党務、軍務を後継者に任し、ベトナムの精神的指導
者として活動します。

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第2期インドシナ共産党代表大会

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第2期インドシナ共産党代表大会で演説するホーチミン

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ベトナム労働党設立宣言書

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「ベトナム労働党の正しい道」


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1951年2月 第2回インドシナ共産党大会に参加した党
員と

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ベトナム労働党幹部

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1951年2月 大会期間中カンボジアの共産党員Son
Ngoc Minh とラオスの共産党員で皇太子の
Souphanouvong(XU-PHA-NU VÔNG)と会談するホー
チミン

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1951年2月 革命の殉教者に花輪を捧げるホーチミン。
左後ろは ホーチミンの後継者になるレ・ユアン(北部の発
音はレズアン)です。

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1951年3月 カオバン省フックフォア(Phục Hòa)で国境
作戦に参加している兵士やゲリラを激励。

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国境作戦に参加している兵士の食料を心配して同志Tran
Dong Ninhに手紙を書くホーチミン

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1951年3月6日 ベトミンと別の統一戦線組織であったリエンベト(ベトナム国民連合会)との合同会議で報告するホ
ーチミン。合同しても一般にはベトミンと呼ばれました。

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リエンベト(ベトナム国民連合会)の同志に歓迎されるホー
チミン

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会議後、ダンスを楽しむHCM


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ベトミン以外の救国戦線の人々と

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ベトミン以外の救国戦線の人々と

49 ドンケの戦い
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1950年ドンケの戦いの開戦を見守るホーチミン

1950年7月、共産党中央委員会の決定に従いザップ将
軍によって国境戦線が組織されました。中央委員会のメン
バーTran Dang Ninhが輸送路確保の責任者に指名され、
国境作戦の本部は現在のカオバン(Cao Bang)省のQuang
Uyen地方におかれました。

共産党中央委員会はこの戦いの重要性を説きます。

そしてホーチミンは前線の兵士に手紙を書きます。「この
戦いは勝つための戦いではなく、負けないようにする戦い
である」

カオバン地方の住民は国境作戦の主戦場になることが予
想されていたため、「すべての戦いに勝利を」というスロー
ガンのもと、1950年の早い時期から準備を進めていまし
た。

カオバン地方では現地の少数民族78824人が作戦に参
加し、延べ1340780日に渡って戦闘の後方部隊として働
きました。

この作戦のために2346トンの米と120トンのおかずが
用意されていました。

8月の終わりにホーチミンは兵士と共にカオバンの前線に
向け出発します。

9月16日の夜。ホーチミンはカオバンのドンケ駅に着き、
前線の兵士の装備を見に行くと、同志や兵士、特にカオバ
ンに住む少数民族の人たちは感激し、前線は作戦成功へ
の意欲で沸き返えりました。

ホーチミンはドンケの前線で、兵士と共産党常務委員との
作戦会議でこの戦いの重要性を説きます。

「我々はドンケで戦わなければならない。なぜならフラン
ス軍のドンケの要塞は比較的弱いからだ。しかしこのCao
Bang - Lang Son - Dong Kheのルートは中国からの武器援
助を受ける非常に重要なルートなのです。

フランス軍は援軍を送ってくるだろう。しかし我々の作戦は
彼らを打ち破ることが出来る。ドンケが陥落したら、その後
Thất KhêとThị xã Cao Bằngを攻める。」

9月16日、カオバンタウンの前線では、 Nà Cạn飛行場に
猛攻撃を加え、敵の飛行機を1機破壊していました。

9月18日午前10時ドンケの戦いは完全な勝利で終りま
す。

続いて前線の人民委員会とカオバン市民は兵士と共に敵
の2つの基地Lơ Pagiơ と Sáctôngを破壊することを決定
します。

10月1日、ベトミンはドンケの南側にあるLơ Pagiơ基地を
攻撃し、10月7日にLơ Pagiơ基地を占領します。

Sáctôngでは10月3日に4号線沿いに引き揚げてきた20
00人のベトミンと合流して10月7日にはフランス軍の
Sáctông 要塞を破壊しました。フランス軍の20人の将校
は降伏しなければなりませんでした。

Thất Khêで再編成されたベトミン兵士1000人はBông
Lau,  Lũng Phầyをも攻撃しました。

国境作戦はベトミンの完全勝利に終りました。

ベトミンの資料によれば、

「我々はフランス軍の基地を破壊し、8300人を捕虜にし
た。フランス軍の10個大隊と交戦し、うち8大隊を壊滅状
態に陥れた。それはインドシナ戦争の41%の戦力にあた
る。
4500Km2の土地に住む350000人のベトナム人が解放
された。」

国境作戦の勝利は作戦上、非常に重要な意味を持ちまし
た。ベトミンが平地戦でフランス植民地軍を破った最初の
戦いでした。ベトミンのその後のフランスやアメリカに対す
る抵抗戦争の方法に平地戦も導入されていきます。

国境作戦は終わりました。 Cao Bang は完全に解放され、
フランスによる奴隷生活を余儀なくされていたカオバンの
人々は新しい生活を始めました。

勝利以来、毎年10月3日はCao Bang 地方解放日
とされ、現地では記念式典が行われます。


48 ホーチミン主席の足跡 1950年(60歳)
1950年1月18日に中華人民共和国が、続いて1月30日
にはソビエト連邦がベトナム民主共和国を承認します。

中華人民共和国のベトナム民主共和国を承認に伴い、ホ
ーチミンは1月から4月の期間、秘密裏に北京⇒モスクワ
⇒北京とベトナム支援の旅に出ます。ホーチミンを

Võ Nguyên Giáp 将軍の著作「Đường tới Điện Biên
Phủ」(ディン・ビン・フーへの道)によると、

「1950年2月モスクワでホーチミン、毛沢東(Mao
Zedong)、スターリン(Joseph Stalin)が会談した。

スターリンは中国を経由してベトナムに武器援助をするこ
とに同意し、毛沢東もGuangxi (広西チワン族自治区)がベ
トナム支援の後方基地として協力することに同意した。

1950年4月にベトミンの軍事部門は中国に行き武器援助
と軍事訓練を受けた。この武器援助により、ベトミン主力軍
は長い竹槍に代わって、銃と豊富な弾薬を装備することが
出来た。我々の歩兵の戦闘能力は完全に変化した。」

ホーチミンのこのたびの詳細は中国側の文献『中国軍事
顧問団援越抗法実録――当事者の回憶』に詳しく記録され
ています。

「引用」
「1950年1月下旬,べトナム高平省復和県の曲がりくねっ
た土の道をやせて頭に手ぬぐいをまいた老人が,中国の
広西省竜州水口関へ向かって歩いてきた。ホーチミンであ
った。彼に随行しているのはベトナム人民軍で共産党中央
委員の陳登寧と5.6人の随員だけであった。ホーチミンの
この行動は完全に秘密であり,共産党の指導者でも数人
の人しか知らなかった。

インドシナ共産党の第三次全国代表大会が閉幕したばか
りで、その大会では当面の闘争の情勢を分析した結果、全
会一致で「正規軍の欠乏、兵種および大型武器の欠乏、高
速の通信手段の欠乏、戦略のわかる指揮者の不足」が抗
法戦争が直面している最大の問題である事が認識された。
ホーチミンの中国訪問目的は、中国に抗仏戦争の情況を
説明し、中国共産党に軍隊の建設と軍事要因の派遣を要
請することだった。

水口関は、過去にベトナムの革命事業のために彼は何回
もここから出入りしていたのでホーチミンは非常に良く知っ
ていた。中央の指示に従って広西軍区保衛部の責任ある
同志が30余名の解放軍の幹部戦士を率いて、早くからこ
こで彼の到着を待っていた。

中共広西省委員会書記や省政府主席の張雲等らが、その
夜、宴会を開いてホーチミン一行を歓迎し、張雲逸はホー
チミンに言った。現在、広西は解放されたばかりであり、土
匪と特務の活動はきわめて活発である。工農業生産は急
いで回復しなければならず、土地改革はまだ始まってもい
ない。われわれは必ず工作に勤め、広西をベトナム抗仏
闘争の信頼できる後方にする。当時、湘桂鉄道は南寧東
北の来賓までしか開通していなかったので、ホーチミン一
行は南寧から車で来賓へ来て、そこから列車に乗って北京
へ向かったのです。

ホーチミンは1950年1月北京に到着したが、この時毛沢
東・周恩来はモスクワを訪問しており、劉少奇が留守を守
っていた。

この夜、劉少奇が盛大な歓迎の宴を挙行した。

ホーチミンは言った。我々は中国革命の勝利を非常に喜
んでいる。あなた方の勝利は我々の信念を高め、貴重な
闘争の経験を提供してくれた。我々は中国の同志が我々
を援助して部隊を訓練し、強いベトナム人民軍を建設する
事、我々を援助して作戦の指揮を行い、並びに物資の面で
支援を与えてくれる事を希望する。

劉少奇は言った。現在の国際情勢は、ベトナムの抗仏戦
争にきわめて有利である。中国はすでにベトナムの承認を
決定した。ならびにソ連と協議し彼らに承認を提案し、ベト
ナムに国際的地位をもたらしたい。我々がベトナム人民の
抗仏戦争を援助する事は、中国共産党と中国人民が尽くす
べき国際的責任であると考えている。

中国は解放されたばかりであり、すべての工作はみな始
めからやらなければならない。特に匪賊特務の粛清、経済
の回復、土地改革等の任務は極めて繁重である。だが、
われわれはベトナムの抗仏戦争に支援を与える事を決心
している。この事は毛主席と周恩来同志が帰ってきた後、
援助の内容を真剣に研究する。

さらにホーチミンは出来るだけ早くソ連へ行き、スターリン
に会って、ソ連の政府が援助を与えてくれることを依頼した
い。毛沢東・周恩来がモスクワにいるのなら、ソ連へ行け
ば彼らと一緒に相談できる。彼は劉少奇に出来るだけ早く
ソ連へ行けるよう連絡調整する事を求めた。

ホーチミンは2月6日モスクワに到着し、その日の夜、ソ連
中央が歓迎の宴会を開いたがスターリンは出席しなかっ
た。毛沢東には解っていたが、スターリンはホーチミンが
民族主義者であり第二のチトーになる事を心配していたの
である。

毛沢東はスターリンとの会談で辛抱強くホーチミンの人格
を説明した。ホーチミンはベトナムのマルクス主義の革命
家であり、ベトナム人民の支持を深く受けている。スターリ
ン同志は出来るだけ早くホーチミン同志に会って、彼がど
んな要求と考え方を持っているか聞くべきである。

スターリンは言った。「ホーチミン同志はソ連が直接ベトナ
ムに援助を提供する事を要求している。彼らを援助してソ
連がフランス人と戦うことに関しては、我々は少し違った考
えを持っている。スターリンは既にヨーロッパにおける「平
和攻勢」のために、反帝国主義民族革命とプロレタリア国
際主義を放棄していた。

スターリンは続けて「中国革命の勝利は、中国がすでにア
ジアの革命の中心になっている事を証明している。我々が
ベトナムを支援し援助する工作は、主として中国が引き受
けるのが良いと考えている」。

毛沢東は言った。「ベトナムが必要としている主なものは武
器弾薬であり、またそのほかの軍事物資もある。中国は必
ずしもその必要をすべて満足できないだろう。彼らはソ連
もまた援助を与えてくれる事を希望するだろう」。

スターリンは引き続き彼の意見を述べた。「中国とベトナム
は地理的に近く、連絡も多い。中国から援助する事がより
便利である。中国の経済建設を援助する事はソ連の重要
な任務である。我々はすでに世界大戦を終え、大量の武
器装備はいらなくなった。それを中国へもって行く事は出
来る。ベトナムで使えるものは君たちがそこへもって行け
ば良い」。

スターリンは国際紛争を引き起こす事を恐れていた。しば
らく前、劉少奇がひそかにソ連を訪問したとき、スターリン
は繰り返し「国際分業」しなければならないと強調していた。
これについて毛沢東はもはや違った意見を示さなかっ
た。」
「引用終わり」

そして中国、ソ連ともベトナム民主共和国を正式承認すると同時に、
軍事援助を約束します。
中国人民共和国は蒋介石軍から獲得した自動小銃、曲射
砲、トラックを含む大量のアメリカ製武器をベトミンに供給し
ます。

これを受けてアメリカも対仏援助を開始します。インドシナ
戦争の全戦費の80%はアメリカが負担します。

共産主義革命によってフランス植民地から独立というホー
チミンの愛国民族主義は東西冷戦構造の始まりとともに、
共産主義国(ソ連、中国)と資本主義国(アメリカ)がべトナ
ムを舞台にして戦う代理戦争の性格を帯びてきます。


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1950年3月 フランス共産党若手リーダーのLeo Figeres
がホーチミンの対仏反撃拠点であるViet Bac Baseを訪れ
ます。

1950年3月16日 アメリカの空母一隻と駆逐艦2隻が、
サイゴン港に入港してきます。
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アメリカの駆逐艦

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1950年3月19日 ベンタン市場前アメリカ軍艦の入港に
抗議するサイゴン市民

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1950年4月、フランスの傀儡政権であった「ベトナム国」
は独立1周年記念を祝います。


1950年6月2日 アメリカは軍事顧問団の派遣を決定し、
戦車、飛行機、重砲を南ベトナムにいるフランス軍に供与
します。

一方中国も6月に最初の軍事顧問団をViet Bacに送り込
みます。

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1950年 中国の軍事顧問団長のTrán Canh 将軍と同志
のLa Qui Ba、左端はチュオンチン
ホーチミンとTrán Canhは1920年代の中頃、中国広州で
の同志であった。Trán Canhは雲南省の中国共産党軍の
司令官になっており、4人の中国軍事アドバイザーを引き
連れてベトミンの援助にやって来ました。


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1950年 共産党幹部と国境作戦を練るホーチミン。

国境作戦は中国からの援助物資の通過ルートを確保すた
めの作戦で、ベトナム東北部のカオバン一帯を奪取し中国
広西省と連結させる作戦

7月、ザップ将軍は戦場に行く前にホーチミンに会いに来
ます。ホーチミンはザップ将軍に語ります。
「この戦いがキーだ。勝たねばならない。負けてはなら
ない」と。

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国境作戦の前線に向かうホーチミン

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フォーダイ川の滝のそばでくつろぐホーチミン

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1950年 国境作戦はホーチミン自ら先頭に立ち、野営し
ながら戦場へ向かいます。

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国境作戦(Đông Khe)で戦闘を開始する兵士を見守るホー
チミン

<Đông Kheの戦いについては別項>
国境作戦と呼ばれたĐông Kheの戦いは中国との輸送ル
ート確保のため、とても重要な作戦でした。そしてベトミン
にとってゲリラ戦ではなく、平地での最初の大戦闘でした。

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1950年9月17日 ホーチミンはラオスの皇太子
Souphanouvong(XU-PHA-NU VÔNG)に手紙を書き、連携を
深めます。翌年皇太子はホーチミンを訪れます。

1950年10月28日 フランス本国議会のドゴール派は、
「もはや軍事的勝利によってインドシナを支配することは不
可能である。政府は真剣に和平の道を探求すべきである」
という決議案を提出、採択されています。

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1950年 ベトバック地方の子供を抱きしめるホーチミン

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この年、11月9日、彼は悲しい知らせを伝えられます。兄
が故郷のゲアンで亡くなりました。勿論、彼は帰るわけに
は行きません。電報を打つのが精一杯でした。

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12月 戦場へ向かうホーチミン

レックスホテル 更新
アドレス: Nguyen Hue , Dist. 1, HCMC

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レックスホテルはベトナム近代史の生き証人であり、80年
以上に渡り、サイゴンのランドマークとして現在に至ってい
ます。

レックスホテルのある場所は1920年代の初めフランス人
によってシトロエンなどの欧州車のショウルール兼ガレー
ジとして建てられた2階建ての建物で、Bainier Auto Hallと
呼ばれていました。建物は当時のフランスのArt-deco様
式を取り入れた代表作でした.

12  1927年
1927年の写真

13  1942年
1942年の写真  正面玄関上部にシトロエンの看板が見
えます。

この時期にレロイ大通りも完成しました。

1959年 ベトナム最後の皇帝バオダイの親族であるUng
Thi夫妻が買い取り、拡張工事をして6階建てのRex Trade 
Centerとなりました。この時期、バオダイはフランス人との
友好関係を楽しんでいました。
建築はArt-deco様式を引継ぎ、現在のホテルもその面影
を残しています。
14


1960年にアメリカのケネディ大統領がベトナムへ軍事顧
問団の派兵を決定するとRex Trade Centerは American
Cultural Center に貸し出され、1階にはAbraham Lincoln
図書館が造られました。
15
正面玄関の看板には「Thư Viện ABRAHAM LINCOLN」とあ
ります。


ベトナム戦争中にはUnited Stats Information Agencyがト
レーディング・センターをそのベースにしました。(1962
年から1970年)。秘密裏にアメリカCIAの本部もここに置
かれました。1962年2月には「南ベトナム軍事援助司令
部(MACV)」の司令部もここに置かれ、軍事顧問団の将校
が多数宿泊します。

そしてトレーディング・センターの会議室は“Five O’clock
Follies” と呼ばれたアメリカ軍のニュースメディアに対する
毎日の記者会見場としても使用されました。

しかしこの記者会見は真実を伝えないので記者仲間では
「5時の愚行な記者会見」と評されていました。

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5時の愚行な記者会見

ニュース記者たちは5階屋上のルーフトップバーで、夕暮
れのサイゴンの町並みを眺めながら、ビールを飲み、戦
争の真相の情報交換やゴシップを語り合っていたのです。

17  屋上レストラン

戦争が激しくなり、ベトコンがサイゴンを攻撃してもホテル
としてのトレーディング・センターのサービスは変わらず、
特にルーフトップバーはいつでも家族的な雰囲気で南ベト
ナムで取材する当時の記者仲間のたまり場になっていま
した。

特にアメリカ人には階上にUnited Statee Officer’s Club が
あり、アメリカの軍票を使うことが出来ました

この伝統は今日まで引き継がれて、現在でもレックスホテ
ルの合言葉は「ベトナムでのあなたの家」で、高級感にも
まして家族的なもてなしを最重要にしています。

アメリカ軍のベトナムからの撤退後の1973年にトレーデ
ィング・センターはレックス・トレーディング・センターと改称
され、東南アジアでは有名な場所になりました。3つの映
画館、カフェテリア、そしてダンスホールが併設されていま
した。

その後、レックス・トレーディング・センターから豪華なホテ
ルに模様替えする設計がなされましたが、1975年4月3
0日のサイゴン陥落により実現されませんでした。

1976年南ベトナムと北ベトナムの統一発表は皮肉にも
“Five O’clock Follies”の会議室で行われました。

サイゴン陥落後、レックス・トレーディング・センターはしば
らく北ベトナム軍の兵舎となっていましたが、レロイ通りや
グエンフェ通りに面した多くのホテルも統一後の政府によ
り、接収、廃棄、処分されました。

1986年、ベトナムの市場開放政策「ドイモイ」によってレ
ックスもホーチミン市のサイゴンツーリストに売却され、ホ
テル名はベンタンと改称され、国際レベルのホテルに改築
されたのです、

しかしレックスの名称はホテルのトレードマークとして一般
にはレックスホテルと呼称されています。

その後1990年に大規模改築がなされ、2003年、2007
年と改装され、、白亜のコンチネンタル様式のホテルに生
まれ変わりました。2011年には1階のショッピングモール
が改装され、ヨーロッパの一流ブランドが出店しています。

2008年にレックスホテルは国際基準の5つ星ホテルに登
録されました。

アメリカの退役軍人のベトナム旅行では、このレックスホ
テルにノスタルジアを感じ、サイゴンがホーチミンになって
も、この歴史あるレックスホテルに泊まり続けているので
す。

現在のレックスホテルにはベトナムの政府要人や企業の
VIPしか使えない宿泊施設や24時間飲食がフリーな専用
ラウンジが作られているのも他のホテルとは一線を画して
います


<現在のレックスホテル>

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レックスホテル全景


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レックスホテルにだけ使用が認められているグエン王朝
の王冠マーク


正面玄関にはフランス植民地時代の建築の面影が残って
います。
20  正面入り口


ドアーを開けるとアオザイ姿の受付嬢が出迎えてくれま
す。
21  案内嬢

館内は古来のベトナム様式の装飾で、客室もシンプル、シ
ック、クラシカルで、レックスのロゴの王冠をかたどったデ
ザインでまとめられています。

22  客室1

23  客室2

24  客室3

25  客室4

26  客室5



steur通りに面した一階の「ロイヤルコートレストラン」で
は、ベトナム古典音楽を聴きながら超一流のベトナム宮廷
料理が楽しめます。

27  食堂1

28  食堂2

29  食堂3

30  食堂4



トゥー・ティエム(Thu Thiem)トンネル
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東西大通り(ハイウェイ)は2000年5月7日、ベトナム政
府により認可を受けた大規模プロジェクトで、トンネル
建設、新道路建設・既存道路拡張、 トンネル内設備・料金
所建設の3案件に分かれていて、ハイウェイはホーチミン
市Binh Chanh県内の国道1号線から、サイゴン川を渡り2
区を通過しハノイハイウェイに接続する東西幹線道路で全
長は21.9kmあります。

この道路のうち、サイゴン川渡る河川トンネルがトゥー・テ
ィエムトンネルと呼ばれています。インドシナ半島で初め
ての河川トンネルです。

トンネル設計  日本のPacific Consultants International
設計思想は日本の神戸市をイメージしています。
耐久年数は100年、トンネル内設計速度は60km、
全長93m、幅33m、高さ9m

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トンネルは箱型のコンクリートを川底1m位のところに沈め
る工法なんですって。

トンネル工事は日本の大林組、トンネル内設備・料金所建
設は日本の川崎重工が受注しています。

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2区側の料金所


<工事中のトンネル>
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2区側


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1区側

<完成したトンネル>

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2区側


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1区側

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近未来の想像図

2011年11月20日に約10カ月遅れで開通セレモニーが
行われます。


■Thu Thiem新都市管理委員会
177 Ly Chinh Thang St., Dist.3, Hochiminh-City
ウェブサイト:www.thuthiem.com.vn

47 ホーチミン主席の足跡 1949年(59歳)
1949年3月 ベトナムの再植民地化を目論むフランスの
オリオール大統領はバオダイとエリーゼ協定(Elysée)を結
び、バオダイをフランス連合内の「ベトナム国の元首」とし
て香港からベトナムへ帰国させ、6月14日に「ベトナム国」
を正式に発足させます。

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ベトナム国の元首としてフランスに担ぎ出されるバオダイ


一方、ベトナム民主共和国のホーチミンは「ベトナム国」を
フランスの傀儡政権だとして認めず、ベトナムには2つの
政権が存在することになります。

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馬に乗り、詩を口ずさみながら行進するホーチミン

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1949年10月 南部の戦況報告の為、Vien Bac Baseに来
た南部の兵士達

1949年10月1日 中華人民共和国が誕生し、中国から
の武器援助は飛躍的に増加します。中国国境に続く道路
は軍需物資の補給路として最重要で、べトミンは国境作戦
と名ずけて補給路の確保を守ります。

46 ホーチミン主席の足跡 1948年(58歳)
北部山岳地帯に退却したホーチミンですが、フランス軍に
対抗するにベトミンには余りにも武器がなく、ゲリラ戦での
抵抗に限られていたようです。

しかし政治戦略は着々を薦められていきます


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敵の105mmキャノン砲を奪うベトナム軍


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南部ベトナムの抵抗戦線の代表団と。Viet Bacにて。

1948年12月19日 抗戦二周年記念のアピール書でホ
ーチミンは守るべき革命道徳として「勤勉、倹約、廉直、正
義」を強調します。

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ベトバック抵抗基地で若き軍団に囲まれるホーチミン

一方退位したバオダイ帝はホーチミンによって新政府の
「最高顧問」に任命されましたが、次第にホーチミンとは意
見が合わなくなり、公式外交代表団の一員として訪中時に
亡命し、1946年からはイギリスの植民地だった香港で生
活したいました。

ホーチミンに代わるベトナムでの政権を作るためにフラン
スの高等弁務官は1948年6月5日、ベトナムのハロン湾
でバオダイと会談します。



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