べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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39 ホーチミン主席の足跡 1945年(55歳) その1 明号作戦とOSS

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1945円1月12日アメリカ軍のUSS Essex planes
によって攻撃されるサイゴン川沿岸の施設

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1945年1月12日日本の2隻の貨物船やタンカーがアメリ
カ軍航空機の攻撃によってサイゴン川に沈没します。

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1945年の日本の勢力図

1945年に入ると、太平洋における日本の敗色も濃くなり、
日本陸軍は、近々上陸が予想される連合軍部隊に備
えて、フランス植民地軍に共同防衛することを打診します
が、拒否されたため、3月5日~10日の間にフランス軍の
武装解除作戦を決定します。(明号作戦)

1945年3月9日、日本軍は「明号作戦」を発動し植民地軍
と戦闘状態に突入します。約30000の日本兵士は警察部隊
も含めると約90000といわれたフランス植民地軍を攻撃し
て勝利します。

この勝利は金字塔でアジア人の日本軍がいとも簡単に一
夜にして欧米の軍隊を打ち破ったことで、その後のベトナ
ム国の侵略者に対する抵抗運動に勇気を与えたことは間
違いありません。

日本軍は作戦終了後、ベトナムに「フランスとの条約破
棄が可能であること」を通告した。これを受けて、フラ
ンスによる植民地支配で統治権を抑制されていたグエ
ン朝の皇帝バオ・ダイは、1884年の甲申条約(第二
次フエ条約、パトノートル条約)を破棄し、フランスか
らの独立と日本への恭順を宣言します。

3月11日 ベトナムにおけるフランスとの共同統治
体制を転覆させるべく反仏クーデターを発動、バオダイ
帝は「ベトナム帝国」の建国を宣言し、ベトナムのフラ
ンスからの独立を宣言します。

しかしホーチミンが率いるベトミンは日本軍の傀儡政
権であり、封建制度の延長に過ぎない「ベトナム帝国」
の独立を認めることはありませんでした。ベトナム帝国
はホーチミンの独立宣言(同年9月2日)まで続きます。

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現在のサイゴンの人民委員会ビルにはバオダイ帝の肖
像が飾られました

4月17日 バオ・ダイ帝は、著名な文人であったチャ
ン・チョン・キムを首相に任命し、内閣を組織させ、今
までのフランス文化の払拭をしていきます。
1. フランス式の町名をアンナンの町名に戻します。
2. フランス人の官僚を免官。
3. フランス人の銅像の撤去。
4. 教授言語をフランス語からベトナム語に改定。

しかしベトナムの領土については同時に独立を果たし
た隣国のカンボジアやラオスとの摩擦が生じていまし
た。

一方ホーチミンはアメリカ諜報機関OSSに協力して、共同の
敵、日本軍に抵抗する活動をしていました。

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中国重慶から米国諜報機関OSS(後のCIA)のトーマス少
佐らの軍事顧問団が抗日ベトナム人組織のリーダーと会う
べくハノイ南方の密林に潜入してきます。この時ホーチミン
は竹を編んだ粗末な小屋で赤痢とマラリアに苦しみ、危篤
状態でした。OSSは「黄色くからからに乾いた老人」にキニ
ーネとスルフォン剤を投与し、ホーチミンはやがてやがて
回復します。

ベトミンは設立から日本の敗戦まではOSSから武器援助を
受けいましたが、ホーチミンが直接OSSのスタッフに会っ
たのはこの時が初めてでした。

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1945年5月 ベトナムーアメリカの連合軍の記念撮影。ホ
ーチミン、Nai(OSS),ザップ将軍

OSS将校は後日「いつもアメリカ製のタバコをくわえて
いて、人のいいおじさんだったよ」と回想しています。


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アメリカOSSとべトミンが日本に対しての共同戦線中にホ
ーチミンがOSS将校、Charles Fennに出した手紙。(194
5年6月9日、1945年7月21日)

1945年6月 飢饉でハノイ周辺地域は極端な米不足にな
り、ベトミンの発表では200万人が餓死したとされています。
ベトミンは米一揆を呼びかけ実力闘争を展開します。飢餓
者200万人については、ホーチミンの独立宣言の中でも記
述されていますが、根拠がないとされています。日本の国
会での戦後賠償の参考人招致委員会では100万人とされ
ています。

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38 ホーチミン主席の足跡 1944年(54歳)
8月9日、ホーチミンは中国からの自由な出国や中国在住
の18名の選ばれた青年を共に連れて行くことを認められま
す。

蘭州(Lan Châu)を離れる前のホーチミンは政治力を発揮し
てホーチミンをかばってくれた国民党軍のTrương Phát
Khuê将軍と話をしています。その中でホーチミンの述べ
た言葉はホーチミンを知る上で、重要な言葉です。。

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Trương Phát Khuê将軍

“Tôi là một người cộng sản, nhưng đều mà tôi
quan tâm hiện nay là độc lập và tự do của nước
Việt Nam, chứ không phải là chủ nghĩa cộng sản. “

「私は共産主義者です。しかし私が現在行おうとしているこ
とはベトナム国の独立と自由の獲得なのです。共産主義が
重要なのではありません。」

ホーチミンは、彼がBrother と呼んでいた
Van Tuong Tieuand(Xiao Wen将軍)にも礼を述べた際
に、一言付け加えました。私がベトナムやベトナム革命に
ついてあなたに述べたことは99%本当のことです。でもま
だ話していない事が1%残っています。この1%は何だっ
たんでしょう。

8月10日 インドシナ共産党中央委員会は、「武器を確
保し、共通の敵を駆逐せよ」とのアピールを発表して、武力
蜂起の機運を高めます。

中央委員会の報告を聞き、ホーチミンは9月の後半にベト
ナムのパックボー基地 (CaoBang)に戻ってきます。

中国から戻ったホーチミンは、一地方の個別蜂起は冒険主
義として強く批判。蜂起の延期を指示します。

ホーチミンの指示:
① 蜂起はベトバクの情勢のみにもとづく判断である。
② 省レベルでのゲリラ戦は敵の集中攻撃を招き失敗する
だろう。
③ まず政治活動を強化し、その後に蜂起を論ずるべきで
ある。

10月ホーチミンは全国民宛に手紙を書きます。
「ベトナム革命のための準備が必要な時期がやってきた。
ベトナム国民の解放は1年か1年半後にチャンスがくる。
すべての国民、グループは団結しなければならない。」

12月ホー・チ・ミン、ボー・グエン・ザップ、アン・ヴ
(Anh Vu)の3人はベトナム解放のため武装軍団が必要な
ことを話し合います。話し合いは寒空の中、灯りもない中で
午前3時頃まで続きました。

そしてボー・グエン・ザップがその中心になることが決まりま
す。

ホーチミンはこの軍団の目的は軍事よりも政治的な宣伝に
あること、設立は秘密裏に行われることを指示します。

そして翌日の午後、ホー・チ・ミンはボー・グエン・ザップに
タバコの包み紙の裏に設立の許可を書きます。

12月22日にボー・グエン・ザップを長とする「ベトナム解放
武装宣伝隊」が組織されます。これが公式にはベトナム人
民軍(べトミン)創設日とされています。

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タンチャオ村(Tan Trao)のカジュマルの木の下で武装宣
伝隊の出陣式が行われました。隊員は34名、小銃34、サ
ブマシンガン1丁が最初のベトミンの軍隊です。訓示して
いるのは後の名将ボー・グエン・ザップ。

秘密を守るため、ボー・グエン・ザップは、フランス商人の
裕福な息子の服装をして変装していました。

「ベトナム解放武装宣伝隊」が組織された時にはカメラがあ
りませんでした。この写真は記念として残すためにディン・
ビン・フーの戦いに勝利した後の1954年冬に取られたも
のです。

南洋学院
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1942年ベトナム全土に軍隊を送り込んでハノイ、フエ、
サイゴンに司令部を置いた日本軍はサイゴンに人材養成の学
校を設置します。

1942年、日本国外務省、文部省の共同所管に属する財団
法人南洋協会がサイゴンで中学校卒業者の日本人をを対
象とした修業年限3年の全寮制の南洋学院という専門学校
を設立しました。

教育内容はベトナム語、フランス語の語学の習得を中心に
生物学、地理学に多くの時間が割かれ、インドシナの発展
に寄与する人材育成をメインにしていました。

公費学生なので衣食住は無料でしたが、卒業後少なくとも
2・3年間、官公庁または商社等に勤務することが義務づけ
られていました。

1945年、敗戦により閉校しましたが、一期生30名、二期生
30名、三期生52名がサイゴンで青年時代を送りました。

しかし日本軍の戦況の悪化から、卒業生の多くは1945年
の明号作戦に徴収されました。

1988年より、当時の先生と卒業生の方々が現在のホーチ
ミン市科学社会人文大学で日本語講座を復活してベトナム
国に貢献されていましたが、2006年8月5日に閉鎖された
ようです。

現在、南洋学院はベトナム建設省ホーチミン部局の建物に
なっておりペンタイン市場からチョロンに向かうチャン・フ
ン・ダオ通りを西に2kmほどの右手にあるそうですが、まだ
探し当てていません

37 ホーチミン主席の足跡 1943年(53歳)
この年の秋までは獄中です。

1943年1月にはホーチミンは桂林(Quế Lâm 英語
Guilin)の収容所に移されていました.

2月の初めに桂林から中国国民党の政治局事務所のある
柳州へ移されます。

ここの収容所では十分な食料が与えられ、手錠や足かせも
されず、午前と午後にはトイレタイムが各15分間ありまし
た。

ベトナム国内では2月25日にインドシナ共産党常務会議が
開かれます。「より幅広い統一戦線の形成のためには、党
の中に文化専門の幹部が必要である」としてチュオン・チン
が中心となって、幅広い知識人を結集するために、ハノイ、
サイゴン、フエなどの都市を中心に、文化救国会を発足さ
せます。

文化救国会は「ベトナム文化革命綱領」を作成して、
文化を、政治経済と同様に一つの戦線とみなします。「文
化活動をしてこそ、党は世論に影響を与えることができ、党
の宣伝効果を生む」という考えからでした。そして、文化活
動の柱として、民族化、科学化、大衆化の三原則を掲げま
す。

5月になると、看守は新聞を読むことを認め、新聞の切り抜
きはベトナムに送られました。

国民党の政治局員はホーチミンがベトナム国内の人と連絡
することさえ認めました。

この頃、ホー・チ・ミンは孫文や蒋介石の書物をベトナム語
に翻訳していたので、彼は囚人ではあったもののかなりの
自由が与えられていました。

しかし彼はダニに犯されていたので、朝4時に起き、冷た
い近くの川(Liu River)に飛び込みHemiulter
Leuisculus と言う魚に彼についた寄生虫をかじらせてい
ました。

同志Hô Học Lãmの妻とその娘はファン・バン・ドン(Phạn Văn
Đồng)の依頼を受けてホー・チ・ミンの行方を捜していまし
た。

Hồ Học Lãmは捕虜キャンプで毎朝冷たい川に飛び込んで
いる奇妙な人がいると聞き、7月の終わりから8月初め頃に
収容キャンプを尋ねます。

そこには蒋介石の「中国革命の運命」という書籍を4000
yuanで翻訳しているグエン・アイ・コックの姿がありました。

しかしグエン・アイ・コックがフランス植民地政府から指名手
配を受けているのを十分知っていた彼女は、断固として知
らぬ振りを通しました。

ホー・チ・ミンは娘さんに学校の制服を買うに十分なお金を
渡そうとしましたが、受け取らず、手土産を置いて帰って行
きます。

ホーチミンの釈放には中国共産党、インドシナ共産党、ベ
トナム在華僑団、および国民党進歩人ら多数のグループが
援助し、最終的には国民党が援助を受けていたアメリカO
SSの口利きで1943年9月10日に釈放されますが、ベトナ
ムへの帰国はすぐには認められなかったようです。そして
この日、ホーチミンは捕虜キャンプで「Conclusion」という
最後の詩を書きます。

釈放後、彼はしばらくLiuzhou(柳州)に留まり、在中国のイ
ンドシナ共産党員と抗日、抗仏活動を共にしていまし
たが、その間に故人となってしまったHồ Học Lãmの家族
を訪ね、娘さんのHồ Diệc Lanと話をしています。

その話の中でホーチミンは、彼の書籍「Our history」の中
で、「革命は確実に勝利する。そしてそれはすぐ、1945年
には起きる」との予測を披露しています。

36 ホーチミン主席の足跡 1942年(52歳)
グエン・アイ・コックはベトミンメンバーに対して政治教育に
力を入れます。

我々は敵と戦わなければならない。しかし我々には力がな
い。武器がない。我々はデルタ地帯と山岳地帯に陣地を造
って、団結しなければならない。

そしてベトミンメンバーに対して10項目の遵守事項を定め
ます。

1. Society should be kept secret.
2. Be very faithful to the Society.
3. So the purpose of the propaganda.
4. Should strive to find new members.
5. Should strive to work for the Society.
6. Should payment for dues schedule.
7. Should help each other.
8. Should effort to learn.
9. Society should be reading.
10. So supporters of the newspaper.


8月13日の夕方、中国の革命勢力や連合軍の援助を求め
て中国へ潜入するため、グエン・アイ・コックから「ホー・チ・
ミン」と改名します。

19日から24日にかけて、ホーチミンはLê Quảng Baを伴っ
て、中国広西省へ入国します。中国の国境付近では共産
党員がホーチミンを手引きしたのですが、共産党の勢力拡
大を嫌う蒋介石の中国国民党軍によって8月29日逮捕され
てしまい、投獄されます。

そして何故か広西省の牢獄を18箇所もたらいまわしにされ
ます。コミンテルンでは名の知れていたホーチミンも中国
の地方都市では無名で逮捕した官憲も彼がグエン・アイ・コ
ックだとは知りませんでした。

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刑務所をたらいまわしにされたホー・チ・ミン

牢獄の彼は礼儀正しく、瞑想的な長老のふりをして、看守と
友達になり、しばしばチェスをして時を過ごしていました。

囚人には紙や筆記具を認められていなかったのですが、
ホー・チ・ミンはタバコの紙を貰い受け、ご飯粒で張り合わ
せ、インクは土とほうれん草から作り、中国語で詩を書き始
めました。獄中日記はこうして出来上りました。

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獄中日記」 中国語で詩が綴られています。

この詩はベトナムの書道家がいろいろな書体で書き直して
出版されています。表紙の年代は10年間違ってしまって
いますね。

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100篇以上の詩が掲載されています。すべて漢詩です。

この奇妙な囚人の噂は数ヶ月後、蒋介石の知るところと
なり、蒋介石はこの奇妙な囚人をチェックするためXiao
Wen 将軍を送ってきます。

ホーチミンはチェスで将軍を負かし、中国詩の連句でも将
軍を負かします。負けた将軍はこの囚人を彼の兄貴分であ
ると宣言します。この時からホーチミンの待遇が改善されま
す。

実は1926年グエン・アイ・コックはボロディンの通訳をして
いた頃、蒋介石にも面識を持っているので、将軍はホー・
チ・ミンと名乗るこの奇妙な囚人がグエン・アイ・コックであ
ると気づいていたはずです。

35 ホーチミン主席の足跡 1941年(51歳)

11

12
カオバン省の山並み 

13
帰国したホーチミン

1941年1月28日、ホーチミンはサイゴンを出航してから30
年ぶりに秘密裡に中国から祖国ベトナムに戻り、中国国境
近くのカオバン省パクボー(Pắc Bó Cave in Cao Bắng
Province)の洞窟に活動拠点を設けます。

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最初の住居は洞窟でした。

ベトナムに帰国したホーチミンは早速、革命幹部の教育の
ためこの洞窟に寝起きして、「ソビエト共産党の歴史」をベト
ナム語に翻訳する作業を開始します。机も椅子も川原の石
でした。この時の生活をホーチミンは詩に残しています。

Composed at Pắc Bó

Mornings to the riverbank; nights to the cave,

The corn chowder and bamboo shoots are tasty.

Writing the Party history shakes the stone table.

The life of a revolutionary is noble




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洞窟生活を見かねて革命戦士が建てた最初の小屋

この場所で5月10日-19日までインドシナ共産党第8回拡
大中央委員会が開かれ、ベトナム国内だけでなく海外在住
のベトナム人も参加します。

主な参加者は

Hồ Chí Minh

Trường Chinh (この大会で共産党の書記長になります)

Hoàng Văn Thụ (北部統括の書記になります)

Hoàng Quốc Việt (大衆組織化の責任者になります)

Phùng Chí Kiên (バクソン遊撃隊の責任者になります)

Vũ Anh (国外での党活動の責任者になります)

Bùi San (中部統括の責任者になります)

Nguyễn Văn Minh(北部統括の責任者になります)

1941年5月19日、ベトミン(Việt Nam Ðộ̀c Lập Ðồng
Minh Hội、ベトナム独立同盟)が結成されます。

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ホーチミンの指示によって最初に組織されたベトミン

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ベトミンが結集した場所

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ベトミンの戦略についてのホーチミンのアドバイス。

国民教育を施し奴隷制度を廃止すること及び学校を建て小
学校は義務教育にすることなどが書かれています。ベトミ
ンには、軍事部門がありましたが、この時にはまだ武器は
竹やりと鎌ぐらいしかありませんでした。

この軍事部門が1944年12月22日ベトナム解放武装宣伝
隊となり、ベトナム人民軍の前身になっています。「宣伝
隊」とは政治工作をするとの意味です

中国国民党の軍事部門にいたHồ Học Lãm は「ベトミン」
の組織に共鳴して、中国国内にもベトミンの組織を作ります。
ホーチミンがベトナムから国境を越えて中国に入国するの
がスムーズに出来たのは、この組織の存在であったとされ
ています

6月6日 ホーチミンは全国民にヨーロッパでの戦争の現況
を知らせています。今がベトナム独立のチャンスだ。奴隷
を強いられているベトナム人が解放されるにはすべての国
民の団結が必要だと訴えています。
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8月1日、ホーチミンは新聞「Việt Nam độc lập」(ベトナ
ム独立)を創刊して、独立運動の高揚を図ります。

新聞は今で言う「ガリ版刷り」なのですが、下台は付近の川
原の石で出来ています。
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この新聞の発行は、フランス軍、日本軍、ベトナムの官憲に
気づかれないようにするため、地元の婦人が市場で他の
買物と一緒に白紙の用紙を1枚ずつ買ってきて印刷したそ
うです。

この時点でホーチミンは予見していました。彼の言葉;

「第二次世界大戦の終り間近になれば、フランスと日本によ
る熾烈な覇権争いが始まり、ベトナムに政治的真空状態が
一時的に訪れる」この真空状態に乗じて、超党派を
結集し、政権を取奪する。

前年にハノイに進駐した日本軍はこの年の終わりまで
には、フエ(中部)、サイゴン(南部)にも司令部を作り、イン
ドシナ全域を統制化におきますが、フランスとは協調路線
を守ります。(日本軍の南部仏印進駐)これに呼応してベト
ミンはアメリカの諜報機関OSS(CIAの前身)と手を組み、ア
メリカの援助を仰ぎます。

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日本軍の南部仏印進駐





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