べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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旧ベンタン市場

11  旧ベンタン市場地図
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旧ベンタンマーケットは1860年にグエンフ通りの中程に最
初のシティーマーケットとして建設されました。グエンフェ
通りにはまだ運河が残っていて、この運河を通って各地か
らの物資が市場に運ばれました。

現在グエン・フェ通りにあるホーチミン市の財務局のあると
ころがサイゴン初のシティーマーケットです。

30  P1080188
現在の財務局。この場所がサイゴンで一番早く開けた町です。

当時はフランス人によってCharner Les Halles market 
(チャナーレアール市場)と呼ばれていました。

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グエンフェ通りには運河が造られていて、チャナー通りと呼
ばれていました。

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1887年 グエンフェ通りは埋め立てられました。

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埋め立て後、鉄道が敷設されます。鉄道はサイゴンの主要
道路に急速に敷設されていきます。右手後方、行止まりに
人民委員会が小さく見えます。フランスはビスタと呼ばれる
都市計画(道路の突当りにランドマークの建物を建造する
方式)を実行していきます。

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1899年の市場

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1903年
朝6時の市場の光景

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買物をするフランス人

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1907年4月、運河の船着場と市場間で米を運ぶ少年のク
ーリエ(労役夫)ほとんどが中国人でした。

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1908年4月21日のVannier 通り(現在のNgô Đức
Kế通り)

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アドラン司祭通り(1975年以降Hồ Tùng Mậu通り)
この通りのもう1本奥のTôn Thất Đamと言う通りにChợ Cữ(古い市場
)と呼ばれる、昔の面影を残した市場が残っています。

31  OLD (5)
現在のTôn Thất Đam 通り



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22 ホーチミン主席の足跡 1927年(37歳)
この年ホーチミンは1925年から青年革命同志会で
行った講義内容をまとめ上げ、ベトナム革命を目指す幹
部用のテキストとします。

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[The Revolutionary Path] (革命への道) グエン・
アイ・コック著


さらにベトナムの共産党支局の教育をソ連のスターリ
ン共産党大学で行いたい旨、手紙を書いています。
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しかし、この年の4月12日、中国上海で蒋介石の反共
クーデタが発生し、共産党員の弾圧が始まったため、ホ
ーチミンは5月一時モスクワに戻りヨーロッパ各地で
活動します。

「ベトナム青年革命同志会」の中央委員会もイギリス領
の香港に移動します。

広州で結成された「ベトナム青年革命同志会」の活動は
ベトナム本土にも広がって行き、サイゴンのボナード通
り(現在のレ・ロイ通り)にあるタンホア(Tan Hoa)
ホテルの一室(88号室)で「ベトナム青年革命同志会」
の支部を創る会議が行われています。
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タンホアホテルが現在のレ・ロイ通りのどの建物になる
のかまだわかりません。


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21 ホーチミン主席の足跡 1926年(36歳)
ベトナムではホーチミンは生涯独身ということになっていま
す。しかしこの年に結婚したという記事があります。2002
年東京大学出版会から出版された坪井善明『ヴェトナム現
代政治』より

タン・トゥエット・ミンという中国人女性と1926年10月に広東
で結婚式をあげた(同書93頁)という。その後、離婚し、19
31年春、ミン・カイという女性と結婚したようだが、ホー・チ・
ミンもそして、結婚相手のグエン・ティ・ミン・カイもほぼ同時
期に官憲に捕らえられ、1935年7月には2人の関係は終
了したようだ(同書94~95頁)。


タン・トゥエット・ミンについては資料がありません。
結婚したと言っても、現在の日本のように、婚姻届を出して
戸籍に記載するなどの制度はなかったと思いますから、証
明するのが大変ですよね。

教会にはきっと記録が残っているはずですが、公表しない
よう手が回っているか、記録は廃棄されているでしょうね。
「同棲したら結婚したことだ」という定義なら、あったかも知
れません。

外国特派員や現在、南ベトナムに住んでいる年配の方は
ホーチミン主席に奥さんがいたことは否定しません。但し
公言はしません。ベトナム共産党の公式記録にはホーチミ
ンは独身で通っていますから。

別に結婚したからと言って、彼の国家に対する業績がなん
ら傷つくものでもないと思いますが。

独身で通しているのは、南ベトナムの大統領だったゴ・ジ
ン・ジェムが家庭も持たず国家のために働いていたのに対
抗しているんだというベトナム人の話を聞いたことがありま
す。


03  グエンティミンカイ
グエン・ティ・ミン・カイ

グエン・ティ・ミン・カイは1930年ホーチミンの秘書となりま
すが、ホーチミンは1930年の後半にはシンガポール、マ
レー半島で活動しており、香港に1931年6月に戻ったとこ
ろを逮捕され、その後1933年11月まで獄中です。

逮捕される前にホーチミンがモスクワのコミンテルン本部に
送った報告書には、1931年4月から始まったフランス植民
地政府による共産党員の一斉弾圧によって、グエン・ティ・
ミン・カイも連行されてしまっていることが書かれていて、心
配していたようです。

その後グエン・ティ・ミン・カイは1934年ホーチミンの戦友
レ・ホン・フォンと結婚し、モスクワのコミンテルンの大会に
参加後サイゴンに戻り、1940年南部ベトナムでの蜂起を
指導して失敗、逮捕。1941年銃殺刑になっています。

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夫のレ・ホン・フォン

結婚したとしても、物理的にとてもわずかな時間しか一緒
には暮らせなかったはずです。

ベトナム人はホーチミン主席の妻子の話はしません。「外
国人であっても、公言しまくっているとチクリがあって公安
に目をつけられ、次回のベトナム入国が拒否されてしまう
かもしれないよ」と注意されました。

ホーチミン主席は1963年に「独立と自由ほど貴重なものは
ない」という名言を残してくれていますから、私がもしベトナ
ム入国を拒否されたら、入国審査官にホーチミン主席の名
言を勉強していますかと逆襲します。


20 ホーチミン主席の足跡 1925年(35歳)

1925年―1927年までは広東省広州バンミン通
り13-14番地に住みます。この建物は3階建てで、
2階が寝室、3階が会議室と講義室です。2階の部屋で
「革命への道」を書き始めると共に、在中国ベトナム人
に「Political Training Classes」を開設してベトナム革命
の理論を教えます。

中国の広州には、東遊運動で日本に勉学に来ていたベト
ナムの若者が、フランス政府の圧力により日本を追われ、
この地に移住してきた人がたくさんいました。


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1925年―1927年までの住居

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会議室と講義室

そして1925年6月21日 在中国ベトナム人で「ベト
ナム青年革命同志会」(Viet Nam thanh nien cach mang
dong chi Hoi)を結成します。同志会はベトナム最初のマ
ルクス・レーニン主義理論に基ずく革命組織で、ベトナ
ムの武力解放を目指します。
中国に逃亡してきたファン・バン・ドンもこの同志会に
参加します。この時からファン・バン・ドンはホーチミ
ンの側近として行動し、愛弟子となります。


16  1925年新聞 青年
「同志会」の宣伝のため「青年」(The Youth)という週
間機関紙を発行します。

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この年フランスで発行されたグエンアイコック著 
「 Bản Án chế đô thưc đân Pháp」(Action on French
colonization)フランス植民地の過酷な税制について考察
したパンフレットです。フランス滞在中の1921年頃
から書き始めていました。


サンワタワービル
Sun Wah Tower Building

サイゴンの中心街グエン・フェ通りの中程にサンワタワーと
いう複合ビルがそびえています。漢字では「新華集団」、漢
字からして台湾か中国資本のようですが、資本主は「Tan
Hoa」グループと言うそうです。

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現在のサンワタワー。 上部を増築しました。

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昨年の写真


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フランス植民地時代は調停裁判所(Toa Hoa Giai)でした。

1995年に建設され、建設当時は21階で、高さは92メート
ルあり、ベトナムで最高峰のビルディングでした。その後、
サイゴンセンターに抜かれ、サイゴントレードセンターに抜
かれ、現在ではファイナンシャルセンターが最高峰で
す。

テナントには中国銀行、CiTi Bank, MIZUHO銀行、会計
事務所のKPMG, 航空会社のANA`など名だたる企業が
入居しています。

家賃は1平方メートルUSD50前後だそうです。

このサンワタワーの前が毎年、新年やテト正月に祝賀会場
が設置されて大賑わいする名物場所です。
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19 ホーチミン主席の足跡 1924年(34歳)


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1924年 ソビエト政府の顧問をしていたBorodinの事務所
に寝泊りして勉強します。

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モスクワで活動するコミンテルンのメンバー。左から 
Nguyen Ai Quoc, Truong Thai Loi (中国), Katayama
(日本)

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1924年1月27日 ソ連のプラウダ誌に寄稿したグエン・ア
イ・コック著「レーニンと植民 地国民」

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ソ連からフランス共産党に宛てた手紙。グエン・アイ・コック
と署名しています。

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1924年3月15日フランス植民地の状況をコミンテルン第3
回会議の議長であったZinovievに送った手紙

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コミンテルンのIDカード Nguyen Ai Quoc とはなっていま
せん。



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コミンテルン開催中宿泊したモスクワのLux Hotel(現在は
Xentorannaia Hotel セントラルホテル) No. 10
Tvecskaia Street

1924年6月17日から7月8日までモスクワで開催されたコ
ミンテルン第5回大会で「プロレタリア革命と植民地革命」の
同盟関係を強調して注目を浴びます。

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第5回コミンテルン大会で「レーニンと植民地国民」と題して
演説するホーチミン

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第5回コミンテルン大会に参加したメンバーと記念写真

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第5回コミンテルン大会成功を祝ってレーニン丘で行われ
た祝賀会で同志に胴上げされるホーチミン

大会後、コミンテルンの東方部員に任命されたホーチミン
は、1924年11月11日、ウラジオストック、上海と海岸沿い
に南下し、中国広州に行きます。1927年まで中国共産党
員と行動します。

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中国広州市。ここに泊まりながら仕事をしました。


べトナムの石油会社

旧大統領官邸からサイゴン動物園に至るレ・ユン通りは領
事館や大手企業のある通りですが、ベトナムの石油を牛耳
っている大手2社の自社ビルが並んでいます。

1.<ベトナム石油・ガス総公社>(ペトロベトナム)

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1991年設立されたベトナム最大の国営企業で、ベトナム
の石油採掘をメイン事業にしています。傘下にペトロベトナ
ム探査採掘総公社(PVEP)があります。

ホーチミン市から陸路で3時間程度のブンタオ海岸の沖合
いには1975年にモービル社が油田を発見し、バクホー油
田と呼ばれています。1986年からはベトナムとロシアの合
弁で開発が行われているため、ブンタオにはロシア人が多
く住んでいるそうです。
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この鉱区の権益はペトロベトナム探査採掘総公社が40%、
フランスの会社が35%を保有しています。

フランスは1954年ディン・ビン・フーの戦いで破れ、ベトナ
ムから撤退しましたが、撤退したのは軍隊であって、ベトナ
ムにおける多くの権益までも失ったわけではないようです。
無条件降伏文書に署名したのではなく、休戦協定による撤
退ですから。


2.<ベトナムガソリン・石油総公社>(Petrolimex)

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ベトナム最大の石油の国営元売会社

この会社はベトナムがフランス植民地の時代に建設された
のでお城のような建物です。当時の会社名は
「PETROLES FRANCO ASIAN COMPANY」でしたが、
サイゴン陥落後の1975年に「ペトロリメックス」と改称されま
した。

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1940年の写真

ベトナムで産出される原油は50%が国内消費、50%が輸
出されますが、石油精製能力が十分でないので、石油製
品は輸入されています。

この会社がベトナムの石油製品売上高の80%を占めてい
るのですが、ベトナムには石油の元売会社が11社も林立
していて、経営は苦しいのだそうです。べトナムのWTO加
盟までは、政府が補助金を与えていました。

ベトナム内での石油精製施設が十分になるまで、ガソリン
価格はきっと上昇の一途です。

この会社は石油製品だけでなく、多角的事業を営んでいま
す。
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上から ガソリン、銀行、保険、ガス、サービス
タクシー会社もあります

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PG銀行。私の感覚ではとても銀行には見えません。
1区の人民委員会(区役所)の隣です

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ペトロリメックス社のタクシー

18 ホーチミン主席の足跡 1923年(33歳)


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House No. 3, Marche des Patiareches
1023年3月から6月までの「フランス植民地人民連合
と「Le Paria」新聞の本部


1923年6月13日、パリを発ち、ドイツのベルリンを通っ
て、6月30日ソ連のペトログラードに入国します。

12  Visa
ペトログラード行きのビザ。名前はChen Vangとなってい
ます。

そして1923年末にモスクワに移動します。

13  1923年
1923年 ソ連に入国したグエン・アイ・コック

17 ホーチミン主席の足跡 1922年(32歳)

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1922年発行のフランス共産党員のIDカード。名前は
Henri Tchenとなっています。


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1922年 グエン・アイ・コックは自ら、新聞「Le Paria」(労
働報)を発行します。1924年まで刊行されます。

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グエン・アイ・コックが編集長をした機関紙「ル・パリア」の
風刺画


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パリ4区 No.16, Jacques Cacllot通り。右側のビルに「フラ
ンス植民地人民連合」と「Le Paria」新聞の本部がありまし
た。

16 ホーチミン主席の足跡 1921年(31歳)


11
1921年のホーチミン

1921年、1922年と彼の行動を裏づける資料が見つかりま
せん。フランス秘密警察の資料は1923年から彼を捕捉し
ているようです。

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1921年-7月以降―1923年までホーチミンが借りていたパ
リのアパート (Ngôi nhà Sớ 9, ngõ hẻm công poanh)

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アパートの傍には現在記念版があります。

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部屋は2階です。

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この図面の1部屋です。9平方メートルです。

この頃のホーチミンの生活は、規則正しいのもだったようで
す。
午前中:8時から12時まで工場での仕事。ファン・チュウ・チン経営のポートレイト作成のお店
午後:新聞印刷所か図書館
夕方:一旦帰宅後、討論会出席
日曜、祝日:博物館などの観光

そして収入も年間25000フラン以上あったそうです。
アパートは貧弱な部屋でしたが、生活は何とか出来ていた
ようです。

大統領になってからも、彼は質素な家で暮らすのを苦にし
ませんでした。

彼は住居にこだわりはありませんでしたが、たとえわずかな
時間でも、机に向かうことだけは、生涯続いたようです。

That's it there! Hopefully, this just means just
as he can easonably be satisfied ....
Ai Quoc was granted 25,000 francs a year
more to increase the collection of information,
including the secret capture every 6 month.

世界各国の植民地を視察してきたホーチミンは1921年、
パリで「フランス植民地人民連盟」を組織し、機関紙「ル・パ
リア」(Le Paria 賤民)の刊行を目指します。「ペンは武器
よりも強し」はその後に証明されることになります。ベトナム
戦争の勝利のときは「ペン」が「映像」に置き換わります。

続きを読む
ホーチミン作戦博物館
BẢO TÀNG CHIẾN DỊCH HỒ CHÍ MINH
2 LÊ DUẨN, QUẬN 1, TP.HCM

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ホーチミン作戦博物館のある建物は敷地面積が1100平方
メートルある南ベトナム陸軍の高級将校の宿舎でした。19
87年7月27日の国防省通達によって博物館として使用す
ることが正式に決定されました。

サイゴン陥落後は学校として使用されていましたが、1986
年に博物館建設用として人民軍(Military Zone 7)の管轄
に移され、1996年には軍事博物館用に改装され、展示物
の準備がなされて正式に開館しました。

2005年に改装と展示物の充実が計られて現在に至ってい
ます。

内部展示は1975年春の軍事攻勢から、サイゴン陥落の最
終作戦であるホーチミン作戦の作戦内容の図解と写真が
展示されています。

-Highland Campaign
-Hue & Danang Campaign
-Ho Chi Minh Campaign
-Fall of Saigon

作戦内容の展示なので、観光目的の人には人気がなく、い
つも入館者はまばらですが、きっちり入場料10000ドンは
取られます。

この博物館の野外展示は自由に無料で見られますので、
それで十分かも知れません。

戦争証跡博物館の野外展示はアメリカ軍の武器が展示さ
れていますが、作戦博物館の野外展示場にはホーチミン
作戦に参加した北ベトナム軍の軍事車両や大砲、戦車など
が展示されています。

13戦勝記念塔
戦勝記念塔

14  A-37 Plane
A37 PLANE
Under Nguyen Thanh Trung;s command these 5 planes
left Tansonnhat Airport on April 28th, 1975

15  戦車
T54 TANK No.848
The tank of brigade 203 in the attacking force
into the
Independence Palace at 10h30 on April 30th,1975

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ROCKET
One of the rockets of anti-aircraft regiment

サイゴン陥落直前にマジェスティックホテルの最上階の6階
にもこのロケット弾が落ちました。作家の開高健さんはマジ
ェスティックホテルを定宿にしていましたが、この時は既に
帰国していて難を逃れています。

17  130mm
130mmGUN
ONE OF THE GUNS AT NHON TRACH BATTLE TO
ATTACK TANSONNHAT AIRPORT FROM APRIL
29TH,1975 TILL THE END OF HCM CAMPAIGN


18 105mm

105mm GUN
ONE OF THE GUNS WHICH STORMED THE
ENEMY POSITION NORTH-WEST OF SAIGON TO
SUPPORT THE UNIT ATTACKING DONGDU BASE
ディンビンフーの戦いでは、この大砲が最強でしたがベト
ナム戦争では130mmが北ベトナム軍の最強の大砲でし
た。



19  ブルドザー

BULLDOZER
BELONG TO TRUONSON TROOP.
BULL ROAD FROM LOCNINH TO DONG XOAI
SERVED HOCHIMINH CAMPAIGN (AID FROM
CUBA)
小松製作所は武器として輸出したわけではないのでしょう
が。ベンゼン、トルエン、キシレンという石油精製製品も爆
弾の原料なのですが、三井物産はガラスの原料としてアメ
リカに大量に輸出しました。

このような例はたくさんあります。憲法によって日本はベト
ナム戦争に参戦は出来ませんでしたが、実態はアメリカと
共同正犯ですね。でもアメリカは御報美として沖縄を返還し
てくれました。(個人的見解)

人民委員会

ベトナムでは「人民委員会」(Ủy ban nhân dân)と言う看板
をよく見かけます。評議会は「議会」、委員会は県庁、市役
所、区役所などの「行政機関」にあたります。

ホーチミン市の人民委員会は観光名所になっていて、記
念写真を撮るメッカですが、区役所や地区の人民委員会の
建物もフランス植民地時代の建物を利用していたり、新しく
フランスコロニアル風に建てられた庁舎が多く、日本の無
味乾燥した箱型の庁舎より一味もふた味も違います。

ホーチミン市人民委員会
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グエン・フェ通りの終点

この人民委員会だけは近くからの撮影が禁止されていま
す。
何故って?「政府関係の貴重な書類が保管されているか
ら」という「全く理由にならない」理由からです。勿論、内部
を見学することは出来ません。

本当の理由はあまりにも豪華な応接室があるからだと思い
ます。共産党政権は、きっと国民には知ってほしくないの
です。
12_20110717113921.jpg
市人民委員会の内部の応接室


ホーチミン市1区人民委員会
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レ・ユアン通り

この建物は植民地時代にサイゴンで仕事をするフランス人
高級将校の宿舎でした。隣にある聖マリア教会より早い時
期に建設されている歴史的建造物です。

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右側の萱葺き屋根のようなものは、建築中の聖マリア教会
です。基礎工事中だったらしく、茅葺はシート代わりなのだ
そうです。右奥はノロドム宮殿(南ベトナムの旧大統領邸で
す)


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1957年の写真。聖マリア教会の上側、中央郵便局の
左側に1区の人民委員会の建物が見えます。

この建物の外壁にはいつも大きなポスターが貼られてお
り、これを見ればホーチミン市の主要な行事日程がわかり
ます。

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今年はベトナムでは猫年です。

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熱烈歓迎 第11回共産党大会


ホーチミン市1区ベンゲ地区人民委員会
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グエン・チュン・ガン通り

新規建築ですが柱や外壁の色合いにフランス風のデザイ
ンが取り入れられています



15 ホーチミン主席の足跡 1920年(30歳)

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パリ在住のグエン・アイ・コック

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Portrait – Arrondissement Photographiques
パリ滞在中の名刺 住所はパリ13区Gobolins 6番地にな
っています。

グエン・アイ・コックが住んでいたGobolins通りの70番地に
は印刷所があってベトナム愛国者がポケットマネーで「Yêu
sách của nhân dân An Nam」(ベトナム人民の愛国書)と
いう新聞を6000部印刷して、ベトナム中の愛国者に密かに
送っていました。

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印刷所

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パリのSaint Genevieve図書館。ここで勉強していました。

20年6月5日 レーニンが「民族・植民地問題に関する
テーゼ」と言う論文を発表し、7月16,17日にフランスの新
聞L’Humaniteに掲載されます。この論文がホーチミンの
人生を決定付けました。

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「民族・植民地問題に関するテーゼ」を掲載するHumanite新聞

<民族・植民地問題に関するテーゼ 「訳文は引用です」
ホーチミンの人生を決めた決定的な文書ですので、長文
ですが悪しからず。>
1920年6月5日  N・レーニン
■1
ブルジョア民主主義は、彼らに固有の本質に従って、平等
一般に関する、そして特に人間の人格の民族的平等に関
する問題で、抽象的あるいは形式的な見地に立つのが普
通である。人間の人格一般の平等という外観のもとで、ブ
ルジョア民主主義は、所有者とプロレタリアとの、搾取者と
被搾取者との、形式的、法律的平等を宣言し、こうして被抑
圧階級をこのうえない規模で欺いている。それ自体は商品
生産の反映である平等の理念は、いわゆる人間の人格の
絶対的平等なる口実のもとで、ブルジョアジーによって、階
級の否定に反対する闘争の道具に変えられている。平等
の要求の真の意味は、ただ諸階級の廃絶の要求のうちに
ある。

■2
共産党は、ブルジョアジーの束縛からの絶縁に向けたプロ
レタリアートの階級闘争の意識的な表現として、ブルジョア
民主主義およびその嘘と偽善に対する闘争という基本的任
務に応えなければならない。民族問題においても、重視し
なければならないのは抽象的・形式的原理ではなく、第1
に歴史的に与えられた情勢、とりわけ経済的な情勢の綿密
な検討であり、第2に、いわゆる国民的利害という概念から
の、被抑圧階級、勤労者、被搾取者の利害の決然たる分離
であり、同様に、第3に、ブルジョア民主主義的な嘘―最も
裕福な先進資本主義諸国のとるに足らぬ少数の者による、
全地球人口の圧倒的多数に対する、金融資本と帝国主義
の段階に特有な植民地的・金融的隷属をもみ消すような嘘
―に対抗して、抑圧され・従属させられ・同権をもたない諸
民族を、抑圧し・搾取し・完全な権利をもつ諸民族から厳密
に区別することである。

■3
1914年の帝国主義戦争は、世界中のすべての被抑圧階
級に、特にはっきりと、ブルジョア民主主義的な空文句のヴ
ェルサイユ条約が、ドイツのユンカーとカイゼルのブレスト
条約より以上に残忍で卑劣な暴力を弱小諸民族に加えるも
のであることを、まざまざと証明した。交戦国のどちらの側
も、諸国民の解放や諸民族の自決権という空文句を携え、
一方ではブレスト-リトフスク講和条約とブカレスト講和条約
が、他方ではヴェルサイユ講和条約とサン・ジェルマン講
和条約が、戦勝国のブルジョアジーはなんらの容赦もせず
に、諸民族の境界を彼らの経済的利害に従って決定すると
いうことを示した。ブルジョアジーにとっては諸民族の境界
もただの取引対象である。いわゆる諸国民の同盟「国際連
盟」は、この戦争の勝者たちが自分たちの掠奪物を保障し
あう保険契約に他ならない。民族的統一の回復の願い、
「割譲された国土の再統合」の願いは、ブルジョアジーの
考えでは、負けた側が新たな戦争のために力を蓄えようと
する企てに他ならない。人為的に引き裂かれた諸民族の
再結合はプロレタリアートの利害にも適っているが、しかし
プロレタリアートは、自分たちの実際の民族的解放と統一を
ただ、革命闘争の道をブルジョアジーを打ち倒して突き進
むことによってのみ、獲得することができる。国際連盟は、
そして戦後の帝国主義国の全政策はこの真理をよりいっそ
う明白かつ鮮明に暴き出しており、いたる所で、先進諸国
のプロレタリアートならびに植民地・従属諸国の全勤労大
衆の革命闘争を強め、資本主義のもとで諸民族の平和共
存や平等が可能であるかのような小ブルジョア的-民族的
な幻想の崩壊を早めている。

■4
以上の基本命題から出てくることは、民族・植民地問題に
おける共産主義インターナショナルの全政策は、主として、
地主とブルジョアジーの打倒をめざす共同の革命闘争へ
の、すべての民族とすべての国々のプロレタリアートと勤
労大衆の結合に基礎が置かれなくてはならないということ
である。なぜなら、そうした結合だけが資本主義に対する
勝利を保障するからであり、それなくしては、民族的抑圧と
権利の不平等をなくすことはできないからである。

■5
世界の政治情勢は、今やプロレタリアートの独裁を日程に
のぼせた。そして、世界のあらゆる出来事がただ一つの中
心点のまわりに、すなわちソヴェト・ロシア共和国に対する
世界ブルジョアジーの闘争のまわりに、不可避的に集中し
ている。ソヴェト共和国は一方ですべての国の労働者前衛
のソヴェト運動を、また他方では革命的プロレタリアートと
の結合と世界帝国主義に対するソヴェト権力の勝利以外に
は自分たちに何の救いもないことを苦い経験によって確信
した、植民地と被抑圧諸国民のすべての解放運動を、自ら
のまわりに結集させざるをえない。

■6
したがって、現在では、さまざまな民族の勤労者の接近の
単純な承認や宣言にとどまってはならず、すべての民族お
よび植民地の解放運動とソヴェト・ロシアとの緊密な同盟を
実現するための政策をとらなければならない。この場合、こ
の同盟の形態はそれぞれの国のプロレタリアートの間での
あるいは後進諸国民の間での、共産主義運動の発展段階
によって規定される。

■7
連邦制は、あらゆる民族の勤労者の完全な統一への過渡
的形態である。連邦制は、ロシア社会主義連邦ソヴェト共
和国と、他のソヴェト諸共和国(以前にはハンガリー、フィン
ランド、ラトヴィアの、現在ではアゼルバイジャン、ウクライ
ナの各共和国)との関係においても、またロシア社会主義
連邦ソヴェト共和国内部における、かつては国家としての
存在も自治ももたなかった諸民族(例えば1919年と1920
年に誕生しているロシア社会主義連邦ソヴェト共和国内の
バシキール、タタール両自治共和国)に照らしても、実際に
おいてすでにその有効性が示された。

■8
この点での共産主義インターナショナルの課題は、ソヴェト
制度とソヴェト運動を基礎に成立しているこれらの連邦制を
さらに発展させるだけでなく、同時にまた研究し、経験を精
査することである。完全な統一への過渡的形態として連邦
制が承認され、連邦的統一のよりいっそうの緊密化がめざ
されなくてはならない。そのさいに熟考されなければなら
ないことは、第1に、軍事的に著しく強大な全世界の帝国主
義諸国家に包囲されたソヴェト諸共和国の存続は、他のソ
ヴェト諸共和国とのより緊密な結合なしには不可能であるこ
と、第2に、ソヴェト諸共和国の緊密な経済的同盟が必要で
あり、これなしには、帝国主義によって破壊された生産諸
力を復興することも、勤労者の福祉を保障することも、可能
ではないこと、第3に、すべての民族のプロレタリアートに
よって規制される共同計画に従う、単一の世界経済を生み
出そうとする努力である。この傾向は、すでに資本主義の
下でまったくはっきりと明るみにでていたもので、社会主義
によるいっそうの発展と完成へと、無条件に待っている。

■9
国内的諸関係の領域では、共産主義インターナショナルの
民族政策は、ただそれだけの、形式的な言葉だけで実際
には義務を負わないような諸民族の同権の承認などで満
足することはできない。

共産党の宣伝・煽動すべてにおいて、議会の演壇でも議
会の外だけでなく、諸民族の同権と少数民族の保障された
権利が、あらゆる資本主義国において、「民主的憲法」にも
かかわらず、不断に繰り返し侵害されていることが暴露され
なければならない。だがその他にも第1に、ソヴェト制度だ
けが、現実に同権を保障することができるのだということを
絶えず説明すること、第2に、従属諸民族や同権を持たな
い諸民族における革命運動の直接の援助を、当該国の共
産党を通して直接に援助することである。

最後の条件は特に重要であって、これがなければ、従属
諸民族と植民地の抑圧に反対する闘争も、また、これら諸
民族の国家的分離の権利の承認も、偽りの看板にとどまる
のであり、このことは、われわれが第2インターナショナル
の諸党派に見た通りである。

■10
国際主義を言葉のうえでだけ承認し、実際には宣伝・煽動・
実践活動の全体において、小ブルジョア的民族主義と平和
主義によってそれを骨抜きにすることは、第2インターナシ
ョナル中央諸党ばかりでなく、このインターナショナルから
脱退した諸党の間でも、ごくありふれた現象の一つである。
この現象は、今では共産党を自称するようになった諸党の
内部であってすら珍しくない。こうした弊害、このきわめて
根深い小ブルジョア的民族的偏見――それは人種的憎悪
や民族的なけしかけ、反ユダヤ主義など、可能なあらゆる
形をとって現われている――との闘いは、プロレタリアートの
独裁を一民族的な独裁から国際的独裁政治へと転化する
任務が、火急のものとなればなるほど、ますます前面に押
し出されてこざるをえない。小ブルジョア的民族主義は、諸
民族の同権を承認することだけが国際主義だと説明し、そ
して民族的エゴイズムを不可侵のものとみなしている。これ
に対して、プロレタリア国際主義は、〈1〉第1に、一国のプ
ロレタリア闘争の利害を世界的規模でのプロレタリア闘争
のもとに従属させることを要求し、〈2〉第2に、ブルジョアジ
ーに対して勝利を収めた民族が、国際資本主義を打倒す
るために最大の民族的犠牲を払う能力と、すすんでそれを
する覚悟をもつことを要求する。

したがって、実際にプロレタリアートの前衛をなす労働者党
をもち、すでに完全に資本主義的になっている国家では、
国際主義の概念と政策の日和見主義的な、また小ブルジョ
ア的-平和主義的な歪曲と闘うことは、第1の、そして最も
重要な任務である。

■11
より遅れた、封建的または家父長制的、または家父長制的
農民的な性格を顕著にもっている諸国家および諸民族に
ついては、特に以下の諸点が見据えられなくてはならな
い。

1. すべての共産党は、これらの諸国における革命的
解放運動を実際に支援しなければならない。この支援の形
態は、共産党があるところでは、その共産党と充分に論議
されなくてはならない。この最も力強い援助の義務を負っ
ているのは、まず第一に、植民地的に、あるいは金融的な
関係で、遅れた民族が従属させられている国の労働者で
ある。

2. 聖職者、キリスト教宣教師団、その他類似の分子の反動
的・中世的影響が指導性をもつことに対する闘争が必要で
ある。

3. ヨーロッパとアメリカの帝国主義に対する解放闘争をト
ルコや日本帝国主義、そして貴族、大地主、宗教者などの
力を強めることに結びつけようとする、汎イスラム主義や汎
アジア運動その他類似の諸傾向との闘争が必要である。*

4. 後進諸国における地主や封建制のあらゆる形態ないし
遺制に反対する農民運動を支援することが、特に必要であ
る。農民運動にできるだけ革命的な性格を与えること、でき
れば農民とすべての被搾取者をソヴェトに組織し、そうして
西ヨーロッパの共産主義的プロレタリアートと東洋、植民地
一般に後進諸国の農民の革命運動とのできるだけ緊密な
結合を打ちたてることに、何よりも努めなくてはならない。**

5. 遅れた諸国における共産主義的でない革命的解放運
動を、共産主義的であるかのように粉飾しようとするこころ
みに対して、断固として闘う必要がある。共産主義インター
ナショナルは、植民地および後進諸国における革命運動
を支援する義務を負っているが、それはもっぱら、すべて
の後進諸国における将来のプロレタリア党――名前だけの
共産党ではなく現実の共産党――の構成部分を結集し、彼
らの独自の任務、すなわち自民族内のブルジョア民主主義
的傾向と闘う任務を自覚するように教育するという目的のた
めである。共産主義インターナショナルは、植民地および
後進諸国の民主主義的ブルジョアジーと暫定的に同盟し
なければならない革命運動と暫定的に提携し、ときには同
盟さえ結ばなければならないが、それと合体してはならず、
どんな場合にもプロレタリア運動の独自的性格を堅持しな
ければならない。

6.帝国主義列強は、政治的に独立した国家の外観のもと
で、経済的・金融的・軍事的にまったく彼らに従属した国家
形態を創り出しており、そのことによって、被抑圧諸国の特
権階級の協力をえて行なっている欺瞞を、あらゆる国の、
そして特に後進諸国・諸民族の最も広範な勤労大衆の間
に、絶えず暴露し説明する必要がある。帝国主義協商国と
当該被抑圧民族のブルジョアジーとが結託して、被抑圧民
族の労働階級を欺瞞しようと腐心している顕著な例として、
シオニストのパレスチ ナ事件が、(ならびに、パレスチナ
におけるユダヤ人国家の創設という偽装の下で、ユダヤ人
勤労者は少数者でしかないパレスチナの労働者住民――
実際はアラブ系の――をイギリスの搾取にまかせるシオニ
ズム一般が)あげられる。今日の国際関係においては従属
諸民族や力の弱い諸民族にとって、ソヴェト諸共和国との
同盟以外に救いの道はない。

■12
何世紀にもわたって続いた、帝国主義的大強国による植民
地および力の弱い諸民族、諸集団の隷属は、隷属させら
れた諸国の勤労大衆の間に、抑圧民族に対する憤激の感
情を、そればかりか不信感をも残した。これらの民族のプロ
レタリアートの大多数の公認指導者たちがおかした
1914―1919年の社会主義に対する卑劣な裏切り行為、社
会愛国主義者として、「祖国擁護」の名に隠れて、「彼らの」
ブルジョアジーが植民地を隷属させ、金融的に従属してい
る諸国を掠奪しつくす「権利」を擁護したこと――こうした裏
切りは、このまったく正当な不信を強めることしかできなか
った。他方では、ある国が遅れていればいるほど、農業の
小規模経営、家父長制、排他的愛郷心がより優勢であり、
不可避的に、最も根強い小ブルジョア的偏見を、すなわち
民族的エゴイズムと民族的偏狭を、特に強め、頑固にする。
こうした不信と民族的偏見は、先進諸国において帝国主義
が根絶されたのちに、また後進諸国において経済生活の
基礎全体が根本的に変革されたのちに、初めて根絶されう
るものであるから、これらの偏見は、きわめて長い時間をか
けてしか除去できない。それゆえ、長い間隷属してきた諸
国および諸民族の内に残っている民族感情に対して、特
に慎重に、特に注意深く接することは、すべての国の自覚
した共産主義的プロレタリアート の義務となる。 同様に、
この不信と偏見をより速やかに除去するためには、譲歩を
行なうことも義務となる。 全世界のすべての国と民族のプ
ロレタリアートが、ついで全勤労大衆が、単一の同盟と統一
に自発的に密集しなければ、資本主義に対する勝利が成
功裡になしとげられることはない。

<レーニンの文章は難しいですね。ホーチミン主席は愛
弟子のザップ将軍が書き下ろした書籍の感想を、「とても良
い本です。でも農民にもよく解るようにもっと簡単、簡潔な
文章にすると、もっといいですよ」と述べています。>


1920年11月4日、フランス社会党機関紙「ヒューマニティ」
(L’Humanité)に掲載されたグエン・アイ・コックの記事

We oppose sending Annamse soldiers to Syria. We
must make the highest authorities understand that
many of our ill-fated oriental brothers were killed in
battles between 1914 and 1918 during a war ‘for
culture and justice.’ “Why, then, do we not have
culture and justice?”

We in Indochina live under a French “protectorate”
“To protect” means “To shield” Yet the French allowed
several million of our brothers and sisters to die of
starvation while they took several thousand others to
Asia Minor and propped them up as targets for
bullets.

That is how the French protect us!
Nguyễn Ái Quốc

アンナンはフランスは「保護国」となっていましたが。「保護
国」で行われている実態を糾弾しています。

アンナンは北部ベトナムと中部ベトナムを合わせた地域で
フエにあるグエン王朝が形だけ存続していました。この時
代「ベトナム」という言葉は法律によって使用を禁止されて
いました。南ベトナムは「コーチシナ」と呼ばれて植民地で
したから、フランスの領土そのものでした。


1920年12月、第18回フランス社会党大会に参加し、イン
ドシナ代表として発言します。グエン・アイ・コックは、フラン
ス社会党の反戦平和派が、1917年のロシア革命の影響を
受けて、共産党の国際組織であるコミンテルンの条件を受
け入れて、フランス共産党を創立するメンバーの一員にな
っています。彼は愛国主義を胸に秘めながらベトナム人で
初めての共産主義者へと脱皮します。

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フランス社会党大会

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フランス社会党大会で発言するグエン・アイ・コック。この有
名な写真はホーチミンの晴れの舞台で、これ以降、コミン
テルン(国際共産党員)の一員として共産主義革命のため
に世界を舞台に駆けめぐります。


1920年12月26日午後, ワインの産地で有名なロワール
地方のトゥール(Tours)で開催されたフランス社会党第18
回大会の議事録のうち、グエン・アイ・コックの演説の部分

Chairman Basile Jules Guesde: Comrade Indochinese
Delegate, you have the floor. (Applause).

Indochinese Delegate: Dear Comrades, I would like to
contribute to world revolution, but with deep sadness

I come here as a member of the Socialist Party to
speak against the abhorrent crimes perpetrated in my
native land (Audience:Very good!) You comrades know
that French capitalism entered Indochina half of a
century ago; in the interest of profit, it used bayonets
to conquer our country. Since then, we have not only
been oppressed and exploited shame lessly but also
tortured and poisoned pitilessly.

Plainly speaking, we have been “poisoned” with
opium and alcohol.

I cannot, in a few minutes, reveal all the atrocities
that the predatory capitalists have inflicted on
Indochina.

Prisons outnumber schools; at any moment, they are
crowded with detainees. Indigenous people with
socialist ideas are arrested and sometimes killed
without detainees. This is called justice in
Indochina!...

In Indochina, the colonizers look for every way to
poison us with opium, to make us dullards with
alcohol. They have killed thousands of Annamese and
have massacred thousands to protect others’ interest.

Dear comrades, over twenty million Annamese, more
than half the French population, suffer in this way.
How can we say that France provides them security?
(Applause). The Socialist Party must take action with
a strategy supporting oppressed indigenous peoples,
(Cheers).

Jean Longuet(a leader of the faction that opposed
joining the Third Communist International): I have
already put forth the idea that we should protect the
indigenous peoples.

Indochinese Delegate: When I began to speak, I asked
everyone to be quiet. (Laughter).

The party must propagandize about socialism in all
colonized countries. We see that the Socialist Party’s
entry into the Third International means the Party is
promising to place importance on the issue of
colonialism from this point on. We are pleased to hear
about the establishment of a standing representative
delegation to research North Africa and, tomorrow,
we’ll be delighted if the Party chooses a comrade from
the Party to research the problems in Indochina in
order to organize needed actions for progress.

A Delegate: With Comrade Ange Pasa?

Indochinese Delegate: Silence! Appointed delegates.
(Applause).

Chairman: Now, all delegates must be silent!. That
includes all representatives who are not appointed
delegates!

Indochinese Delegate: In the name of all people, in the
name of all members of the Socialist Party, all those
on the left and all those on the right, we call out;
Comrades, help us! (Applause).

Chairman: From the applause, the representative
from Indochina can now see that the entire Socialist
Party stands with you to oppose the cruelty of
capitalism.
<グーグル翻訳ソフトで翻訳してください。8割方理解でき
ます。Indochinese Delegateとはホーチミンのことです>


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Housu No.120, La Fayetto通りにあるフランス共産党中
央委員会の植民地調査部会の本部が置かれた部屋


フランス滞在中のグエン・アイ・コックを援助したフランス人
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マイセル・カシャン(Marcel Cachin 1868-1956)
フランス社会党の主導権を握り、コミンテルンへの加盟を決議
させました。ホーチミンが共産主義者になることの決意に多大な
影響を与えた人でレーニン思想の熱烈な支持者でした。後に
フランス共産党機関紙L’Humaniteの取締役になります。

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Paul Vaillant Couturie(1892-1937) フランス共産党
設立者の一人。上院議員。L’Humanite の編集長


この頃のグエン・アイ・コックの動静はフランス秘密警察に
よって逐次把握されていました。

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フランスの秘密警察員「Jean」が植民地管轄の官庁に送っ
た報告書。
ホーチミンに付きまとっていたフランスの秘密警察員はこの
人がメインだったようです。報告書がたくさんあります。

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秘密警察のレポート

14 ホーチミン主席の足跡 1919年(29歳)
この年の3月コミンテルンと呼ばれる共産主義の国際組織
がソ連のレーニンによってモスクワで結成されました。後日
ホーチミンはべトナムの独立を達成する道をこの組織の活
動に求めます。

第一次世界大戦も1918年11月には終結し、1919年
6月18日から第1次世界大戦の講和条約の話し合いがパリの
フランス外務省内で開催されました。(パリ講和会議)

会議の初日にグエン・アイ・コックが署名したベトナム人民
の自決などを求める「安南人8項目の嘆願書」が会議に
出席したアメリカのウィルソン大統領ははじめ、戦勝国の
五大国の代表団に嘆願書として提出されます。

この嘆願書は講和会議の正式な議題として取り上げられた
わけではありませんが、グエン・アイ・コックの名を一躍世界
の指導者に知らしめるきっかけになりました。

この嘆願書は「在仏ベトナム人愛国者団体」の共同作業に
よって作成されたもので、アイディアはホーチミンのアメリ
カでの体験、原文のまとめ役はファン・チュー・チン、フラン
ス語への翻訳はファン・バン・チュオンが担当したようです。
そして嘆願書にはホーチミンがフランスの保護領安南(ア
ンナン)の代表として署名しました。

嘆願書の全文(原文はフランス語)
After the victory of the Allies, all subjected peoples
thrill with hope at the prospect that an era of morality
and justice will open for them by virtue of the official
and solemn pledges the powers have made before the
world in the entente rising from the struggle between
civilization and barbarism

While awaiting the principle of relationship between
nations to transform from ideals into reality and
recognizing the reality of people's sacred right to
self-determination, the people of the former Kingdom
of Annam, now French Indochina, send the noble
governments in the entente in general and the
honorable French Gorvenment in particular the
following modest demands;

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草案はベトナム語です。

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フランス語に翻訳されて配布されました。

要求の内容は
1.ベトナム人政治犯全員の恩赦。
2.インドシナの法律を改革し、ベトナム人がヨーロッパ人と
同じように法律によって保護される権利を享受できるように
する。アンナン人民の最も忠実な部分を弾圧し圧迫する道
具となっているすべてのフランスによる特別法廷を完全に
廃止する。
3.報道と言論の自由。
4.結社と集会の自由。
5.国外に居住する自由と外国へ行く自由。
6.地元民に必要な技術と職業教育を行う学校をすべての
省に樹立をし、学習の自由を保証。
7.総督令制度を立法府が制定した法による制度にかえる。
8.フランス国会にベトナム人が選出した常設代表団を
置き、人民の願望を国会に伝える。

In submitting the above demands, the people of
Annam place thier trust in justice for the world from
all the powers and in particular in the humane heart
of the noble French people, who hold civilization in
their hands and can be moved to place(Annam) under
the protection of France, which is a republic by its own
origins, In requesting the protection of the French
people, the people of Annam neither negate nor
diminish themselves but, to the contrary, make their
demands with pride because the people of Annam
know that the French people are the representatives
of freedom and justice and would never desert their
sacred ideal of universal brotherhood,

Therefor, when they hear the voices of oppressed
people, the French people will do their duty with
regard to France and with regard to humanity
On behalf of the people of Annam
Nguyễn Ai Quâc ̣̣(Nguyễn Ai Quốc)
グエン・アイ・コックは一字違えて署名しています。

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調印式は6月28日にベルサイユ宮殿鏡の間で行われました。


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1915年ファン・チュウ・チンが中心となって創設された「在
仏ベトナム人愛国者団体」の事務所。ホーチミン(グエン・
アイ・コック)がフランスに着てからは、彼が実質的な代表を
していました。1919年7月から1921年7月までグエン・ア
イ・コックはここに住みますが、それ以前の行動がわかりま
せん。

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パリでのホーチミン、ファン・チュー・チンや
ファン・バン・チュオン、グエン・テー・チュエン、
グエン・アン・ニンらの在仏ベトナム人愛国者の溜まり場

しかしホーチミンの生活は非常に苦しく、フランス秘密警察
もその実態を記述しています。「彼は資産は何もなく、ドイ
ツで店を経営しているTran Kyや写真店を開いているフ
ァン・チュー・チンの援助で生活している。彼は1日3
0フランを得ている」と。

ベルサイユ講和会議の終了後、ホーチミンの執筆活動は
活発になります。
グエン・アイ・クォック(阮愛國)という名で愛国的な記事が
次々と発表されます。


セントポール教会
セントポール教会
St. Paul’s Cathedral

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1866年、建設当初の聖パウロ教会

サイゴンが「東洋のパリ」と言われる所以の一つに「聖マリア
教会」があり、サイゴンでは見逃せない観光名所になって
います。

この聖堂の完成は1880年ですが、実はもっと前に、もっと
広大は敷地にカトリック教会が建設されていました。1866
年にセントポール教会(聖パウロ教会)が建設されていたの
ですが、1943年の太平洋戦争中に爆撃を受けてメインの
聖堂を初め大半が破壊されてしまいました。

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聖パウロ教会の全景1

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聖パウロ教会の全景2

13セントポール教会
海軍兵舎の誤りです

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上記の建物は1943年の爆撃によって破壊されてしまいました。

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フランスからのミッション

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教会のこの建物がサイゴン大学になりました

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サイゴン大学のキャンパス。美しい外観を見せてくれた時
期もあったのですが。

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現在の概観はとても綺麗とはいえませんが、セントポール
教会時代の建物がそのまま使われており、ベトナムで最も
古い大学の校舎とされています。

フランス植民地時代の兵舎

トン・ドゥック・タン道路はレ・ユアン道路との交差点で終了
し、その先の道路はディン・ティン・ホン道路と呼ばれてい
ます。サイゴンがフランスの植民地だった頃は、このディ
ン・ティン・ホン道路はフランス陸軍の歩兵宿舎の正面ゲー
トに突き当たり行き止まりになっていました。

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1873年に建設されました

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その後正面ゲートが造られました。

フランス軍隊の撤退後、正面ゲートを取っ払って、宿舎を取り壊して
直線道路を完成させ、ディン・ティン・ホン道路となりました。

現在、左の建物は医科薬科大学のBook Cafe, 右側の建
物は外国語専門学校として使用されています。
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Book Cafe

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外国語専門学校

正面ゲートの中には歩兵宿舎群があったそうですが、現在
は取り壊されて、医科薬科大学(Dại Học Y Dược)、反対側
には人文社会科学大学(Dại Học Khoa Học Xa Họi v醇A
Nh醇Cn V醇Dn)とホーシミン市テレビ局(HTV)が建設されてい
ます。

グエン・ティ・ミン・カイ道路を渡ると左側にはまもなく取り壊
されるであろう植民地時代の塀が続いており、その先には
警察署として使われているフランスコロニアル建築の建物
が現存しています。

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警察署

13 ホーチミン主席の足跡 1917年(27歳)

この年の中頃、ホーチミンはロンドンから戦争中のパリにや
ってきます。1923年中頃までパリに在住しまが、1917年、
1918年とホーチミンの行動記録はフランス秘密警察の調
書にもなく、断片的な資料により、いろいろな著作の中で、
いろいろと推測されているのが実情です。フランス秘密警
察は1919年からホーチミンの行動を捕捉します。
From 1919-1923, while living in France, Ho Chi Minh
embraced communism. Ho claimed to have arrived in
Paris from London in 1917 but French police only
have documents of his arrival in June 1919.

パリにはベトナムをフランスの植民地から独立させる運動を
しているベトナム人グループがいました。

フランスで活動していたベトナム人愛国者:

1.ファン・チュー・チン(Phan Chau Trinh)
ベトナムで愛国運動をしていましたが、1908年に逮
捕され、1911年にはフランスに追放になります。パ
リに着くと1915年にパリに住むベトナム人愛国者
を結集して「在仏ベトナム人愛国者団体」を結成して活
動をします。

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在仏ベトナム人愛国者団体の本部
NHÀ SỐ 6 PHỐ VILLA DES GOBELINS, QUẬN 13,
PARIS (House No. 6 villa Des Gobelins, District 13 of
Paris)

ファン・チュー・チンはホーチミンの父親とはよく国の将来
について討論した仲間で、ホーチミンもロンドン在住中から
何度もファン・チュー・チンに近況を知らせる手紙を送り、
おじさんのように思っていたようです。


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愛国者 ファン・チュー・チン

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ホーチミンがファン・チュー・チンに送った手紙

2.ファン・バン・チュオン(Phan Van Truong)

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愛国者 ファン・バン・チュオン
パリのソルボンヌ大学で法律を勉強し法律家になりました
がジャーナリストでもありました。たびたび渡英し、在住中
のホーチミンと現地で会っています。ホーチミンがフランス
へ来た時に最初に世話をしたようです。

1919年7月までホーチミンの足取りは追えません。しかし
少なくとも5月7日から6月11日まではNo.10, Stockholm
City, その後、No.56 Monsieur le Prince Streetにいたこ
とが確認されています。

フランス滞在の頃から、彼の名前はグエン・アイ・コック
(Nguyen Ai Quac)となります。

この年の10月にはロシアでレーニンによって20世紀最大
の人民革命、「ロシア革命」が起こり、史上初の社会主義国
家が建設されます。ロシア革命はホーチミンの人生で、彼
の思想に最大の影響を与えた出来事で、レーニンは生涯
の師になります。

この時、ホーチミンはまだロシア革命の詳細を知っていた
わけではなく、彼はその後、どのようにして革命が成功した
のか、ソ連に行って勉強したい衝動に駆られます。

1957年にソ連の新聞記者にホーチミンはロシア10月革命
が起きたとき、私はフランスに滞在していたと語っているこ
とから、彼がフランスに入国したのが1917年11月7日以前
であることは確かなようです。

Lenin_1920.jpg
ソ連のレーニン。







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