べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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12 ホーチミン主席の足跡 1914年(24歳)
ホーチミンのロンドン滞在中、1914年6月28日から第1
次世界大戦が勃発します(1918年まで)。ホーチミンは
戦争勃発時に既にドゥレイトンコートホテルを辞め、ロン
ドン中心街ピカデリサーカス近くのカールトンホテル
(Carlton Hotel)にケーキ職人として就職していました。
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この仕事中、ホーチミンはフランス人シェフで、当時フラ
ンス料理の神様と言われていたオーギュスト・エスコフィ
エ(Auguste Escoffier)の薫陶を受けることが出来まし
た。

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オーギュスト・エスコフィエ

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「仕事が終わると英国図書館に行って新聞を読んだり、
ハイドパークへ行き政治演説を聴いたり、英語の勉強の
ためベンチに座っている人によく話しかけた」とあるので
すが、英国図書館での勉強については出来なかったよ
うです。この頃、英国図書館に入館するには、研究テー
マと、しかるべく人の紹介状がないと入館証が発行され
ないシステムになっており、英国図書館にもホーチミン
(偽名を使っていますが)に入館証を発行した痕跡は何
もありませんということが、2007年発行のホーチミン研究
書に発表されています。

とはいえ、英国図書館が使用できなくても、市中の図書
館では勉強したことでしょう。

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英国図書館 

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ロンドン ハイドパーク

ホーチミンはこの公園で行われる政治家や思想家、外国
人労働者組合などが主催する演説会に参加することを
楽しみにしていました。

この頃のイギリスは1906年に労働党が成立し、労働組
合の活動が活発化してきた時期で、ホーチミンは1917
年ロンドンを離れるまで社会主義政治活動の勉強をしま
す。

ロンドン滞在中のホーチミンはパリに滞在しているベトナ
ムの愛国者ファン・チュウ・チンに何度も手紙を出して、
連絡し合っていました。
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ホーチミンのイギリスでの滞在中の行動については、確
証となる証拠文書が少なく、発行されている書籍で多少
記述が異なっています。

カールトンホテルは第2次世界大戦のときにドイツに爆
撃され損壊した後、再建されることはありませんでした。
現在はニュージーランド政府関係の建物が建っていま
す。

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10 ホーチミン主席の足跡 1912年(22歳)修正1

マルセイユでフランス植民地学校への入学を拒否する通知
を受け取ったホーチミンは当面船員として働くことを選び、
アフリカ航路を運行していた“Five Star”という貨物船に
乗り込みます。おそらく時計周りにアフリカを一周します。

Reunion(レユニオン島), Congo(コンゴ), Dahomey
(ダオメー、ペナンの旧称), guinea(ギニア), Senegal
(セネガル), Algeria(アルジェリア), Tunisia
(チュニジア)寄港し、グエン・タッ・タンはそれぞれの
寄港地でベトナムと同じように植民地化された国民の悲惨
な生活を目のあたりにします。

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13歳の時、グエン・タッ・タンが確かめたかった「自由」
「平等」「博愛」というフランスの言葉の意味の植民地で
の実態を見て、これが西洋文明なのかとホーチミンの心
に衝撃を与えます。

アフリカを一周した後、地中海を渡り、スペイン、ポルトガ
ルに寄港した後、大西洋を越えてニューヨークへと向か
います。

ニューヨーク港の「自由の女神」を凝視したホーチミンは
とても複雑な感情を持ったと回想しています。1945年彼
は同僚のCharles Fennに話しています。「アメリカのバイ
タリティー、多様性、すべての民族、すべての国籍の人
に平等の約束をしていることは、彼の生涯の考え方にイ
ンスピレーションを与えたと」

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1913年頃、ニューヨークでは婦人参政権獲得のデモが
頻繁に行われていました。この光景に出くわしたホーチ
ミンは1920年代から自らも婦人も解放されなければなら
ないと主張します。

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アメリカ滞在中のホーチミンは「Paul Tấi Thành」という
名前を使用します。彼はブルックリン(Brooklyn)で職を
見つけ住んでいたと述懐していますが、時々は近くの中
華街やポケットガイドを使ってTimes SquareやNew
York Public Library、ハーレム街へ行ったようです。

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ポケットブック

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Times Square

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New York Public Library



その後、ニューヨークからボストンに向かいます。

ボストンに着いたホーチミンは超一流ホテル「パーカー
ホテル」の調理場での仕事につきます。ホテルのケーキ
やパン作りを担当したようで、現在でもホテルの名物とし
て引き継がれています。

自分の住居はホテルから近い中華街の一角にアパート
を借ります。

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Parker Hotel

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Boston Ceam Pie

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Parker House Roll

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左端に若き日のケディー

このホテルは、後のアメリカ大統領となる若き日のケネデ
ィー(左端)やその家族がしばしば利用しており、ホーチ
ミンは彼に関するウワサ話を聞いています。

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ボストンの観光ポケットブック

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Boston Public Library


1912年12月15日 フランス政府の官職を辞してしまっ
た父親の生活を心配してニューヨークからフエにあるフ
ランスの役所へ手紙を書いています。
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「私は3回父親宛に送金為替を組んでお金を送りました
が、父親からは1回しか受取っていないとの返事しかもら
っていません。私は毎月お金を送りたいのですが、父親
の正確な住所がわからず、私も船員で住所が一定しま
せん。父親と連絡が取りたいのですが、現在は出来ない
状態です。父親の生活が出来るように役人か教員として
雇ってもらえないでしょうか。」


11 ホーチミン主席の足跡 1913年(23歳)

ボストンで彼はアフリカ系アメリカ人がよく読んでいた「ガ
ーディアン」新聞に、11月にアフリカ系アメリカ人の代表
が、黒人に対する差別撤廃を求めて、アメリカ38州から
20000人の署名を集め、ウィルソンアメリカ大統領に訴
えた記事を読みます。

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新聞の見出しには
「Deligation of calored arrange audience with
President Wilson and present petition against
segregation」
と書かれています。

1919年、第一次世界大戦の戦後処理会議、ベルサイユ
講和会議で、「グエン・アイ・コック」名で配布、請願され
た「安南人民の8項目の要求書」はアメリカでのこの時の
経験がもとになっているとされています。

この年の11月か12月頃、彼はボストンから南アメリカを
回る航海に出発します。メキシコ、マルチニーク島、ブラ
ジル,アルゼンチンの市民生活を見て、フランスのルア
ーブル港に戻ります。港に到着したとき彼は船員として
の生活に区切りをつけます。
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03ルアーブル
ホーチミンの船員としての生活の最終港フランス北端ル
アーブル港

そして1913年の年末イギリスに渡ります。ロンド
ンに着き、石炭を炉にくべる仕事をしていましたが、
2週間ほど体調を崩した後、ロンドン西方郊外の町、
ウェストイーリング(West Ealing)の「Drayton Court
Hotel」(2 The Avenue, West Ealing, 2 The Avenue,
West Ealing London)の厨房での仕事を見つけます。
彼のあてがわれた部屋は3階の小部屋でしたが、部屋
からはよく手入れされたホテルの広大な裏庭庭園が眺
められました。

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Drayton Court Hotel

ホーチミンは1914年の2月までこのホテルで暮
らします。ホテルは1962年で閉鎖され、現在は
「Drayton Court」として、イギリスを代表するビール
「Fuller」のビアーガーデンになっており、彼が毎日
眺めたであろうホテルの裏庭はロンドンで一番広大
なビアーガーデンになっています。

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現在のDrayton Court

このホテルの隣町に世界中の人を楽しませてくれた
喜劇役者のチャップリン(Charlie Chaplin)が16年間
住んでいたのですが、1914年に彼は渡米しますの
で、ホーチミンと入れ違いだったかも知れません。

マダム・ヌーの別荘


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マダム・ヌー, 本名はチャン・レ・スアン(Chan Le xuan)
1924年フランス領インドシナと呼ばれていた時代の
ハノイで生まれた彼女の父は弁護士でゴ・ジン・ジェム政
権下で在米国大使を務めています。母方は阮朝第9代
皇帝ドンカイン(Ðồng Khánh 1885年 - 1888年)の血筋
でドンカインの外孫、最後の皇帝Bao Daiの従兄弟にあ
たる血筋で、血統証つきのお姫様でしたが、気が強く、
庶民の感覚は持ち合わせていなかったようです。

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ドンカイン帝

1943年、後の南ベトナム大統領ゴ・ディン・ジェムの実
弟ゴ・ディン・ヌーと結婚します。ゴ・ディン・ヌーはフラン
スの名門大学Ecole Nationale des Chartesを卒業した
始めてのベトナム人です。

仏教徒だった彼女は結婚後、夫に合わせて仏教徒から
キリスト教徒に改宗しています。
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改宗

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家族

しかし1945年、ホーチミンが主導したベトナム8月革命
でベトミン軍に一家が4ヶ月間軟禁され、一日粥二杯の
みの食事という悲惨な待遇を受け、加えて彼女の長兄一
家が銃殺されてしまう事態に遭遇し、彼女は強烈な反共
産主義者になったと言われています。

1955年 生涯独身だった義兄のゴ・ディン・ジェムが大
統領になると同時にマダム・ヌーとして1955年から196
3年まで南ベトナム共和国の実質的なファーストレディー
を勤めることになります。

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気性の激しい彼女は、1963年6月11日にカトリック教徒
優遇政策と仏教徒に対する弾圧を推し進めたジエム政
権に抗議して首都のサイゴン市内で焼身自殺を図った
ティック・クアン・ドック僧侶の行動を、「あんなのは単なる
人間バーベキューよ」、「僧侶が一人バーベキューにな
ったからなんだっていうの」、「西欧化に抗議するのにア
メリカ製のガソリンを使うなんて矛盾してるわ」などとアメリ
カのテレビ局のインタビューで批判した言動が、世界中
から大顰蹙を買い、当時のケネディーアメリカ大統領も
怒らせてしまったことが、夫と義兄であるジェム兄弟暗殺
の引き金になってしまいました。

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彼女の奔放な発言や強権的な態度に対してアメリカのマ
スコミは「ドラゴン・レディ」という渾名を送りました。
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ケネディ大統領も黙認した1963年11月1日の軍事クー
デターでジェム兄弟が暗殺されたときには、長女と共に
アメリカにいたため、難を逃れていますが、翌年南ベトナ
ムに戻ろうとしたところ入国を拒否され、事実上の国外追
放となり、その後は生涯ベトナムの土を踏むことはかな
いませんでした。その後は、子供達と欧米諸国を転々と
し、最終的にはイタリアローマに亡命します。


2011年4月24日、ローマの病院で死去したことが報道
されました。生前、彼女は回顧録を書いており、今年中
には発行されるそうです。


<マダム・ヌーの別荘>

ヌー夫妻は大統領と一緒に大統領官邸で生活していま
したが、ファーストレディーとして権勢を振るった彼女は
1958年、ベトナム第一の別荘地であるダラットのパイナ
ップル林に囲まれた小高い丘の上に3つの別荘を建設
することを命じました。

ベトナムの別荘は日本と比べれば安いだろうと思ってい
る方は現地で価格を見るとビックリします。軽井沢より高
いのです。

別荘には、それぞれ宝石の名前がつけられていました。

Bach Ngoc(真珠), Lam Ngoc(トルコ石), Hong Ngoc(ルビー)

Bach Ngoc 別荘は温水プール付きで、地元の金持ち
も、この別荘の建設に彼女がいくら投資したか想像でき
ないそうです。
別荘   (1)


Lam Ngoc別荘はジェム政権のゲストハウスとして建設
されました。豪華な内装とすべてイタリアから輸入された
家具類が置かれ、庭には日本人の設計による日本庭園
も造られています。この別荘にはダラットのCam Ly
military airport に繋がっている地下道が作られてい
ます。
別荘   (2)
日本庭園

別荘   (3)
地下道の入り口

Hong Ngoc別荘は彼女の父親(Tran Van Cruong)の
ために建設されたものです。父親は在アメリカ大使をし
ていました。
別荘   (4)


しかし1963年にジェム兄弟が暗殺されてからは、別荘
は次期南ベトナム政府に接収されてしまいます。観光ガ
イドさんによると、その時家具類もすべて持ち去られてし
まって、現在残っているのはバスタブだけだそうです。
別荘   (5)


南北統一後は省の観光局が引き継ぎ、苦労して中部高
原の少数民族の博物館としてリニューアルしました。

1984年にはグエン王朝のwooden print blocks(木に
文字を彫ったもの)がフエの旧王宮からこの別荘に移さ
れ、保管されており、歴史上の貴重な資料とされていま
す。この移設の命令は1960年にゴ・ディン・ヌーが陸軍
に命令しているのですが、ベトナム戦争中であり、移設
が中断してしまったのかも知れません。完了までには随
分と時間がかかりました。

2006年 政府は別荘をNationa Archive Center No.4
として指定し、保存に力を入れています。



アメリカ大使館 更新
ベトナムのアメリカ大使館、それはベトナム戦争の象徴的建物で
あり、歴史的事件の舞台となった場所でもあります。

現在のベトナムには大使館がハノイに、総領事館がサイゴンにあ
ります。

ベトナム戦争中、当初のアメリカ大使館はハムギ通りの39番地でホー・トゥン・マウ通りとの交差点、サイゴン川近くにありました。現在はホーチミン市の銀行大学(Trường ̣Đại Học Ngân Hàng)になっています。

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現在は銀行大学になっています。

「1963年6月11日に、当時南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政
権が行っていた仏教徒に対する高圧的な政策に対して抗議するた
め、サイゴン(現・ホーチミン)のアメリカ大使館前で自ら
ガソリンをかぶって焼身自殺した。」とウィキペディアにありま
すが、焼身自殺したのは、大使館前ではなく、Cach Mang Thang Tam
(8月革命通り)と、Nguyen Dinh Chieu(グエンディンチウ通り)
の交差点です。当時、反政府仏教徒の拠点だった「サーロイ寺」
に近く、交差点には六角形の立派な「師」の碑と碑文が残されて
います。碑文には「1963年6月11日10時ファン・デン・
フォンとレー・バン・ドユットの十字路(当時の通り名)」で師
が焼身自殺したことが簡易に記載されています。
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1965年ベトコンはこのアメリカ大使館を襲撃しましたが、失
敗に終わりサイゴン川の埠頭にベトコン兵士の死体が並べられて
いる写真が残っています。
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ベトコンの攻撃を受けたアメリカは現在のレズアン通りに難攻不
落と言われた新たな大使館を建設します。
旧大使館 (1)


しかし、1968年のテト攻勢により、ベトコンのサイゴン特殊
部隊20人が大使館に決死の突入をし、大使館の一部が占拠され
ます。数時間後、応援に駆けつけたアメリカ軍との戦闘により、
ベトコン全員が死亡して事態が収拾しますが、決死の覚悟でアメ
リカ大使館に突入したベトコンの姿はテレビ映像で全世界に放映
され、アメリカがベトナムから撤退する大きな要因になりました。
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1969年4月30日、サイゴン陥落の直前、大使館の屋上から
海上の空母へ向けて最後のヘリコプターが飛び立ちます。
サイゴン陥落 (23)


アメリカ大使館の隣には並んでフランス大使館があるのですが、
フランスはとっくにベトナムからは手を引いてしまっていたので、
4月30日のアメリカ大使館の混乱にも、平然としていたそうです。

サイゴン陥落後は、アメリカ大使館は廃墟同然の状態でほったら
かしにされていました。戦争は終わってもアメリカは20年に渡
って、ベトナムに経済制裁を加えていたのです。
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1995年、やっとアメリカとの国交正常化が行われ、その後ア
メリカ大使館がハノイに建設され、サイゴンには1999年、現
在の総領事館が旧アメリカ大使館跡に建設、業務が再開されてい
ます。
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領事館前の道路には1968年に襲撃されたベトコンのテト攻勢
の記念碑が建立されています。
ます。
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サイゴンにある領事館の中でも、おそらくもっとも広大な敷地で、
正面道路は以前の大使館にもまして、頑強なつくりになっていま
す。

現在では領事館の対面の歩道にはアメリカへ留学する人々のヴィ
ザ申請の代行会社の人だかりで、アメリカ留学は一番人気です。
若者はベトナム戦争はもう過去のことで、英語を習得して少しで
も高い給料にありつきたいと言うのが本音のようです。ベトナム
庶民の暮らしはまだまだ貧しいのです。
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ベトナム祖国戦線

MAT TRAN TO QUOC VIET NAM
Vietnam Fatherland Front (VFF) 

ベトナム共産党には正規の党組織のほかに、強力な大
衆組織があります

1954年ベトミンはフランス植民地軍にディエ
ン・ビン・フーの戦いで勝利し、フランスのベトナム
からの撤退を機に、その役割を終えたとして解散し、
「祖国戦線」として再結成されます。1977年には
「南ベトナム解放民族戦線」と「ベトナム民族民主平
和勢力連合」の2組織を統合、吸収して現在に至って
います。

「祖国戦線」はベトナム共産党の翼賛組織で、労働者
や農民、青年団など全国46組織で構成する共産党員
以外の共産政治勢力の連合体です。階級の利害を超え
て共産党や政府の方針・政策を遂行することを主な目
的としており、ベトナム憲法にもその役割と位置図け
がなされています。

第9条 ベトナム祖国戦線とその傘下組織は人民の力
の政治的基盤の役を担っている。全人民団結、人心を
政治的精神的に一体化、人民による管理の建設及び安
定化に参画、人民の合法的利益を保護するために国と
協力、主権行使を推進し、憲法と法を周到に遵守し、
国家機関、人民の代議員、官吏、公務員などの活動を
監督することを任務とする。国は戦線とその傘下組織
が効率的に活動できる条件を創出するものとする。

第13条 ベトナム祖国戦線は神聖にして不可侵の
ものである。戦線の独立性、主権、団結、領土保全、
もしくは国家建設と防衛の大義に対抗する全ての試
み及び行為は法のもとに罰を受けなければならない。

祖国戦線は国会への法案提出権をもち、国会議員選挙
の際に立候補者名簿を作成するという重要な役割を
持ち、議長は関連事項につき閣議に参加する権利を持
っています。地方レベルの祖国戦線も組織されていま
す。

ベトナム祖国戦線全国大会
2009年: 第7回大会
2004年: 第6回大会
1999年: 第5回大会
1994年: 第4回大会
1989年: 第3回大会
1984年: 第2回大会
1979年: 第1回大会(1977年祖国戦線設立)

歴代祖国戦線議長
フゥイン・ダム(任期: 2008年-現職)。
ファム・テー・ズゥエット(任期: 1999年-2008年)
レ・クアン・ダオ(任期: 1994年-1999年)
グエン・フゥウ・トー(任期: 1988年-1994年)
フゥイン・タン・ファット(任期: 1983年-1988年)
ホアン・クオック・ヴィエット(任期: 1977年-1983
年)

第6期ベトナム祖国戦線構成組織
ベトナム法律会
海外在住ベトナム人連絡会
ベトナム労働総連盟
ベトナム枯葉剤・ダイオキシン被災者会
ベトナム科学・技術会連合
ベトナム友誼組織連合
軍政治総局
ベトナム文学芸術会連合
ベトナム東方医学会
ベトナム女性連合
ベトナム・カソリック団結委員会
ベトナム農民会
ベトナム商工会議所
ベトナム障害者・孤児扶助会
ベトナム奨学会、党大衆工作委員会
ベトナム生物圏/SINH VAT CANH会
ホーチミン共産青年団
ベトナム合作社連盟
ベトナム歴史科学会
ベトナム盲人会
ベトナム人口・家族計画会
ベトナム美術工芸・金装飾・宝石会
ベトナム針灸会
ベトナム退役兵士の会
ベトナム赤十字
ベトナム仏教会
ベトナム園芸会
ベトナム青年連合
ベトナム・ジャーナリスト協会

>
7.ホーチミン主席の足跡 1909年(19歳)

1909年には父親が科挙の試験(会士 国家公務員)に
合格し、ビンディン(Binh Đinh)省ビンケ地区(Binh
Khe)の公務員のチーフに任ぜられます。グエン・タッ・タ
ンはクイニョンでフランス語を学びます。

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父親が働いていた職場

この頃のフエ宮廷の高級官吏は腐敗しきっており、愛国
者である父親はフランス官吏の下でお世辞を使って仕
事ををするのは性にあわず職を辞してしまいます。父親
の収入の道が絶たれてしまったのでグエン・タッ・タンは
父親と離れ、職を探しに、南下してファンティエット市へ
と向かいます。

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フエ宮廷の高級官吏

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下級官吏の家族

そして庶民はフランスの植民地政策によって多額の税
金がかかった麻薬を吸わされ、子供達は家族を離れて
働かなければなりませんでした。
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6 ホーチミン主席の足跡 1908年(18歳)

01

02
フランス植民地政府の中部ベトナムを管轄する建物

1908年5月、ホーチミンはフエのテュアティン地方で発
生した重税に反抗する農民闘争に兄と共に参加しま
す。
闘争と言っても武器は持たず、男の農民は長い髪を切
って彼らの団結と抵抗の意思を示し、お互いに「同胞」
(đồng bào)と呼び合ってデモンストレーションをした民主
的なものでした。

しかしホーチミンはこのデモに参加して以来、フランス
官憲に目をつけられるようになり、フランス秘密警察の
報告書に記録が残るようになります。


03  秘密警察報告書
フランス秘密警察の記録No.291。グエン・タッ・タン
が抵抗運動に参加したことが報告されています。記録は後日
作成されているので、「グエン・アイ・コック」という名で
下から2行目に記載があります。


5.ホーチミン主席の足跡 1907年(17歳)

この年の9月、グエン・タッ・タンはベトナムで最も有名な
高校、フエのクオック・ホック(trường Quếc học Huế)校
へ転校します。

01 クオックホック高校
クオックホック校


<クオック・ホック校>

クォック・ホック(Quốc Học)は、現在もベトナム社会主義
共和国のフエ市に所在する国立高等学校。 1896年に
グエン王朝皇帝Thành Tháiが皇室や官僚など特権層
の子息にフランスの文化や西洋の科学を教えるための
教育機関として開学しました。

その後、1905年、ファン・ボイ・チャウの東遊運動の煽り
を受けて、フランス政府のポールバート総督(Paul
Bert)によって改革され、下級官吏の子供達にも解放さ
れたため、ホーチミンも入学できました。男子校でしたが、
現在は男女共学になっています。

02
ホーチミン入学時のクオック・ホック校のカリキュラム

べトナム独立に足跡を残した人物は、ほとんどがこの学
校の出身者であると言っても過言でない程、ベトナム第
一の名門高校です。

主な出身者
1.ホー・チ・ミン(胡志明)大統領
2.ファム・ヴァン・ドン(范文同)首相 ホーチミン愛弟子
3.ボー・グエン・ザップ(武元甲)将軍 ホーチミン愛弟子

4.チャン・フー(陳富)ベトナム共産党最初の書記長
5.ゴ・ディン・ジエム(呉廷琰)南ベトナム大統領
  ゴ・ディン・ジエムの父親はクオックホック校の初代校長です。

03
クオックホック校開港100周年記念切手

4.ホーチミン主席の足跡 1906年(16歳)

1906年5月 地方公務員試験に合格していた父親は
科挙の試験勉強(会試―国家公務員試験)のためグ
エン・タッ・タンと兄を連れて首都フエに行きます。以
前住んでいたユン・ノ村の家を借り、翌年から父親は
フエのドンバ(Đông Ba)小学校で教師をします。

01  住居
以前も借りていたユン・ノ村の家

02  ドンバ小学校
1907年―1908年 父親が教師をしたドンバの
小学校

グエン・タッ・タンも一時的にこの小学校で勉強してい
ます。

ベトナムの国歌

ベトナム社会主義共和国の国歌はティエン・クア
ン・カ(Tiến Quân Ca 進軍歌)と言います。

1944年
ヴァン・カオ(Vãn Cao 1923年 -1995年)
が軍隊学校から依頼されて作詞・作曲しました。

1946年11月
ベトナム民主共和国(北ベトナム)国会第1期第2
回会議決議で国歌に採用

1955年
ホーチミン主席によって歌詞の一部が変更され、国
会第1期第5回会議で承認されます。

01  国歌修正
当初5行目は "Thề phanh thây uống máu quân thù"
だったそうです。

1976年7月
ベトナム社会主義共和国 統一国会決議で国歌に
採用
2節ある内の1節目のみが公式のものとされてい
ます。


日本では学校行事のときに「君が代」を弾くのを拒
否する音楽教師がいるそうですが、ハノイの日本人
学校では、音楽の時間には毎回、ベトナム国歌をベ
トナム語で歌うそうですよ。

<歌詞>
Ðoàn quân Việt Nam đi chung lòng cứu quốc.
Bước chân dồn vang trên đường gập ghềnh xa.
Cờ in máu chiến thắng vang hồn nước.
Súng ngoài xa chen khúc quân hành ca.
Ðường vinh quang xây xác quân thù.
Thắng gian lao cùng nhau lập chiến khu.
Vì nhân dân chiến đấu không ngừng.
Tiến mau ra sa truờng.
Tiến lên! Cùng tiến lên!
Nước non Việt Nam ta vững bền.

進めベトナム軍団結し、救国の為に
彼らが足音は長く険しい道の上に響く
血染めの旗の下、祖国の勝利の為
銃声が進軍歌にこだまする
敵の屍を乗り越え、栄光の道へ
困難を打ち破り、共に戦場へ
人民の為我らは戦う
留まる事無く急げ戦場へ、
進め、共に
若きベトナム確固たる未来の為に。

Ðoàn quân Việt Nam đi sao vàng phấp phới.
Dắt giống nòi quê hương qua nơi lầm than.
Cùng chung sức phấn đấu xây đời mới.
Ðứng đều lên gông xích ta đập tan.
Từ bao lâu ta nuốt căm hờn.
Quyết hy sinh đời ta tươi thắm hơn.
Vì nhân dân chiến đấu không ngừng.
Tiến mau ra sa trường.
Tiến lên! Cùng tiến lên!
Nước non Việt Nam ta vững bền.


ベトナム国歌はここで聞けます。
http://www.youtube.com/watch?v=hBWZ9S7tUlo


ベトナムの国民歌
どの国にも国民に広く歌われている「国民歌」が、
少なからずありますが、ベトナムの国民歌は「ホー
チミン賛歌」一色です。

公立小学校の先生たちは、自然とこの「ホーおじさ
ん」の歌を生徒たちに教えてゆきます。ですからこ
の歌を知らないベトナム人は100%いません。
「国歌」より歌われているかも知れません。

昨年2010年9月2日の独立記念日(建国記念
日)の夜、ベンタン市場向かいの9月23日公園で
記念の歌謡祭が行われましたが、国家は歌われず、
最後は国民歌の代表作である、この歌で締めくくっ
ていました。

【 Nhu co Bac Ho trong ngay vui dai thang 】
(大勝利の喜びの日にホーおじさんがもしいてく
れたら)

♪ Nhu co Bac Ho trong ngay vui dai thang ♪
Loi Bac nay da thanh chien thang huy hoang.
Ba muoi nam dau tranh gianh toan ven nong song.
Ba muoi nam dan chu cong hoa khang chien da thanh cong,
  Viet Nam Ho Chi Minh . Viet Nam Ho Chi Minh .
  Viet Nam Ho Chi Minh . Viet Nam Ho Chi Minh .

国民歌 (1)
Music; “Uncle Ho is presented in the Victory Day”
Presented to Ho Chi Minh City people by
composer Pham Tuyen


♪  大勝利の喜びの日に ホーおじさんが いるようだ  ♪

ホーおじさんが話した言葉のように 輝かしい戦勝を治めた

30 年以上 ベトナム全土の山河で戦って来た

30 年以上続いた 民主共和国の抗戦が いま成功したのだ

ベトナム ホーチミン ベトナム ホーチミン
ベトナム ホーチミン ベトナム ホーチミン


これはホーチミン主席の夢だった祖国の統一が、主
席の死後、達成され、その日を迎えた人たちが、今
日この日にホーおじさんが生きていてくれたら、ど
んなに喜んでくれただろうかと、ホーチミン主席を
涙とともに偲んだ歌なのですが、メロディーは決し
て寂しいものではなく、明るいメロディーになって
います。

メロディーは下記で聴けます。
http://www.youtube.com/watch?v=OIaJLZIfRbo&feature=related

この有名な歌以外にも
死後、ホーチミン主席を偲んだ音楽や詩集が刊行さ
れています。

<音楽>
国民歌 (2)

国民歌 (3)

国民歌 (4)

<詩集>
国民歌 (5)

国民歌 (6)

国民歌 (7)

3.ホーチミン主席の足跡 1901年(11歳)

1901年9月、一家は故郷のキムリン村に戻ります。

01
1901年から1906年までホーチミンが中国語を習った
キムリン村のVương Thúc Quý 学校

この頃からホーチミンの名前はグエン・タッ・タン
(Nguyên Tât Thành)と呼ばれるようになります。グエ
ン・タッ・タンの少年時代、ベトナムはフランスの植民
地政策により人々は過酷な税の取立てや労役を余儀
なくされ、少年の純真な心に愛国心が芽生えるのに
時間はかかりませんでした。
02

すでに13歳の頃から学校の教科書よりも愛国者達
の本や英雄の伝記を好んで読み、父親からは中国や
モンゴルの侵略に対してベトナム人が抵抗した話を
聞いていました。

時には愛国者である父親と父親の仲間達との会話を
聞いたりして育ちます。父親の仲間の1人に東遊運動
で有名なファン・ヴォイ・チャウ(Phan Bôi Châu)
がいました。まだ幼さないホーチミンでしたが、父親
とファン・ヴォイ・チャウの会話、
(フランス植民地政府の過酷な税の取りたて、強制労働、
フランスの他の植民地への兵役など)を聞いていました。

ホーチミンもファン・ヴォイ・チャウから日本で勉強
するよう招待を受けるのですが、彼は断り、後日サイゴン港
からフランスへ渡ることになります。しかしホーチミンが
国際共産党員(コミンテルン)の東方局員となって、
中国やタイランドで活動することになったとき、彼は
ファン・ヴォイ・チャウによって短期間日本で勉強した
多数の在外ベトナム人愛国者に出会うことになります。

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ホーチミンは後の回想で述べてます。
「13歳の頃、私は「自由」「平等」「博愛」というフランス
の言葉に始めて出会いました。そして私は自分自身
でこの言葉が意味していることを正確に理解したいた
めにフランス文化を見てみたいという欲望に駆られた
のです。」

彼は15歳の時すでに反仏抵抗運動に参加し、愛国的
学者たちに対する伝令として働いていました。

ホーチミン主席の海外発行切手

多くのベトナム人の心の中では、ホーチミン主席は現
在も眠りについているだけで、死亡したとは思ってい
ません。大統領職になっても一生、清貧な生活を押し
とおした主席に対する国民の敬愛の情は、ベトナムだ
けでなく、政治信条を超えて世界の人々に賞賛されて
います。

ホーチミン主席の生誕100周年を記念して、ソ連とラ
オスで発行された記念切手です。友好国とはいえ他
国の大統領の記念切手が発行されたのは世界でも初
めてでないでしょうか。

切手 (1)
ソ連1990年発行のホーチミン主席切手。上部のロシア
文字は「ホー・チ・ミン」


切手 (2)
切手 (3)
切手 (4)
ラオス1990年発行のホーチミン主席生誕100年記念
切手3種類。

またゆかりの深かったフランスではパリの公園に主席
の胸像を建立しています。
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2. ホーチミン主席の足跡 1895年(5歳)
1895年の終わりに、ホーチミンの父親は科挙の試験
を受けるための集会に参加するため、妻と2人の息子
を連れて当時の首都だったフエに向かいます。儒学
者の父は漢学の先生をして生計を立てます。

01
科挙試験受験者の集会。最初は地方公務員試験に
当たる「郷試」と呼ばれる試験を受けます。


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1895年から1901年まで、現在のフエ市Mai Thuc
Loan 通り112番地に家を借ります。 

しかし、ホーチミンの母親は既に体が弱っていて、新
約聖書のマタイ伝が家に置かれていたという記述が
あります。1901年に母親はこの家で亡くなります。


事情は不明ですが、1898年から1901年(母親の死
亡)までホーチミンと父親、兄は母親が住んでいる家
を離れてフエ市郊外のユン・ノ村(Dương Nỗ)の家
に住みます。

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ユン・ノ村の家

1901年、父親は「郷試」の試験に合格します。

韓国ビジネスクラブ
サイゴンで発行されている韓国の情報誌の一つに「M
EKONG (メコン)」をいう雑誌があります。

ブジネスクラブ (1)

すべてハングル語なので読めないのですが、「ビジネ
スクラブ」という広告がたくさん載っているので、ご紹介
します。

ブジネスクラブ (2)

ブジネスクラブ (3)

ブジネスクラブ (4)

韓国のビジネスは美人女性をはべらかして、行うので
しょうか?。韓国人が言う「ビジネスクラブ」は限りなく
風俗産業に近い商売のようです。日本人カラオケに比
べると、料金は2倍近くします。

ベトナムではカラオケ店の出店数は政府によって統制
されていますので、許可制です。届出制ではありませ
ん。

1. ホーチミン主席の足跡 1890年

このシリーズは資料が追加されるごとに随時更新されます。

1890年(誕生)

01  キムリン村の風景
ホーチミンの誕生地キムリン村。正面の山はホン山

Image0425.jpg

ホーチミンは幼名を グエン・シン・クン(Nguyên
Sinh Cung)といい、ゲアン省ホアンチュ村(現在のキ
ムリン村)の農家でフランス植民地時代の1890年5月
19日に第3子、末っ子として生まれました。

当時の住所はlàng Hoàng Trù, xã Chung Cự, tổng
Lâm Thịnh , Huyện Nam Đàn, tỉnh Nghệ An 

現在ではxã Kim Liên, Huyện Nam Đàn, tỉnh
Nghệ An となります。

02  母親の実家
母親の実家で生まれました。

03  父親の家
父親の家

誕生後は同じキムリン村にある父親の家で家族一緒
に住みます。
この生家には50年以上たった1957年と1961年
に大統領として凱旋しています。

04  祖父の家
祖父Nguyen Sinh Nham の家。同じキムリ村にあり
ました

彼が生まれた時代はフランス帝国主義者によってベト
ナムは侵略され、ベトナム人民は過酷な生活を強いら
れていた時代でした。フランスの植民地政策に対する
人民の抵抗運動が始まった時期でもあり、ホーチミン
が生まれたゲアン省は抵抗運動の最も盛んな地方で
した。

ホーチミンが生まれる少し前の1886年、タインホア
省のニャソン(Nga Sơn)でフランス侵略者に対する
暴動が起きます。3つの村が抵抗基地を作り、しばらく
の間、フランス侵略者の侵入を防ぎました。しかし
1887年には征服されてしまい、首謀者は刑務所に
いれられ、処刑されます。
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ハノイのバーディン広場は北部ベトナム人のフランス
侵略軍に対する勇気ある抵抗の精神を象徴するために
命名されました。

バーディン広場(Ba Đìnḥ)のBa=3、Đình=村 
を意味します。

ほぼ60年後の1945年にホーチミンはこの広場で、
ベトナムの独立宣言を読み上げたのです。



05  Father
父親 グエン・シン・サック
Nguyễn Sinh Sắc
(1863-1929年)

ホーチミンの父親はもともとが農家の家柄でしたが、子
供のころに両親を亡くし働きながら勉強をしていました。
恩師であるホンスードン先生の指導のおかげで、189
4年に芸術の大学を卒業し、1901年には文学博士と
なって先生の娘さんと結婚し、一教師として質素に暮
らしていました。彼は多くの子どもたちに、労働を愛す
る気持ちやヒューマニズムを理解する勉強を指導しま
した。

その後、1906年5月には儀礼省の官吏に推挙され、1
909年に難関中の難関である科挙の試験(国家公務
員の試験)に合格し、ビンディン省ビンケ地方で公務
員のチーフを勤めます。彼の本性の愛国精神から、公
務員在勤中にしばしば「公務員はフランス当局の手先
みたいなもので、続けているとより卑屈な人間になっ
てしまう」と言って、貧乏から脱却するためにフランス植
民地官吏におべっかを使って働いているベトナム人と
は相容れませんでした。

それゆえ彼は1910年1月17日にフエに戻され、5月1
9日には懲罰委員会にかけられ、100回の鞭打ち刑や
7等級の官吏の位を剥奪され、解雇されてしまいま
す。

一緒に生活していたホーチミンは父親の解雇によって、
独立して生計を立てねばならなくなり、南下してファン
ティットに向かい職を探します。

父親はフエで教師をした後、ベトナムの知識階級と国
家のあり方について議論をするために南部ベトナムに
行きます。

1927年からは南部ベトナムのドンタップ省Cao Lan
でベトナムの伝統的薬を作り、患者を治療し続けまし
た。彼は生涯貧乏でしたが清貧で正直者でした。


ホーチミンは当初、父の失業を大変心配して、父親に
海外から送金したり、フランス植民地政府に父の就職
を依頼していましたが、そのうち音信不通になってしま
ったようです。

父親はCao Lanで生涯を閉じますが、現在では立派
な墓所が作られています。

06  父親の机
父親の勉強机 

愛国者としての誇りから公務員としてフランス植民地主
義者のゴマすりになることを断固として拒否したため、
解雇され、その後は南部ベトナムへ行き、伝統的医者
として死ぬまで質素な暮らしを続けました。

07
1901年朝廷によって編纂された科挙合格者のリスト。
父親の名も載っています。

科挙の試験は郷試(地方試験)と会試(全国試験)があ
り、郷試を合格した人が会試の試験を受けられました。
父親は1909年会試にも合格します。



08  Mather
母親 ホアン・ティ・ロアン
Hoàng Thị̣̣ ̣Loan ̣
(1868-1901年)

ホーチミンのお母さんはキムリン村に住むHOAN
XUAN DUONGという儒学者の娘で農業とはた織り
をしていました。母は勤勉でとてもやさしい人でした。
夫の勉学を助け、子供の養育に一生を捧げました。19
01年2月10日にフエで若死にしてしまいます。
6歳のホーチミンが涙をながしている絵画が残って
います。ホーチミンが涙を流している写真はこの
シリーズ中に1枚だけ登場します。

現在、お墓はフエから故郷のキムリン村に移されてい
ます。
P1250643.jpg

ホーチミンの母親は優しくて勤勉、人生を農耕と子供
達の教育に捧げました。

08  ハンモック
母親が使っていたハンモック

09  はた織機
はた織機


ホーチミンには、お姉さんとお兄さんがいましたが、2
人とも反仏運動に参加をしていました。

10  Sister
姉 グエン・ティ・タン
Nguyễn Thị Thanh
(1884-1954)

ホーチミンのお姉さんはファン・ボイ・チャウの維新運
動に参加していて、Vietnamese National
Restoration Association の支援事務所として、
主に、資金集めやフランス兵士から横流しされた武器
をベトナムの愛国者団体に供給する活動をしていまし
た。

彼女は何回となくフランス植民地軍に逮捕、拷問され、
フエで9年間監視下での生活を言い渡されます。

1940年にはCentern Police Investigation Service
からゲアン省のチーフを任せられます。兄のホーチミ
ンが主導した1945年のベトナム8月革命の後、彼女
は郷里のKim Lien Village Fighter’s Mothers
Association で活動します。1954年、郷里のキムリン
村で生涯を終えます。


11  Brother
兄 グエン・シン・ハイエ
Nguyỗn Sinh Khiêm
(1888-1950)
(別名 Nguyen Tat Dat)

ホーチミンのお兄さんは理知的で独立心が強く、父親
同様、純粋な愛国者でした。若いときから正義の行動
をする人を愛していました。

彼も姉と同じように維新活動に積極的に参加し、人々
に古い習慣を廃し、封建的な官吏組織を改め、ローマ
字化されたベトナム言語で教える学校を建設すること
を強く主張していました。

1912年、彼はインドシナ総督府に陳情書を送り、ベト
ナム人民の窮状を訴え、改善を要求しています。フラ
ンス植民地政府は彼が愛国的行動をする前に嘘をつ
き彼を改心させようとしましたがうまくいきませんでし
た。

1914年にフランス植民地政府に反逆者として逮捕さ
れ、9年間服役を言い渡されました。1920年にはフエ
に送られ、監視の下で生活するようになります。

その後1940年、郷里に帰ることが許可されましたが、
郷里に帰っても改革の要求やベトナム人に新しい考え
を広めることをやめませんでした。そのためフランス植
民地政府に再び逮捕され、解放されたのは1941年の
後半でした。

釈放後は郷里に戻り、父親と同じように伝統的なベトナ
ムの薬を作って暮らしました。1950年6月25日、郷里
でなくなります。


ホーチミンは幼少の頃、村で尊敬されているDienお
じさんの鍛冶屋工場によく行きました。
12  鍛冶屋さんの家
Dienおじさんの家


ホーチミンの家族は、フランス植民地政府から見れば
札付きの反植民地闘争の一家でした。しかし母親だ
けは子供を育てるのに精一杯で、早死にをしてしまい
ます。
 
13  Huy

14  P1200396

15  Thanh
上から父、姉、兄に関するフランス秘密警察の報告書




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