べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ベトナムの国旗

グエン王朝(1802年―1945年)の王朝旗
11  グエン朝王朝旗

グエン王朝以前の各王朝旗の背景色の基本には黄色
が使用されています

1887年にベトナム全土がフランスの植民地になって
しまってから、1945年3月9日、太平洋戦争の末期に
日本軍が「明号作戦」を発動して、フランス軍から権力
奪取した期間もグエン王朝は形式的に存在しました。

12  フランス植民地の旗
フランス植民地の旗


日本軍の支援によって、グエン王朝の最後の皇帝、バ
オダイは1945年3月11日に「ベトナム帝国」(1945年
3月11日―1945年9月2日まで)を建国します。

13  ベトナム帝国
「ベトナム帝国」旗

しかし日本は1945年8月15日に敗戦してしまい、ホ
ーチミンは1945年9月2日に独立宣言を発して、「ベト
ナム民主共和国」を建国します。

14  ベトナム民主共和国
「ベトナム民主共和国」旗

独立宣言をしたものの、国際社会はまだ「ベトナム民
主共和国」を承認せず、フランスはベトナムを再侵略し
てホーチミンが建国した「ベトナム民主共和国」に対抗
して南部ベトナムに「コーチシナ共和国」を建国しま
す。

15  コーチシナ共和国
「コーチシナ共和国」旗

「コーチシナ共和国」は地元有力者とフランス人で構
成されていたため、統治がうまく行かず、フランスはグ
エン王朝のラストエンペラーだったバオダイを担ぎ出
し、国王にさせて「ベトナム国」(1949年6月14日―1
955年1月26日)を建国し、「コーチシナ共和国」を吸
収します。

16  ベトナム国ベトナム共和国
「ベトナム国」旗

1954年、フランスはディン・ビ・ンフーの戦いでホー
チミン率いる北ベトナム軍に大敗を帰し、退散します
が、国土は北ベトナム(ベトナム民主共和国 社会主
義国)と南ベトナム(ベトナム国 自由主義国)に2分さ
れてしまいます。

「ベトナム国」で首相になったゴ・ジン・ジェムは、アメリ
カに支援されて、いんちきな大統領選挙を行いフラン
スで暮らしていたバオダイの「ベトナム国」を消滅させ
て、「ベトナム共和国」(1955年10月26日―1975年
4月30日)を建国します。
国旗は「ベトナム国」と同じです。

1975年、サイゴン陥落によって、「ベトナム共和国」が
滅ぼされ、南北のベトナムが統一するまでの間、南ベ
トナム解放民族戦線を引き継いだ「南ベトナム共和国」
(1975年4月30日―1976年7月2日)が南北統一の
日まで臨時に建国されます。

17  南ベトナム共和国
「南ベトナム共和国」旗


そして1976年7月2日、「南ベトナム共和国」が「ベト
ナム民主共和国」に吸収される形で国名が「ベトナム
社会主義共和国」となります。

国旗は「ベトナム民主共和国」のものが使用され、現在
に至っています。

14  ベトナム民主共和国
「ベトナム社会主義共和国」

現在の「ベトナム社会主義共和国」の国旗は、「金星紅
旗」と呼ばれています。

背景の赤・・戦争で犠牲になった勇士の血
黄色の星・・ベトナム共産党
5条の光・・労働者、農民、知識人、青年、兵士、5階層
の団結を表徴しています。

ベトナム語で国旗は「CỜ ĐỎ SAO VÀNG」と言います。
「CỜ 」=旗、「ĐỎ」=赤、「SAO 」=星「VÀNG」=金
または黄色という意味なので、現在のベトナムの国旗は
「金星紅旗」と呼ばれています。

勿論、戦争で負けてしまった「ベトナム共和国」の国旗
は、国内では法律で使用が禁止されていますが、今
日においてもアメリカで組織されている反共的なベト
ナム人や自由ベトナム臨時政府(「ベトナム共和国」の
亡命政府)によって使用されています。

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バックホー(ホーおじさん)と子供達

ホーチミン主席が子供好きであったことはベトナム人はよく知っ
ていて、今でも子供は大事に育てられています。というより日本
人の感覚からすると、コレは明らかに過保護と思えるような場面
によく出会います。

主席は1945年9月2日のベトナム独立宣言の翌日に、ベトナム
の子供達に語りかけています。「今までベトナムは他国に支配さ
れ、人々は奴隷のように扱われてきました。しかし今日からは、
皆さんがベトナム国の主人になったのです。皆さんは一一生懸
命勉強してください・・・・・」と。

この精神は現在に受け継がれ、ベトナムでは「教育は国の基本
政策である」との垂れ幕を街中に見ることが出来ます。


1951年
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フランス侵略軍に対して一時退却した抵抗基地ベットバック
(Việt Bắc 北ベトナムの北部地方の総称)の家を訪れた子供達
を迎える主席。

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ベトバックベースで


1952年
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ベトバックベースにある幼稚園を訪問するホーチミン


1953年
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5月19日、幼い子供を抱きかかえるホーチミン。ベットバック、ミ
ンフン地区で


1954年ディンビンフーの戦いでフランス軍に勝ち、ハノイに凱
旋します。


1955年
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2月9日のテト正月に大統領官邸で子供達とダンスをするホーチ
ミン

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6月27日 ハノイ、チュンホア(Trung Hoa)でバックハイ地区の子
供たちと。

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7月 モスクワで勉強している子供達と

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8月28日 東ドイツに留学に行く子供達を激励するホーチミン


1957年
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南ベトナムから北ベトナムに移住してきた子供達とタインホアで

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ユーゴスラビアの子供達と

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8月12日 ブルガリアの幼稚園を訪れるホーチミン

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ハノイ、チュンブン中学の生徒と談笑するホーチミン

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ゲアン省の生家を訪れた時


1960年
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1960年1月28日のテト正月に大統領官邸を訪問したハノイの
チュンブン(Trung Vuong)学校の生徒代表に赤リボンをつける
ホーチミン。 赤リボンはホーチミンの子供であることを現してお
り、現在でも引き継がれています。この写真はサイゴンでも学校
の校舎にたくさん飾られている写真の一枚です。

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1月10日 タイ在住のベトナム人の子供達とハイフォンで会います。

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1月29日 タイ在住ベトナム人を大統領官邸に招きます 

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3月ベトバック地方の子供達と再会

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3月 戦争で孤児になってしまったタイグエン地方の子供達を訪
ねるホーチミン。


1961年
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タインホアの幼稚園を訪れたホーチミン。主席はお菓子や食べ
物の贈り物を受けても決して1人で食べることはありませんでし
た。キャンディーなどはいつも子供たちと一緒に食べています。

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7月16日 フンイェン(Hung Yen)地方で

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9月16日 フンイェン地方で


1962
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1962年テト正月、ハノイで


1969年
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3月 南ベトナムからやってきた勇敢な少年たちと歓談するホー
チミン主席


1969年9月2日、ホーチミン主席は亡くなりますが、彼
が愛した子供たちは、現在でも「ホーおじさん」を慕っ
ています。


1981年
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8月「ホーおじさんの良い子供達「Uncle Ho’s Good Children」」
の最初の代表者会議


2010年
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南ベトナム解放35周年記念式典で行進するホーチミン共産主
義少年(少女)先鋒隊


この中の写真の2枚がホーチミン主席の写真展示でよく使われ
ます。(見当がつかれると思いますが)。ホーチミン主席と
子供達の逸話は続編でお伝えします。

ベトナムの国会議員選挙
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ベトナム国会議事堂  ハノイ

ベトナムの国会議員選挙では、候補者の98%以上が
各政治社会組織・国家機関によって推薦され、共産
党の最大の大衆動員組織である「ベトナム祖国戦線」
(VFF)が候補者を絞り込みます。このため自薦
や非共産党員の候補が当選するのは極めて困難な現
実があります。

近年では北アフリカや中東での民主化運動が波及す
ることを警戒しており、国会議員の非共産党員の比
率を20%ぐらいにまで認める議会改革に乗り出し
てきています。共産党も2011年1月の党大会で
民間経営者の入党を試験的に認める案を承認するな
ど党内改革に乗り出しています。

戦時中の日本でも大政翼賛会の推薦を受けた議員が
8割近くを占めましたが、笹川良一(日本財団創始
者)や赤尾敏(大日本愛国党総裁)など右翼の大物
を中心に非推薦の候補者も多数当選しました。

それでもベトナムの総選挙は、北朝鮮、トルクメニ
スタン、中国の選挙制度とは一線をかしており、西
側の民主主義手法をベトナムの特徴に合わせて洗練
させた、限りなく民主主義に近い社会主義的選挙と
いわれています。人口8600万人、18歳以上の
有権者5000万人以上というベトナムにおける国
会議員選挙は、社会主義陣営で最大の民主的選挙な
のです。

<1946年の最初の国会議員選挙>
ベトナムの最初の国会議員選挙はホーチミン主席の
主導のもと、1946年1月に実施されました。前
年にはフランス軍がベトナムを再侵略しようとサイ
ゴンに上陸し、食指をハノイにまで伸ばそうとして
いたつかの間を縫って選挙は実施されました。

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投票に行くサイゴン市民

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第1期の国会召集

<第2期選挙 1960年>
<第3期選挙 1964年>
<第4期選挙 1971年>
<第5期選挙 1975年>
<第6期選挙 1976年>
<第7期選挙 1981年>
<第8期選挙 1987年>
<第9期選挙 1992年>
<第10期選挙 1997年>
<第11期選挙 2002年>

2002年5月19日、ベトナムにおいて第11期
国会議員選挙が行われました。759名の候補者の
うち498名が当選を果たしました。当選者の内訳
は女性136名(27.3%)、少数民族86名(1
7.3%)、非共産党員51名(10.2%)、現
職国会議員135名(27.1%)などとなってい
ます。投票率は99.7%と驚異的な高率となって
います。ベトナムの国会議員選挙は、国民を総動員
する政治イベントとしての性格を強く持っていま
す。

<第12期選挙 2007年>
2007年5月20日に投票が行われた第12期
国会議員選挙の投票率は98%を超えました。中央
選挙評議会によると、立候補者は875人(うち女
性290人)、共産党外候補者は149人。自由立候補者は30人

第12期第1回国会では、省庁改編、一部閣僚の交
代の他、今期国会議員の任期を4年に短縮し、地方
人民評議会議員の任期を2年延長させることによ
って次回2011年の選挙により、国会、地方議会
選挙と共産党大会が同一年に行われることになっ
ています。

<第13期選挙 2011年>
今回の2011年5月22日の第13期(2011
年―2016年)国会議員選挙の候補者は、定数5
00人に対して、全国の183選挙区で827人が
立候補しました。今回の選挙の特徴は企業経営者の
立候補が試験的に認めらた事です。

民間会社のサイゴン投資グループ(SGI)会長、
国営会社のペトロベトナムグループ(PVN)会長、
ベトナム工商銀行(ベトインバンク)会長、ホーチ
ミン市商業合作社(サイゴンコープ)会長、ベトナ
ム石炭鉱産グループ(ビナコミン)会長、ハナマ技
術インフラ建設開発株式会社会長などが立候補し
ています。

ホーチミン市1区の主要道路には投票を促すポスタ
ーがそこらじゅうに掲げられています。

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<投票の様子>

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ベトナムの国営テレビでは、日本の「行く年 くる
年」のように全国の投票風景を放映していました。

パークソン(Parkson)百貨店

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サイゴン市内に4店舗、全国で6店舗を構える高級デ
パート。南北統一後はサイゴンツーリストが所有してい
ましたが、現在はマレーシア資本のデパートになって
います。

レタントンとドンコイ通りの交差点にあるパークソンデ
パートの前はチラン公園だったのですが、現在は3階
までがショッピングセンターを持つヴィンコムセンター
という複合ビルが韓国資本の手で完成しましたので、
以前よりも人通りが多くなっています。

人通りは増えましたが、双方とも高級商品を販売して
いるので買い物客は、いつもまばらです。ベトナム人
がこのパークソンを利用するのは地下の駐車場ぐらい
です。
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このパークソンには、5階に10レーンのボーリング場
が併設されています。

チラン公園はドンコイ側の道路に沿って、わずかに昔
の姿を留めているだけですが、景観はとてもよくなりま
した。リートゥチョン通りからパークソンデパートを眺め
ると絵になります。
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南ベトナム軍事援助司令部

MACV( Military Assistance Command, Vietnam 南ベトナ
ム軍事援助司令部)はベトナム戦争中、南ベトナムに存在し
たアメリカ軍事力の統合司令室です。通称マックヴィーと呼
ばれていました。ベトナム戦争中の米国陸海空軍のすべての
作戦はここから指令されました。

1950年に組織されたインドシナ米軍事援助顧問団は19
54年10月23日に実施されたアイゼンハワー米国大統領
とゴ・ディン・ジエム南ベトナム大統領による会談で、アイ
ゼンハワーは南ベトナムへの軍事援助強化を約束し、195
5年には南ベトナム米軍事援助顧問団(MAAV Military
Assistance Advisory Group)として改組されます。

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1959年にテロによる軍事顧問殺傷事件が発生したりした
ため、軍事援助は強化されます。

1961年、アイゼンハワーを引き継いだケネディー大統領
になると戦闘部隊を直接投入する動きとなります。

1962年2月8日、MAAVはMACVとして再編され、本
部はパスター通り137を正面玄関に広大な敷地を確保しま
す。

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MACV本部

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正面玄関

当初はMAAVを補強する目的で、初代司令官はポール・ハーキン
ス大将 (Paul D. Harkins)でした。しかし1964年
5月15日からは戦闘部隊としての組織として改組され、1
964年6月からはベトナム戦争の記事でよく名前が出てく
るウィリアム・C・ウェストモーランド将軍(William C. 
Westmoreland )に引き継がれました(1964年―1968年)。

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現在の建物。ベトナム通信事業者最大手のVietnam Posts and
Telecommunications (VNPT)になっています。

1969年、MACV 本部はタンソンニャット空港内に移され、
Pentagon Eastと呼ばれていました。
14  1969年

1973年3月29日、パリ和平協定(Paris Peace Accords)
に従って組織は解体されますが、スタッフは帰国することなく
DAOという別組織に移動し、ベトナム戦争の状況を米本国の
国防省に報告します。

チーホア刑務所

ベトナムがフランスの植民地だった頃、フランス総督府がベ
トナム全土に学校よりも多くの刑務所を作ったことはつとに
有名な話になっています。刑務所は市街地にも多く建設され
ました。サイゴンで有名な刑務所はサイゴン中央刑務所とチ
ーホア刑務所。

中央刑務所はリートゥチョン通り69で現在はサイゴンで一
番大きな図書館になっています。

チーホア刑務所はサイゴン大聖堂の向かい側でドンコイ通り
の最北端です。1917年に建設されました。

1945年、日本が第2次世界大戦に敗北すると、インドシ
ナで従軍していた兵士の数人は戦犯として、この刑務所に収
容されました。

1970年の芥川賞作家の古山高麗雄さんも、戦犯としてこ
の刑務所に拘置され、その時の経験を書いたのが『プレオー
8の夜明け』と言う書籍だそうです。
11古山
古山高麗雄さん

その後1975年にサイゴンが陥落するまでは、主に共産党
員などの政治犯が収容され、拷問を受けました。付近の人々
この建物をカティーナ警察(Bót Catinat)と呼んでいまし
た。

現在はベトナム文化スポーツ観光省として海外文化交流の庁
舎として使われています。
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サイゴンの入道雲

サイゴンからバンコクへ移動中、入道雲の中を飛行機
がよぎりました。この入道雲は自然が作り出した真白
な雲で、感激していました。数日後、どなたかのエッ
セイを読んでいたらサイゴンの入道雲はすばらしい
もので、わざわざこの雲を見に旅行される方がいるそ
うです。

これからサイゴンは6カ月間ぐらい雨季に入
りますので、お昼ごろにはきれいな入道雲を見れる機
会が増えます。

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この写真はまだたいしてきれいではありません。
いずれ更新します。

ちなみに雲の上から見る稲妻のブルーも絵の具では
描けない色彩で、自然が描く美しさを堪能できます。

ホーチミン共産青年団


ホーチミン共産青年団は1931年3月26日にホーチミンの
主導により、インドシナ共産党を支える政治、社会活動の青年
団体として設立されました。

以来、多くの青年を結集して祖国の統一事業に多大な貢献をし
てきました。現在でも共産党とホーチミン主席の偉業を引き継
ぎ、青年に共産党の思想を広めるとともに、社会貢献活動を行
っており、ベトナム共産党に優秀な人材を補充する基盤となっ
ています。

2007年時点で党員は全国に610万人います。この頃の
人口は8500万人ぐらいですから、驚異的な組織率です。

01
ホーチミン市の「ホーチミン共産青年団」の本部。レユン通り
のダイヤモンドデパートの斜め裏側にあります。

さらに青年団の下部組織には、ホーチミン主席の子供として
首に赤いスカーフをつけた共産少年(少女)団があり、小学校
の時代から、将来の共産党員のイス取り合戦が始まっている
のです。政府の役人や公務員で偉くなるには、実態的には共産
党員でないとなれませんから。

02

ホーチミン市の中心街、レロイとグエンフェ通りの交差点に
ある国営デパートの前には、いつも緑の帽子と制服を着た
警備員さんのような人が立っていますが、この人たちはベトナム
共産青年団の人で英語がしゃべれる優秀な人たちで、とても
親切です。婦人や子供が横断歩道(信号がない)を渡るのを
ためらっていると、先導してくれます。「ツーリストガード」
と呼ばれているそうです。

グエン・バン・チョイ 更新

グエン・バン・チョイ(Nguyễn Văn Trỗi)は南部農村の出身で、
共産青年同盟に入り南ベトナム解放民族戦線の秘密工作員を
していました。

1964年10月、サイゴンを訪れたマクナマラ米国防長官を
暗殺しようと一行が通過するサイゴン川にかかる橋に爆薬を
仕掛けようとして逮捕されました。

拷問にも黙秘を貫き、10月15日の公開処刑にあたっても毅然
とした態度であったため、解放戦線の英雄となっています。

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後日、ホーチミン主席も彼の公開処刑時の写真にサインを
しています。

公開処刑を阻止するため、ベネズエラではゲリラが米軍将校
を誘拐し、人質にとり処刑の中止を求めましたが、失敗に終わ
りました。しかし,この事件はベトナム人に強い感銘を与え、
今でもベトナムとべネズエラは仲のいい国なのです。

グエン・バン・チョイの名前はサイゴン空港から市内に入る
ときに必ず通る道路の道路名として残されています。
この道路を真っ直ぐ市内に向かって下ってくると旧南ベトナム
大統領官邸の前を通るナム・キー・コイ・ギア通りとなります。

また彼の妻は「あの人の生きたように」という題名で書籍を
刊行して、ベストセラーになりました。

ディンビンフーの戦い 最後の総攻撃

1954年5月1日-7日

5月1日、ベトミン軍は第3回目の総攻撃を敢行します。
この攻撃により最南端のイザベル陣地以外のフランス
軍の全要塞が陥落してしまいます。

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塹壕でくつろぐベトミン軍。食料は豊富にあります。
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不安げな顔つきのフランス軍
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最後の砲撃、突撃が開始されます。
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フランス軍兵士は次々と降伏します。
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敵陣地を陥落させた208部隊の記念写真
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5月7日17時40分、ド・カストリ将軍の司令部にベ
トミン兵が突入し、将軍以下1万人近くの兵士が捕虜と
なって戦いは終結します。

敵将カストリ(De Castries)将軍の要塞の屋根にホー
チミン主席から授与された「決戦・決勝」旗を掲げるベ
トミン軍。
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降伏、捕虜となるカストリ将軍。4カ月間収容所に入れ
られ、ジュネーブ和平協定締結後、釈放されます。

降伏の直前、ベトミン軍はフランスの名誉のために、降
伏ではなく戦闘の停止(停戦)という形をとりました。

ホー・チ・ミン主席の言葉
「一つの国が自分の国家のために戦う決心をすると、だ
れも、どの国の軍隊も勝てないことをベトナムの歴史が
証明した。」 


戦いが終わったディン・ビン・フー 
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この戦いでフランス軍の損害は、死傷者8300人と捕
虜10000名。一方、ベトミン軍の死傷者は約230
00人と言われています。

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収容所へ行進するフランス軍捕虜 約10000人。
このうち無事、本国に帰国できたのは約半数を言われて
います。

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押収した各種武器は17784個にのぼります。

ディン・ビン・フー陥落を報じるフランスの新聞
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フランスの新聞

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朝日新聞

ベトミン軍は10000名の捕虜の存在を秘匿し、ジュ
ネーブ和平会議の交渉過程でフランス政府からの身代金
と引き換えに捕虜送還が実現します。

ディンビンフーの戦い 第2回目のベトミン総攻撃

1954年3月30日 ― 4月26日
ベトミン軍は2回目の総攻撃を仕掛けます。

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フランス軍陣地周囲に塹壕を掘り進めたベトミン軍
は、連続的に突撃攻撃を繰り返す作戦で、フランス軍
に反撃のチャンスを与えません。フランス軍のベトナ
ム兵士は徐々に戦意を失っていき、アンヌ=マリー陣
地から脱走し始めたため、フランス側はこの拠点を放
棄、退却します。

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フランス軍陣地は丸見えです。


アンヌ=マリー陣地の戦い
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飛行場占拠に突撃する105部隊
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第2回目の総攻撃で滑走路はベトミンの手に落ち、フ
ランス軍はハノイから増援部隊と物資の補給を落下
傘によって行うしか手段がなくなってしまいます。し
かしベトナム側の対空砲火や天候不順のためなかな
かうまくゆかず、戦況はますます不利になっていきま
す。


エレーヌC1陣地の攻防
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司令部東部エレーヌ基地のC1丘にあるフランス軍
事基地に突撃、殲滅させたベトミン316旅団。

日本の日露戦争そっくりのシーンです。ディン・ビ
ン・フーの戦いの作戦参謀には旧日本軍残留将校もい
ました。ベトナム国営テレビの映像では前戦で指揮し
ていた日本兵がいたと地元民が証言しています。 

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現在も残るC1陣地の遺構


4月9日から10日の夜半、第2外人落下傘部隊70
0名と第3外人歩兵連隊や第5外人歩兵連隊からの
志願者数百名がクロディーヌ陣地(指令室がありま
す)に降下し、ベトミン軍と交戦します。

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捕虜となるパイロット

 
1954年4月、アメリカのケネディ上院議員(後、
大統領)は戦争さなかのベトナムを訪問。「インドシ
ナにおいてどれほどアメリカが軍事援助をしても、民
衆の共感と支持を得ている神出鬼没のベトミンを倒
すことはできない」と警告しています。

<原爆使用作戦>
ニクソン副大統領は、ディン・ビン・フー要塞が包囲
されフランス軍が危機に陥った際には、要塞周囲の山
岳地帯に集結したベトミン軍に対して原爆の投下を
アイゼンハワー大統領に進言します。大統領は慎重で
した。英国、仏国と協議しましたが両国とも反対した
ため、ニクソン副大統領の要請を冷たく拒絶します。
ニクソン自著『ノー・モア・ヴェトナム』 

ベトナムの原子力発電

日本の福島原発の津波災害を受けて、世界中の原発依存国では
安全性強化や建設計画の中断や古い原発の運用中止の声が上
がっていますが、ここサイゴンではまったくと言っていいほど
話題にはなりません。

それはまだ稼動している原発がないのと、2001年の第9回
共産党大会で原発建設が承認されているからかも知れません。
今回の日本の事故を受けても、原発建設推進の政府方針になん
ら変更はありません。

現在のベトナムは水力発電がメインですが、停電が日常茶飯事
の上、全土で建設ラッシュのため、2020年には電力の供給
がとても間にあわず、代替策として原発推進を決定しています。
さらに2030年までには原発8か所を稼働させ電力供給の
30%から40%をまかなう予定です。

ベトナムの原発第1号機はロシアによって受注されており、
2020年に稼動する予定で建設計画が進められていますが、
安全性強化のため、急遽津波対策として15メートルの堤防
が建設されることになりました。

2号機は2010年10月31日の日越首脳会談によって日本
がベトナム南部のニントアン省に建設することになり、
2011年の2月16日には日本原子力発電とベトナム電力公社
(EVN)との間で「原子力発電導入に関する協力協定」
が結ばれました。日本原子力発電の筆頭株主は持ち株20%の
東京電力です

日本が建設を予定している場所はニントアン省のビンハイ村
タイアン集落で、ファンラン市の北20キロの海岸線が複雑に
入り組んだ風光明媚な土地で、ウミガメの産卵地でもあります。
雨も少なく気候は良好。各家庭には淡水の井戸があり、飲料水
にも事欠きません。住民の月収は200万ドン(約10000円)
位ですが、最近は漁業だけでなくブドウやニンニク栽培も増えて、
生活はとても楽になっているそうです。特にブドウは中部高原
に出荷されベトナムの特産品ダラットワインの原料になってい
ます。

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タイアン村

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にんにく畑

地元住民からすれば、この10~20年でトラックやバスが
通れる道路が整備され、電気が供給され、農水産物が新たに
創出されて日々の生活には質素ながら、とても満足していて、
原発建設による移転には本心反対しているのです。

しかし、ここはベトナム。地域住民は国を指導する共産党の指示
に対して表立った反対や抵抗は出来ませんが、建設場所の選定
も含めて受注している日本(実質的には東京電力)は、幸せに
暮らしている地域住民の生活を侵害する権利はありません。

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ベトナムに原油は豊富に埋まっています。この機械ではダメ
なんでしょうか。

ディン・ビン・フー第1回目の総攻撃
1954年3月13日17時05分 ― 3月17日

ベトナム軍はディン・ビン・フー盆地のフランス軍 北方
軍事拠点を中心に攻撃を開始します。

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1954年3月13日夕暮れ、ディン・ビン・フー盆地
には霧がかかり始めていました。その時、ラジオ放送に
割り込みの声が入ってきます。ザップ将軍の声でした。
「Are you ready」
前線の砲撃司令官Dao Van Truongが答えました。「すべ
ての準備は整っています。我々はあなたの命令を待って
います」そして霧がだんだんと深くなってきていること
をザップ将軍に伝えます。

ザップ将軍は攻撃の許可を与え、命令します。
「Fire cannons, Fire hard, Fire with speed」40門
のカノン砲が一斉に火を吹きます。こうして世界史に残
る世紀の一戦は始まりました。

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時に1954年3月13日午後5時5分でした。

この時間、ハノイのGia Lam Airport空港からフランス軍
の偵察機が飛び立っており、特に異常な報告を受けていな
いカストリー将軍は部下と夕食を楽しんでくつろいでいま
した。
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夕食後、くつろいでいるフランス将校

ベトミン軍はフランス軍のディン・ビン・フー主滑走路2
本へカノン砲による攻撃を開始し、しばらく滑走路への砲
撃が続いた後、砲撃目標がベアトリス陣地へ切り替わりま
す。
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山上からの砲撃に支援され、ベトミン歩兵は塹壕を進み、
フランス軍の陣地への接近を図ります。

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ディエンビエンフー要塞の東北方面にはベアトリス陣地が
あり、この陣地を指揮していたのが、フランス外人部隊第
13准旅団長のゴーシェ中佐で、当初滑走路への砲撃がベ
アトリス陣地に切り替えられ、ベトミン軍が保有していな
いと思われた105ミリカノン砲による砲撃を受け、ゴー
シェ中佐は戦死します。

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37mm砲

塹壕を掘ってフランス軍陣地への距離を縮めたベトミン軍
は夜になって突撃を開始し、22時30分ベアトリス陣地
を陥落させます。

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ベアトリス陣地陥落

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撃墜されたB24

翌日の14日の午前中は遺体の引き取りのため休戦します。

続いて3月14日の夜にはガブリエラ陣地がベトコン30
8師団の夜間攻撃を受けて陥落してしまいます。

15日の朝にも休戦時間が設けられました。

1949年中華人民共和国の成立に伴い、翌年ホーチミン
は秘密裏に中国、ソ連を訪問し、毛沢東、スターリンに会
い武器援助と国家承認をとりつけており、以降大量の武器
が中国から供与され、ソ連からも中国経由で対空機関砲な
どの供与を受けていたのです。特に重砲はすべて朝鮮戦争
で中国がアメリカから捕獲したもので、旧日本軍が中国で
使用した山砲も含まれていました。

ホーチミンのこの秘密行動にフランス軍は気づいていませ
んでした。
3月15日の早朝からはフランス軍は戦車部隊を繰り出し
反撃を開始しますが、失われたベアトリス陣地、ガブリエ
ラ陣地の奪回は出来ませんでした。

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降伏するフランス軍兵士

そして3月25日には第3外人歩兵連隊が守備するラレー
ヌ陣地(アンヌ=マリの陣地の一角)が大激戦の末に、フ
ランス側ベトナム兵士の脱走が相次ぎ、フランスは基地を
放棄します。

陣地を守備するフランス軍の現地ベトナム部隊、アルジェ
リア兵やモロッコ兵などのフランス植民地兵の戦意は低く、
実際のフランス軍戦力は外人部隊(主にドイツ兵)とフラ
ンス軍落下傘部隊だけでした。
 
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ベアトリス軍事拠点を撃破した312旅団23大隊にホ
ー・チ・ミン主席の「決戦、決勝」旗を授与する共産党政
治局委員

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第2回総攻撃に備えて塹壕を掘るベトミン兵の食事時間

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トラックには発見されないように偽装工作を施します。

家宅侵入罪

サイゴンでアパートを借りると家宅侵入する輩が3匹いますので、
驚かないようにしましょう。ネズミ、アリ、ヤモリ。

アパートもピンからキリまでありますが、家宅侵入者は中流以下
のプチホテルなどを狙います。2000ドル以上もする高級
アパートには、見向きもしません。

ヤモリ君の侵入は日本の都会ではあまり見かけませんが、
サイゴンにはよく出没します。

ヤモリとイモリはよく似ているのですが、ヤモリ君はその名
の通り「家守」で家を守ってくれるそうです。

具体的な活動としては、ハエやガを食べてくれるようです。

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画像は茶色肌になってしまいましたが、本物は色白です

最初は家宅侵入にビックリしますが、数回進入されると、
色白の体をでいつも壁にくっつけていて、キュートに見えて
きます。まあ、住むとこがないのなら当分ここに居候して
てもいいよと言いたくなってきます。

南ベトナム開放日
今日4月30日はサイゴンの旧大統領官邸に南ベトナム解放
軍の戦車が無血入場してベトナム共和国(南ベトナム)が消滅
し、ベトナムの南北統一が成し遂げられた記念日(1975年)
でベトナムは祭日です。実際の統一は翌年になりますが、こ
の日を北べトナム政府は「サイゴン解放」と呼び、アメリカ政府
をはじめとする西側政府は「サイゴン陥落」と呼んでいます。
サイゴン解放の実態はどういうものだったかを思うと、南ベト
ナムで生活していた多くの人々はこの日をなんと呼ぶのだろ
うか。

とりあえず記念パレードがあるのではないかと思い、旧大統
領官邸前から真っ直ぐ伸びているレ・ユン(北ベトナムの人は
レズアン)通りに出向いてみました。11時頃でしたが、道路は
すでに通行止めになっており、歩道は人だかり。しかし群集
は10000人もいないと思います。
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これは戦車の突入した11時30分にあわせて、戦車のパレー
ドを先頭に軍隊の行進やらがあるのではと、汗だらだらを我
慢して辛抱づよく待つこと30分、サイゴン動物園の方から
人々の歓声が上がってきたので、いよいよ始まるなと期待し
ていると、先導の白バイ、テレビ局の中継者やオートバイ、自
転車がレ・ユン通りを往復します。そのうち旗を掲げたオート
バイが数台通ると人々が歓声を上げます。で、いよいよかなと
思いきや、これですべて終了。人だかりは散開。ナンじゃ!
コレ。
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旧大統領官邸も特にイベントもなく、平常どうり開館していまし
た。
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この人だかりでほくそ笑んだのは、ダイヤモンドデパートの中
にあるKFC。昼食のお客さんで超満員でした。

9月2日のベトナム独立記念日や4月30日のサイゴン解放日
はテト正月のように南北すべてのベトナム人がお祝いするよ
うな雰囲気はありません。

刑務所での女性拷問


フランスがベトナムをはじめとするインドシナ各国(ベトナム、
ラオス、カンボジア)を植民地にした時代から、フランスは
ベトナムに住む自国民のために学校も建設しましたが、それより
多くの刑務所を建設しました。刑務所はその後、ベトナム戦争中
にはアメリカ軍に引き継がれ、多くの政治犯や捕虜が刑務所内
で拷問にあい、ギロチンや銃殺刑にあいました。

拷問は女性に対しても容赦なく行われました。

拷問の種類

1.電流拷問
  耳、乳首、性器から電流が通され、精神を混乱させる。
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2.蛇口拷問
  蛇口から捕虜の剃られた頭部の一部に水が落とされ、2時間
後に頭を殴る。強力な頭痛が起こり、精神錯乱となる。
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3.ヘビ拷問
  女性のヘビへの恐怖心理を利用して性器へ蛇を入れる。ヘビ
の代りに割れたガラス瓶も使われる。ガラスはレントゲンに映ら
ないので手術不能。出産不能となる。
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4.注水拷問
  頭が足より低い姿勢で口を雑巾で覆い、鼻から注水する。
水で腹が一杯になると腹を踏みつけ、水と血を吐かせる。
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5.針拷問
  鉄定規で鳥の羽につけられた針を指先に打つ
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男への拷問はもっとひどいもので、処刑しなくても拷問だけで死んでしまった人が多くいます。

ディン・ビン・フーの戦い 作戦変更


ベトナムの戦争史の中で、自軍の軍事力が不利なため、体制を立て直
すために一時退却し反撃の準備をすることはよくありました。世界史
に記録されている戦史の中では、自軍が軍事的には有利なのに一時退
却し、敵の軍隊をワナにかける作戦も記録されています。

しかし、ベトナム、ディン・ビン・フーでの戦いで決定された戦闘直
前の総退却は、少し事情が違っていました。

フランス植民地軍とベトミン軍の世紀の一戦は、フランス軍がベトミ
ン軍の攻撃を迎え撃つという構図が描かれていました

この戦いは双方の主力部隊が集結し、ベトナムがフランス植民地軍を
追放して、自国の独立を守り通せるかの瀬戸際の戦いでした。

ベトミン軍の総攻撃は、突発的な出来事が発生して、その都度、延期
されていましたが、前戦では1954年1月26日夕方が総攻撃の日
と、兵士に通告されていました。

双方の前戦司令官や軍事顧問団はお互いに2-3日から1週間で、敵
を殲滅できると考えていました。

兵力は歩兵数や大砲の数ではベトミン軍が勝っていましたが、フラン
ス軍には、戦車や航空機がありました。しかしベトミン軍も120m
m迫撃砲や対戦車砲を中国やソ連から支援されていました。軍事力で
はベトミン軍のほうが有利であったと考証されています。

ベトミン軍兵士の士気は、自国民のフランス植民地政策からの開放と
いう大義名分の下に非常に高く、開戦を今か今かと待っていました。
そしてVi Quoc Thanhを中心とする中国軍事顧問団も早期開戦を支
持していました。

この戦いから、東側陣営、西側陣営のジャーナリストが従軍記者とし
て同行するようになります。西側記者はサイゴンに上陸し、ハノイか
らディン・ビン・フーへと、東側記者は中国を通ってディン・ビン・
フーにやってきました。ベトナム建国以来、外国人ジャーナリストが
ベトナムに入国して取材するのは、この時からのようです。

フランス軍のディン・ビン・フーの陣地には、フランス、アメリカ、
イギリスの首脳陣がそれぞれ視察に訪れ、満足げに帰っていきます。

世紀の戦いの開戦命令はすべてベトミンの最高司令官ヴォーグエン
ザップ将軍の手中にありました。しかしザップ将軍は慎重に慎重を重
ねて考え抜いていました。それはホーチミン主席の言葉「勝利に10
0%確信が持てるまでは、攻撃してはならない」と言う厳命があった
からでした。

1954年1月14日 Tham Pha 洞窟にベトミン軍の指揮官やス
タッフが招集され、秘密裏に総攻撃は1月20日と決定されます。
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しかし一つの砲兵軍団が戦闘位置につけなかったため、総攻撃は1月
25日17時に延期されます。

そして1月25日にも不幸にも312部隊のベトミン兵士がフラン
ス軍に捕まり、総攻撃日が1月25日であるとの情報がラジオで流れ
てしまいます。

総攻撃日はさらに翌26日に延期されました。

総攻撃の前日のことを、ザップ将軍は老年に回顧しています。
「その日私は、最も信頼している軍事スタッフであるHoang Van Thai
からの報告を聞いた後、私は考え続けその夜は眠ることが出来ません
でした。軍医のThuyが私の額にハーブを乗せてくれました。その日
の夜、私は司令官として生涯で最も困難な決定をしなければならなか
ったのです」、

ザップ将軍は前線指揮官が戦況が有利であることを、そして長期の補
給が難しいことから、即、開戦を望んでいることを理解していました。

しかし一晩中考えていた将軍は3つの困難を考え始めていました。

第1 ベトミン軍は強固で組織化された要塞を攻撃することはNa
Sanでの戦いの一度きりしか経験していない。そして戦闘経験を持っ
ている兵士は限られている。もし作戦に失敗したら、我々の被害はい
かに甚大であるか。

第2 今回の戦いはあらゆる武器を使う総力戦である。なのにベトミ
ン軍の砲兵や歩兵は正規に十分に訓練されているといえるだろうか。

第3 ベトミンは夜間のゲリラ戦には長けているが、今回は広い範囲
での盆地での戦いや敵の要塞と攻め落とす攻撃である。夜間だけの攻
撃ではない。敵の航空機や戦車も戦線に参加してくる。果たして短期
間で敵を殲滅できるのだろうか。

翌26日の早朝、ザップ将軍は軍事スタッフを招集します。前戦指揮
官であるVi Quoc Thanh は他の指揮官が集まってくる前に、ハーブ
で額を冷やしている将軍を見てびっくりし、将軍の健康を気遣かった
後、まもなくの開戦を控え現在の状況を説明します。将軍はThanh
指揮官からの報告を基に、双方の軍事力を話し合います。

そして将軍は言い放ちます。「もし今戦えば、我々は負けるだろう」
Thanh指揮官はどうすればいいか、将軍に尋ねます。ザップ将軍は自
分の意図を明確に話します。「攻撃は延期し、すべての軍隊は現在の
位置から総退却をして、もっと有利な条件で戦えるよう準備する」

しばらく考えた後、Thanh指揮官はザップ将軍に同意し、他の指揮官
を説得する役割を担います。

会議で多くの前線指揮官は勝利について確信できなっかたが、開戦す
ることを望んでいました。会議は結論を出せないでいました。
最後にザップ将軍がホーチミン主席の言葉を引用しながら尋ねます。
「この戦いに100%勝利する確信がありますか?」
「Sure」という言葉はどの指揮官からも返ってきませんでした。彼ら
の答えは「We can win」「我々は勝つことが出来る」でした。

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この答えでザップ将軍は撤退を決心します。

26日の午後遅く前戦部隊に撤退命令が下されます。数時間後の開
戦のため、すべての準備を終えていた前戦部隊は、誰もがこの撤退命
令を信じることが出来ませんでしたが撤退の軍事命令が覆ることは
勿論ありませんでした。

この撤退命令書はトップシークレットとされ、電信で伝達されること
はなく、すべてクーリエによって伝達されました。北部ベトナムのバ
ックボーにいたホーチミンや政治局員にも3日後に伝えられ、ディ
ン・ビン・フー戦いのすべての権限を与えられていたザップ将軍の
判断に同意します。

25日、26日にベトミン軍の攻撃がなく、加えてすべての砲兵が引
き上げ、ベトミン最強の308軍団が北部ラオスへと移動していくの
を知ったフランス軍は、ベトミンはディン・ビン・フー作戦を放棄し
たものとみなしました。

その後1月、2月中はベトミン軍の軍事行動は何もなく時が過ぎます。
ベトミン兵士はディン・ビン・フーで旧正月を迎えます。このことが
何を意味しているかフランス軍はまったく理解していませんでした。
フランス軍は空からビラをまいてザップ将軍を盛んに挑発します。

フランス軍首脳はまったく無知でした。1月、2月にベトミン軍は秘
密裏にディン・ビン・フーに続く道を整備し、新たに山岳地帯を通る
6つの補給路を人海戦術で構築し、補給路を堅固に作り変えました。
作り上げた秘密裏の補給路からは長期戦にも耐えられるように連日
のように食料や弾薬が後方から続々と送られてきます。
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突撃用の手榴弾は女性によって作られ、前戦に送られました。
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カノン砲をはじめとする大砲や対空砲は再配置されます。
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カノン砲は人力で山上に引き上げられます。大砲がずり落ちるときに
身を呈して大砲の下敷きになった兵士もいました。ザップ将軍は、「人
民の戦争 人民の軍隊」という書物で、「ディン・ビン・フーの決戦で
べトミンが勝つことができた原動力は、ディン・ビン・フーの周囲の
山に大量の大砲をかつぎあげた民衆である。 フランス軍は「ナポレ
オンがイエナの戦いで高地に大砲を引き上げ、プロイセン軍を壊滅さ
せた」あの貴重な戦訓をすっかり忘れていたようだ。」と回顧してい
ます。

戦後、フランス軍将校は、べトミンがまさか山の上に大砲を設置し、
いっせい砲撃をするとは思っていなかったし、中国軍が一緒にいたこ
ともはじめて知ったと。

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再配置されたカノン砲を視察するザップ将軍

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総攻撃の日までフランス軍の偵察機に見つからないよう隠されます。


フランス軍陣地を取り巻くように塹壕が掘られました。確実な勝利の
ための準備を着々と進めていたのです。塹壕を掘る作戦は第2次世界
大戦の残留日本兵がベトミンの作戦計画に参加していたからとも言
われています。
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一旦は北部ラオスへと移動した主力部隊308も秘密裏にディン・ビ
ン・フーへと帰還してきます。

撤退から1カ月半、総攻撃の準備を終えたベトミン兵士は、ザップ将
軍が漏らした言葉から総攻撃の日を読み取っていました。「1954
年3月13日は私にとって、とても長い日になるだろう。」

3月4日になると、フランス植民地司令官のナヴァール総司令官とコ
ニー将軍(Navarre、Cogny)がディン・ビン・フー陣地に視察来ます。
カストリー司令官は2人を歓迎して言いました。「我々の関心はベト
ミン軍が何もしてこないことです。我々はベトミン軍が攻撃してくる
のを待っているのです。」。

コニー将軍が答えました。「何もすることはない。ベトミン軍は変心
したのだ。ベトミン軍が攻撃すれば、我々は大勝利を勝ち取るが、彼
らが戦いを拒否すれば、戦わずして勝ったということを意味している
のだよ。」


3月13日 フランス軍の指令本部ではカストリー将軍とそのスタ
ッフが、今日の攻撃のないとの判断から、共にワインを飲みながら夕
食を楽しんでいました。

ディン・ビン・フーの盆地には夕日が沈みかけ、霧がかかってきまし
たが、前戦は静かでした。その時、突然ラジオ放送に割り込みの声が
聞こえます。

ザップ将軍の声でした。「準備はOKか」。

前戦司令官のダオ・バン・チュン(Dao Van Truong)が答えます。
「すべてOKです。攻撃開始のあなたの指令を待っています」。霧が
出てきていますので攻撃開始の命令をお願いします」

ザップ将軍は攻撃を承認し、そして叫びます。「Fire connon, Fire
hard, Fire with speed」40門のキャノン砲が一斉に火を噴きました。
歴史的な戦いの始まりです。

時に1954年3月13日17時05分でした。



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