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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ディンビンフーの戦い  ベトコン補給部隊

ディンビンフーの戦いは、1地域での戦いでは56日間という
世界の戦争史でもっとも長期の戦いでしたので、前線への補
給確保が重要な役割を果たしました。特にベトナム側の補給
部隊には兵士の数より多数の市民が参戦しました。

もともと北部ベトナムの北西地方は人口密度の低い地方で1
平方キローに8.5人しか住んでいない少数民族地帯(ターイ
族が中心)でしたが、この戦いのために多くの青年ボランティ
アーや労働者が北部ベトナムを中心に集結し、その数は100
000人にも達したと言われています。集結した人は「バイク部
隊」、「道路工事部隊」、「精米部隊」などに区分けされ、補給
部隊として戦争に参加します。前線兵士1人につき、10人の
補給部隊が結成されたとされています。

この地方の少数民族は自給していた米を兵士のために供出
し、自分達はトウモロコシやタピオカなどを食べて凌ぎました。
紅河デルタ地帯から多くの精米機を借りて、兵士へ送る米を
袋詰めにし、15日から20日かけて昼夜兼行で天秤棒や馬、
自転車で前線に送りました。

01徒歩
補給はまさに人海戦術でした

02天秤棒
天秤棒姿はベトナムの伝統です

04像
馬や象も大切な戦力になりました

05自転車1

06自転車2

07自転車3

08自転車4
補給部隊の主役は自転車でした。

この地方では自転車は宝物でしたが、20000台の自転車が
補給のために供出されました。自転車はハンドル部分が改良
され一度に200Kgから300Kgを運びます。

フランス軍は補給路を遮断するべく、航空機によって道路を
爆撃し、化学剤を使用して雨を降らせ、地すべりを発生させる
などして攻撃しましたが、ベトミン側は山岳地帯に地元民しか
わからない新たな補給路を人海戦術で数本完成しており、こ
れらの道は発見すら出来ませんでした。

とはいえ補給部隊にとってディン・ビン・フーへの道のりは険
しく、傷を負って帰ってくる人が絶えず、途上で命を失った人
も多数いました。

しかし、後に首相になるファン・バン・ドンは、ディン・ビン・フ
ーの戦いはベトナムにとって負けられない一戦のため、共産
党と政府を統合して「中央補給評議会」を結成し、国民に激を
飛ばします。

「すべての国民はディン・ビン・フーの戦いのために、労働力
のすべてとすべての財産を供出しよう」まさに国の命運をか
けた一戦だったのです。

国民はベトナムの真の独立と自由のために参戦します。現在、
高齢になっている市民兵士が自負を胸に口ずさみます。

[ We are the soldiers of Dien Bien Phu Campaign ]

我々はディン・ビン・フーの戦いの兵士だ

国民が何故これほどまでに協力したのかについては、国家
の真の独立のためという大義に加えて、前年の1953年に行
われた農地改革が影響しているものと思われます。

ベトコン側の補給部隊に対して、フランス軍の補給は航空機
に頼るしかなく、戦闘の開始直後にフランス軍が整備した2本
の滑走路が攻撃を受けると、もはやパラシュートで補給物資
を投下するしか手段がなく、雨季の天候を作戦計画に織り込
んでいなかったフランス軍は致命的な欠陥を露呈します。

補給部隊の明暗はこの戦いの成否を決定する重要な要素で
した。
(続く)

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ディン・ビン・フーの戦い 基地構築


1946年フランス軍のハノイ侵攻に対して、戦闘準備が整っていな
かったベトミン軍は一旦中国国境近くに退き、1950年からは中国
から大量の武器援助を得て、ゲリラ戦に加えベトミン正規軍の戦いに
よって除々に劣勢を挽回し始め、1953年にはフランス軍に対して
対等もしくは優勢な状況になっていました。

1953年5月にフランス本国から派遣されたインドシナ派遣軍総
司令官アンリ・ナヴァールは、予想以上に劣勢なフランス軍の戦況を
一気に挽回するため、アメリカの援助のもとに作戦計画を練ります。

1953年11月、サイゴンでの戦略会議の席上でナヴァール総司令
官は話し始めます。

「私はディン・ビン・フー盆地の占領を考えている」

その計画の骨子はベトミン軍とラオス革命勢力との連携の遮断と、中
国から北部ラオスを通過してベトナムに運ばれてくる武器弾薬ルー
トを遮断することにより、ベトミン主力部隊をおびき出し、殲滅する
事を目的として、ラオス国境に近いベトナム北西部の盆地ディン・ビ
ン・フー(ハノイから西へ480Km)に、要塞を建設することでした。
(ナヴァール計画)

01_20110425185434.jpg

ナヴァール総司令官はディン・ビン・フー盆地に基地を建設すること
の優位さを次のように判断していました。

1.ディン・ビン・フーの地形や盆地の大きさを考慮すると迫撃砲や
無反動砲程度では稜線外からフランス陣地を攻撃することは困難で
あるし、それ以上の重火器を投入することは、ベトミン軍の輸送手段
が限定されているために不可能である。

2.ベトミン軍は補給能力が貧弱であり、ディン・ビン・フー周辺に
大部隊を展開することは困難である。これに対しフランス軍は航空輸
送により補給路を確保しうる。第2次世界大戦が終了し、航空機の優
越性が信仰されていました。

02_20110425185434.jpg
ディン・ビン・フーの地形 南北20Km、東西6Kmの盆地です。

しかし、トンキン(北ベトナム地方の総称)軍管区司令官だったルネ・
コニー将軍を始めとして、この計画は冒険的過ぎるとしてフランス軍
の前戦司令官は全員反対であったと記されています。

そのためか、ディン・ビン・フー基地の司令官には、なかなか、なり
手がありませんでしたが、ナヴァール総司令官の部下であったクリス
チャン・ド・カストリー(Christian de Castries)大佐を正式にデ
ィン・ビン・フー基地の司令官に任命し、ディン・ビン・フー盆地の
占領に向けてアメリカ空軍との共同空輸作戦を決定します。(カスト
ール作戦 Operation Castor)

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アメリカの空軍は全面的にフランス空軍に協力します

中国からベトミンへの武器弾薬は、中国の広西省からラオスの北部を
通過して、ベトナムに運び込まれていました。またこの時期ホーチミ
ン主席はラオス、カンボジアの共産主義勢力とも連携を深めており、
ディン・ビン・フー盆地はベトナムへの通過地点として軍事上の重要
拠点になっていました。

1953年11月20日18時15分、フランス軍総司令官ナヴァー
ルは1通の電報を受け取ります。ベトミン第316師団が北ベトナム
の北西部、ソンラ、ライチャウ方面へ急速に移動していると。

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ライチャウへ向かうベトミン316部隊

ナヴァールの決断はすばやく、翌21日には、カストール作戦を実行
し、ビジャール少佐指揮下の第6植民地落下傘部隊3000人をハノ
イから空輸し、小規模のベトミン軍が守備するディン・ビン・フー盆
地に降下させ、ベトミン軍の通過を遮断する作戦を開始します。22
日にも落下傘部隊が降下し、ディン・ビン・フー盆地の占領に成功し
ます。落下傘で降下した兵員は総員4560人にのぼりました。

ベトミン軍は、ディン・ビン・フーに第148独立歩兵連隊を駐屯させていま
したが、カストール作戦当日には4個大隊中3個大隊が同地を離れてい
たため、戦闘は出来ませんでした。

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第1陣の落下傘部隊を空輸するフランス軍の双発輸送機

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パラシュート降下をするフランス落下傘部隊

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上陸した兵士

ディン・ビン・フーの盆地には、旧日本軍が構築した滑走路が2本あり、
降下したパラシュート部隊はわずか2日間で滑走路(Mong Thanh and
Hong Cum滑走路)を整備し、航空機での補給物資の輸送を可能にしま
す。

滑走路の使用が可能になったことで、フランス空軍とアメリカCIAの操縦
士は25日から1日100回を超える空輸を繰り返し、増援部隊や戦車、装
甲車、大砲などの武器弾薬を運び、ディン・ビン・フー盆地を囲む小
高い丘に、まるでマッシュルールのような兵士宿舎が建設されていき
ます。


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C-47輸送機

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増援部隊の降下

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へリによる空輸

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分解された10両のM24軽戦車やジープも空輸されました

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フランス軍兵士の宿舎

1954年1月上旬、フランス軍はディン・ビン・フーの軍事拠点を
完成し、歩兵17個大隊、砲兵3個大隊、総兵力1万6千人を配備し
ました。

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カストリー将軍家はフランスで何代も続く軍人の名家でしたが、将軍は大
変なプレイボーイだったようで、各軍事拠点にはカストリー家ゆかりの女
性の名前がつけられました。

ガブルエル陣地、アンヌ・マリー陣地、ユゲット陣地、フランソワーズ陣
地、クローディーヌ(司令部)陣地、 ジュノン陣地、イザベル陣地、ベ
アトリス陣地、ドミニク陣地 、エリアーヌ陣地

増援部隊の兵士は、ほとんどがフランスの正規軍ではなく、外人部隊
(主に第2次世界大戦で敗戦したドイツの兵士)、フランス植民地部
隊(アルジェリア、モロッコ、セネガル)、ベトナム現地人兵士(少
数民族のターイ族)でした。フランス軍の17個歩兵大隊中、7個大
隊は外人部隊でした。

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要塞を視察するカストリー将軍

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フランス国防大臣に要塞の説明をするカストリー将軍

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ルネ・コニー将軍の視察

要塞の建設には、フランスへの援助を通じてベトナムへの介入を強め
ていたアメリカニクソン副大統領の強力なイニシアチブの下で進め
られ、要塞が完成する直前にはニクソン副大統領自らが現地を訪問し、
視察しています。

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要塞を視察するニクソン副大統領


フランス軍のこうした動きを察知したベトナムの政治局、国防省、ホ
ーチミン主席は、ディンビンフー奪回の作戦計画を練り、1954年
年頭に総司令官にヴォーグエンザップ将軍を任命します。

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1954年1月 ディン・ビン・フー作戦の総指揮をヴォ・グエン・
ザップ将軍に命ずるホーチミン主席

ザップ将軍は1954年、年頭にホーチミン主席を北ベトナムの山岳
地帯ベトバックのベースに訪れ、戦いの指示を受けた後、別れの挨拶
をして、1月5日前線に向かい、ハノイから400キロメートル離れ
たディンビンフーに前戦の指令本部を作ります。

19_20110425191454.jpg

前戦の軍事スタッフは1954年1月25日を攻撃日と定め、前線の
兵士に伝えます。

軍事スタッフは戦闘は2-3日で終了すると考えており、1月25日
午後5時に戦闘開始を秘密裏に指令します。この作戦は中国からの軍
事顧問によっても支持されていました。

一方フランス軍の首脳人(Navarre, Cogny, Castries)も戦闘は最悪
でも1週間で終了し、ベトナム主力軍隊は壊滅するだろうという意見
で一致していました。

しかしベトナム軍の攻撃はぎりぎりのところで、ザップ将軍の決断に
より延期されます。

後世、このザップ将軍の攻撃延期の判断がベトナム軍の歴史的勝利を
導いたものとして評価されています。(続く)
ホアンキエム湖の大亀
首都ハノイにはホアンキエム湖があり、この湖には今でも大亀が
生息しています。

ホアンキエム湖は紅河の氾濫によって出来た湖なので、紅河のす
ぐわきに位置していて、ハノイ市民の憩いの場所になっていま
す。

池のなかには出島があって「玉山祠」(Den Ngoc Sonゴックソン祠)
と呼ぶ神社があります。東京の上野不忍池を大きくしたような場所
です。

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この湖に生息する亀には、ベトナムで有名な伝説が残っていま
す。

ベトナムは15世紀の始め、中国明の侵略を受け、人々は過酷な
生活を余儀なくされていました。

1418年になると藍山蜂起と言われる反乱が起こります。

紅河デルタ南部のタインホア(Thanh Hoa/清化)省の山岳地帯、
藍山(ラムソン)の豪族であった黎利(レ・ロイ)が中国、明に対して
反乱を起こし、10年に及ぶゲリラ戦のすえ1427年に明を追い払
い、翌年に前期黎朝を興します。

レロイはベトナムでも1,2位に数えられる英雄になるのですが、明
を撃退するときに使った剣が、天から授かったもので、のちにホア
ンキエム湖で舟に乗っていると、黄金色の亀が現れて剣を返せと
いう。王が亀に宝剣を渡すと、亀は口にくわえて姿を消した。これ
以降、この湖は「返却された剣の湖」という意味で「ホアンキエム=
還剣」と呼ばれるようになったという伝説です。

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サイゴンの美術博物館の庭には、この伝説に則ったレロイの銅像
が建っています。

湖に浮かぶ「玉山祠」には陳朝時代に元を撃退した陳興道(チャ
ン・フン・ダオ)が祀られているほか、1968年に捕獲された亀の剥
製が飾られています。

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最近、この湖に生息する大亀が傷ついているのが発見され、治療
のため大捕獲作戦が行われました。

この捕獲作戦は大々的に新聞で報じられ、国民的な関心事になり
ました。

「2011年4月3日、大亀捕獲作業は特殊部隊の隊員を含む50人
体制で行われ、探索および捕獲には、200平方メートルの魚網が
使われた。大亀は数か月前からの目撃情報により、体の数か所の
部位に傷を負っているとされており、市民や専門家の間で捕獲
し、治療すべきとの声が上がっていた。これを受けて先月8日、
第1回目の捕獲作業が行われたが、亀に網を破られ捕獲に失敗。
今回、2回目の作業で捕獲に成功した。

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救出作戦では特殊部隊の兵士など数十人が湖を泳ぎ、ボート
を使ってカメの周りに3連の網を張った。カメの重さは推定約2
00キロ。大きさは車のドア1枚分くらいあり、頭は人間の頭と同
じくらいだった。捕獲時、湖の周りには数千人の人々が集まっ
た。

科学者らによれば、捕獲されたカメは年齢100歳以上と推定され、
絶滅の危機に瀕しているシャンハイハナスッポン(学名「ラフェト
ス・スウィンホエイ」)と考えられるという。」



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