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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ディンビンフーの戦い 休戦
<ディンビンフーの戦いでの休戦>

56日間に渡って砲撃や塹壕をほる音が絶えなく続いたディン
ビンフーの戦いのなかで、2回だけ休戦時間が設けられたことが
あります。

<第1回目は1954年3月14日 午前8時―12時>

ディンビンフーの戦いは1954年3月13日の夕方5時、ベト
ミンの総大将ザップ将軍(総司令官)の「Fire」の号令と共に
ベトミンのカノン砲40門が一斉にフランス軍の飛行場に向かっ
て射撃したことから始まりました。

その後、日が暮れてから、砲撃はフランス軍の一番北方の陣地、
ベアトリクス(ベトミン軍の呼び名はHim Lam Post)陣地に目標
が変えられ、砲撃後、機関銃などで後方支援を受けたベトミンの
青年兵士が手榴弾を絶え間なく投げつけました。

夜が明けると、勝敗は決していました。フランス軍の陣地には
死体がごろごろと横たわっており、指揮官のTurpin中尉は捕虜と
なっていました。

べトミン軍312師団は中尉の返還と死体処理のため、3月14日
の朝8時から12時までを休戦時間とする312師団長の手紙を
フランス軍へ渡して、攻撃しませんでした。

フランス軍のカストリー将軍はハノイのCognyに連絡し、Cognyは
サイゴンにいるナバール総司令官の許可を得ます。

ナバールの許可が9時に下され、フランス軍の陣地から赤十字の
旗をかざしたジープが遺体の収容を始めました。500体以上の
遺体を収容しましたが、ベトミン側には既に約200人の捕虜が
いました。

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<第2回目は1954年3月15日 午前7時―10時>

休戦時間が時間が終わった14日午後から夜にかけて、ベトミン
はフランス軍のガブリエル陣地(ベトミン軍の呼び名は
Doc Lap Hill)の攻撃に移ります。夜が明けた15日の朝には
勝敗は決していました。ベトミン軍の司令官は7時から10時まで
を休戦時間としました。

フランス軍は戦車を先頭に2陣地の奪回を図りましたが、出来
ませんでした。

この2回以降は特に定めた休戦時間はなかったようです。戦闘は
56日間にも及んでいるので、兵士は塹壕の中ですべての日常生活
を過ごしました。

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国際婦人デー
3月8日は国際婦人デーです。
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国際婦人デーとハイバチュンの反乱1971年目を祝う横断幕

この記念日はアメリカのニューヨークで1904年3月8
日に女性労働者が婦人参政権を要求してデモを起こしたこ
とに由来します。

1917年のこの日は、帝政ロシアの首都ペトログラードで
の女性労働者を中心としたデモが、男性労働者や兵士を巻き
込み、帝政ロシアを崩壊に追い込んだ日でもあります。

1975年 国連はこの日を「国際婦人デー」としました。

ベトナムで、女性の地位向上運動とかはあったのでしょう
か? むしろ男性の地位向上運動があっても良いくらい、女
性の男女平等意識は強いように思われます。

歴史的にも大昔の(紀元前後)の北部ベトナムは母系社会で
したので、中国の支配に最初に反抗したのも女性軍でした。

ベトナム人なら誰でも知っている西暦40年5月の「ハイバ
チュンの反乱」はチュン姉妹が姉の旦那に代わって中国の漢
から徴税権を取り戻すために全国に呼びかけて起こした反
乱でした。3年後には漢の軍隊に負けてしまいますが、初め
ての中国支配からの独立と言われ、現在でもベトナムでは英
雄です。

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ハイバチュンの反乱

1434年には前期黎朝の第2代皇帝、太宗は「男女は家庭
内では平等である」と宣言しました。日本ではまだ室町時代
です。

ですので、ベトナムでは第1次インドシナ戦争でもベトナム戦争
でも女性も銃を持って戦っているのです。

サイゴン3区には「南ベトナム婦人博物館」も建立されていて、
無料で見学できます。
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南部ベトナム婦人博物館

麻薬工場
フランスがベトナムを植民地にしたかった理由は、アヘンの販売とゴムプラ
ンテーションでの利益の追求であったとはよく言われていることですが、サ
イゴン中心街にはアヘン工場の跡が残っています。

フランスは1860年代から、アヘンをインドから仕入れ、ベトナム、カン
ボジア、ラオスに独占販売し多大の利益を上げていました。

そしてさらに利益を増大させるためにハイバチュン、グエンユー、ティサッ
ク、レタントン通りに囲まれる一角に1881年末にアヘンの精製工場を造
りました。当初は3軒ありましたが、フランスから最新機械を導入した工場
だけが生き残り、現在にその遺跡を残しています。

1954年、フランスがディエンビンフーの戦いに負けて引き上げると、こ
の一帯は歓楽街になります。そして現在でもベトナム随一の歓楽街としての
地位を保っています。(?)

1975年、南北統一後は税関職員が住んでいましたが、最近3-4年前か
らレストランになりました。

ハイバチュン通り、パークハイアットの駐車場入り口の向かい側にクリーム
色の門があり、中に入ると左側に4件レストランがあります。この建物が昔
のアヘン工場で、現在では中流クラスのベトナム人や外国人が利用している
名の知れたレストランになっています。

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店の名は「The Refinery」(精製の意味) 「Hoa Tuc」(ケシの花の意味)

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入り口の門

P1240390.jpg

門の上部をよく見るとケシの花が飾られています。

ケシの花は悪くは、アヘンやヘロインの原料、良くはモルヒネの原料です。
ちなみにフランスでの花言葉は「怠惰」「安逸」「眠り」「休息」「無気力」な
んですって。

ベトナムの干支(えと)・12支(し)
今年2011年は日本は卯年ですが、ベトナムでは猫都市です。十二支につ
いてはまったく疎い私でしたので、テトのグエンフェ通りで猫が飾ってある
のを見て、あっけに取られました。

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で十二支についてWEBで勉強させてもらいましたら、なかなか奥の深いも
のなんです。

<日本の十二支>
 
子・ 牛・ 寅・ 卯・ 辰・ 巳・ 午・ 羊・ 申・ 酉・ 犬・ 亥

ですがベトナムでは

子・ 水牛・ 寅・ 猫・ 辰・ 巳・ 午・ 山羊・ 申・ 酉・ 犬・ 豚

   牛(うし)  ⇒ 水牛(すいぎゅう)
   卯(うさぎ) ⇒ 猫
   羊(ひつじ) ⇒ 山羊(やぎ)
    亥(いのしし)⇒ 豚 
となっています。

もともと中国から伝わったもので、日本、台湾、韓国、モンゴル、ロシア、
は同じ動物ですが、チベット、タイ、ベトナムには、猫と豚が
登場します。


<参考>
http://www.ratio.co.jp/tokushu/shogatsu2003-2004/juunishi.html

この干支は、今から3000年以上前、紀元前15世紀頃の中国の殷(いん)
で作られたとされるシステムです。十二支は動物の名前で 呼ばれていますが、
もともとは植物の成長過程を12段階で表したものでした。

それが動物の名前に当てはめられることで、人々に親しみが生まれ、各キャ
ラク ターにも様々な物語が込められ、そして信仰の対象となっていったよう
です。日本に伝わったのは6世紀頃で、仏教の伝来と同じ頃と考えられてい
ます。

十二支の順番はどうやって決まった?

 昔々、神様が動物たちに「元旦に神殿へ早く来たもの12匹に、一年ずつ順
番にその年を守ってもらい、これを干支とする」というおふれを出しました。 
動物たちは身支度をはじめましたが、ネコだけは集まる日を忘れてしまった
ので、ネズミに聞くことにしました。「集まる日はいつだニャ~?」「正月
の二日 だチュー」。このネズミは、悪知恵の働くヤツだったので、ネコはダ
マされているとも知らず、のほほ~んとしていました。

 さて、そんな頃、ウシは「オラは歩くのが遅いから、一足先に出るんだモ
~」と、年末にみんなよりも早く出発しました。その時、ネズミはちゃっか
りウシの背中に飛び乗りました。

 ウシは誰よりも早く出たおかげで、神殿に一番早く到着しました。「ここ
まで来れば安心だモ~」と、神殿の前で元旦が来るのを待つことにしました。

 やがて、日が昇って神殿が開き、ウシがゆっくりと中に入ろうとした時、
背中に乗っていたネズミがヒョイと飛び降り、神殿に入ってしまったのです。
「一番のりだチュー」。

 こうして、ネズミは干支で一番になり、ウシが二番になりました。ネコは
正月の二日になってから来たため、干支の仲間になれませんでした。この日
からネコはネズミを恨み、追い回すようになったといわれています。


http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KOHO/faq/reki/jyuunishi.htm

十二支(じゅうにし)
古代中国 で考え出されたもので、惑星のうちで、もっとも尊い星と
考えられていた木星が、約12年で天球を一周することから、その位
置を示すために天球を12の区画 に分けてそれぞれに名前を付けた
ものが十二支の名の由来といわれています。

元々は、木星の運行からでた十二支でしたが、12という数が1年の月
の数にあたることから、月を表すことにも用いられるようにもなり、ま
た後述する十干と組み合わせて、日付や比較的長い期間の年数等を表す
ために使われるようになりました。 また、夜の0時を「正子」、昼の
12時を「正午」等というように、1日の時刻にも十二支は用いられて
いました。

十干(じっかん)
 十二支に比べるとだいぶ影が薄くなりましたが、「丙午(ひのえうま)
の年」といった使い方をすることがあります。ここでの「午」は十二
支ですが、その前の「丙」は十干です。
 十干の生まれは古く、古代中国の「殷」の時代さかのぼると言われ
ています。この時代は、10日を1旬と呼び、この10日ごとに繰り
返される日にそれぞれ名前を付けたのが始まりだといわれています。
ちなみに、現代でも「3月上旬」のように上中下旬と月を10日(お
よそ)に分けてよぶのは、この名残です。

 十干は、やがて全てを「木火土金水」の5つの根元的成分から生み
出されるとした五行説と結びつき5つを更に「兄(え)・弟(と)」に
分けたものと対応させるようになりました。そのため「丙」1文字で
「火の兄(ひのえ)」と読むようになったのです。

六十干支(ろくっじっかんし)
 十二支と十干とを組み合わせることによって、60の組み合わせ
が出来ます。これを六十干支と呼びます。「還暦」と言うのもここ
から来ています。


http://www.jyuunisi.com/sub01.html

十二支の守り本尊


かまどの神様(Ong Tao)
タオクアンの儀式とかNgày ông Táo về trời(ガイオンタオヴェーチョイ か
まどの神様が天に帰る日)とか呼ばれています。

<伝説>
猟師と再婚した女の家に物乞いの男がやって来た。それは女の元夫だった
ので、食事の世話などをするうち、夫が帰宅したので、妻は元夫をかまどの
中に隠し藁でおおった。しかし、何も知らない猟師の夫は、かまどに火をつ
けた。

 かまどの中の元夫は、「ここで声を上げれば、彼女に迷惑がかかる。」と、
熱さと痛みに耐え、そのまま死んでしまった。一方妻は、「あの人は、私のた
めに耐えている。どんなに苦しいことだろう」と、自分も燃えさかる炎の中
に飛び込んでしまった。残された猟師は、「妻が自殺したのは、気づかぬうち
に辛い思いをさせていたからだ」と嘆き、妻の後を追ったのだった。

 当時のベトナム皇帝は、この話を聞いて感動し、3人を「かまどの神」とし
た。以来、かまどの神は、台所と家庭の平和を守る神として、各家庭の台所
に祭られるようになった。というお話。

旧暦の12月23日がかまどの日。この日かまどの神様は玉皇上帝(中国
の道教で最高神と考えられている神様)に一家の1年の善悪を報告しに鯉に
乗って天に昇ります。なので無事に神様が天に昇れるように、鯉と供え物を
買い、鯉は川に放ちます。

しかし都心部では鯉を買って川に放すということをやっている家庭はほと
んどなく、一般的には、紙で作った魚を祭壇に供えたあと燃やし、煙と共に
かまどの神が天に昇るようです。

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ベトナム人はかまどの神様の儀式からお正月の始まりと考えていますので、
仕事には実が入りません。この日で1年を締め大掃除などが始まります。

この日に天に昇ったかまどの神様は、旧暦の大晦日(12月30日)の深
夜に家庭に戻ってくると考えられています。

この儀式は中国から日本の沖縄にも伝わっています。



ファン・ティー・キム・フック
Phan Thị Kim Phúc 1963年4月2日生

ベトナム戦争時、背中にひどい火傷を負いながら裸で逃げる少女はファ
ン・ティー・キム・フック

フック1

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彼女は南ベトナムのタイニン省チャンバンで暮らしていました。
1972年6月8日、チャンバンで南ベトナム軍と北ベトナム軍が
交戦、南ベトナム軍の爆撃機2機が上空を旋回し、ナパーム弾を
村民が避難していた寺院に投下しました。後日、この攻撃は寺院に
ベトコンがいると勘違いした誤爆だとされています。

AP通信のベトナム人カメラマン、フィン・コン・ウトと
英国テレビ制作会社 ITNの特派員クリストファー・ウェイン
は従軍記者として現場に張り付いていました。

寺院は焼け落ち、9歳だった少女キム・フックは兄弟や親類らと
逃げ出してきました。衣服は燃えて脱げ落ちたフックは裸で
走りました。カメラマン ウトは本能的にカメラを向けます。

写真は世界中に配信されましたが、時のアメリカ大統領ニクソン
は認めなかった。「この写真は合成だ」

しかしナパーム弾に衣服を焼かれて裸で走るベトナム人少女や子供
たちの姿を世界中に伝えたこの写真はベトナム戦争の写真の中でも、
人々の心に深く印象付けられた一枚となり、翌年、ピュリツァー賞
を受賞しました。

カメラマンは写真を撮った後、すぐにウェインと一緒にキム・フック
と他の子供たちを病院へ運びました。看護婦がウェインの耳元で
ささやきました。キム・フックは「明日まで持たないだろう」

ウェインは英国大使館、南ベトナム外務省と掛け合ってフックさん
を専門の整形外科病院に移しました。フックさんは14カ月間も入院、
17回の手術を受けて何とか一命をとりとめました。
 
「この写真がきっかけとなってナパーム弾の非人道性が
クローズアップされ、後に軍需産業がナパーム弾の製造を中止
しました。

ベトナム共産党政権は写真を反米宣伝の材料に利用するため、成長
したフックを広告塔に仕立て上げた。その後、キューバに留学した
フックさんはベトナム人男性と出会って結婚、1992年、
新婚旅行の途中にカナダに亡命しました。現在では2児の母となり
夫とともにカナダで暮らし、戦争で被害を受けた子供たちを支援
しています。

1997年11月10日、国連ユネスコの親善大使に任じられます。

2010年、英国で命の恩人ウェインと再会を果たします。

フック2





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