べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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共産党新書記長

2011年1月12日から19日までハノイでベトナム共産党全国党大
会が開催されました。

ノン・ドク・マイン書記長は演説で、導入から25年となる改
革開放の「ドイモイ(刷新)」政策を継続するとした上で、こ
れまで「労働者階級でない」として認めてこなかった私営企業
家の新規入党を認め、「社会主義市場経済」をさらに加速させ
ることを明言しました。
1
ノン・ドク・マイン書記長


17日には党中央委員175名が選出され、18日には新人事が承
認されました。
2

国家の方針を決める共産党政治局員14名のうち、9名が再任、5
名が新任されました。

<再任>
グエン・フー・チョン(67) 国会議長、書記長 
グエン・タン・ズン(62) 首相 次期国会で再任予定
グエン・シン・フン(65) 副首相
レ・ホン・アイン(62) 公安相
フン・クアン・タイン(62) 国防相
チュオン・タン・サン(62) 党書記局常務
次期国会で国家主席に選出内定
ファム・クアン・ギ(62) 党ハノイ市委員会書記
レ・タイン・ハイ(61) 党ホーチミン市委員会書記
トー・フイ・ズア(64) 党中央情宣委員長
<新任>
ディン・テー・フイン(58) 党中央機関紙ニャンザン編集長
ゴ・バン・ズ(64) 党中央事務局長
グエン・スアン・フック(57) 政府官房主任
チャン・ダイ・クアン(55) 公安次官
トン・ティ・フォン(57) 国会副議長、女性、ターイ族

3


新指導部は、引退する最高指導者のノン・ドク・マイン書記長
(70)(2001年から2期10年在職)の後任に保守派の
グエン・フー・チョン国会議長、国家主席に改革派のチュオン・
タン・サン党書記局常務をそれぞれ昇格させ、グエン・タン・
ズン首相を留任させるトップスリーの人事を内定しました。
4


19日の閉幕時、グエン・フー・チョン(Nguyen Phu Trong)新書記
長は、「引き続き党の指導力、戦う力を上げ、全民族の力を発揮、
全面的なドイモイを推し進め、2020年までに近代的な工業国に
成長させる任務を完遂する」と述べています。
5

<グエン・フー・チョンの略歴>
1944年4月ハノイ生まれ。1967年ハノイ総合大学(現ハノイ国家
大学)を卒業し、同年ベトナム労働党に入党。党の理論誌「タップ
チーコンサン」に20年間携わり、1991年からの5年間は編集長を
務めた。1981~1983年にソ連に留学して博士号を取得。2000
年以降、党ハノイ市委員会書記、党中央理論評議会議長を歴任。
2007年7月、国会議長に就任した。実務家というより理論家で、保
守穏健派とみなされています。

余談:とかくホーチミンの子供と噂されていたノン・ドク・マインさ
んが引退しました。彼はターイ族ですが、今回の新人事でターイ
族の女性が政治局(女性政治局員は歴代2人目)のメンバーにな
っています。
6
トン・ティ・フォン(57) 国会副議長、女性、ターイ族

新書記長は勿論序列第1位で、最高権力者なのですが、理論家
であり、実務的には現在の首相が5月に開かれる国会で再任され
ることが確実で実権を握るものと噂されています。
7
グエン・タン・ズン(62)現首相 次期国会で再任予定

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ホーチミン廟の建設
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ホーチミン主席の遺体の保存に加えて、霊廟を建設すること
はベトナム議会とベトナム労働党中央委員会の最大の関心事
であり、課題でした。どちらも主席が望んだことではありません
が。

建設に当たり、旧ソ連は設計図の段階から協力し、数名の代
表団をベトナムに派遣し、全面的な支援を行います。

ベトナム国内においても霊廟の建設に貢献したいと多くの建
築家、技術者、兵士、一般人が協力を申し出、国家的事業とし
て、霊廟の建設が行われます。

主席自身は、戦争中でもあり、生活が苦しい庶民の生活を思
い、遺言でも自分の葬式には金をかけないように言い残して
いるのですが、国民の主席に対する思いはそれをはるかに
上回っていました。

国民の建設に対する貢献の熱望に答えて、中央委員会は霊
廟のデザインを公募することを決定します。

いくつかのデザインの候補が選ばれ、さらに国民の意見を聞
くために、ハノイ以外の各地の省で展示会が行われます。展
示会には1745487人が訪れ、34022通のコメントが寄せら
れます。

多数のデザインから斬新かつベトナムの伝統的要素を組み
合わせた最終デザインが決定されます。

基本構造は3段階の基壇、5つの部屋、3層の屋根という構造
になりました。

1971年11月3日、主席の一番弟子で首相のファン・バン・ド
ンは霊廟建設の書類に正式に署名し、副首相のド・ムオイを
最高責任者に任命します。

しかしながら、不幸にもアメリカ軍の攻撃が激しくなり、被害が
ハノイにも及ぶかも知れないという危惧から、建設は一時延期
されたままになります。

建設が再開されるのは、1973年1月28日、アメリカがパリ和
平会議で署名し、ベトナムから引き上げることが決まってから
でした。

軍隊が建設の中心となり、北ベトナム国民や旧ソ連の支援者
が作業を開始します。しかしこの年、旧ソ連には支援金額が
予算に計上されておらず、近代的な建設機械は旧ソ連の会
社がベトナムに貸与するという形式で始まります。

旧ソ連の会社はホーチミン主席の霊廟建設に必要な建設機
械を優先的にベトナムに送ってくれました。ベトナム国内でも
霊廟建設に必要な物資の運搬には最優先の旗が立てられま
す。ハイフォン港や鉄道駅をはじめ、建設に必要な機械器具
や材料が各地から送られてきます。

霊廟の基礎工事には1200本のパイプを埋め込まねばならず、
その作業は雨季が始まる8月には終了させねばいけません
でした。この時間との戦いに、ベトナムの要職にあった人も、
教師や学生も建設作業者に協力して一緒になって働きまし
た。

そして建設開始から60日後、基礎工事は完成します。

第2ステップは霊廟の本体の建設です。この建設には多くの
人員よりも多くの技術者や多くの時間が、そしてすべての原
材料に最高品質のものが要求されました。高品質の材料は主
席の遺体の永久保存には欠かせない要素なのでした。

最初の課題はセメントでした。当時のセメントは品質が悪く、
新たに高品質のセメントを開発しなければなりません。新たな
高品質のセメントはThuỷ Nguyên地方の岩石や土を使って
新しい技術によって作り出されました。そして大量のセメント
袋には「Đời đời nhớ ơn Chủ tịch Hố Chí Minh vĩ đạu
(偉大なホーチミン大統領は永遠) と印刷されました。

砂利は現在のThái NguyênとBắc Cạn省に住む少数民族
の採石場から運ばれました。

そして黄砂と呼ばれる高品質の砂は以前のフランス調査
団の調査によればロー川(Lô River)のものがベストとありまし
たが、多くの砂のサンプルを検証した結果、
Hoà Bình省のBôi River産を使うことに決定しました。

Hoà Bình省に住む少数民族はこのイエローサンドを総出で袋
詰めし、トラックでハノイに運びました。

旧ソ連からの建設機械は1974年になってベトナムに搬送され
てきました。しかし機械の設置や操作はベトナム側で行うこと
になっていたので、霊廟建設に携わっている兵士を管轄する
国防省は高級技術者をかき集めます。

ドアーや手すりなどに使用される木材は樹齢数百年のNuと
いう木材が使われています。この木材は中部ベトナムで軍務
についていたベトナム解放民族戦線の兵士たちがチュオンソ
ン山脈から切り出し、ハノイに送ってきたものでした。

霊廟本体のコンクリート工事は1日200m2の進捗を400m2
にして、予定期間内に完成させます。

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そして内装工事と霊廟周囲の整地や環境整備が行われま
す。

内装工事は霊廟全体の工事期間の50%を占める時間が費や
されています。

内装、外装の職人はベトナムには優れた人がたくさんいまし
たが、石材の切断などは旧ソ連で行われ、20000ピースの大
理石や花崗岩は旧ソ連から搬送され、ベトナム産の石材ととも
に使用されています。

霊廟上部(Pedimen)にある「Chủ tịch Hô Chí Minh」という
文字はCao Bắng省から運ばれたルビーの原石に彫られました。
ルビーはホー主席の頭部に面した壁にも使用されて、荘厳な
雰囲気をかもし出しています。

電気設備、水道工事、空調設備、排気設備、電話工事、ビデ
オシステムなどはベトナム人技術者にとっては始めての経験
でしたが、彼らの情熱は外国人技術者が賞賛するほどの出来
栄えでした。

100000人収容できるバーディン広場を始め、霊廟周囲の道
路が再構築され、霊廟の周囲にはホー主席が大事にした全
国各地から送られた木々が植えられました。

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そして1975年7月18日午後8時、労働党と国会のすべての
リーダーが整列する中、ホーチミン主席の遺体は完成した霊
廟正面に到着します。最後の6回目の移動でした。

1945年、この場所で独立宣言を読み上げたホーチミン主席は、
フランスと戦い、南ベトナム政府と戦い、アメリカと戦い抜
いて、国土の統一を勝ち取って、30年ぶりに帰ってきました。

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1975年8月22日、霊廟の完成がベトナムの全国民に発表さ
れ、披露されます。第144軍から選ばれた150人の儀仗兵が
ホーチミン主席を守り続けます。

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戦争で疲労していて、金のなかった北ベトナムが、金に糸目
をつけず、外国の援助の下に建設したホーおじさんの霊廟、
ホーおじさんは夢の中できっと怒っているような気がします。

庶民のカニ専門店
カニ
94 Dinh Tien Hoang、District 1


中に細かなカニの身をつめた揚げ春巻き  70000ドン
 野菜と米粉麺がついてきます。茶碗の中にこの3つをい
れ、タレをつけて食べます。

カニチャーハン             70000ドン
 インゲン豆のような大きなカニの身が入っています。

タイガービアー             18000ドン

どちらの料理も大盛りで出てきますので、2品オーダーす
ると食べ切れないと思います。

店前で揚げていますが、油も、揚げる技術も、それは日本
と比較しては可哀想です。

メニューには500000ドンするカニ料理もありましたが、
安くて美味しい店でした。

ホーチミン主席の遺体

私が死んだら、火葬にして遺灰を北部、中部、南部にそれぞれ
散布して欲しいというホーチミン主席の遺言は、未だに実現さ
れず、防腐処理された遺体はベトナム戦争中6度も移動させら
れ、やっと現在の、ハノイのバーディン広場に建設されたホー
チミン廟に安置されています。


<1965年>

1965年、彼が75歳になったときホーチミン主席は

「誰でも年をとるにつれて、体は弱くなるものだ」と自分の余
生が長くないことを吐露しています。

この言葉を受けて、ベトナム労働党中央委員会政治局メンバー
は秘密裏に会合を開き、2つの決定をしました。

1. ホーチミン主席の健康を維持すること。
2. 彼の遺体の長期保存のための準備をすること

ホーチミン主席の火葬にして欲しいという遺言は、生前からすでに
希望に添えない決定がなされてしまっていたのです。

主席の健康については副首相のNguyễn Lương Bắngが責任
者に任命されると共に、数人の医師団を遺体保存の技術を学ぶ
ために旧ソ連に派遣することになります。

遺体に恒久的保存を目的とした防腐処理を施すようになったの
は、ソ連の国家的英雄レーニンが最初でした。1924年、レ
ーニンが亡くなったとき、後継者スターリンは彼の遺体を保存
し、霊廟に安置することを決定しました。その意図はレーニン
の偉業を称えるという表向きの理由と、レーニンの遺体という
シンボルを借りて、国民の党に対する忠誠心を確かなものにし
たいという、政治的な思惑がありました。

遺体を保存し崇拝するというような行為は、レーニン自身の思
想とは全く相容れないものでした。

それから、世界各地の社会主義国の指導者が死ぬと、その遺体
をソ連の技術によって防腐処理し、霊廟に保存することが慣習
化していき、モンゴルのチョイバルサン、チェコスロバキアの
ゴットワルト、アンゴラのネト、北朝鮮の金日成。そして発案
者スターリン。ただし中国の毛沢東だけは例外で、彼は中ソ関
係の悪化もあって、中国人科学者の手によって防腐処理が行わ
れました。


<1967年>

1967年アメリカ軍の空爆が激しくなる最中、ソ連に向けて特別
医師団が派遣されます。構成メンバーはDr. Nguyễn Gia Quyền
(陸軍病院)、Dr. Lê Ngọc Mẫn(Bạch Mai病院)、Dr.Lê Điều
(ベトナム-ソ連友好病院)の3人でした。彼らの任務はベトナ
ム労働党の決定にひたすら忠実に、ホーチミン主席の遺体の保
存技術を学ぶことでした。その任務の内容は妻や子供、まして
やホーチミン主席には秘密にすることが絶対条件でした。

ホーチミン主席がこのプランを知ったなら、計画が破談するこ
とをベトナム労働党政治局はよく知っていたからです。

結局、ホーチミン主席の意志を聞くこともなく、主席の死後の
取り扱いは労働党政治局の判断で決められていました。その中
心人物は党第一書記のレズアンでした。


特別医師団は1967年9月14日モスクワに着き、翌日にはレー
ニン廟研究機関で学ぶべき理論と実践のプランが策定されまし
た。理論面では研究機関にある全ての書類が閲覧でき、実践面
ではブルガリア首相の防腐処理を手がけたSarovatov教授が指
導に当たってくれることになり、解剖実践に必要な60歳以上の
死体さえも用意してくれました。

ホーチミン主席の旧ソ連に対する協力や人徳でしょうか。旧ソ
連は全面的に協力を惜しみませんでした。


<1968年>

特別医師団は7カ月の研修を終え、1968年4月、ベトナムに帰
国しましたが、研究はさらに続きます。

1968年6月医師団は2グループに分けられ、Dr. Lê mgọc Mẫn
は主席の健康管理に、Dr. Nguyễn Gia QuyềnとDr. Lê Điều
は大統領府内の108号陸軍病院の中に特別医療チームを編成し
ました。

工兵隊は特別医療チームのために、出来るだけ早く特別研究室
を作ることを命じられました。研究室の温度は16度、湿度は
75%の減菌室が要求されました。この研究室の建設は旧ソ連技
術者の指導の下、昼夜兼行で行われ1968年中に完成しました。
研究室はプロジェクト75Aと名づけられました。

しかし、手術台や手術針など防腐処理に必要な器具をベトナム
内で探すのには困難を極めました。

その後、特別医療チームは病院から死体の提供を受け、防腐処
理の研究を重ね、自身を深めていきました。

続いて工兵隊はプロジェクト75Bの建設を命じられます。75B
は葬儀中にホーチミン主席を安置する建物の建設です。

この工事と平行して国葬の方法を研究するために、ベトナム労
働党中央委員会は秘密裏にPhung The Tai(ベトナム人民軍の
中尉)を旧ソ連やブルガリアに派遣して研究させます。

特に主席の遺体を葬儀場まで何で搬送するかが問題となりまし
た。議論の結果、馬車に決定したのですが、古来からベトナム
には象はいるものの、馬の数は少なく、ましてや良質の馬がな
いためモンゴルまで探しに行き、手に入れますが、にわか練習
で馬が言うことを聞くわけがなく、馬車での搬送練習の結果は
失敗に終わり、車両による搬送に切り替えます。


<1969年>

1969年防腐処理の更なる研究と遺体の運送を研究するために
別の専門家グループがソ連に送られました。研究中に100%純
粋なガラスケースが棺のために必要なこと、主席が愛したゴム
製のサンダルをどのように棺の中に置くかなど、解決すべき問
題が発見されました。

国内でも144旅団から150人の儀仗兵が選ばれ、棺の警備を始
め、200Kgある棺を16人で運搬する練習を繰り返しました。

他のグループは陸軍病院から大統領府への車両による遺体の運
搬の練習をしていました。

<ホーチミン主席の死>

1969年9月2日の朝、ホーチミン主席は息を引き取りました。
24年前この日は主席がベトナムの独立宣言を読み上げた日で
す。

この日の朝、彼は質素な自宅のベットに静かに横たわっていま
した。しかしその周りにはベトナム労働党の幹部、医療団が取
り囲んでいました。

主席の遺書を託されていた長年の秘書ヴィーキーは主席をうち
わでゆっくりと扇いでいました。しかしその手はすすり泣きと
同時に止まりました。彼の心臓はもはや動きませんでした。

死亡10 (1)


医師団は心臓マッサージを開始しましたが、彼の心臓は微動だ
にしません。主席の一番弟子、首相のファン・ヴァン・ドンが
医師団に心臓マーッサージをやめるよう依頼します。

ホーチミン主席は永遠の眠りにつきました。

30分後、プロジェクト75Aの車両が出動し、彼の遺体を大統領
府の中にある陸軍病院特別室に運び、検死が行われました。30
分後検死の終了と共に、特別医療チームがソ連の専門家と共に
遺体の防腐処理を始めます。

防腐処理はあくまでも主席が生きているような状態を保つため、
髪の毛一本に至るまで最新の注意を持って処理されました。

午後8時頃、バーディン広場の明かりは全て消されました。そ
して主席の遺体は大統領府の陸軍病院からバーディン・セレモ
ニー・ホールにある無菌状態の部屋に運ばれました。

1969年9月6日午前3時、国葬の最終点検が行われ、午前6時、
労働党や国会議員の全ての幹部がホーチミン主席の棺の回りに
集まります。

死亡10 (2)


一番弟子のファン・バン・ドンは特別医療チームの労をねぎら
う為、握手をしているときに突然泣き出し、その後ろでは労働
党第一書記のレ・ズアンが主席の永遠の眠りのために、昼夜兼
行で働いてくれた人々に感謝の握手をしていました。

レ・ズアンは彼らの労に対して尋ねます。「何か希望があります
か?」彼らの希望は「主席と一緒に写真を撮りたい」というこ
とでした。 

国葬の日々、ハノイは雨がなかなか止みませんでしたが、毎日
バーディン広場は人で埋め尽くされ、レ・ズアンは「悲しみを
革命の力に」と国民に団結を呼びかけます。特別医療チームは
夜を徹して主席の遺体の保存に努めます。

死亡10 (3)

死亡10 (4)


1969年9月9日に国葬は終了します。国葬の終了は主席の遺体
が安住の地を求めて放浪する始まりでもありました。ベトナム
戦争で北ベトナムへの空爆が激しさを増してきたからです。

国葬のビデオは、戦時中であったためか、北ベトナムにはなく
日本の通信社が撮影していました。通信社はベトナム政府に格
安で放映許可をし、毎年、主席の命日近くにベトナム人民に放
映されています。


<1回目の移動>
国葬後すぐ労働党中央委員会は、空爆から主席の安全を守るた
め、ハノイからの移転先を求めます。移転先はハタイ省のBa Vì
軍事基地へ行くときに、主席がよく昼食をとったダー川の丘の
上と選定されました。主席はかつて、戦争が拡大した場合には、
この地に中央委員会の秘密基地を作ることを決定してい束所で
す。

高級工兵隊と第144師団が移転プロジェクトの任命を受けます。
このプロジェクトはK9と呼ばれました。

プロジェクトはこの場所の地下にシェルターを築き、水や電力
設備を整えることが必要でした。

シェルターは地下6mに幅5mが必要で、爆薬を使わず1800個
の手動ドリルで作られ、3トンもある鉄ドアーもクレーンが使
えず、レンチで6m地下に下ろされました。

遺体は螺旋レールによって、水平に振動や傾斜させないで降ろ
すことになりました。

そして水の供給は川からではなく地下水を利用し、電気の供給
には3台のディーゼル発電機が採用されました。

最後の問題は遺体の運搬方法でした。ヘリ、船、車両のうち、
最終決定は車両となり、通過道路は振動を抑えるため、事前に
整備されました。

棺の積み上げや積み下ろしの練習は何回となく行われましたが、
その過程で棺の下部と兵士の首を皮ベルトで結び、兵士がスリ
ップしても棺が地面にたたきつけられないようにしました。

1969年12月末、午後11時、ホーチミン主席を載せた特別車両
がプロジェクト75を出発しました。車両にはDr. Quyênとロシ
アの技術者が主席の傍に乗り、常に遺体の状態が監視出来るよ
う陣取りました。しかしこの席は主席の遺体を冷やすため、大
きな氷が積み込まれていたため、非常に寒かったことは間違い
ありません。

勿論、この移動はトップシークレットで、遺体を守る兵士たち
は、地元の住民とも接触を絶たれ、食料も自給自足に近い生活
を強いられました。しかし彼らのホーチミン主席に対する尊敬
の念は絶大で、現在では「隠れた英雄」と称されています。


<1970年>

1970年の初めには第69軍団が組織され、遺体の警護を専門に
担当するようになります。彼らは軍服を着ることは認められず、
地元民との接触も禁じられていたため、この施設は、地元民か
らは脱走兵の再教育キャンプ場と思われていたぐらいです。翌
年のテト正月も野菜とトウモロコシ入りのご飯で過ごさねばな
りませんでした。彼らの任務はホーチミンの遺体を最善のレベ
ルに維持するとともに、労働党中央委員会の訪問に対応するこ
とでした。

1970年8月、労働党中央委員会の代表団が訪れ、主席の遺体が
完全な状態に維持されていることを確認してからは、この軍団
が南北統一の日までホーチミン主席を守ります。


<2回目の移動>
1970年11月20日の夜、アメリカ軍の戦闘機とヘリが捕虜とな
っているアメリカ軍パイロットを救出するため、近くのハタイ
省にある刑務所を急襲しました。

ベトナム労働党は最新鋭のアメリカ軍の偵察機によって、この
廟も発見され、攻撃されかねないと判断し、主席をハノイに呼
び返すことを決定します。

ハノイへの帰還は前回の経験から、順調に実施されました。ハ
ノイに着いた兵士の待遇も少し向上しました。しかし依然とし
て移動はシークレットですので、兵士の手紙は開封され、外出
も不自由でした。


<1971年>

<3回目の移動>
1971年末、紅川の水位は14.1mにもなり、雨は止む気配がなく
ハノイ市は大洪水になってしまいそうな気配でした。遺体を管
理する69軍団はすぐにK9の丘に遺体を移すよう進言します。

移動準備は水位との戦いで、急いで行われ、悪天候のため昼間
の移動が許可されました。国防省のリーダーが直接指揮をとり、
車両には最優先の旗が掲げられました。途中で主席を乗せた車
両は洪水の道路を走れず、小さな車両に遺体を移して、大型車
両の上に乗せて走るというハプニングがありましたが、無事K9
に着きました。

そしてアメリカ軍の攻撃に備えて、歩兵と砲兵部隊が秘密裏に
配置されました。


<1972年>

<4回目の移動>
1972年に入るとアメリカ軍は北ベトナムに対して激しい空爆
で破壊活動を行い始めました。北ベトナム政府は再び遺体の避
難を決定します。69軍団は数人の兵士に移転先を探させます。
探し当てた場所はK9から15Km離れたダー川の傍の洞窟でし
た。そこは高山の麓で森に囲まれた谷でした。ここはK2と名
づけられ、施設や道路整備は20日間で仕上げられました。そ
して遺体は完全に無傷で移動に成功します。


<1973年>

<5回目の移動>
1973年になると、アメリカ軍はベトナムから引き上げます。そ
して遺体は主席のお気に入りの場所、K9、Ba Vìに戻されます。


<1975年>

1975年ベトナム戦争が終結しても、主席の遺体が埋葬されるこ
とはありませんでした。15年に及んだ戦争がベトナムに残し
た傷は、あまりにも深く、300万人が死に、爆撃で焼かれた
緑豊かな国土はベトナム人自分の手で立ち直らせなければいけ
ませんでした。その為にはホーチミンというシンボルが必要だ
ったのです。

<6回目の移動>
1975年7月18日午後8時、バーディン広場に新築されたホー
チミン廟に移され、今日に至っています。



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