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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ベトナムの建国
ドンソン文化

 紀元前から北部ベトナムの紅河(ホンハー)流域一帯には東南
アジア最古の青銅器文化として知られる東山(ドンソン)文化が広
がっていました。

 東南アジア地域から出土する青銅器で銅鼓(どうこ、青銅器の太
鼓)を持つのがドンソン文化です。この文化の名はそれらが出土し
た地名からつけられています。この文化は青銅器文化と思われて
いましたが、この遺跡から鉄器も出土しており、後期は鉄器時代に
入るものと考えられています。紀元前1000年から紀元後200年
頃まで続いたドンソン社会は、農業が主体で、首長が共同体の成
員を支配する階級社会が成立していたと考えられています。

 この時代の人々を古越人と呼び、現在のベト族の祖先と言われ
ていますが、祖先については中国・紹興一帯を支配した越の末裔
が、民族のルーツとの説もあります。



ヴァンラン国(文朗国)  伝説の国

 ベトナムの史書「大越史略」によ ると、紀元前1千年の中頃、紅
河沿いに雄王(フンヴオン)と呼ばれる支配者が文朗国(ぶんろう
こく、ベトナム語:Văn Lang)を作っていたといわれています。

 雄王とは称号であり、王の名前ではありません。

 文郎国は、ベトナム史上初の国家とされていますが、国家形態
を示す記録も遺構も存在しないため、伝説上の国家とされていま
す。

 この時代はいろいろな部族が群雄割拠しており、そのなかで青
銅器文化をいち早く取り入れたVăn Lang部族が最も強力な部族
になったと思われ、雄王(フンヴォン)の下に他部族を吸収してい
たようです。Văn Lang部族の中心はハノイの北西、現在のフート
ー省のBack Hacにありました。

フン王1
フン王


フン王1 (1)
ヴァンラン国


雄王(フンヴォン)伝説

 フン・ヴォン(雄王)はベトナムにおける伝説の王で、ベトナム最
初の王国の建国者とされています。その昔、龍と仙人が結婚し、1
00人の子どもが生まれました。龍である父に従った50人の子ども
のうちの長男がフン・ヴォンとなって王国を造りました。ですからベ
トナム人は龍の子孫ということになります。龍は旧正月やお祭りの
時には町を練り歩きますし、宮廷の石段の両サイドにも飾られてい
ます。中国の史書によると、ベトナム最初の王国は、紀元前2880
年に建国されたそうです。その後、紀元前258年に滅びるまでの
2622年間、フン・ヴォンを名乗る王が18代続きましたから、一代
の王が146年間君臨したことになります。伝説なので、話の内容
が若干違っている説があります

 この伝説に基づく「雄王神社=デン・フン・ヴォン」が北部ベトナ
ムを中心に多数存在し、なかでもヴィンフー省のギアリン山(175メ
ートル)の「デン・フン」は国家的な信仰の対象となっています。

フン王1 ()

フン王1 (3)
デン・フン


 1954年9月19日にはホーチミンが参拝しており、有名な言葉を
残しています。
「雄王が苦労して作った国を、我々はお互いに力をあわせて守って
いかねばならないのです」
フン王1 (4)


 1993年にはベトナム共産党書記長ドー・ムオイも参拝しています。    

 フン・ヴォンの命日3月10日(旧暦)はベトナムの祝日になりまし
た。


 サイゴンでも文化公園の中にフン王を祭っている寺がありますし、
フン王の命日には盛大なお祭り儀式があります。
フン王1 (5)

フン王1 (6)


 紀元前258年、文郎国は安陽王(アン・ズオン王)によって滅ぼ
されました。

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サイゴンの歴史
サイゴンの歴史

  現在のホーチミン市を含む南ベトナム一帯はもともとはカンボ
ジアを中心とするクメール王国が支配していた沼沢地で、人々
は運河を船で移動して暮らしていました。16世紀中頃から17世
紀後半にかけて鄭氏(北部)と広南阮氏(中部)の二大地方王権
が内戦をしていた頃、1623年に乱を逃れて海上から南下して
きたベトナム人難民に、クメール王国のチェイ・チェッタ2世が
Prey Nokor一帯に定住を許可してことから、大量のベトナム人
が定住するようになりました。
  
  その後、グエン氏は中部からクメール王国の土地に南下して
いたチャム族の土地を占拠しました。

1623年
1623年のサイゴン。

現在のサイゴン川はタンビン川(Song Tan Binh)、中華街の
ジョロンへ繋がる支流がサイゴン川になっています。
タンビン川に沿ったベンゲ(Ben Nghe)は現在のレタントン
通り近辺の地区名として残っています。


  1679年になると中国の明朝が滅亡したのに伴い、中国人3
000人が50隻の船でフエの近海に漂流してきて、グエン氏に亡
命を願い出ます。グエン・フック・ヒンはヤーディン(現在のホーチ
ミン市)やメコンデルタ地域のビエンホア、ミトーに入植させまし
た。
  
  現在のホーチミン市5区のチャイナタウンに住む人たちの祖先です。


  1698年、グエン朝(広南阮氏政権)はグェン・フー・カン
(Nguyen Huu Canh)将軍をヤーディンに派遣します。彼は、現在
のタンビン地区やフックロン地区を開拓し、最初の基本的な行政
組織ヤーディン(北部の発音はザーディン)府を置きます。両地
区には市長(Luu Thu)が任命され、その下部組織には
Manager(Cai Bo)と Secretary(Ky Luc)が置かれました。
  この年がサイゴン誕生の年とされています。

03  グエンフーカン
グェン・フー・カン


  1790年、阮朝初代皇帝グエン・フック・アン(Nguen Phuc
Anh)は3万人を動員し、ヤーディン府の新しい行政本部として、
3万人を動員してバットクワイ(BAT QUAI)城を建てました。
この城はフランスの軍事技術者の助言により、ヴァーバン式(Vauban)
建築法に基づき、現在のハイ・バー・チュン通りとレ・ユアン通りの交差点
を中心に建設されましたが、現在では跡形もありません。
亀の甲羅のような町づくりなので八卦(はっけ)街とも呼ばれました。
  
  この城がサイゴンの最初の都市建築物といわれています。

八卦街2
BAT QUAI 城

八卦街1


1790年
1790年のサイゴン・ジョロン地図


1790年ー2
1790年のサイゴン地図


1815年
1815年のサイゴン。城下に市街地が形成されてきました。



 1835年、阮朝2代ミンマン帝は一旦バットクワイ城を取り壊し、 
フエの宮城より小さな城を現在のLe Thanh Ton, Dinh Tien
Hoang, Nguyen Dinh Chieu, Nam Ky Kho Nghia 通りに造り直し
ました。


  1859年2月17日,スペイン、フランスの連合軍がヤーディ
ンの城を攻め、占領します。連合軍は城はゲリラの格好の標的
になると考え、城の米倉庫に火をつけ破壊します。米倉庫は3年
に渡ってくすぶり続けたといいます。その後フランスのベトナム
植民地化は急速に進み、、1887年にはベトナム全土がフラン
スの植民地となります。しかし植民地になってから、サイゴンは
急速に発展していきます。

  フランス人はこの地をサイゴンと呼びました。サイゴンという
呼び名の起源に関しては、諸説があってはっきりしていませんが、
フランスはこの頃、庶民の間ではヤーディンよりサイゴンが一般的な
呼び名になっていたことから、1867年正式に改名しました。

  サイゴンという名前の一説にはクメール語の「カポックの木の
茂る森」から来ています。サイは茂る森、ゴンはカポックの木の意味
になります。漢字で表すと「西貢」となります。

  フランスはコフィン(Coffyn)という名の専門家を中心にサイゴ
ンの都市計画をつくり、サイゴン港も開港させ、ハノイまでの鉄道建設
も手がけました。都市計画により1880年頃からサイゴンの町には
フランス本国で流行していた当時の建築様式をまねて、たくさんの建造物
が建設されたため、「東洋のパリ」とか「プチ・パリ」、「極東の真珠」
と呼ばれるようになったのです。ホーチミン市にあるコロニアル建築
(フランス植民地時代に建築された建物)の代表的なものを列挙します。

中央郵便局 (Buu dien Thanh pho)  
    1863年完成

ホーチミン主席記念館(Bao Thang Ho Chi Minh)
    1863年起工

統一会堂 (Dinh Thống Nhất)   
    1873年完成

ノートル・ダム大聖堂 (Nhà thờ Đức Bà)   
    1880年完成

コンチネンタル ホテル(Continental Hotel Saigon)
    1880年開業 

ホーチミン市博物館 (Bao tang Thanh Pho Ho Chi Min)
   1890年完成

市民劇場 (Nha hat Thanh pho)
    1900年完成

ホーチミン市人民委員会 (Uy ban Nhan dan Thanh pho)    
    1908年完成

マジェスティックホテル (Majestic Hotel)
    1925年開業

国立銀行支店 (Ngan hang Nha nuoc)
1930年完成

グランドホテル(Grand Hotel)   
    1930年開業

ホーチミン市人民法廷 (Toa an Nhan dan Thanh pho)
    不明


1918年
1918年のサイゴン。サイゴン港も開港されて、川沿いに市街地
が急速に拡大します。        
   

  1954年、フランスはディエンビエンフーの戦いで敗れ、ベトナム
から撤退し、フランスによるベトナムの植民地支配が終わります。
        
  その後ジュネーブ協定を経て、ベトナムは南北に分断され、
サイゴンは南ベトナムの首都となります。


1973年
1973年のサイゴン中心部。

1973年ー2
1973年のジョロン。市街地が拡大して、旧市街と新市街地が出来ています。


  1961年からはベトナム戦争が始まっており、1975年4月30日に
歴史的な「サイゴン陥落」を迎えます。


P1120040.jpg
11時30分、大統領官邸正面から無血入場する北ベトナム軍
 
 
  社会主義国になったベトナムを嫌って、多くの華僑がボートピ
プルとなって南ベトナムから脱出しました。1975年中華街のジ
ョロン(現在のホーチミン市第5区が中心)には110万人いた華
人は1978年には10万人にまで減少しました。その後市場開放
政策によりジョロンン華人50万人にまで回復しています。

P1110190.jpg
サイゴンから脱出する人々。

  
  統一後の1976年にサイゴンは区画が再構成されホーチミン
主席の名を冠してホーチミン市となります。ホーチミン市になる
過去の変遷は下記の通りです。(英語表記です)

1698-1790 HUYEN TAN BINH 
1790-1802 GIA DINH KINH
1802-1808 GIA DINH TRAN
1808-1832 GIA DINH THANH
1832-1835 TINH PHIEN AN
1836-1859 TINH GIA DINH
1862-1930 THANH PHO SAI GON
1930-1954 SAIGON-CHO LON
1955-1975 DO THANH SAI GON
1976-NOW THANH PHO HO CHI MINH      


  現在のホーチミン市は人口が700万人を超え、公共インフラ
の整備が急務になっており、政府も新都心の開発を急いでいま
す。 2区のThu Thiem地区や7区のPhu My Hung地区には新
市街地が建設されています。
チャン・フン・ダオ廟 
 
この寺に祭られているチャン・フン・ダオ(Tran Hung Dao/陳興
道、1228~1330)はベトナム人なら誰でも知っているベトナム
の国民的英雄です。

  境内の一角には陳朝の遺物を集めた博物館があります。
  
  陳朝(1225-1400)の初代皇帝・太宗の兄である陳柳の息
子で、本名はチャン・クォック・トアン(陳国峻)といいます。興道と
いう名は3回目のモンゴルの侵攻後彼の功績を讃えて与えられ
た王族としての称号です。
  
  ベトナム陳朝の時代、日本の鎌倉時代にモンゴル帝国の第5
代皇帝フビライ・ハーン(Kubilai Khan)のモンゴル軍は、当初、ベ
トナムや日本を属国にして中国の南宋を滅ぼす包囲網を築こうと
しました。日本では元寇(1274年の文永の役、1281年の弘安
の役)として知られていますが、ベトナムには1257年、1284年、
1287年と3度も攻め込んできました。  
  
  1257年、モンゴル軍はハノイをいったん占領したものの、そ
の後チャン・フン・ダオに補給路を断たれて撤退します。

  1284年、モンゴル軍の2度目の襲来の時、元の圧迫に恐れ
をなした仁宗が降伏しようと言い出したが、陳興道は「戦わずして
降伏するくらいなら、私の首を差し出せ」と言って、これを断固とし
て反対したという逸話が残っています。
  二度目の侵入でもモンゴル軍はハノイを制圧しましたが、陳興
道のゲリラ戦術と焦土戦術の前に退却せざるを得ませんでした。

  そして1287年、モンゴル帝国は三度50万人の大軍で海上
から陳朝とチャンパ王国を同時に攻撃してきます。このときばかり
は陳朝はチャンパ王チェー・マンと長年の遺恨を解消して共同戦
線を張り戦います。
  
  この時のチャン・フン・ダオの迎撃作戦は白藤(バクダン)江の
戦いとして後世に語り継がれています。
  その作戦は初のベトナム民族王朝を建てた呉権(ゴ・クェン)
の先訓を実行したものでした。「干潮のときに白藤(バクダン)江に
鉄の杭を立て、満潮を見計らってモンゴル軍の船団を杭を立てた
地点におびき寄せ、モンゴル軍が撃って出るのを見計らって、陳
軍は小さな船で戦いを挑みます。そして白藤江の潮が引きはじめ、
モンゴル軍の戦艦は杭にさえぎられ動けなくなったところで、陳軍
が突撃します。」 奮戦の末、モンゴル軍の戦艦100艘が沈没、4
00艘を焼き払い、総大将ウマルや数人の将軍を捕虜にしまし
た。
  
  この3回の戦いにモンゴル軍は全敗し、侵略をあきらめます。
ベトナムの民衆は彼を救国の英雄と称え、国中に彼を祀る廟が
立てられました。

  1300年、臨終の際、皇帝がその死を惜しんで、陳興道の病
床を訪れたといいます。

  彼の遺言に
「敵が辛抱強く、勝利を急がないようであれば、われわれは最も
優れた将軍を選び、将棋を戦うように最も効果的な戦術を駆使し
て戦うべきです。軍隊は親子のごとく一致団結し、民衆には心や
さしく接しなさい。民衆の力を育まなければなりません。山奥の道
をうがち、永続的な基地を作るようにじっくりとです」

  彼の遺言はその後のベトナム人に語り継がれ、ベトナム人の
フランスやアメリカに対する抵抗運動に国民皆兵で戦ったのはチ
ャン・フン・ダオの故事を国民がみな知っていたからかもしれませ
ん。

  白藤(バクダン)江は北ベトナムにあるのですが、ホーチミン市
1区のサイゴン川にもバクダン埠頭があり、チャン・フン・ダオの像
が建てられています。

  またレロイ通りとバスター通りの交差点には、バクダンという繁
盛しているアイスクリーム屋さんがあり、マクティブイ通りには同
名のホテルもあります。


01チャンフンダオ (1)  02チャンフンダオ (2)  03チャンフンダオ (3)


04チャンフンダオ (4)  05チャンフンダオ (5)  
05 昔の漢字は左から右に書いていました。右から書くようになったのは何時ごろからでしょうか。


06チャンフンダオ (6)  07チャンフンダオ (7)  08チャンフンダオ (8)  
06-08 本堂の欄干には、モンゴル軍との戦いが描かれています。


09チャンフンダオ (9)  10チャンフンダオ (10)  11チャンフンダオ (11)  


12チャンフンダオ (12)
陳朝の歴史と宝物を展示してある建物。毎日は開館していません。


13チャンフンダオ (13)  14チャンフンダオ (14)  15チャンフンダオ (15)
13-19 本堂にある陶器。国宝級です。きっと。


16チャンフンダオ (16)  17チャンフンダオ (17)  18チャンフンダオ (18)


19チャンフンダオ (19)

女性軍隊

現在ベトナムの軍隊は徴兵制によっていますが、徴兵される

のは男性だけです。しかしフランス植民地政府への抵抗時代

やベトナム戦争時には、女性も前線で戦いました。


まさに国民皆兵となって、自国の領土、自分の村を侵略者

から守りました。女性軍は後方支援がメインだったそうです

が、時には高射砲部隊も大砲部隊も編成されています


01 女性軍隊 (1)  02 女性軍隊 (2)  03 女性軍隊 (3)


04 女性軍隊 (4)  05 女性軍隊 (5)


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