べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ディンビンフーの戦い 最後の総攻撃

1954年5月1日-7日

5月1日、ベトミン軍は第3回目の総攻撃を敢行します。
この攻撃により最南端のイザベル陣地以外のフランス
軍の全要塞が陥落してしまいます。

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塹壕でくつろぐベトミン軍。食料は豊富にあります。
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不安げな顔つきのフランス軍
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最後の砲撃、突撃が開始されます。
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フランス軍兵士は次々と降伏します。
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敵陣地を陥落させた208部隊の記念写真
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5月7日17時40分、ド・カストリ将軍の司令部にベ
トミン兵が突入し、将軍以下1万人近くの兵士が捕虜と
なって戦いは終結します。

敵将カストリ(De Castries)将軍の要塞の屋根にホー
チミン主席から授与された「決戦・決勝」旗を掲げるベ
トミン軍。
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降伏、捕虜となるカストリ将軍。4カ月間収容所に入れ
られ、ジュネーブ和平協定締結後、釈放されます。

降伏の直前、ベトミン軍はフランスの名誉のために、降
伏ではなく戦闘の停止(停戦)という形をとりました。

ホー・チ・ミン主席の言葉
「一つの国が自分の国家のために戦う決心をすると、だ
れも、どの国の軍隊も勝てないことをベトナムの歴史が
証明した。」 


戦いが終わったディン・ビン・フー 
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この戦いでフランス軍の損害は、死傷者8300人と捕
虜10000名。一方、ベトミン軍の死傷者は約230
00人と言われています。

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収容所へ行進するフランス軍捕虜 約10000人。
このうち無事、本国に帰国できたのは約半数を言われて
います。

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押収した各種武器は17784個にのぼります。

ディン・ビン・フー陥落を報じるフランスの新聞
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フランスの新聞

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朝日新聞

ベトミン軍は10000名の捕虜の存在を秘匿し、ジュ
ネーブ和平会議の交渉過程でフランス政府からの身代金
と引き換えに捕虜送還が実現します。

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ディンビンフーの戦い 第2回目のベトミン総攻撃

1954年3月30日 ― 4月26日
ベトミン軍は2回目の総攻撃を仕掛けます。

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フランス軍陣地周囲に塹壕を掘り進めたベトミン軍
は、連続的に突撃攻撃を繰り返す作戦で、フランス軍
に反撃のチャンスを与えません。フランス軍のベトナ
ム兵士は徐々に戦意を失っていき、アンヌ=マリー陣
地から脱走し始めたため、フランス側はこの拠点を放
棄、退却します。

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フランス軍陣地は丸見えです。


アンヌ=マリー陣地の戦い
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飛行場占拠に突撃する105部隊
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第2回目の総攻撃で滑走路はベトミンの手に落ち、フ
ランス軍はハノイから増援部隊と物資の補給を落下
傘によって行うしか手段がなくなってしまいます。し
かしベトナム側の対空砲火や天候不順のためなかな
かうまくゆかず、戦況はますます不利になっていきま
す。


エレーヌC1陣地の攻防
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司令部東部エレーヌ基地のC1丘にあるフランス軍
事基地に突撃、殲滅させたベトミン316旅団。

日本の日露戦争そっくりのシーンです。ディン・ビ
ン・フーの戦いの作戦参謀には旧日本軍残留将校もい
ました。ベトナム国営テレビの映像では前戦で指揮し
ていた日本兵がいたと地元民が証言しています。 

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現在も残るC1陣地の遺構


4月9日から10日の夜半、第2外人落下傘部隊70
0名と第3外人歩兵連隊や第5外人歩兵連隊からの
志願者数百名がクロディーヌ陣地(指令室がありま
す)に降下し、ベトミン軍と交戦します。

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捕虜となるパイロット

 
1954年4月、アメリカのケネディ上院議員(後、
大統領)は戦争さなかのベトナムを訪問。「インドシ
ナにおいてどれほどアメリカが軍事援助をしても、民
衆の共感と支持を得ている神出鬼没のベトミンを倒
すことはできない」と警告しています。

<原爆使用作戦>
ニクソン副大統領は、ディン・ビン・フー要塞が包囲
されフランス軍が危機に陥った際には、要塞周囲の山
岳地帯に集結したベトミン軍に対して原爆の投下を
アイゼンハワー大統領に進言します。大統領は慎重で
した。英国、仏国と協議しましたが両国とも反対した
ため、ニクソン副大統領の要請を冷たく拒絶します。
ニクソン自著『ノー・モア・ヴェトナム』 

ディン・ビン・フー第1回目の総攻撃
1954年3月13日17時05分 ― 3月17日

ベトナム軍はディン・ビン・フー盆地のフランス軍 北方
軍事拠点を中心に攻撃を開始します。

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1954年3月13日夕暮れ、ディン・ビン・フー盆地
には霧がかかり始めていました。その時、ラジオ放送に
割り込みの声が入ってきます。ザップ将軍の声でした。
「Are you ready」
前線の砲撃司令官Dao Van Truongが答えました。「すべ
ての準備は整っています。我々はあなたの命令を待って
います」そして霧がだんだんと深くなってきていること
をザップ将軍に伝えます。

ザップ将軍は攻撃の許可を与え、命令します。
「Fire cannons, Fire hard, Fire with speed」40門
のカノン砲が一斉に火を吹きます。こうして世界史に残
る世紀の一戦は始まりました。

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時に1954年3月13日午後5時5分でした。

この時間、ハノイのGia Lam Airport空港からフランス軍
の偵察機が飛び立っており、特に異常な報告を受けていな
いカストリー将軍は部下と夕食を楽しんでくつろいでいま
した。
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夕食後、くつろいでいるフランス将校

ベトミン軍はフランス軍のディン・ビン・フー主滑走路2
本へカノン砲による攻撃を開始し、しばらく滑走路への砲
撃が続いた後、砲撃目標がベアトリス陣地へ切り替わりま
す。
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山上からの砲撃に支援され、ベトミン歩兵は塹壕を進み、
フランス軍の陣地への接近を図ります。

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ディエンビエンフー要塞の東北方面にはベアトリス陣地が
あり、この陣地を指揮していたのが、フランス外人部隊第
13准旅団長のゴーシェ中佐で、当初滑走路への砲撃がベ
アトリス陣地に切り替えられ、ベトミン軍が保有していな
いと思われた105ミリカノン砲による砲撃を受け、ゴー
シェ中佐は戦死します。

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37mm砲

塹壕を掘ってフランス軍陣地への距離を縮めたベトミン軍
は夜になって突撃を開始し、22時30分ベアトリス陣地
を陥落させます。

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ベアトリス陣地陥落

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撃墜されたB24

翌日の14日の午前中は遺体の引き取りのため休戦します。

続いて3月14日の夜にはガブリエラ陣地がベトコン30
8師団の夜間攻撃を受けて陥落してしまいます。

15日の朝にも休戦時間が設けられました。

1949年中華人民共和国の成立に伴い、翌年ホーチミン
は秘密裏に中国、ソ連を訪問し、毛沢東、スターリンに会
い武器援助と国家承認をとりつけており、以降大量の武器
が中国から供与され、ソ連からも中国経由で対空機関砲な
どの供与を受けていたのです。特に重砲はすべて朝鮮戦争
で中国がアメリカから捕獲したもので、旧日本軍が中国で
使用した山砲も含まれていました。

ホーチミンのこの秘密行動にフランス軍は気づいていませ
んでした。
3月15日の早朝からはフランス軍は戦車部隊を繰り出し
反撃を開始しますが、失われたベアトリス陣地、ガブリエ
ラ陣地の奪回は出来ませんでした。

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降伏するフランス軍兵士

そして3月25日には第3外人歩兵連隊が守備するラレー
ヌ陣地(アンヌ=マリの陣地の一角)が大激戦の末に、フ
ランス側ベトナム兵士の脱走が相次ぎ、フランスは基地を
放棄します。

陣地を守備するフランス軍の現地ベトナム部隊、アルジェ
リア兵やモロッコ兵などのフランス植民地兵の戦意は低く、
実際のフランス軍戦力は外人部隊(主にドイツ兵)とフラ
ンス軍落下傘部隊だけでした。
 
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ベアトリス軍事拠点を撃破した312旅団23大隊にホ
ー・チ・ミン主席の「決戦、決勝」旗を授与する共産党政
治局委員

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第2回総攻撃に備えて塹壕を掘るベトミン兵の食事時間

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トラックには発見されないように偽装工作を施します。

ディン・ビン・フーの戦い 作戦変更


ベトナムの戦争史の中で、自軍の軍事力が不利なため、体制を立て直
すために一時退却し反撃の準備をすることはよくありました。世界史
に記録されている戦史の中では、自軍が軍事的には有利なのに一時退
却し、敵の軍隊をワナにかける作戦も記録されています。

しかし、ベトナム、ディン・ビン・フーでの戦いで決定された戦闘直
前の総退却は、少し事情が違っていました。

フランス植民地軍とベトミン軍の世紀の一戦は、フランス軍がベトミ
ン軍の攻撃を迎え撃つという構図が描かれていました

この戦いは双方の主力部隊が集結し、ベトナムがフランス植民地軍を
追放して、自国の独立を守り通せるかの瀬戸際の戦いでした。

ベトミン軍の総攻撃は、突発的な出来事が発生して、その都度、延期
されていましたが、前戦では1954年1月26日夕方が総攻撃の日
と、兵士に通告されていました。

双方の前戦司令官や軍事顧問団はお互いに2-3日から1週間で、敵
を殲滅できると考えていました。

兵力は歩兵数や大砲の数ではベトミン軍が勝っていましたが、フラン
ス軍には、戦車や航空機がありました。しかしベトミン軍も120m
m迫撃砲や対戦車砲を中国やソ連から支援されていました。軍事力で
はベトミン軍のほうが有利であったと考証されています。

ベトミン軍兵士の士気は、自国民のフランス植民地政策からの開放と
いう大義名分の下に非常に高く、開戦を今か今かと待っていました。
そしてVi Quoc Thanhを中心とする中国軍事顧問団も早期開戦を支
持していました。

この戦いから、東側陣営、西側陣営のジャーナリストが従軍記者とし
て同行するようになります。西側記者はサイゴンに上陸し、ハノイか
らディン・ビン・フーへと、東側記者は中国を通ってディン・ビン・
フーにやってきました。ベトナム建国以来、外国人ジャーナリストが
ベトナムに入国して取材するのは、この時からのようです。

フランス軍のディン・ビン・フーの陣地には、フランス、アメリカ、
イギリスの首脳陣がそれぞれ視察に訪れ、満足げに帰っていきます。

世紀の戦いの開戦命令はすべてベトミンの最高司令官ヴォーグエン
ザップ将軍の手中にありました。しかしザップ将軍は慎重に慎重を重
ねて考え抜いていました。それはホーチミン主席の言葉「勝利に10
0%確信が持てるまでは、攻撃してはならない」と言う厳命があった
からでした。

1954年1月14日 Tham Pha 洞窟にベトミン軍の指揮官やス
タッフが招集され、秘密裏に総攻撃は1月20日と決定されます。
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しかし一つの砲兵軍団が戦闘位置につけなかったため、総攻撃は1月
25日17時に延期されます。

そして1月25日にも不幸にも312部隊のベトミン兵士がフラン
ス軍に捕まり、総攻撃日が1月25日であるとの情報がラジオで流れ
てしまいます。

総攻撃日はさらに翌26日に延期されました。

総攻撃の前日のことを、ザップ将軍は老年に回顧しています。
「その日私は、最も信頼している軍事スタッフであるHoang Van Thai
からの報告を聞いた後、私は考え続けその夜は眠ることが出来ません
でした。軍医のThuyが私の額にハーブを乗せてくれました。その日
の夜、私は司令官として生涯で最も困難な決定をしなければならなか
ったのです」、

ザップ将軍は前線指揮官が戦況が有利であることを、そして長期の補
給が難しいことから、即、開戦を望んでいることを理解していました。

しかし一晩中考えていた将軍は3つの困難を考え始めていました。

第1 ベトミン軍は強固で組織化された要塞を攻撃することはNa
Sanでの戦いの一度きりしか経験していない。そして戦闘経験を持っ
ている兵士は限られている。もし作戦に失敗したら、我々の被害はい
かに甚大であるか。

第2 今回の戦いはあらゆる武器を使う総力戦である。なのにベトミ
ン軍の砲兵や歩兵は正規に十分に訓練されているといえるだろうか。

第3 ベトミンは夜間のゲリラ戦には長けているが、今回は広い範囲
での盆地での戦いや敵の要塞と攻め落とす攻撃である。夜間だけの攻
撃ではない。敵の航空機や戦車も戦線に参加してくる。果たして短期
間で敵を殲滅できるのだろうか。

翌26日の早朝、ザップ将軍は軍事スタッフを招集します。前戦指揮
官であるVi Quoc Thanh は他の指揮官が集まってくる前に、ハーブ
で額を冷やしている将軍を見てびっくりし、将軍の健康を気遣かった
後、まもなくの開戦を控え現在の状況を説明します。将軍はThanh
指揮官からの報告を基に、双方の軍事力を話し合います。

そして将軍は言い放ちます。「もし今戦えば、我々は負けるだろう」
Thanh指揮官はどうすればいいか、将軍に尋ねます。ザップ将軍は自
分の意図を明確に話します。「攻撃は延期し、すべての軍隊は現在の
位置から総退却をして、もっと有利な条件で戦えるよう準備する」

しばらく考えた後、Thanh指揮官はザップ将軍に同意し、他の指揮官
を説得する役割を担います。

会議で多くの前線指揮官は勝利について確信できなっかたが、開戦す
ることを望んでいました。会議は結論を出せないでいました。
最後にザップ将軍がホーチミン主席の言葉を引用しながら尋ねます。
「この戦いに100%勝利する確信がありますか?」
「Sure」という言葉はどの指揮官からも返ってきませんでした。彼ら
の答えは「We can win」「我々は勝つことが出来る」でした。

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この答えでザップ将軍は撤退を決心します。

26日の午後遅く前戦部隊に撤退命令が下されます。数時間後の開
戦のため、すべての準備を終えていた前戦部隊は、誰もがこの撤退命
令を信じることが出来ませんでしたが撤退の軍事命令が覆ることは
勿論ありませんでした。

この撤退命令書はトップシークレットとされ、電信で伝達されること
はなく、すべてクーリエによって伝達されました。北部ベトナムのバ
ックボーにいたホーチミンや政治局員にも3日後に伝えられ、ディ
ン・ビン・フー戦いのすべての権限を与えられていたザップ将軍の
判断に同意します。

25日、26日にベトミン軍の攻撃がなく、加えてすべての砲兵が引
き上げ、ベトミン最強の308軍団が北部ラオスへと移動していくの
を知ったフランス軍は、ベトミンはディン・ビン・フー作戦を放棄し
たものとみなしました。

その後1月、2月中はベトミン軍の軍事行動は何もなく時が過ぎます。
ベトミン兵士はディン・ビン・フーで旧正月を迎えます。このことが
何を意味しているかフランス軍はまったく理解していませんでした。
フランス軍は空からビラをまいてザップ将軍を盛んに挑発します。

フランス軍首脳はまったく無知でした。1月、2月にベトミン軍は秘
密裏にディン・ビン・フーに続く道を整備し、新たに山岳地帯を通る
6つの補給路を人海戦術で構築し、補給路を堅固に作り変えました。
作り上げた秘密裏の補給路からは長期戦にも耐えられるように連日
のように食料や弾薬が後方から続々と送られてきます。
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突撃用の手榴弾は女性によって作られ、前戦に送られました。
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カノン砲をはじめとする大砲や対空砲は再配置されます。
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カノン砲は人力で山上に引き上げられます。大砲がずり落ちるときに
身を呈して大砲の下敷きになった兵士もいました。ザップ将軍は、「人
民の戦争 人民の軍隊」という書物で、「ディン・ビン・フーの決戦で
べトミンが勝つことができた原動力は、ディン・ビン・フーの周囲の
山に大量の大砲をかつぎあげた民衆である。 フランス軍は「ナポレ
オンがイエナの戦いで高地に大砲を引き上げ、プロイセン軍を壊滅さ
せた」あの貴重な戦訓をすっかり忘れていたようだ。」と回顧してい
ます。

戦後、フランス軍将校は、べトミンがまさか山の上に大砲を設置し、
いっせい砲撃をするとは思っていなかったし、中国軍が一緒にいたこ
ともはじめて知ったと。

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再配置されたカノン砲を視察するザップ将軍

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総攻撃の日までフランス軍の偵察機に見つからないよう隠されます。


フランス軍陣地を取り巻くように塹壕が掘られました。確実な勝利の
ための準備を着々と進めていたのです。塹壕を掘る作戦は第2次世界
大戦の残留日本兵がベトミンの作戦計画に参加していたからとも言
われています。
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一旦は北部ラオスへと移動した主力部隊308も秘密裏にディン・ビ
ン・フーへと帰還してきます。

撤退から1カ月半、総攻撃の準備を終えたベトミン兵士は、ザップ将
軍が漏らした言葉から総攻撃の日を読み取っていました。「1954
年3月13日は私にとって、とても長い日になるだろう。」

3月4日になると、フランス植民地司令官のナヴァール総司令官とコ
ニー将軍(Navarre、Cogny)がディン・ビン・フー陣地に視察来ます。
カストリー司令官は2人を歓迎して言いました。「我々の関心はベト
ミン軍が何もしてこないことです。我々はベトミン軍が攻撃してくる
のを待っているのです。」。

コニー将軍が答えました。「何もすることはない。ベトミン軍は変心
したのだ。ベトミン軍が攻撃すれば、我々は大勝利を勝ち取るが、彼
らが戦いを拒否すれば、戦わずして勝ったということを意味している
のだよ。」


3月13日 フランス軍の指令本部ではカストリー将軍とそのスタ
ッフが、今日の攻撃のないとの判断から、共にワインを飲みながら夕
食を楽しんでいました。

ディン・ビン・フーの盆地には夕日が沈みかけ、霧がかかってきまし
たが、前戦は静かでした。その時、突然ラジオ放送に割り込みの声が
聞こえます。

ザップ将軍の声でした。「準備はOKか」。

前戦司令官のダオ・バン・チュン(Dao Van Truong)が答えます。
「すべてOKです。攻撃開始のあなたの指令を待っています」。霧が
出てきていますので攻撃開始の命令をお願いします」

ザップ将軍は攻撃を承認し、そして叫びます。「Fire connon, Fire
hard, Fire with speed」40門のキャノン砲が一斉に火を噴きました。
歴史的な戦いの始まりです。

時に1954年3月13日17時05分でした。

ディンビンフーの戦い  ベトコン補給部隊

ディンビンフーの戦いは、1地域での戦いでは56日間という
世界の戦争史でもっとも長期の戦いでしたので、前線への補
給確保が重要な役割を果たしました。特にベトナム側の補給
部隊には兵士の数より多数の市民が参戦しました。

もともと北部ベトナムの北西地方は人口密度の低い地方で1
平方キローに8.5人しか住んでいない少数民族地帯(ターイ
族が中心)でしたが、この戦いのために多くの青年ボランティ
アーや労働者が北部ベトナムを中心に集結し、その数は100
000人にも達したと言われています。集結した人は「バイク部
隊」、「道路工事部隊」、「精米部隊」などに区分けされ、補給
部隊として戦争に参加します。前線兵士1人につき、10人の
補給部隊が結成されたとされています。

この地方の少数民族は自給していた米を兵士のために供出
し、自分達はトウモロコシやタピオカなどを食べて凌ぎました。
紅河デルタ地帯から多くの精米機を借りて、兵士へ送る米を
袋詰めにし、15日から20日かけて昼夜兼行で天秤棒や馬、
自転車で前線に送りました。

01徒歩
補給はまさに人海戦術でした

02天秤棒
天秤棒姿はベトナムの伝統です

04像
馬や象も大切な戦力になりました

05自転車1

06自転車2

07自転車3

08自転車4
補給部隊の主役は自転車でした。

この地方では自転車は宝物でしたが、20000台の自転車が
補給のために供出されました。自転車はハンドル部分が改良
され一度に200Kgから300Kgを運びます。

フランス軍は補給路を遮断するべく、航空機によって道路を
爆撃し、化学剤を使用して雨を降らせ、地すべりを発生させる
などして攻撃しましたが、ベトミン側は山岳地帯に地元民しか
わからない新たな補給路を人海戦術で数本完成しており、こ
れらの道は発見すら出来ませんでした。

とはいえ補給部隊にとってディン・ビン・フーへの道のりは険
しく、傷を負って帰ってくる人が絶えず、途上で命を失った人
も多数いました。

しかし、後に首相になるファン・バン・ドンは、ディン・ビン・フ
ーの戦いはベトナムにとって負けられない一戦のため、共産
党と政府を統合して「中央補給評議会」を結成し、国民に激を
飛ばします。

「すべての国民はディン・ビン・フーの戦いのために、労働力
のすべてとすべての財産を供出しよう」まさに国の命運をか
けた一戦だったのです。

国民はベトナムの真の独立と自由のために参戦します。現在、
高齢になっている市民兵士が自負を胸に口ずさみます。

[ We are the soldiers of Dien Bien Phu Campaign ]

我々はディン・ビン・フーの戦いの兵士だ

国民が何故これほどまでに協力したのかについては、国家
の真の独立のためという大義に加えて、前年の1953年に行
われた農地改革が影響しているものと思われます。

ベトコン側の補給部隊に対して、フランス軍の補給は航空機
に頼るしかなく、戦闘の開始直後にフランス軍が整備した2本
の滑走路が攻撃を受けると、もはやパラシュートで補給物資
を投下するしか手段がなく、雨季の天候を作戦計画に織り込
んでいなかったフランス軍は致命的な欠陥を露呈します。

補給部隊の明暗はこの戦いの成否を決定する重要な要素で
した。
(続く)



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