べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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9 ホーチミン主席の足跡 1911年(21歳) 更新1
9 ホーチミン主席の足跡 1911年(21歳) 更新1

1910年9月19日
ファンティットでの教員の仕事を辞したグエ
ン・タッ・タン(偽名ヴァンバ)はズックタン学校
の同僚の世話でサイゴンにやって来ます。

サイゴンで「LIEN THANH会社]を探すまで
の間、フエ宮廷の官僚チュン・ヤ・モ-の母
方の親族であるLê Văn Đạtの家に世話に
なります。

11
現在のコーバック(CÔ BẮC)通りのHEM
(小道)185/1にあります。
現在は勿論建て替えられていますが、子孫
の方が道路の反対側でメガネレンズの会社
を営んで住んでいます。

2日後、バン・バ青年はLIEN THANの販
売会社を探し当てます。

12
当時のLIEN THAN販売会社のヌックマム
工場倉庫

13
現在のLIEN THAN会社
現在のホーチミン市4区ベンヴァンドン(Bến
Vân Đồn)通り243番地

14
LIEN THANの商標

ベンゲ運河沿いのBẾN VÂN ĐỒN通りの
散歩道をチョロンに向かって歩いていくとあり
ます。
探し当てたのは仕事場で宿舎は現在のチョ
ロン郵便局の手前にあります。


宿舎は当時のままなので、1988年11月1
6日に国の歴史的建造物に指定されていま
す。
現在のホーチミン市5区チャウバンリン(Châu
Văn Liêm)通り5番地、チョロン郵便局の
近くにあります。

15

サイゴンで Van Ba青年が見た光景は、フ
ランス人に虐げられているベトナム人の姿で
した。豊かなのはフランス人とその手下にな
っている官僚達で、庶民は過酷な生活を強
いられていることを強く感じます。

16
1911年初頭。サイゴンのフランス人

17
サイゴンの官僚達

サイゴンの官僚達はメコンデルタの米の精米
を一手に引き受けていた中国人と結託して
懐を肥やしている人がたくさんいました。

サイゴン在住時、ヴァン・バ青年はLIEN
THANで働きながら3カ月だけでしたが
Ecole des Mecaniciens(カオタン技術養成
学校)に通い、機械技術を勉強します。

仕事と勉強の合間にはサイゴン港の埠頭周
辺で新聞を売り歩いて、外国へ行くチャンス
を探します。

18
1908年のカオダン技術養成学校

19
技術研修はバソン造船所内で行われまし
た。


6月2日 
彼は現在のマジェスティックホテルの並びに
あったフランス海運会社Chargeurs Réunis
Companyの船員募集広告を見つけ応募
します。ヴァン・バ青年は船員としては無理
でしたが、翌6月3日、船会社の責任者が
会ってくれ、厨房補助員として̉月45フランの
賃金で雇ってくれることが決まったのです。

ヴァン・バ青年は停泊していたラトゥーシュ・
トレヴィル号に行って就職を依頼したという
記事もあります。

20
船会社のビル

21
左のビルが当時まだ未建設のマジェスティッ
クホテル、ドンコイ通りを隔てて右側のビルが
旧船会社の再建されたビル。

この船会社はL’Amiral Latouche
Tréville (提督ラトゥーシュ・トレヴィル号、
略してトレビュー号)とナムサオ号というベトナ
ムとフランス間を航海する船を運航していま
した。

トレビュー号はフランスのマルセイユ港を母
港とするハイフォンとフランス最北端の港ダ
ンケルクを結ぶ貨客船で、航路はスエズ運
河を通る航路とアフリカ最南端の喜望峰を
通る航路があり、当時のフランスとイギリス
の植民地に寄航しながら、航海をしていまし
た。

22
1911年のグエンフエ通りの写真。
正面にトレビュー号(Amiral Latouche
Tréville)が停泊しています。
後のホーチミン主席が救国を胸にフランスへ
旅立った時に乗った貨客船です。

ホーチミン主席はニャロン桟橋(現在のホー
チミン主席記念館、昔のドラゴンハウス前)
の桟橋から旅立ったとされていますが、それ
は史実ではなく、実際はグエンフエ通り突き当
りの、この桟橋から旅立ちました。

23
貨客船トレビュー号

24
貨客船トレビュー号


6月4日
彼はLIEN THAN会社の同僚やサイゴンに
来ていた父親に一時の別れを告げ、旅支度
をします。しかしこの旅立ちがヴァン・バ青年
と父親の最後の出会いで、生涯、父親に会う
ことも墓所に行くこともかないませんでした。

6月5日
トレビュー号は前寄港地トーラン港(Tuaran
現在のダナン)から6月2日にサイゴン港に
入港しており、6月5日フランスへと出航しま
す。ヴァン・バ青年は晴れて救国の意思を胸
にフランスへと旅立ちます。時に彼は21歳でした。

ホーチミン主席関連の本に常に「ホーチミン
主席は救国の道を探しに外国へと渡りまし
た」と書かれる、ベトナム独立にとって重要な
エポックになった出来事です。

25
船会社の賃金台帳。真ん中の欄に「ヴァン・
バ」とあります。45フランと書かれています。


26 サイゴン出航記録
サイゴン港出航の記録

サイゴンを出航したヴァン・バ青年は、8日シ
ンガポール、14日コロンボ、 30日スエズ運
河を通ってエジプトに寄港してから、約一月
後の7月6日、フランスのマルセイユ̣
(MACXÂY)港へ到着します。

27
フランスへの航路

28 シンガポr-ル
シンガポール

29 コロンボ
コロンボ

30 エジプト
エジプト


航海中の自由時間に彼はよくシェイクスピア、
トルストイ、マルクスなどの本を読んでいたそ
うです。

31
ホーチミンの愛読書「シェイクスピィア」


32
フランス マルセイユ入港記録

33
当時のマルセイユ港

34
マルセイユ港キャノビー(Canobie)通り

マルセイユで彼はコーヒーショップに入り、「ム
ッシュー」と呼ばれたことに感動しています。フ
ランス本国では誰もが彼を平等の人間として
接してくれたことで、植民地とはあまりに違う
光景でした。

その後、トレビュー号はフランスのルアーブル
港(Le Havre port)に寄港後、ダンケルク港
に8月19日に入港し、9月に母港マルセイユ
に停泊します。

次の出航まで彼はルアーブル港近くの
Sainte-Addresseで住込みで庭師や厨房で
の仕事をして生活していたようです。

9月15日
ヴァン・バ青年はフランス大統領に手紙を書
きます。

35

Kính gửi ngài Tổng thống nước cộng hòa
Tôi vinh hạnh xin Ngài, với lòng nhân từ
cao cả của mình, một đặc ân là ̣dược vào
học trường thuộc địa như một học sinh
nội trú.

Hiện nay tôi đang làm việc cho Hãng vận
tải hợp nhất́ (Companie des Chargeurs
Reunis) trên tàu L'Admiral Latouche
Tre'ville.

Tôi hoàn toàn không có tiền của, nhưng
ham học hỏi. Tôi muốn trở thành hữu
ích cho nước Pháp trong quan hệ với đồng
bào tôi và làm cho họ được hưởng những
điều tốt đẹp của học vấn,

Tôi quê t̉in Nghệ An ở Trung Kỳ,
Trong khi chờ đợi Ngài trả lời, mà tôi
mong là thuận lợi, xin Tổng thống nhận
lời biết ơn trước của tôi.

Nguyẽn Tất Thành, sinh năm 1892 ở
Vinh, con ông Nguyễn Sinh Huy (Phó
bảng), học tiếng Pháp, chữ quốc ngữ và
chữ Hán

「私、グエン・タッ・タンはベトナムゲアン省の
生まれで、現在フランスの船会社で働いてい
ます。私はお金がまったくないのですが、フラ
ンスの学校(Colony School in Paris)で勉
強したいのです。」と言うことが書かれている
のですが、勿論、いくら待っても返事はきませ
んでした。
この手紙の最後のパラグラフには、1892年
ゲアン生まれとあります。

10月31日
グエン・タッ・タンは父親に15ドンの送金為
替を組みます。この時、父親がどこに住んで
いるのか曖昧だったため、彼はフエのフランス
の役所に手紙を書き、父親に15ドンの受取
を依頼します。

36
後日送金は父親に渡されたことが確認され
ています。


1911年の暮れ、貨物船トレビュー号はフラ
ンスのマルセイユ港からベトナムのハイフォン
に向かって出航します。ホーチミンは1912
年の始めに一旦サイゴンに戻っています。父
親を探したようです。そして再びマルセイユに
向けての航海に出ます。

彼の船員としての旅は1913年のフランス、
ルアーブル港到着まで続きます。


コラム  カオタン技術養成学校

カオタン技術養成学校(Cao Thang
Technical School 仏語 Ecole des
Mecaniciens)はハムギ通りにあります。

37
現在のカオダン技術学校

フランス植民地政府は植民地支配と地域の
発展のために1906年2月20日、機械技術
の専門学校を南ベトナムに設立しました。

南ベトナムの最初の技術養成学校で、卒業生
は近くのバソン造船所で働く人が多くいました。

1906年の設立から1954年にフランスがデ
ィエン・ビエン・フーで大敗を期すまで695人
の卒業生を送り出しています。

海外に行くことを夢見ていたバン・バ青年は
フランスに旅立つ前、この学校で機械技術を
3カ月間勉強しました。

ホーチミン内閣の副大統領に就任し、ホーチ
ミン亡き後に大統領職を引き継いだトン・ドゥ
ック・タン(Tôn Đức Thắng)も1915年から1
917年の間、この学校で船の機械技術を勉強
しました。


この学校の生徒には愛国者が多く、フランス
の植民地支配に抵抗する学生がたくさんい
ました。

1932年には学生の中にインドシナ共産党
の支部が設立され、1940年の南部一斉
蜂起や1945年のベトナム8月革命にも多くの
学生が参加しました。

ベトナム分断後も南ベトナムのジェム政権や
チュウ政権に対して抵抗運動をしています。

38
カオタン技術学校の卒業証書

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8.ホーチミン主席の足跡 1910年(20歳) 更新1
8.ホーチミン主席の足跡 1910年(20歳)
更新1

グエン・タッ・タン(後のホーチミン主席)の父
親はビンディン省ビンケー地区の公務員のチ
ーフを務めていましたが暴行事件を起こし、
官職を追放になってしまったので、グエン・タ
ッ・タンも学校へ行けなくなり、自活の道を探
さねばなりませんでした。父親はグエン・タッ・
タンの就職を助けるため、旧知の親友であっ
たフエ宮廷の官僚チュン・ヤー・モ(Trương
Gia Mo)に就職斡旋の手紙を書きます。

11 (301x400)
チュン・ヤー・モ

チュン・ヤー・モは愛国者達によって運営され
ていたファンティットにあるドゥクタン学校で教
師をしているホー・タ・バン(Hồ Tá Bang)を
紹介してくれます。

12 (274x400)
ホー・タ・バン

1910年10月 グエン・タッ・タンがチュンヤ
モーの紹介状を持ってファンティット行き、ホ
ー・タ・バンに会います。

ドゥクタン学校での予備教師の職に着いたグ
エン・タッ・タンは第2学年の中国語と国語
(クオック・グー呼ばれます)教えていましたが、
授業が終わると生徒と一緒に運動をしたり、
よくファンティエットの美しい海岸、Thương
Chánhビーチに生徒を連れて行き、昔の偉
人やファンティット村の祠の話を聞かせて生
徒の愛国心を育てました。

Nguyễn Hiệt Chiの息子Nguyễn Kinh Chi
はグエン・タッ・タンの教え子で、グエン・タッ・
タンがベトナム民主共和国の大統領になっ
た時、第1期から4期まで国会議員に選出さ
れ、保健省の副大臣を務めました。

̉約6カ月間、ドゥクタン学校で教師をしていた
時にグエン・タッ・タンはフランスへの海外渡
航の夢を同僚達に話します。

同僚の愛国者ホー・タ・バンとチャン・レ・チャ
(Trần Lệ Chất)は海外に行くには何よりも
サイゴンに行って渡航のチャンスを掴まねば
ならないと話し、グエン・タッ・タンのサイゴン
行きが実現するよう諸手配をしてくれます。

13 (288x400)
チャン・レ・チャ

彼らはグエン・タッ・タンの為にサイゴンの「Li
ên Thành」会社へ行くように薦め、サイゴ
ン到着時の当面の居住先としてチュン・ヤ
ー・モの母方の親戚レ・バン・ダット(Lê Văn
Đạt)の家を紹介します。

さらに「Ban Va」と言う名前でグエン・タッ・タ
ンのパスポートを取得してくれます。
グエン・タッ・タンはフエのクオック・ホック高校
時代に反税デモに参加してフランス秘密警
察に危険人物として調書を作成されている
ので、本名でのパスポート取得は困難でした。
Ban Vaという名前は数多くあるホーチミン主席
の最初の偽名です。

そして1911年3月、グエン・タッ・タンはドゥク
タン学校を後にし、サイゴンに向かいます。


コラム ドゥクタン学校 14 (400x222)
ドゥクタン学校
số 39 phố Trưng Nhị, phường Đức Nghĩa,
Phan Thiết

ドゥクタン学校は東遊運動拡大の過程で中
部ベトナムの中心的教育機関として愛国者
によって、1907年に創立されました。
ファン・チュウ・チン(Phan Châu Trinh)はフ
エの宮廷で働いていましたが、官僚の腐敗を
見て、職を辞し南部ベトナムを初めとして全
国遊説の旅を始めます。

1905年にはファン・チュウ・チンはチャン・ウ
ィ・カップ、フイン・トゥック・カン(Trần Quý
Cáp、Huỳnh Thúc Kháng)と共にファンティ
ットを訪問し、この地に愛国者の学校を創設
し、愛国的若者の教育を通じてベトナム独
立の礎にしようと行動します。
当時はファン・ボイ・チャウの東遊運動の影
響で、全国にベトナム独立のために次代を
担う人材の育成が急ピッチで行われていた
時代でした。

15 (344x345)
ファン・チュウ・チン

16 (300x300)
チャン・ウィ・カップ

17
フイン・トゥック・カン

6人の創業者(全員儒学者でした)

18 (300x240)
左上からHồ Tá Bang、 Nguyễn Trọng Lợi、
Nguyễn Quý Anh、
Nguyễn Hiệt Chi、Trần Lệ Chất、
Ngô Văn Nhượng

ファンティットは東遊運動の教育面のルーツ
となった場所なのです。

フエの官僚チュン・ヤ・モーの仲介で愛国詩
人Nguyễn Thôngの2人の息子
Nguyễn Trọng Lợi, Nguyễn Quý Anhと
Hồ Tá Bangが東遊運動を広めるために会合
します。その後Ngô Văn Nhượng,
Nguyễn Hiệt Chi, Trần Lệ Chấtの3人が
加わり、6人は東遊運動の3つの信条、
『知識の向上、連絡網の拡大、民生の向上』
の達成を政治的、文化的、経済的に結び
つける為に結束し、次々と組織を結成して
いきます。

1905年 愛国的書籍の普及の為「Liên
Thành Thư Xã」を設立。
Nguyễn Hiệt Chiによって主宰されたこの会
社はファン・チュウ・チンを初め、多くの講師
を招き講演会を開催し、熱狂的な喝采を浴
びました。

1906年6月6日 経済活動に資金を提供
し、人々のための雇用を創出するためにヌッ
クマム製造販売会社「Liên Thành Thương
Quán」を設立。

ファンティットはフーコック島と並んで、魚から
造る醤油「ヌックマム」の二大産地で、「Liấn
Thành会社」はファンティットで製造されたヌ
ックマムをサイゴンに移送し、サイゴン港から
輸出していました。
この会社の活動から生じた資金はファン・ボ
イ・チャウの東遊運動の秘密資金として貢献
したり、後の民族解放運動の資金にもなりま
した。

1907年 劣悪な労働に従事している愛国
少年の為のオープンスクール「Dục Thanh
Học Hiệu」を設立。
この学校は北部ベトナムに設立された日本
の「慶応義塾」まねて設立された「東京義塾」
と同じ年に創設されました。

学校の教室は木造立てが2つあり、自習室
や遠方から来た先生や生徒の為の寄宿舎
も建てられていました。

学校の運営資金は地元の名士Huỳnh Văn
Ðẩuと「Liên Thành Thương Quán」からの
寄付でまかなわれました。
生徒の授業料は無料で教師の給料も寄付
金から支払われました。

学校はNguyễn Quý Anh校長の他に
Nguyễn Hiệt Chi、Trần Đình Phiênが教
師として4クラス約100人の生徒を教えまし
た。

19 (400x236)

サイゴン、ダナン、ホイアンをはじめ、中南部
や南西ベトナム地方から優秀な生徒が集ま
り、ほとんどの生徒が寄宿舎で一緒に過ごし
ました。
教科書はハノイの「東京義塾」で使用されて
いるものをTrần Lệ Chấtの友人であるフエ
宮廷の軍人Đào Nguyên Phổが運んで来ま
した。

授業はとても厳しく管理され、朝6時から午
後5時まで勉強し、授業が終わると起立し、
胸に手を当てファン・チュウ・チンが1907年
に書いた詩を基に作られた愛国ソングを歌う
のが日課でした。

1911年の後半には、愛国書の出版や講演
会を主宰していた「Liên Thành Thư xã」が
閉鎖され、ズックタン学校もいろいろな理由
で閉鎖の一歩手前になっていました。

ズックタン学校の校長をしていたNguyen
Quy Anhは唯一元気に活動していたチョロ
ンにあるLiên Thànhの販売会社に責任者
として赴任してきます。

現在あるズックタン学校はグエン・タッ・タンが
教えていた時の生徒が中心となり再建され
たもので、ベトナムの歴史的場所をして博物
館になっています。

20

グエン・タッ・タンが世話をした木々と、毎日
水を汲んだ井戸は現在も大切に保存されて
います。

ホーチミン主席の足跡 1911年補足 カオタン技術学校
カオタン技術学校(Cao Thang Technical School 仏語 Ecole des Mecaniciens)はハムギ通りにあります。

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現在のカオダン技術学校

フランス植民地政府は植民地支配と地域の発展のために1906年2月20日、機械技術の専門学校を南ベトナムに設立しました。
南ベトナムの最初の技術専門学校で、卒業生は近くのバソン造船所で働く人が多かったそうです。

1906年の設立から1954年にフランスがディエン・ビエン・フーで大敗を期すまで695人の卒業生を送り出しています。

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1908年のカオダン技術学校

海外に行くことを夢見ていたバン・バ青年(ホーチミンの当時の名前)はフランスに旅立つ前、この学校で機械技術を3カ月間勉強しました。

13_20120910175014.jpg
学校での技術研修

ホーチミン主席の副大統領に就任し、ホーチミン亡き後に大統領職を引き継いだトン・ドゥック・タン(Tôn Đức Thắng)も1915年から1917年の間、この学校で船の機械技術を勉強しました。

この学校の生徒には愛国者が多く、フランスの植民地支配に抵抗する学生がたくさんいました。

1932年には学生の中にインドシナ共産党の支部が設立され、1940年の南部一斉蜂起や1945年のベトナム8月革命にも多くの学生が参加しました。

ベトナム分断後も南ベトナムのジェム政権やチュウ政権に対して抵抗運動をしています。

14_20120910175013.jpg
カオタン技術学校の卒業証書>

ホーチミン主席の足跡 1944年捕捉 昆明の同志
1943年9月10日 ホーチミンは柳州の監獄か
らは釈放されますが中国からの出国が認められ
たのはホーチミンが蘭州(Lan Châu)で活動して
いた1944年8月9日でした。

柳州での監獄生活はたらい回しにされた他の監
獄に比べれば多少待遇が良くなったのですが、
所詮、監獄での生活ですからホーチミンの体調
は非常に衰弱していました。

ベトナムへ戻る途中、ホーチミンは昆明で共産主
義活動をしている同志の家を訪ねようと1ヶ月
かけて歩いて行きます。

この時、ホーチミンに従ってきた同志はMinhと
言う人とPhùng Thế Tàiというベトナム人の兵士
で、彼は後日、最初のホーシミンのガードマンに
なります。

昆明の同志は現在のハノイ市Đống Đa地区にあった
Kim Liên村の出身で、両親が農地を持ってい
なかった為、生活が苦しく故郷を離れ昆明に移住
してきたTrần Việt Hoaという女性で、既に
Tống Minh Phươngという男性と結婚していまし
た。

彼女は文字が読めなかった為、コーヒーショップ
を営みながら、在中国を中心とした海外在住の
ベトナム人にマルクスの本や新聞「Tiếng Dân」
や「Thời thế」のコピーを作って売っていました。

昆明には1930年にイェンバイ蜂起(フランスに
対する抵抗闘争)で敗れたベトナム国民党の残
党が多く逃避して来ました。

その後、第2次世界大戦が始まると、アメリカ人
イギリス人が中国の抗日戦争を援助するために
昆明に来ます。アメリカの諜報機関OSSは昆明
に抗日戦争援助の本部を置きます。

Trần Việt Hoaのコーヒーショップの商売は順調
で売上金の一部を同志のVũ Anhに渡し、ハノ
イのドンスアン市場で革命運動に必要な物品を
買っていました。

Trần Việt Hoaはヴォーグエンザップとファンバン
ドンが1940年にホーチミンと昆明で会った時に
も2人の滞在中の食料や衣服の世話をしていま
す。

10月のある朝、中国国民党の服に身を包み、
サンダルを履き、肩から毛布をかけた老人、ホー
チミンが、突然Trần Việt Hoaの夫Tống Minh
Phương訪ねてきました。
ホーチミンの従者は塩、油脂、唐辛子が1Kgづつ
入った長い竹筒を担いでいました。

ホーチミンを迎えたのは、インドシナ共産党から
昆明のTrần Việt Hoaのもとに派遣されていた
Pham Việt Tử と彼女の夫 Tống Minh
Phương でした。

昆明に来る途中でも熱を出し、2日間休養した
ホーチミンは目は異様なほど輝いていたものの、
体は非常に弱っていて、すぐに高熱を出し寝込
んでしまいます。ホーチミンはマラリアに冒されて
いたのです。

同志のPham Việt Tử 買ってきた(おそらくアメリ
カの諜報機関から)キニーネをホーチミンに打ち
ました。2日後にホーチミンの熱は下がりましたが
、体力の回復の為にいくつかの薬を飲むように
ホーチミンに薦めますが、彼は薬を買うための
お金を使わせることを拒んだので、Trần Việt
Hoaは、この薬は家に保管されている物だから
とウソをついて、彼に飲ませます。
後日、ホーチミンはこのウソに気づきます。

ホーチミンの体調は回復に向かいます。Trần
Việt Hoaは毎日ミルク入りのコーヒーを飲ませ、
ホーチミンは茶碗3杯のご飯を食べるようになり、
体力も回復します。

元気になったホーチミンは毎日2時間コーヒーシ
ョップの手伝いをしました。

そしてベトナムに戻っていきます。
ホーチミンがベトナムに戻った月日は10月から
12月の間と思いますが諸説があってはっきり
していません。

ホーチミンと8人のサムライ 1947年捕捉
フランスのベトナム再侵略に対してホーチミン主
席は1946年末、全国民に向けて「徹底抗戦の
アピール書」を発した後、1947年年初からはタ
ンチャオ村を皮切りにベトバック地方(北部ベトナ
ムの山岳地帯)を転々と移動しながら、反撃の
態勢を整えていきます。

この時期、ホーチミン主席に常時付き添って行
動した21歳から30歳までの若者が8人いまし
た。

若者達の最大の使命は主席の安全を確保する
ために秘密裏に行動することでした。

ある日主席はこの8人に愛称を付け、フランス軍
に悟られないよう、本名を使うことを禁じました。

Trường、Kỳ =Longを意味します。 Kỳは主席の
秘書です。
Kháng、Chiến =Resistance
Nhất、Định =Bound
Thắng、Lợi =Win

Trường、Kỳ、Kháng、Chiếnの4人はベト族
Nhất、Định、Thắng、Lợiの4人は少数民族の
出身で革命運動に参加していました。

この8つの愛称を繋ぎ合わせると「The Long
Resistance is Bound to Win」という意味になり
ます。

主席はこの愛称を呼ぶごとに、国民から自分に
与えられた義務を全力で果たせるよう自らを勇
気付けていました。


スタッフが交代してもこの名前は引き継がれて
使用されました。

各スタッフはそれぞれの得意分野で(狩猟が得
意な人、工芸が得意な人、地理に詳しい人など
多彩でした)ホーチミン主席を助け、現地の山岳
民族もフランス軍の動静を掴むと、各スタッフに
知らせてくれました。

1950年の国境作戦、ドンケの戦いにはベトバッ
ク地方の多くの山岳民族が兵士として参加し、
フランス軍の要塞を陥れ、フランスの支配下から
多くの都市を解放しました。

現在のベトナムでも、特にこの地方の人々に
とっては、ホーチミン主席は「バック・ホー」と
尊敬をこめて呼ぶ以上の存在なのです。

1990年 ホーチミン主席誕生100周年記念
日にホーチミン博物館がKỳ の努力によって
オープンしました。白髪になった最後の8人の
スタッフは記念館に集まり、困難で苦しい時代を
ホーチミン主席と過ごした栄誉をたたえあいました。
この8人は(実際には交代した人が4人いましたの
で12人)今でもベトナムのヒーローとされていま
す。

各人の詳細は後日アップします。



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