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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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チョロンの歴史
チョロンの歴史

越語   Chợ Lớn  
中国語  堤岸, 新街市

チョロン(Chợ Lớn)地区は、ホーチミン(旧サイゴン)市の
行政の中心であるサイゴン地区から、約五キロメートルほ
ど西南南に位置しますが、現在では正式な行政名ではな
くホーチミン市5区を中心にその周辺の一部を含めた地域
を総称します。チャンフンダオ通りをメインストリートとするベ
トナム最大の中華街です。

チョロンとは、ベトナム語で大きな市場(Chợ=市場、Lớn
=は大きい)を意味し、フランスが「サイゴン」を命名した時
から使用され始めました。

アジアで中華街と呼ばれる区域に住んでいる華僑は、西
欧各国の植民地支配時代に労役人として連れてこられた
のがそのルーツだと言われていますが、ベトナムの中華街
「チョロン」に住み始めた華僑の人たちはちょっと違った事
情でベトナムにやって来ました。
中国に国境接するベトナムでは、中国での政治的圧力を
避けるために国境を超えてベトナムへやってきた中国人が
多くいました。

中国人のベトナムへの移民の大量流入は1679年に始ま
り、1750年、1860年と3回ありました。
チョロンの歴史は中国人のベトナムへの移民の歴史でもあ
ります。

11
1623年のサイゴン

昔は現在のベンゲ運河が「サイゴン川」、サイゴン川が
「タンビン川」と呼ばれていました。

1679年
中国の明朝が滅亡したのに伴い、明朝の楊彦由を首領と
する亡命兵3000名が50隻の船でフエの近海に漂流して
きて、広南阮氏政権第4代当主グエン・フック・タン
(Nguyễn Phúc Tần 阮福瀕 1648年~1687年)に亡
命を願い出ます。グエン・フック・タンは亡命者の一部をホ
イアンに残しましたが、残りの人々をメコンデルタの開墾の
ためにビエンホア(辺和)とミトー(美淋)に入植させます。
(地図上1,2)

12

1680年代
ビエンホアに移住した人々の少数がチョロンに移動してき
ます。(地図上3)彼らは現在のTriêu Quang Phục 通り
一帯に村を形成して住みました。この人々が現在ホーチミ
ン市5区の中華街に住む人たちの祖先で、彼らが交易の
港をして使ったのがチョロン埠頭となりました。
ベトナム人はこの時の移住者をミンフオン「Minh Hương」
(明郷の人々)と呼びました。

13
赤枠内がチョロンの始まり


1698年
広南阮氏政権第6代当主グエン・フック・チュゥ(Nguyễn
Phúc Chu 1691年~1725年)はグェン・フー・カン将軍
(Nguyễn Hữu Cảnh 1650年~1700年)をヤーディンに
派遣し、弱体化していたクメール王国の支配から脱してベ
トナム人が支配する土地にするよう目論見ます。

グェン・フー・カン将軍はタンビン地区(Tân Bình 現在の
サイゴンはタンビン地区に属していました)やフックロン地区
(Phước Long 現在のドンナイ省)を開拓し、ダンチョンと
呼ばれたベトナム人の村を作り、最初の基本的な行政組
織であるヤーディン県を新設し、「Minh Hương」の人々が
住む現在のチョロンもザーディン県に編入して、自らヤーデ
ィン県を統治します。

14
グェン・フー・カン将軍

15

ヤーディン県はベトナム人が管理する村となり、市長(Luu
Thu)が任命され、その下部組織にはManager(Cai Bo)と
Secretary(Ky Luc)が置かれました。

ミンフオンの人々は港の管理を任されので、メコンデルタか
ら運ばれてくる米の精米、各地への流通を一手に引き受
けます。
さらにミンフオンの人の中には多くの職人がおり、その代表
的な技術が陶器の製作でした。彼らはチョロンの寺院や
同郷会館の装飾品や生活用品の陶器を多く製作しまし
た。これが「サイゴン陶器」の発祥です。

ミンフオンの人々は亡命者であったので中国へ帰国する意
図はなく、地元のベトナム人やクメール人と混血していき、
独特の民族文化を作り上げていきます。彼らはベトナムの
衣装を着ましたが文化や言語は中国祖先の習慣を踏襲
しました。後のグエン王朝やフランス植民地政府も彼らを
中国人祖先のベトナム人と呼びました。
この年がサイゴン誕生の年とされています。


1750年代~1778年
清朝の人口増加に伴い第2波の中国人移民の流入が始
まります。福建省からの移民が多くミンフオン村に隣接す
るPhùng Hưng通り一帯に住み始めます。

16

この人々は亡命者とは違い、意図すれば中国に帰国する
こともできた人々だったので、無理に現地の人々と融和す
る必要はなくミンフオンの人々は彼らをタンニャン「Thanh
Nhân」(清人)と呼びました。

ミンフオンの人々は先駆者として港の管理と国内での米の
流通、タンニャンの人々は輸出入貿易を主な生業としまし
た。

ミンフオンの人々がĐình Minh Hương Gia Thạnh(明郷
嘉盛会館)を建設し、チョロン地区を管理する政府の役人
はもっぱらミンフオンの人々から選ばれました。

広南阮氏(その後の越南阮氏、フランス植民地政府も)は
この同郷会館を中国人移民者を管理するための単位とし
て利用します。このシステムは「幫」(Bãng)と呼ばれ、ベト
ナム語では「幫」に属する人々はバンチュオン(Bãng
Trưởng)と呼ばれました。バンチュオンは広南阮宮廷の
承認を得るために登録が必要で、保護される代償として
良き行いとバンチュオンの会頭によって徴収される税金を
おさめねばなりませんでした。
そして共同体の地域内の福利厚生、学校や病院は自ら
建設し管理することが要求されていました。

しかし居住地を与えられ、自由な商売を認められた移民
者は広南阮氏に忠誠心を抱き、広南阮氏とタイソン朝と
の戦い(1778年~1802年)の時には広南阮氏の中心
的な支持者となりました。


1778年
しかしタイソン軍は強く、広南阮氏の生残りグエンフックア
イン(NguenPhucAnh 後のザーロン帝)はフーコック島に
逃げ延びていきます。タイソン軍は広南阮氏を支援した移
民者が多く住んでいたビエンホアを攻撃したため、多くの移
民者が難民となりミンフオン村に逃げ延びてきます。そのた
めミンフオンでは人口が急激に増加し、新しい市場の建設
にせまられます。市場は村の北方、Phố Xếp運河沿い(現
在は埋立てられChâu Văn Liêm通り)に建設され、Tai
Ngon市場と呼ばれました。

17
タイゴン市場

1782年
タイソン軍はミンフオン村にも壊滅的な攻撃を仕掛けまし
た。中国人移住者は広南阮氏に味方したとして、大勢の
人々が虐殺されました。

その後、生存者達によって驚異的な速さで村が再建され
ていきます。運河を深く掘り下げ、洪水と敵の侵入から守
るために町の中心を流れていたBình Dươmg川(ベンゲ運河の旧称)
に高い堤防を築きました。この堅牢な堤防はタイゴン堤防と呼ばれ、
その名声はベンゲ地区にも知れ渡っていきました。
この「Tai Ngon」の発音が「サイゴン」の基礎になったと言
われています。

1790年
ザーディンを奪回したグエン・フック・アインは3万人を動員
し、ヤーディン県の新しい行政本部としてバットクワイ(BAT
QUAI=ヤーディン城)を建設します。そして現在のバソン
造船所近辺でフランス人技師の下に中国人入植者も含
め技術を持った多くの職人をあつめ、戦艦の建造を行い
ます。対岸のホーチミン市2区にはこの時働いた中国人入
植者が住むようになりました。

18
1790年のサイゴン地図

19
1790年のサイゴン・ジョロン地図

1801年
グエン・フック・アインがサイゴンでタイソン軍を破り、翌年グ
エン王朝の皇帝(ザーロン帝 1802年~1819年)にな
るとタイゴン地区のミンフオンとタンニャンの人々は報われ
ます。
彼らは王朝の庇護の下に兵役は免除され貿易や商業活
動の自由を保障され、さらに納税の代償としていろいろな
特典を付与されました。

20
ザーロン帝

1812年
1802年阮王朝を開いたザーロン帝は1812年建国の大
功労者レ・ヴァン・ズエットに司法権や官僚の任命、解雇
など、すべて宮廷には事後報告をすれば良いほどの絶大
な権限を与えてザーディン総鎮に任命し、南部ベトナムと
カンボジア地域の管理を任せます。

21
レ・ヴァン・ズエット総鎮

ズエット総鎮はグエン王朝への支持基盤拡大のために、
有能な人物はタイソン軍の旧臣であろうと、中国人入植
者であろうと官吏として採用し、無料の武術訓練所や教
育機関を開設しました。
毎年2回、皇帝の誕生日そして旧正月の祭りを盛大に行
い、人心の安定に努めました。

メコンデルタへの運河が整えられ、特典を与えられているタ
イゴン地区の商業活動は一気に花開き、その納税額はグ
エン王朝を潤します。彼らは米の商売だけでなく、屋根瓦、
タイル、塗装などの建築材料や、アルコール、セメント、ア
ヘンなどにも商売の手を広げます。
タイゴンには中部や北部の商人も新たな商品を求めてや
ってくるようになり、大盛況になります。

ズエット総鎮の時代、チョロン地区は大発展を遂げたので、
今日に至るまでズエット総鎮は南部に住む中国人にとって
尊敬の的になっている人物なのです。

タイゴンに住む人々は同郷の共同体としての役割と祈りの
場所として彼らの出身地別(言語別)にそれぞれ同郷会
館を建築します。

Untitled_201512071830483ab.jpg

22

23
明郷嘉盛会館

媽祖(天上聖母)をまつる穂城会館の天后廟は観光的要
素に乏しいチョロン地区の貴重な観光名所の一つになっ
ています。

廟の中で最大規模のものは義安会館でいろいろな神々が
祭られており正面中央には関聖帝君すなわち関羽が祭ら
れています。

三山(福州)会館にはチョロンの堤防を守る神が祭られて
います。

中華街としてのチョロンのシンボル的存在は、多数の由緒
ある同郷会館(=廟)があることで、華人がいかに大きな
経済力をもってきたかをよく示しています。


1832年以降
レ・ヴァン・ズエットが死去すると、それまでズエット総鎮の
巨大な権力の下に手が出せなかった第2代阮王朝皇帝ミ
ンマン(1820年~1841年)は、自らの政策である中央
集権国家、儒教重視によるキリスト教弾圧、中国人の貿
易特権の廃止などを南部ベトナムに強制し、ズエットの墓
に辱めを行います。
これに激怒したズエットの養子レ・ヴァン・コイは宮廷に対し
て反乱を起こしましたが、ミンマン帝が派遣した大軍に破
れます。
そしてレヴァンコイの反乱に加担したとして南部ベトナムの
クリスチャンや中国人の多くを処刑します。

24
ミンマン帝


1839年
ミンマン帝は中国人移民者に対する管理方法であった
「幫」システムを廃止する命令書を出しましたが、実際には
施行されず何の効果もありませんでした。

1859年2月17日
フランス、スペインの連合軍がヤーディンの城を攻略、占領します。

1860年代後半以降
フランス人がサイゴンを統治するようになると広東省広州
からの中国人商人の移民が増加し、ハムギ通りからベン
ゲ運河沿いのヴォ・バン・キエット通り一帯に住みます。サ
イゴンに集団で中国人移民が住みついた最初で最後です。
ハムギ通りとトンダットダム通りの交差点近くに彼らの会館
があります。

25

26

1861年
フランス軍とスペイン連合軍はヤーディン地方のチーホア
(Chi Hoa)を攻めますが、この時フランス軍に物資や食料
を供給したのはミンマン帝に苦しめられたタイゴン地区の中
国人移住者の人々でした。フランス軍はサイゴン全域を占
領し, 翌1862年には「第1次サイゴン条約」が締結され、
南ベトナムの東部3省がフランスに割譲され、サイゴン港が
開港されます。

フランス植民地政府は「幫」システムを復活させ、チョロン
の中華街は再び活気付き東南アジア有数の中華街に発
展していきます。


1867年以降
フランス人はこの地をサイゴンと正式に名づけます。そして
タイゴン地区はチョロンと呼ばれます。サイゴンは政治都市、
チョロンは経済都市としてフランス植民地時代にも発展を
遂げます。
植民地政府も中国人移住者の経済能力を認め、徴税管
理の役割を与え、彼らが土地を保有することやインドシナ
各地への移動の自由を認めました。移住者の中に今に名
を残す大富豪が出現してきます。

チョロンの同郷会館は植民地政府に対しても影響力を持
つようになり、ミンフオンの会頭Đỗ Hữu Phươngはチョロン
の市長となり、植民地政府と同郷会館との取りまとめ役を
果たします。

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Đỗ Hữu Phương

フランス植民地政府は政治都市としてサイゴン地区には
同郷会館を基礎とした「幫」システムを踏襲したので、中
華街そのものの町並みを見る以外「東洋のパリ」といわれ
るような建造物はありません。


1929年頃
マルグリット・デュラスの小説『愛人/ラマン』はこの頃の中
華街のシーンがたびたび出てきます。


1954年以降
フランスがベトナムから引き上げると、南ベトナム政府は移
民者の子孫でベトナムで生まれた子供たちはベトナム人と
する命令を発しましたが、同郷会館は依然として彼らのネ
ットワークの中心としてベトナム戦争終結まで存続していき
ます。


1974年
この頃の南ベトナムの経済活動(食品産業、織物業、化
学工業や電気製品など)の80%、大企業60社のうち42
社は華人の手中にあったといわれています。


1975年頃
南部ベトナムには120万人の華人が住み、そのうち70万
人がチョロンに居住していました。


1975年4月サイゴン陥落以降
サイゴン陥落後は社会主義建設が始まり私企業の国有
化、資産階級の資産制限が課せられ、「幫」システムは正
式に廃止されます。
長年かけて有力な経済的地位を築き上げてきた華人を
取り巻く環境は一変してしまいます。

8種の華字紙(中国語新聞)は政府発行の「解放日報」
を除き廃刊となり、華人の相互扶助組織である同郷会館、
華人子弟の教育機関である華語学校は活動を停止され、
華人子弟は華語を学ぶ機会を奪われました。漢字の看
板も規制されます。


1978年
経済不況と生活困難から都市部で商業を営んでいた華僑や華人、
南ベトナム政府や軍関係者とその家族、資産
家、地主などはボートピープルとなって海外に脱出していき
ます。
香港、マカオの難民収容所の7割は、中国系ベトナム人
でした。

チョロンに70万人居住していた華人は10万人あまりにま
で減少しました。

28

ニューヨークやロサンゼルスの他、シカゴの北華埠、パリ南
部13区、シドニー郊外のカブラマッタなどの大規模な中華
街はこの時代に海外に移 住したインドシナ華僑により形
成されたものです。

1979年2月17日 – 3月16日
中国・ベトナム両国の関係は険悪になり、中越戦争が勃
発します。   
中国はベトナム統一後、ベトナム国内の中国系住民を難
民として流出させていることを強く非難しており、中越戦争
中はチョロンへのベトナム当局の弾圧はすざまじく、中国
系住民が大量に駆逐されてボートピープルとなりました。


1986年
ドイモイ政策により、経済の改革・開放が進む中で、個人
営業の店も認められるようになり、いったん国外へ脱出し
たベトナム人の帰国も許されるようになってきました。

唯一の華字紙「解放日報」の編集人によれば、ボートピー
プルとして外国に渡った華人で、再びチョロンに戻ってくる
者が増え、チョロンの華人人口は50万人くらいまで回復し、
街中の漢字の看板も、従来に比べれば、ずいぶん増えて
きたそうです。
 
現在、国外在住ベトナム人は約300万人。そのうちの半
数150万人がカリフォニア州に暮らしています。


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サイゴン港2


サイゴン港はサイゴン川の川岸に数個の埠頭で作られている
港ですが、サイゴン港の港を管理しているビルはトンドゥッ
クタン通りを4区の方へ向かい、橋を渡って、道路名が
グエンタッタン通りと変わるところにあります。

ここが主要な埠頭らしく、川岸まで人も通行できます。
きっと大型客船などはこの埠頭に接岸するのだと思います。

埠頭の先端近くまでいく道路の両サイドには飲食店などが並
んでおり、ちょっとした穴場かも知れません。

左側は
Tre Vang     ベトナム料理と客船の待合室
Bien Nho     シーフードレストラン
The Rock     ビュッフェスタイルのBBQ プラス 
         ライブショウ  400000ドン

右側は
三菱自動車
Starwars     Discoで昼間は閉店しています
Sushiya       寿司専門店で出前もあります。88000ドンから

埠頭というより繁華街のようでしたが、この場所には観光客は
来ないでしょうし、客船が停泊していない日は閑散としていま
す。

01港1  02港2
02  米の荷卸作業をしていました。

サイゴンの歴史
サイゴンの歴史

  現在のホーチミン市を含む南ベトナム一帯はもともとはカンボ
ジアを中心とするクメール王国が支配していた沼沢地で、人々
は運河を船で移動して暮らしていました。16世紀中頃から17世
紀後半にかけて鄭氏(北部)と広南阮氏(中部)の二大地方王権
が内戦をしていた頃、1623年に乱を逃れて海上から南下して
きたベトナム人難民に、クメール王国のチェイ・チェッタ2世が
Prey Nokor一帯に定住を許可してことから、大量のベトナム人
が定住するようになりました。
  
  その後、グエン氏は中部からクメール王国の土地に南下して
いたチャム族の土地を占拠しました。

1623年
1623年のサイゴン。

現在のサイゴン川はタンビン川(Song Tan Binh)、中華街の
ジョロンへ繋がる支流がサイゴン川になっています。
タンビン川に沿ったベンゲ(Ben Nghe)は現在のレタントン
通り近辺の地区名として残っています。


  1679年になると中国の明朝が滅亡したのに伴い、中国人3
000人が50隻の船でフエの近海に漂流してきて、グエン氏に亡
命を願い出ます。グエン・フック・ヒンはヤーディン(現在のホーチ
ミン市)やメコンデルタ地域のビエンホア、ミトーに入植させまし
た。
  
  現在のホーチミン市5区のチャイナタウンに住む人たちの祖先です。


  1698年、グエン朝(広南阮氏政権)はグェン・フー・カン
(Nguyen Huu Canh)将軍をヤーディンに派遣します。彼は、現在
のタンビン地区やフックロン地区を開拓し、最初の基本的な行政
組織ヤーディン(北部の発音はザーディン)府を置きます。両地
区には市長(Luu Thu)が任命され、その下部組織には
Manager(Cai Bo)と Secretary(Ky Luc)が置かれました。
  この年がサイゴン誕生の年とされています。

03  グエンフーカン
グェン・フー・カン


  1790年、阮朝初代皇帝グエン・フック・アン(Nguen Phuc
Anh)は3万人を動員し、ヤーディン府の新しい行政本部として、
3万人を動員してバットクワイ(BAT QUAI)城を建てました。
この城はフランスの軍事技術者の助言により、ヴァーバン式(Vauban)
建築法に基づき、現在のハイ・バー・チュン通りとレ・ユアン通りの交差点
を中心に建設されましたが、現在では跡形もありません。
亀の甲羅のような町づくりなので八卦(はっけ)街とも呼ばれました。
  
  この城がサイゴンの最初の都市建築物といわれています。

八卦街2
BAT QUAI 城

八卦街1


1790年
1790年のサイゴン・ジョロン地図


1790年ー2
1790年のサイゴン地図


1815年
1815年のサイゴン。城下に市街地が形成されてきました。



 1835年、阮朝2代ミンマン帝は一旦バットクワイ城を取り壊し、 
フエの宮城より小さな城を現在のLe Thanh Ton, Dinh Tien
Hoang, Nguyen Dinh Chieu, Nam Ky Kho Nghia 通りに造り直し
ました。


  1859年2月17日,スペイン、フランスの連合軍がヤーディ
ンの城を攻め、占領します。連合軍は城はゲリラの格好の標的
になると考え、城の米倉庫に火をつけ破壊します。米倉庫は3年
に渡ってくすぶり続けたといいます。その後フランスのベトナム
植民地化は急速に進み、、1887年にはベトナム全土がフラン
スの植民地となります。しかし植民地になってから、サイゴンは
急速に発展していきます。

  フランス人はこの地をサイゴンと呼びました。サイゴンという
呼び名の起源に関しては、諸説があってはっきりしていませんが、
フランスはこの頃、庶民の間ではヤーディンよりサイゴンが一般的な
呼び名になっていたことから、1867年正式に改名しました。

  サイゴンという名前の一説にはクメール語の「カポックの木の
茂る森」から来ています。サイは茂る森、ゴンはカポックの木の意味
になります。漢字で表すと「西貢」となります。

  フランスはコフィン(Coffyn)という名の専門家を中心にサイゴ
ンの都市計画をつくり、サイゴン港も開港させ、ハノイまでの鉄道建設
も手がけました。都市計画により1880年頃からサイゴンの町には
フランス本国で流行していた当時の建築様式をまねて、たくさんの建造物
が建設されたため、「東洋のパリ」とか「プチ・パリ」、「極東の真珠」
と呼ばれるようになったのです。ホーチミン市にあるコロニアル建築
(フランス植民地時代に建築された建物)の代表的なものを列挙します。

中央郵便局 (Buu dien Thanh pho)  
    1863年完成

ホーチミン主席記念館(Bao Thang Ho Chi Minh)
    1863年起工

統一会堂 (Dinh Thống Nhất)   
    1873年完成

ノートル・ダム大聖堂 (Nhà thờ Đức Bà)   
    1880年完成

コンチネンタル ホテル(Continental Hotel Saigon)
    1880年開業 

ホーチミン市博物館 (Bao tang Thanh Pho Ho Chi Min)
   1890年完成

市民劇場 (Nha hat Thanh pho)
    1900年完成

ホーチミン市人民委員会 (Uy ban Nhan dan Thanh pho)    
    1908年完成

マジェスティックホテル (Majestic Hotel)
    1925年開業

国立銀行支店 (Ngan hang Nha nuoc)
1930年完成

グランドホテル(Grand Hotel)   
    1930年開業

ホーチミン市人民法廷 (Toa an Nhan dan Thanh pho)
    不明


1918年
1918年のサイゴン。サイゴン港も開港されて、川沿いに市街地
が急速に拡大します。        
   

  1954年、フランスはディエンビエンフーの戦いで敗れ、ベトナム
から撤退し、フランスによるベトナムの植民地支配が終わります。
        
  その後ジュネーブ協定を経て、ベトナムは南北に分断され、
サイゴンは南ベトナムの首都となります。


1973年
1973年のサイゴン中心部。

1973年ー2
1973年のジョロン。市街地が拡大して、旧市街と新市街地が出来ています。


  1961年からはベトナム戦争が始まっており、1975年4月30日に
歴史的な「サイゴン陥落」を迎えます。


P1120040.jpg
11時30分、大統領官邸正面から無血入場する北ベトナム軍
 
 
  社会主義国になったベトナムを嫌って、多くの華僑がボートピ
プルとなって南ベトナムから脱出しました。1975年中華街のジ
ョロン(現在のホーチミン市第5区が中心)には110万人いた華
人は1978年には10万人にまで減少しました。その後市場開放
政策によりジョロンン華人50万人にまで回復しています。

P1110190.jpg
サイゴンから脱出する人々。

  
  統一後の1976年にサイゴンは区画が再構成されホーチミン
主席の名を冠してホーチミン市となります。ホーチミン市になる
過去の変遷は下記の通りです。(英語表記です)

1698-1790 HUYEN TAN BINH 
1790-1802 GIA DINH KINH
1802-1808 GIA DINH TRAN
1808-1832 GIA DINH THANH
1832-1835 TINH PHIEN AN
1836-1859 TINH GIA DINH
1862-1930 THANH PHO SAI GON
1930-1954 SAIGON-CHO LON
1955-1975 DO THANH SAI GON
1976-NOW THANH PHO HO CHI MINH      


  現在のホーチミン市は人口が700万人を超え、公共インフラ
の整備が急務になっており、政府も新都心の開発を急いでいま
す。 2区のThu Thiem地区や7区のPhu My Hung地区には新
市街地が建設されています。
サイゴン港
サイゴン港



サイゴン港(Cảng S醇Ai G醇qn)は、サイゴン川の河口から
約50Km遡った港でいくつかの埠頭があり、総称してサイゴン港
と呼んでいるようです。

港付近でも川幅は300m以上、水深は11mあるので30,000トン
位までの船が航行可能で、外航船が直接入港することができます。


01サイゴン港 (1)  02サイゴン港 (2)


とは言うものの、川に出来ている港ですから、注意しないと日本
の自衛艦がサイゴン港に寄航したときのように接触事故を起こし
ます。

ベトナム全土の港湾荷物の68%を取り扱っていて、年間取扱量
はコンテナ数で170万本以上あり、日本の神戸港に匹敵します。

サイゴン港の開港はグエン王朝の初めのころ、フランスの植民地
侵略に対して、ベトナムが南部3省を割譲した第一次サイゴン条
約が結ばれた1862年に始まります。

開港後は米、コーヒー、ゴム、胡椒などの輸出港として取扱高を
増やしていきました。


031868年  041900年  051906年
03 1868年 サイゴン港に向かう船
04 1900年 出航前
05 1906年 荷作業


061931年Rail of warehouse
06 1931年 倉庫への引込み線

サイゴン港開港前は中華街と呼ばれるチョロンの埠頭のほうが
栄えていたようです。

近年は、ホーチミン市の都市計画のため、ホーチミン市から10km
のヒエップフオック工業団地内(ニャーベー郡)などに国営企業
SPTCにより港湾施設が建設され、機能の移転・再配置が進められ
ています。

いずれは、現在のサイゴン港は観光船専用の埠頭になるそうです。

サイゴン川(S醇sng S醇Ai G醇qn)は、メコン川の支流ではあり
ません。カンボジアのPhum Daung付近から南南東に流れホーチミ
ン市の北東18kmでドンナイ川を、ホーチミン市でベンキャット川
と合流して南シナ海に注いでいます。



07サイゴン港 (3)  08サイゴン港 (4)
08 1911年 ホーチミンはこの桟橋から旅立ちました。建物は現在
        ホーチミン主席記念館となっています。



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