べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ファン・チュー・チン更新
生没年: 1872年 – 1926年3月24日
11 

ファン・チュー・チンは、20世紀初頭のベトナムの民族運動家。
フランスによるベトナムの植民地支配終焉に尽力し、暴力革命と他
国への支援要求に反対し、国民教育及びフランスの民主主義原理
への訴えによるベトナム解放を主張しました。

1872年
ベトナム中部、クアンナム省の学者でもある地主の子に生まれる。

1885年(13歳)
フエの宮廷官吏がフランスに抵抗しまが失敗し、ハムギ帝は都を
落ち全国に抗仏、勤皇の激を発しフランス植民地支配に対する抵
抗運動を起こします(勤皇運動)。
ファン・チュー・チンもこの運動に参加します。しかし彼の父は反乱
指導者に反逆の疑いを掛けられて殺害されてしまいます。父の死
は武力による抵抗運動が悲惨な結果になることを彼の脳裏に刻み
ます。

1887年(15歳)
勤皇運動は失敗に終わり、彼は家に帰ります。彼の兄は、ファン・
チュー・チンに古典語の教育を受けさせ、彼は勉学に勤しみます。
フランスの植民地支配は拡張し、仏領インドシナ連邦を完成させま
す。

1901年(29歳)
科挙の試験に合格。

1903年(31歳)
官僚としてフエのグエン王朝の宮廷で働きます。宮廷で彼は官僚
の不正蓄財を見せつけられる一方、中国を通じて入手した本によっ
て、西洋思想に触れることができました。
この年、ファン・ボイ・チャウとも出会います。

1905年(33歳)
宮廷での職を自ら辞し、ベトナム南部への旅行を皮切りに、君主制
の廃棄と民主共和制への移行を主張して全国を遊説します。

1906年(34歳)
ベトナム北部に行き、フランスへの抵抗運動を継続していたデタム
に会いますが失望してしまいます。その後、中国を経由して日本へ
行き、ファン・ボイ・チャウと再会し、学生を教育するため、横浜に
「ビン・ゴー・ヒエン(丙午軒)」という2階建ての寮を設立し、6月に
は日本の教育と政治形態を視察するため東京へ行きました。

ファン・チュー・チンは日本の富国強兵政策を信頼していなかった
ので、日本からの軍事援助を求めるファン・ボイ・チャウの考えに反
対し、さらに他にも彼との意見の相違点を持っていたため、ファン・
チュー・チンがベトナムに帰国する前の数週間、彼らは密接な議論
を行っていました。

帰国後の10月15日、ファン・チュー・チンはフランス領インドシナ
総督ポール・ボーに「投法政府書」という書簡を送り、その中でフラ
ンスに協力するベトナム人による地方官僚の汚職を非難し、フラン
ス人による啓蒙活動の実践、ベトナムの近代的な法律機関・教育
機関・経済機関の発足、保守的官僚の残存勢力の一掃などをフラ
ンス政庁に要請します。

彼は植民地政策は「植民地当局―フエの朝廷官吏―士民」という3
層の支配構造になっており、特にフエの官吏の腐敗が野ざらしにな
っていることを訴えています。

1907年(35歳)
ファン・チュー・チンのベトナム改革はファン・ボイ・チャウが主唱す
る改革とは異なっていましたが、「ベトナム人の教育水準を高め、
人材の育成をする」ことでは、二人は一致していました。

ファン・チュー・チはチァン.・クィ・.カップやフイン・.チュック・.カンらと
一緒にファン・ボイ・チャウが始めた「東遊運動」をベトナム国内に
広めます。

福澤諭吉の慶應義塾に倣い、ハノイに 「東京義塾」という愛国的な
近代式の学校を設立してその講師となり、授業の教本の中にはフ
ァン・ボイ・チャウの著書も使用します。義捐金に基づき学費は無料
で、教育班、財政班、宣伝班、著作班の4部門があり、これに影響
された地方でもこれに模した「梅林義塾」や「玉川義塾」などの学校
が建学されました。

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東京義塾は非合法な活動の一切を避けながらフランスの厳しいベ
トナム支配を非難する一方、フランス人から近代化の道を学んでい
ました。学生に対しては貴族主義的な風潮を放棄し、労働者階級
から学ぶことを求め、小作人などにクオック・グーを用いて近代教
育を教授します。ファン・チュー・チンは伝統的にベトナムを支配し
てきた儒教観からの脱却を目標として、活発な議論を行う自由な公
開講義を行い、その中で近代化や西欧思想に関する理論を中心と
した討論を行ないました。

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東京義塾で使用された教本

1908年(36歳)
中折(フエを中心としたベトナム中部)ホイアンの農民の抗税デモに
参加し、首謀者として嫌疑をかけられ逮捕されます。フエの朝廷か
らは死刑判決を受けますがフランスの政友の口ぞえで終身刑に減
刑され、コンダオ島に流刑されます。
そしてインドシナ総督の指示で東京義塾は建学1年余りで閉鎖され
てしまいます。

1910年(38歳)
10月12日 恩赦により釈放されます。

1911年(39歳)
釈放されたファン・チュー・チンはフランス人権会の援助を受けて渡
仏し、1925年まで滞在しますがフランスの秘密警察からは監視さ
れます。彼はフランス人権会とのつながりから、フランス社会党系
の人物、Roux や Naris Moutet という人物と交流します。
フランスでの滞在費はフランス人権会から支給されていたようで
す。

1914年(42歳)
クオン・デ候と通じていたとの密告を受け、10カ月近く投獄されま
す。人権会からの援助資金も打ち切られます。

1915年(43歳)
パリへ向い、ここで、ホー・チ・ミン、ファン・バン・チュオン、グエン・
テー・チュエン、グエン・アン・ニンらとともに「在仏ベトナム人愛国
者団」という団体で活動をし、ホー・チ・ミンが代表としてグエン・
アイ・クォック(阮愛國)という名で愛国的な記事を書きます。
フランス滞在中、自活のため写真加筆者として働きました。

1916年―1920年
フランス秘密警察の資料から、この時期ファン・チュー・チン、
ファン・バン・チュオンとグエン・アイ・クォックは共同して行動してい
ることがわかっています。グエン・アイ・クォックは一時ファン・
チャウ・チンのもとに寄寓しており、彼らはフランス社会党系の人々
と頻繁に接触を持っていました。

1919年(47歳)
グエン・アイ・クォックは「安南人民8か条の請願書」を提出し一躍注
目を浴びます。この請願書はベトナム労働党史ではグエン・アイ・
クォックが作成したことになっていますが、後世の歴史家はホーチ
ミンの署名があるものの、要求の内容や言葉使いから、草案は
ファン・チュー・チンが作成したものだと言われています。

1920年―1921年
ファン・チュー・チンはフランスの植民地大臣、サローと何度か接触
しています。

ホーチミンは1920年以降、マルクス・レーニン主義を彼の政治思
想に取り入れますので、ファン・チュー・チンとは別の道を歩むよう
になりますが、決裂したわけではなく、共に共産グループの多くの
会合に出席しています。ファン・チュー・チンもマルクス・レーニン主
義に理解をもっていました。

1922年(50歳)
ファン・チュー・チンは仏越合作政策に戻ります。この年の末には在
仏インドシナ人社会主義協会設立準備がすすめられ、ファン・
チャウ・チンが首席に予定されていたとのスパイ報告があったこと
が明らかになっています。

ファン・チュー・チンは「グエン・アイ・コック君に送る手紙」の中で、
ホーチミンの活躍に期待をかけると同時に自分の政治思想は
「人権の理論によって、士気民情を鼓舞する」と伝えています。

1924年(52歳)
フランスでは国会選挙で社共が議席を増やし、インドシナ総督には
社会党穏健派のヴァレンヌが就任します。

1925年(53歳)
ベトナムへ帰国し、11月には「君冶主義と民冶主義」「東西の倫理
と道徳」を講演します。

1926年(54歳)
3月24日にサイゴンで病死します。

4月4日
彼の葬儀にはサイゴンだけでなく全国から数千人が参列し、ベトナ
ムで最大の葬儀になりました。そしてフランスの植民地支配の終焉
を要求する大抗議が国内の至る所で起りました。この時に参列した
人々がベトナム独立の主要勢力へと育っていきます。

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お葬式は4月4日に行われました。場所は54、Pellerin
(現在のパスター (Pasteur)通り)

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現在も家屋(2階建ての長屋)は残っています。1階はスイスレスト
ラン「SWISS CHALET RESTAURANT」

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Phan Châu Trinh
ファン・チュー・チンの墓(ホーチミン市タンビン区)


サイゴンではベンタン市場の両側の道路に「ファン・チュー・チン
通り」と同時代の民族主義者「ファン・ボイ・チャウ通り」が並んで
名付けられています。


<ファン・チュー・チン幼年時代の家の跡>
クアンナム省タム.ロック村落に幼年時代をすごした60平方メート
ルの家の土台と、500平方メートルの蓮池、階段など、全部で
2000平方メートルぐらいが残っていて、全て竹林に囲まれていま
す。
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<ファン・チュー・チン直系の孫娘>
南ベトナム解放民族戦線のスポークスマン、南ベトナム共和国
臨時革命政府の外務大臣、ベトナム社会主義共和国副大統領の
グエン・ティ・ビン女史はファン.チュー.チンの孫娘です。
彼女の言葉「おじいさんの名声を傷つけないように生きてきました」

彼女が南ベトナム共和国臨時革命政府の代表としてパリ和平協定
にサインしました。

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協定書にサインするグエン・ティ・ビン


<ファン.チュー.チンの参考書>

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ファン・ボイ・チャウ


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Phan Bội Châu
生没年1867年12月26日-1940年10月29日

ファン・ボイ・チャウは1867年、ヴェトナム北部に
てファン・ヴァン・フォー(父)とグェン・ティ・ニャン
(母) の子として生まれました。

ファン家は由緒ある家系で、父は村で塾の教師
として漢学を教えており、母も漢字の知識があり、
ファン・ボイ・チャウは母の口授により
「詩経周南」の数編を覚え、6歳より父から漢学
の手ほどきを受け始めます。そして8歳で県試-
童子科に首席で通るなど、はやくから 文才を示
し始めたことが知られています。

その後、父親は地元の漢学者のもとにファン・
ボイ・チャウを弟子入りさせ、さらに勉強させま
す。

ファン・ボイ・チャウは勉学しながら、全国各地の
知識人に会い植民地政治の実態を見て、フラ
ンスに対する抵抗精神が芽生えたと言われてい
ます。

1885年(18歳)
18歳の時、母が死去し、栄養失調の妹2人と
働けなくなった父を抱えるファン・ボイ・チャウは文
筆をもって生計を立てます。

1886年-1896年(19歳―29歳)
19歳の時、同士を集めて「試生軍」を組織して
抗仏活動をしようとしますが、フランス軍の進軍
に抵抗できず、失敗に終わります。

1900年(33歳)
ファン・ボイ・チャウは郷試(地方公務員試験)に
合格しますが、この年に父が死去します。両親を
失ったファン・ボイ・チャウは革命運動を本格的
に開始します。 しかし最初の蜂起は計画が漏
れて失敗してしまいます。

1901年-1904年(34歳―37歳)
その後は慎重に計画を練り直していきます。フエ
の国子監の学生をしつつ、ベトナムの王族たちと
接触して盟主に擁立する人物を捜し、さらに北
へ南へと足を伸ばして同志を募っています。

1904年(37歳)
ファン・ボイ・チャウはベトナム北部に基地を作り、
フランスに抵抗していたデタムを訪問しますが、
意見が合わなかったようで、失望して帰ってきま
す。

ファン・ボイ・チャウは同志のグエン・タインと
「革命運動会」という秘密結社を組織。グエン
朝皇族のクォン・デ(Cường Để、グエン朝初代
皇帝の長子カインの第5代子孫)を盟主としま
す。「革命運動会」はその後「ベトナム維新会」
と呼ばれるようになります。

ファン・ボイ・チャウは堕落しきっていたフエ宮廷
を真っ向から批判しました。この批判はファン・チ
ュウ・チンやチャン・クイ・カップを始めとして、ベト
ナム革命の政治路線が異なっていた人々にも多
くの共感を与え、反仏運動の下地になって行き
ます。

「ベトナム維新会」ではフランスを放逐するために
必要な資材の収集、外国への援助要請が定め
られ、外国の援助を求めるためクオンデ候の代
理としてファン・ボイ・チャウが選ばれます。そして
どこの国に支援を求めるかということについて、
中国の清国は先の清仏戦争後にベトナムの宗
主権を放棄し内憂外患に苦しんでいることから
新進気鋭の日本に期待をかけます。日本はロ
シアを相手に戦果を挙げているところであり、兵
器を買うくらいの金なら出してくれるかもしれない
という推測のもと、ファン・ボイ・チャウは日本へ
行くことを決心します。しかし日本はフランス、そ
して後にイギリスから戦費を借りまくって戦争をし
ているのをファン・ボイ・チャウは知りませんでし
た。

後のホーチミン主席の姉や兄は「ベトナム維新
会」に協力して資金集めや武器の収集をしてい
ました。ファン・ボイ・チャウはしばしばホーチミンの
父親を尋ね、国政について語り合っています。


1905年(38歳)
ファン・ボイ・チャウは「ベトナム維新会」の会員2
人を伴ってベトナムを密出国して中国領内に潜
入し、広東、香港、上海を経て4月中旬に横浜
に上陸します。(1904年12月に出国したとの
説もあります)

横浜で清国戊戌(ボジュツ)の政変で清国から
日本に亡命中であった梁啓超に相談に行きま
す。(「越南亡国史」はファン・ボイ・チャウが書き、
梁啓超が出版したものです)。

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ファン・ボイ・チャウは梁啓超に率直に日本に来
た目的を話します。後のファン・ボイ・チャウの
「獄中記」によれば「フランスと戦う武器がほしい。
それを得てベトナムとは歴史的な繋がりのある広
東の軍閥の協力を求めて武装蜂起する」という
ものでした。

しかし梁啓超はファン・ボイ・チャウの意図してい
ることが無理なことを説得します。「日本は大国
ロシア戦っており、ベトナムに武器を回すほどの
余力は全くない。ベトナムを支援すれば、フランス
のみならず欧米諸国を敵に回すことになり、日
本にそのような決断はできない。」そして「日本に
は軍備の援助ではなく、外交援助を求めるべき
だと諭しました」。

梁啓超はさらに日本の実情やベトナムの現状を
理解してもらうために日本の政治家と会うことを
勧め、犬養毅、大隈重信、柏原文太郎などをフ
ァン・ボイ・チャウに紹介します。

犬養や大隈らは、日本政府がベトナム革命闘
争の為に武器援助をすることは無く、それより革
命の為の人材養成が先決であることや、運動の
象徴であるベトナム皇族のクォン・デ候を早く日
本に迎えるよう促します。この会談は筆談で行
われました

犬養はさらに留学生の受入先の相談者として
陸軍参謀次長の福島安正や東京同文書院々
長の根津一らを紹介してくれます。

ファン・ボイ・チャウはその後の数カ月間に多数
の日本政財界の要人の知遇を得ます。その中
には後藤新平、頭山満などの名もありました。

彼らからのアドバイスで「ベトナム独立のためには
まず人材育成が必要であることを悟されたファ
ン・ボイ・チャウは2つの決断をします。

1.「ベトナム維新会」のリーダーであるクオンデ
候を日本に亡命させること、
2.ベトナムの青年を日本に留学させること

7月、ファン・ボイ・チャウは体制を立て直すため
一旦ベトナムに帰国します。

帰国したファン・ボイ・チャウは、「勧遊学文」を
作成してベトナム国内に配布し、ベトナム青年の
日本留学を進めるとともに、日本国内での受け
入れ準備を進めていきます。

そして「ベトナム維新会」リーダーをしていたクオン
デ候に日本へ行くことを薦め、クオンデ候はベト
ナム独立のため喜んで引き受けます。

ファン・ボイ・チャウはホーチミンにも日本への留
学を薦めますが、ホーチミンの父親は断りまし
た。

1906年(39歳)
1月、ファン・ボイ・チャウは再び訪日し、グエン朝
皇族のクォンデ候とファン・チュウ・チンを迎え入
れます。

13
左がクォン・デ、右がファン・ボイ・チャウ

ファン・ボイ・チャウは日本の実情が解るに従い、
ベトナム民衆と日本人の意識の格差に愕然とし
ていたファン・ボイ・チャウは、「越南亡国史」、
「遊学を勧むる文」、「海外血書」などを次々と
書き上げベトナムに送り込みます。


1907年(40歳)
ベトナム北部の青年4人が留学のため日本へと
旅立ちます。留学生4人は中国人の為の軍人
養成校「振武学校」と東亜同文会の運営する
中国人のための学校「東京同文書院」へ入学
します。

いわゆる「東遊運動」が始まりました。

その後、留学生は順調に増えていきましたが、ほ
とんどの留学生が密入国だったので、中国人に
なりすましていた留学生がたくさんいたそうです


東京同文書院はこれらの留学生のために教室
や寮を増設し、軍事教練も組み込んだ特別科
をつくってベトナム留学生を受入れました。

ベトナム本国では、「ベトナム維新会」が宣伝文
書の配布や資金集め、留学生の送り出しを組
織的に担当しました。

ホーチミン主席の姉グエン・ティ・タンもファン・ボイ・
チャウが組織した「維新会」のメンバーとして
資金集めや武器の獲得に走り回った1人です。

日本に戻ったファン・チュウ・チンはファン・ボイ・
チャウの「東遊運動」の精神をベトナム国内にも
広げるために、日本の慶応義塾をまねてハノイ
北方に「東京義塾」と名付けられた学校の設立
に努力します。
「東京義塾」は新時代に対応できる進歩的な愛
国的青年の育成を目的をし、学費は無料でし
た。

そして地方にも「梅林義塾」や「玉川義塾」が設
立されました。

日本は日露戦争経費の2/3を外債を発行して
欧米から調達していました。フランスも調達先に
入っていましたので、フランスとの間に「日仏協
定」を結びます。「


1908年(41歳)
東遊運動はピークを迎え、在日ベトナム留学生
は200人を越えたと言われています。

フランスは「東遊運動」の動きに危機感を覚え、
留学生の親族や支援者に対し摘発を始めまし
た。日本政府に対しても「日仏協約」にしたがっ
て留学生の取締まりを要求してきます。

日本政府は留学生の国外退去命令を出し、
留学生はフランス官憲の逮捕を恐れ、多くは中
国やタイへ逃れました。しかし退去命令にもかか
わらず日本に残った留学生を抱え込んだファン・
ボイ・チャウは、資金も底をつき生活は困窮を極
めていました。

借金のあても無くなったファン・ボイ・チャウは、以
前行き倒れになった同志の阮泰抜を助けてくれ、
そして東京同文書院への入学手続きや学費ま
で払ってくれた、浅羽佐喜太郎先生にお願いす
るほかはないと阮泰抜に相談をします。阮の件
があり、浅羽佐喜太郎は義侠の人としてベトナ
ム留学生の間でも良く知られていました。

ファン・ボイ・チャウは窮状を書き、阮に書状を託
します。しかし、浅羽佐喜太郎のこれまでの厚志
に何のお礼らしきこともできていないのに、また援
助を求めるのは厚かましいことだと心苦しく思っ
ていました。が、朝持たせた手紙の返事が夕方
には戻ってきました。手紙と一緒に1,700円と
いう大金が出てきました。(当時の東浅羽小学
校の校長の月給は18円でした)

その手紙には『手元には今これだけしかありませ
んが、またお知らせ下されば出来るだけのことを
します。』と簡潔な手紙ながら、温情のある言葉
が添えられていました。

14
浅羽佐喜太郎

1909年(42歳)
3月、クォン・デ候とファン・ボイ・チャウも日本政
府から国外退去を命令されます。10日以内の
退去を命令されたファン・ボイ・チャウは、数々の
浅羽佐喜太郎の支援へのお礼と別れの挨拶のために、
小田原・国府津の浅羽邸を訪ねます。
阮に紹介され、まず今迄の不義理を詫びますが、
佐喜太郎は早々にファン・ボイ・チャウの手をとり
招き入れ歓待をします。佐喜太郎はよく飲み、よ
く談じ、ファン・ボイ・チャウらを守れなかった大隈
や犬養を酷評します。

ファン・ボイ・チャウも日本に失望して香港に活
動拠点を移し, 次にタイへと移っていきます。

1912年(45歳)
タイで暫く過ごしていたときに中国で革命が発生
し、中華民国が成立したとの知らせを聞いたファ
ン・ボイ・チャウは孫文率いる国民党の助力を得
るため上海経由で香港へ戻ります。

国民党の快諾を得ると、ベトナム愛国者達が集
まっていた広東で孫文の国民党にならい「越南
光復会」(Vietnam Quang Phuc Hoi)
を結成し、会長に就任します。

「越南光復会」は「仏賊を駆逐し越南を回復し
て共和国たる越南民国を成立させる」事を主旨
としていました。そしてベトナム本国でテロや暗殺
を繰り返して行きます。


1913年(46歳)
3月、サイゴンの植民地政庁爆破テロで口火が
切られ、4月にはビン市で政府役人を暗殺。そ
の2週間後にはハノイのホテルに爆弾が投げ込
みフランス人2人を殺します。この事件で250余
人が逮捕され、9人に死刑判決、7人がギロチン
で首を落とされます。残る2人は亡命中のファ
ン・ボイ・チャウとクオン・デ侯で、逮捕されればた
だちに死刑が執行される状況でした。


1914年(47歳)
ベトナム国内で「維新会」が保管していた手投げ
弾が暴発し、関係者が逮捕され14人に死刑が
宣告されます。ファン・ボイ・チャウも欠席裁判で
死刑宣告を受けます。


1914年―1917年(47歳―50歳)
1914年 ファン・ボイ・チャウは、専制を強めて
いた中国 袁世凱の軍隊によって逮捕され広東
の監獄で過ごすことになります。
ファン・ボイ・チャウが何故逮捕されたのかは、ま
だ勉強していません。

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1917年 中国広東は袁世凱支配下の竜済
光が敗れてファン・ボイ・チャウ釈放されます。そ
の後のファン・ボイ・チャウは日本、中国を転々と
しながら活動を継続し「ベトナム国民党」結成に
向けて動き出したりしていたようです。


1918年(51歳)
日本退去後9年、1918年ファン・ボイ・チャウが
日本の土を踏んだ時には浅羽佐喜太郎はすで
になく、佐喜太郎への報恩のために立てられた
のが、静岡県浅羽町梅山の常林寺にある大き
な記念碑です。




18_20120628183524.jpg
ファンボイチャウが建てた報恩の碑

フエ市と日本の静岡県袋井市はファン・ボイ・チ
ャウを絆に現在でも交流が続いています。

1924年(57歳)
グエン・アイ・コック(後のホーチミン主席)がソ連
の工作員ボロディンの通訳として広東に派遣さ
れてきます。
グエン・アイ・コックは15歳の時、日本への留学
を進められたファン・ボイ・チャウと劇的な出会い
を行います。二人はベトナム革命路線について
徹底的に話し合いましたが、ファン・ボイ・チャウ
がコミンテルンの政治路線に迎合することはあり
ませんでした。ファン・ボイ・チャウ57歳、グエン・
アイ・コック34歳でした。結果的にこの後のベト
ナム革命はグエン・アイ・コックによって引き継が
れていきます。

「越南光復会」の活動は停滞していましたが、グ
エン・アイ・コックは「越南光復会」のメンバーと会
って、マルクス・レーニン主義による革命の道を
説きます。

1925年(58歳)
ファン・ボイ・チャウが中国の国内旅行に出かけ
た後、グエン・アイ・コックは集会を開き「世界の
被抑圧・未開発の人民・アジア局・ベトナム支
部」を結成し、
1.ベトナム人民の愛国精神を高める
2.べトナム国内の抵抗闘争への財政支援を行

ことを活動目標におきます。

ファン・ボイ・チャウの側近ラム・ドゥック・トウが資
金集めのため、ファン・ボイ・チャウにかけられた
賞金目当てに、香港のフランス領事館に勤務し
ているヴィという人物にファン・ボイ・チャウの動静
を連絡し、ファン・ボイ・チャウに電報を打ちます。

「世界の被抑圧・未開発の人民・アジア局・ベト
ナム支部」の結成式典を開くので出席してほし
いと。

ファン・ボイ・チャウの乗った列車が上海駅に着
いた途端、ファン・ボイ・チャウはフランス官憲に
逮捕され、フランス軍艦でハノイに送られ、裁判
にかけられます。

この事件にグエン・アイ・コックが関与していたか
どうかは定かでありません。ベトナム共産党は勿
論、関与を否定していますが「将来の競争相手
になりそうなファン・ボイ・チャウを排斥した」とする
記述もあります。

11月23日 フランス軍事法廷はファン・ボイ・チ
ャウに対してフランス人に対するテロ行為の罪状
で終身懲役刑を宣告します。

中国の主権を侵害して逮捕したこの事件は世
界の関心を呼びファン・ボイ・チャウの恩赦を求
める世論が盛り上がり、新しくインドシナの総督
になったヴァレンヌは関係者の意見を聞き、12
月24日ファン・ボイ・チャウに恩赦を与え釈放し
ますが、ファン・ボイ・チャウはフエで自宅軟禁さ
れ、政治生命が閉ざされます。

政治路線は異なっても同志であったファン・チャ
ウ・チンはフランスから帰国した1926年ファン・
ボイ・チャウの釈放を聞き、会いに行こうとしまし
たが病床にあり、叶いませんでした。ファン・チャ
ウ・チンは翌年3月死去します。


1940年(73歳)
失意の内に過ごしていた彼のもとに何人かの学
生がこっそりと通い、その中にはやがてホー・チ・
ミンの右腕となるボー・グエン・ザップも交じってい
ました。

ザップ将軍は当時を省みて語っています。ファ
ン・ボイ・チャウは「日本のことも話してくれた。ベ
トナムがどうすればいいかも。話を聞いているとじ
っとしていられなくなった」と。

10月29日 軟禁状態のまま、ファン・ボイ・チャ
ウはフエの自宅で死去します。
最期の言葉はベトナム人が語ることを法律で禁
止されていた正式の国名「ベトナム」だったそうで
す。

ファン・ボイ・チャウの死去1カ月前、彼が武器
援助を依頼しに行った日本は軍隊を北部ベトナ
ムに進駐させ、その後フランス軍を駆逐すること
になります。


フエにはファン・ボイ・チャウの記念館があります。
住所:121 Phan Boi Chau St., Hue

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ファン・ボイ・チャウの頭像
この像はベトナムの彫刻家レ・タイン・ニョンによ
って1973年に建立されたもので、高さ3m、重
量が5トンあり東南アジア最大の頭像とされてい
ます。

2012年3月25日、この頭像はフオン川沿岸の
レロイ通り19番地のファンボイチャウ公園に移
動されました。


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ファン・ボイ・チャウの住居(レプリカ)

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ファン・ボイ・チャウの墓


サイゴンではベンタン市場の東側出入口前の通
りが、ファ・ボイ・チャウ通りと名付けられていま

ブイ・ティン
ベトナム人民軍のエリート中のエリート将校ブイ・ティン大
佐は南ベトナムの解放後、ベトナム共産党の施策に疑問
を呈し、最終的にはベトナムの「国家反逆者」というレッテ
ルを貼られ、アメリカに亡命しました。彼がインタビューで
述べている言葉はホーチミン主席の考え方を大筋で踏襲
しており、統一後のベトナムがホーチミンが目指した国家
建設とは相容れない方向に進んでしまったことが、如実に
語られています。

<ブイ・ティン大佐の経歴>

ブイ・ティンがベトミンの組織に加わったのは1945年、18
歳の時である。フランス系の高校を終えてすぐにベトミン
に加わったのである。ベトナム共産党にもまもなく入党し
た。彼の父はフエにすんでおり、第2次世界大戦中に日本
軍が樹立したバオダイ政権の法務大臣を務めた。父はそ
の後、ホーチミン政府に加わり、国会議員に選ばれた。

1954年のディン・ビン・フーの戦いではベトナム人民軍第
304師団の大隊長を務めています。大激戦のこの戦闘で
ティンは負傷し、腹部がもぎ取られた傷跡は今でも残って
いる。以降はベトナム人民軍の情報・宣伝畑の道を歩むよ
うになります。

ディン・ビン・フーの戦いに負けたフランスが撤退してから
は、南ベトナムでの戦闘と北のハノイでの参謀本部勤務を
交互に続け、ヴォー・グエン・ザップ将軍やファン・バン・タ
イという名将軍の下でも働いた実績があります。

1970年代にはいるとベトナム人民軍機関紙「クワンドイ・
ニャンザン」の記者から編集者、主筆までを勤めた後198
2年にベトナム共産党機関紙「ニャンザン」に移り、副主筆
にまでなります。この間に大佐に昇格します。

しかし1990年秋になるとベトナム共産党やハノイ政府へ
の非難を公然と述べるようになりますが、意見は無視され
続けます。

1990年9月、フランス共産党機関紙が主催するシンポジ
ウムで、パリを訪問した際、イギリスBBC放送のベトナム
向け放送で「民主主義l、「政治的多元主義」、「経済の自由
化」などを訴え、ベトナム政府から「国家反逆者」とのレッテ
ルを貼られ、ベトナム共産党から除名されてしまいます。

その結果、フランス、アメリカと亡命することになります。ベ
トナムには彼の妻と娘夫婦、それに孫娘2人がいますが、
厳しい監視の対象になっているそうです。

<ブイ・ティン大佐の表舞台>

北ベトナム軍の捕虜となったジョン・マケイン少佐(後のア
メリカの大統領候補)の尋問を担当します。

1973年パリ和平協定では、在サイゴンの北ベトナム軍代
表を務めます。

1973年2月初め
北ベトナム人民軍や南ベトナム解放民族戦線の軍事代表
団が国際監視委員会事務所で南ベトナム政府の代表と会
談するため、始めてサイゴン市内の中心部へ入ります。ブ
イ・ティンは北ベトナム軍事代表団のスポークスマンとして、
南ベトナムの警備の兵士の肩をたたいている光景が写真
に残っている。それはまさに勝者の代表のようでした。


1973年3月29日
サイゴンのタンソンニャット空港から米軍の最後の撤退が
行われました。C141輸送機に60人ほどの米軍将兵が母
国に引き揚げます。ブイ・ティンは北ベトナム将校団の主
席として米軍のパリ和平協定遵守を見届けます。

ブイ・ティンは北ベトナムの寺院を描いた竹の簾を記念品
として、最後の搭乗者、タンソンニャット米空軍基地司令官
のポイント・オデル大佐に渡そうとしましたが、大佐は受け
取ろうとせず、握手も拒みました。大佐は目に涙を浮かべ
ていましたが、ブイ・ティンは嬉しそうに笑っている写真が
あります。
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1975年4月30日
南ベトナム大統領官邸「独立宮殿」に最初に突入し、ズオ
ン・バン・ミン大統領に銃を突きつけた北ベトナム軍の第一
陣にはティン中佐も加わっていました。この時ブイ・ティン
はベトナム人民軍機関紙「クアンドイ・ニャンザン」誌の従
軍記者をしていました。しかし彼は突入部隊の中で一番階
級が上だったので、ミン大統領からの降伏の宣言を正式
に受ける大任を授かったのです。

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サイゴン陥落 (40)
旧南ベトナム大統領宮殿の2階です。

大統領官邸に足早に入って来たブイ・ティンはミン大統領
の無条件降伏通告に対し、

「(実権を委譲するというが)あなた達の実権はすでに粉砕
された。無いものを委譲はできない」 「ベトナム人同士で
勝者とか敗者とか区別しても意味はない。負けたのはアメ
リカなのだ。これからはベトナム人すべてが和解し、祖国
の再建と繁栄に努めるのだ」と答えました。


しかし、統一後のベトナム共産党の施策に対して、彼は失
望し、1990年フランスに亡命します。

1991年、アメリカに移住します。

1991年 アメリカ上院公聴会
ベトナム戦争での行方不明の米兵問題を論じるこの会議
での証人は元ベトナム人民軍大佐のブイティンだった。

公聴会の議員側の中心に座ったマケイン上院議員はベト
ナム戦争時に尋問したブイティンと再会します。

ブイティンは故国の政権の共産主義独裁への失望を語っ
た。ベトナム共産党が民族の和解に背を向けて、旧政権
関係者を弾圧し、国民の自由や創造を踏みつぶしたと非
難した。

1991年のベトナム共産党大会でも、マルクス、レーニン
主義の教義に触れない範囲で経済改革を進めるという矛
盾に満ちた決定が採択されています。

アメリカ移住後のインタビュー。
「戦争での勝利の後、私が熱望していたベトナム民族の和
解も、ベトナム社会の繁栄も結局は実現しなかったのです。
今のベトナムを見てください。地球上で最も貧しい国にな
ってしまいました。無数の子供たちが栄養失調やさまざま
な病気に苦しんでいます。北部地帯は飢餓に悩まされて
いる。南部では住民が将来に全く絶望している。国民のた
めの保険とか公衆衛生は存在しないに等しいのです。」

「数え切れないほどのベトナム国民が今も国外に脱出して
います。戦争が終わって解放され、平和になったはずの故
国から命の危険まで冒してボートピープルとなって逃げ出
そうとするのです。ベトナムはしかも国際的にすっかり孤
立してしまい、最大の朋友だったソ連もベトナムをいまや
見放しています。」

戦争に勝ったのに、何故そんな悲惨な状態が起きたの
か?

「勿論ベトナム政府首脳部の政策の結果です。ベトナム共
産党の指導者たちは戦争中は歴史でもまれに見る立派な
政策と戦略で闘争を勝ち抜きました。民俗独立の闘争に勝
って、共産主義に基づく革命をも達成した。しかし平和をど
う保ち、育てていくかを知らなかった。新しい情勢の下でも
マルクス・レーニン主義の「プロレタリア独裁」とか「民主集
中制」という硬直した教理にしがみつき、国民の自由も創
造も踏みにじってしまった。経済面では非能率的な国営統
制システムだけを推進し、とくに農業や手工業を集団化で
押さえつけ、結果的に破壊してしまった。ことに旧南ベトナ
ムではアメリカ型の自由主義に慣れていたので、統制経
済の強制は産業全体を麻痺させてしまったのです」

指導者の統治の方法よりも共産主義の原則そのものが良
くなかったのか?

「両方なのです。指導者たちの考え方が余りにも硬直し、
独善的だった。誤りを認めない点は無責任でもあった。世
紀の革命闘争を勝ったと言う事で自己をすべて正当化し、
賛美するという一種のナルシシズムに陥ってしまったので
す」

「戦後はホーチミン主席の教えから離反してしまいました。
その一例は旧南ベトナムの政府や軍関係者を「再教育」の
名の下に長い年月、拘留し続けたことです。ホーチミン主
席は民族の団結と和解を常に念頭に置いたのに、戦後の
指導者たちは闘争が完全に終わった後、報復のように15
万とか20万人の南政府関係者を収容所に閉じ込めました。
そのために国の復興や再建のための貴重な人材が浪費
された。その上、拘束された人達の家族は新政権に何時
までも恨みを持ち続けることとなった。民族和解に逆行し
たわけです。」

「ベトナム共産党は多様な意見とかは一切認めない政治
体制になってしまいました」

ベトナム戦争での勝利は意味は何だったのか?

「空虚な勝利」です。意味のない勝利のために私の同士達
が生命を犠牲にして戦ったのか思うと、心が引き裂かれる
ように痛みます。私自身も一体何のための生涯を通じての
闘争だったのかと考え込んでしまいます。‘

ドイモイ政策については?

「共産主義の基本は頑なに変えないまま、経済の一部を自
由化するというのは矛盾しています。ベトナムには「言論
の自由」、「投票の自由」、「報道の自由」など民主主義の
基本権利は国民に与えられていないのです。」

出典:古森義久 「ベトナムの記憶」

リー・トゥ・チョン


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Lý Tụ Trong(1914年-1931年)

1926年(13歳の頃)にはホーチミン主席の秘密連絡員とし
て広州で活動していましたが、その後サイゴンに戻ってい
ました。

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最前列中央の少年がリー・トゥ・チョン
1926年 中国の広州で

1931年2月8日(リー・トゥ・チョン17歳)同志の
PHAN BOI(HOANG HUU NAM)がLARÉGNÉNE通り
(現在のTRUNG DINH通り) で開かれた集会で演説をして
いました。この時期、フランス植民地政府は共産主義者の
弾圧を強めていましたのですぐ警察官のLEGRANDが飛んで
きて、彼を逮捕しました。

リー・トゥ・チョン(Ly Tu Trong)はLEGRANDに銃を向けます。
銃声と共に民衆は逃げ、広場には彼が横たわっていました。
フランス官憲は彼を逮捕し、拷問しますが、リー・トゥ・チョン
は彼が属する「青年革命同志会」組織の詳細を一言も話さ
ず、拷問に耐えました。

サイゴン中央刑務所に収容されましたが、他の囚人たちは
ハンガーストライキで植民地当局に抗議しました。

後日、彼が警官殺害の犯人かどうか確証がなかったと言わ
れています。

しかし1931年4月18日サイゴン裁判所は、死刑を宣告し
ます。囚人たちは20歳にも満たない少年に対する死刑判
決を聞き、フランス植民地政府の圧政に対して、再び抗議
のハンガーストライキを行います。

リ・トゥ・チョンはギロチンによって17歳の生涯を閉じます。

当時のフランス植民地政策は「農民と油は絞れるだけ絞
れ」で、人頭税をかけるため16歳で成人扱いとしていまし
た。特に白人に対する危害は重罪とされていて、白人警官
を撃ったとされるリ・トゥ・チョンに対し、容赦はしませんでし
た。

リ・トゥ・チョンは現在サイゴンの通りの名前になっていて、
サイゴン中央刑務所の斜め前の公園は「リ・トゥ・チョン公
園」と名づけられ、公園内の立像前の広場では、時たま小
学生に対する教育(思想教育かな)が行われています。




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リ・トゥ・チョン公園

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参考書


マダム・ヌーの別荘


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マダム・ヌー, 本名はチャン・レ・スアン(Chan Le xuan)
1924年フランス領インドシナと呼ばれていた時代の
ハノイで生まれた彼女の父は弁護士でゴ・ジン・ジェム政
権下で在米国大使を務めています。母方は阮朝第9代
皇帝ドンカイン(Ðồng Khánh 1885年 - 1888年)の血筋
でドンカインの外孫、最後の皇帝Bao Daiの従兄弟にあ
たる血筋で、血統証つきのお姫様でしたが、気が強く、
庶民の感覚は持ち合わせていなかったようです。

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ドンカイン帝

1943年、後の南ベトナム大統領ゴ・ディン・ジェムの実
弟ゴ・ディン・ヌーと結婚します。ゴ・ディン・ヌーはフラン
スの名門大学Ecole Nationale des Chartesを卒業した
始めてのベトナム人です。

仏教徒だった彼女は結婚後、夫に合わせて仏教徒から
キリスト教徒に改宗しています。
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改宗

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家族

しかし1945年、ホーチミンが主導したベトナム8月革命
でベトミン軍に一家が4ヶ月間軟禁され、一日粥二杯の
みの食事という悲惨な待遇を受け、加えて彼女の長兄一
家が銃殺されてしまう事態に遭遇し、彼女は強烈な反共
産主義者になったと言われています。

1955年 生涯独身だった義兄のゴ・ディン・ジェムが大
統領になると同時にマダム・ヌーとして1955年から196
3年まで南ベトナム共和国の実質的なファーストレディー
を勤めることになります。

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気性の激しい彼女は、1963年6月11日にカトリック教徒
優遇政策と仏教徒に対する弾圧を推し進めたジエム政
権に抗議して首都のサイゴン市内で焼身自殺を図った
ティック・クアン・ドック僧侶の行動を、「あんなのは単なる
人間バーベキューよ」、「僧侶が一人バーベキューにな
ったからなんだっていうの」、「西欧化に抗議するのにア
メリカ製のガソリンを使うなんて矛盾してるわ」などとアメリ
カのテレビ局のインタビューで批判した言動が、世界中
から大顰蹙を買い、当時のケネディーアメリカ大統領も
怒らせてしまったことが、夫と義兄であるジェム兄弟暗殺
の引き金になってしまいました。

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彼女の奔放な発言や強権的な態度に対してアメリカのマ
スコミは「ドラゴン・レディ」という渾名を送りました。
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ケネディ大統領も黙認した1963年11月1日の軍事クー
デターでジェム兄弟が暗殺されたときには、長女と共に
アメリカにいたため、難を逃れていますが、翌年南ベトナ
ムに戻ろうとしたところ入国を拒否され、事実上の国外追
放となり、その後は生涯ベトナムの土を踏むことはかな
いませんでした。その後は、子供達と欧米諸国を転々と
し、最終的にはイタリアローマに亡命します。


2011年4月24日、ローマの病院で死去したことが報道
されました。生前、彼女は回顧録を書いており、今年中
には発行されるそうです。


<マダム・ヌーの別荘>

ヌー夫妻は大統領と一緒に大統領官邸で生活していま
したが、ファーストレディーとして権勢を振るった彼女は
1958年、ベトナム第一の別荘地であるダラットのパイナ
ップル林に囲まれた小高い丘の上に3つの別荘を建設
することを命じました。

ベトナムの別荘は日本と比べれば安いだろうと思ってい
る方は現地で価格を見るとビックリします。軽井沢より高
いのです。

別荘には、それぞれ宝石の名前がつけられていました。

Bach Ngoc(真珠), Lam Ngoc(トルコ石), Hong Ngoc(ルビー)

Bach Ngoc 別荘は温水プール付きで、地元の金持ち
も、この別荘の建設に彼女がいくら投資したか想像でき
ないそうです。
別荘   (1)


Lam Ngoc別荘はジェム政権のゲストハウスとして建設
されました。豪華な内装とすべてイタリアから輸入された
家具類が置かれ、庭には日本人の設計による日本庭園
も造られています。この別荘にはダラットのCam Ly
military airport に繋がっている地下道が作られてい
ます。
別荘   (2)
日本庭園

別荘   (3)
地下道の入り口

Hong Ngoc別荘は彼女の父親(Tran Van Cruong)の
ために建設されたものです。父親は在アメリカ大使をし
ていました。
別荘   (4)


しかし1963年にジェム兄弟が暗殺されてからは、別荘
は次期南ベトナム政府に接収されてしまいます。観光ガ
イドさんによると、その時家具類もすべて持ち去られてし
まって、現在残っているのはバスタブだけだそうです。
別荘   (5)


南北統一後は省の観光局が引き継ぎ、苦労して中部高
原の少数民族の博物館としてリニューアルしました。

1984年にはグエン王朝のwooden print blocks(木に
文字を彫ったもの)がフエの旧王宮からこの別荘に移さ
れ、保管されており、歴史上の貴重な資料とされていま
す。この移設の命令は1960年にゴ・ディン・ヌーが陸軍
に命令しているのですが、ベトナム戦争中であり、移設
が中断してしまったのかも知れません。完了までには随
分と時間がかかりました。

2006年 政府は別荘をNationa Archive Center No.4
として指定し、保存に力を入れています。





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