べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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グエン・ティ・ミン・カイ 更新

11 )

Nguyễn Thị Minh Khai
本名 グエン・ティ・バイ(Nguyen Thi Bay)
生没年  1910年 - 1941年8月26日
誕生日には諸説があります。Hội Liên hiệp phụ nữ Việt Nam
(Vietnam Women's Union)によれば11月1日, Báo Đại đoàn
kết(The Great Unity)によれば、9月30日となっています。

ゲアン省ヴィン市ヴィンイェン村落の生まれ。
1930年から1940年にかけてのインドシナ共産党のリーダーの
一人。


父親グエン•フイ•ビン(Nguyễn Huy Bình)はハノイ生まれですが、
ヴィン市で公務員を養成する仕事をしていました。

母親ダウ・ティ・トゥ(Đậu Thị Thư)はハティン省ドゥックトー県ドゥ
ックトゥン村落の出身で中小企業に勤めていました。

1919年からクウォック・グー(現在のベトナム語)を学び、ヴィン
市のカオ・ソン・ズック(Cao Xuân Dục)学校に入学します。

1925年頃の先生はチャンフー(初代インドシナ共産党書記長)
でした。

1927年、労働運動に参加していたグエン・ティ・ミン・カイはチャ
ン・フーが中心となって創設した共産主義団体「新越革命党」に
参加し、執行委員会のメンバーになり、ゲアン省のベン・トゥイ
(Bến Thủy)村で党員の教育を行い、ファン・ボウ・チャウの恩赦
運動やファン・チャウ・チンの追悼大会に党員を動員していまし
た。  

1929年初め、グエン・ティ・ミン・カイは革命運動に専念する為
に家族と離れて暮らすようになります。

1930年 インドシナ共産党に入党し、宣伝活動担当になり、
ベン・トゥイ市場で共産党員の訓練をします

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その後、香港に向かい、コミンテルン東方局でグエン・アイ・コック
(ホーチミン主席)の秘書をします。グエン・アイ・コックは直接、
彼女を教育し、グエン・ティ・ミン・カイは官憲からグエン・アイ・
コックを守る為に全力を注いでいました。

インドシナ共産党の成立後、1930年から1931年にかけてベト
ナムでは「ゲティン・ソヴィエト」と呼ばれる農民や勤労者を中心
にした労農政府の樹立を目指して、蜂起が頻発し、フランスは大
衆組織の蜂起に脅威を感じ始め、共産党員の大弾圧を始めま
す。

1931年、グエン・アイ・コックはタイに拠点づくりに行っていまし
たが、秘書をしていたグエン・ティ・ミン・カイは香港で逮捕され、
投獄されます。

1934年に釈放され、上海で合法活動していた時にレ・ホン・フォ
ンと出会い、結婚します。結婚セレモニーはアパートに同志2,3
人が集まったとても質素なものでした。(別項)

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1935年3月
夫のレ・ホン・フォンと共に1931年の大弾圧以来、壊滅的状態
にあったインドシナ共産党組織の建て直しに努め、第1回インド
シナ共産党全国大会をマカオで開催することに成功します。

この年の7月にモスクワで開催されるコミンテルン第7回会議の
インドシナ共産党の公式使節団にレ・ホン・フォンと共に任命され、
モスクワへ向かいます。

会議に出席したグエン・ティ・ミン・カイはレーニン婦人に会い、
グエン・アイ・コックにも再会します。
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(左)レーニン婦人 (右)がグエン・ティ・ミン・カイ

会議終了後、グエン・アイ・コックはグエン・ティ・ミン・カイを食事
に招いた席で、グエン・アイ・コックは、いずれベトナムに戻りたい
と話しています。

その後グエン・ティ・ミン・カイはモスクワの「東方勤労者共産大
学」(Đại học Phương Đông)で勉強します。

1936年、コミンテルンの要請でグエン・ティ・ミン・カイは「Năm
Bắc」という偽名でベトナムに帰還し、インドシナ共産党南部委員
会に属し、サイゴンーチョロン地区の書記を務めます。

夫のレホンフォンは1937年年末頃にベトナムに戻り、1938年
3月にはサイゴン近郊のホックモン(Hóc Môn)で開かれたインド
シナ共産党中央委員会に出席し、『インドシナ民主統一戦線』
(Mặt trận Dân chủ Đông Dương)の設立を決定します。

そして南部ベトナムでの反仏蜂起の組織作りをベトナムに戻った
夫と共に精力的に行います。しかし行動はお互いに別々に行っ
ていました。

しかしフランスの秘密警察は、夫レ・ホン・フォンとグエン・ティ・ミ
ン・カイが、その首謀者であることは知っていました。

1939年6月22日に夫のレホンフォンが逮捕され、9月にはグエ
ンティミンカイも逮捕され、サイゴンのカティナット警察に収容され、
投獄され、拷問されても彼女は外部と接触を図り、革命運動を指
導し続けます。

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第2次世界大
戦が始まります。フランス政府はインドシナに総動員令を発令す
ると共に、「インドシナ民主統一戦線」による活動も非合法とされ、
インドシナ共産党や革命勢力を戦争遂行上の邪魔者とみなして
再び大弾圧を加えます。

1939年10月11日 北部ベトナムのバクニン省のチュウソンで
共産党第7回中央委員会で南部委員会のファン・ダン・ルウは南
部蜂起を主張しますが、時期尚早として退けられます。しかし南
部ベトナムでは中央委員会の決定を待つことなく、蜂起の準備が
進んでいました。

1940年11月22日深夜から23日にかけて「南部蜂起」(ナム・
キー・コイ・ギア)と呼ばれる大規模な反仏蜂起がミトー省を中心
に南部ベトナム8省で一斉に起こりました。


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一斉蜂起にはフランス軍内のベトナム人兵士と貧農など約3千
人が立ち上がりました。

ベトナム人なら誰でも知っているこの大規模な反乱も10日後に
はフランス軍によって鎮圧され、20000人が逮捕されインドシナ
共産党の幹部はことごとく逮捕、処刑され南部の共産党組織は
壊滅状態になり、共産党員はメコンデルタ先端の「ウミンの森」に
たてこもり組織の再建にとりかかります。

グエン・ティ・ミン・カイの家族はヴィン市のQuang Trung Street
132に住んでいましたが、南部一斉蜂起が失敗に終わった
1940年末には母親の実家であるハティン省ドゥックトゥン村
(Đức Tùng)村に引っ越しました。

フランス植民地政府は彼女に死刑を宣告し1941年8月28日に
ホックモンの三叉路でVo Van Tan, Phan Dang Luu, Nguyen
Van Cuらと共に銃殺されます。

処刑の直前、彼女は囚人服を脱ぎ捨て「ベトナム共産党万歳」
(Đảng Cộng sản Việt Nam muôn năm!)と叫び、不屈の精神を貫
ぬき通しました。


<グエンティミンカイの子供と兄弟>
レホンフォンとグエン・ティ・ミン・カイには1939年に生れたグエ
ン・ティ・ホン・ミン(Nguyen Thi Hong Minh)と名づけられた一人娘
がいます。名前は両親の名前の一字をもらっています。

1954年に中国に勉学の為送られ、その後ソ連の大学で機械工
学を勉強して、ベトナムに戻ります。

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ソ連レニングラードへ留学中のグエン・ティ・ホン・ミン(1963年)

ベトナムに戻ってからは、ベトナム共産党の研究に従事し、
1976年からはホーチミン市共産党の組織委員会に在籍し、
1995年に引退しています。

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グエン・ティ・ホン・ミン

19 (2)
グエン・ティ・ホン・ミン。この姿は母親ゆづりかも



グエン・ティ・ミン・カイは3人兄弟で、グエンティミンカイの実妹,
グエン・ティ・クワン・タイ(Nguyễn Thị Quang Thái)はヴォーグエンザップ
将軍の最初の妻でしたが、ザップが1941年ベトミンを創設したため、
ザップの妹と共にフランス植民地政府に逮捕され、獄死しています。

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グエン・ティ・クワン・タイと若き日のザップ将軍

グエン・ティ・ミン・カイの実弟グエン・フイ・ズン(Nguyễn Huy Dung)
はチョーライ病院の副医院長を勤め、心臓の専門医です。
数冊の書籍が出版されています。

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グエン・フイ・ズン


<グエン・ティ・ミン・カイの記念物>

グエン・ティ・ミン・カイの道路名はベトナム各地にありますが、サ
イゴンでは統一会堂側面の道路名になっています。この道路は
以前は「ソヴィエトゲティン」(ゲティン省の評議会(ソビエト)))通
りと呼ばれていましたが、サイゴン陥落後はグエンティミンカイ通
りに改名されました。

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グエン・ティ・ミン・カイ通り

サイゴンのディエン・ビエン・フー通りには彼女の名を冠したサイ
ゴンの名門高校があります。

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グエンティミンカイ高校に建つ胸像

2012年11月23日、1940年11月23日のナム・キー・コイ・ギ
ア(南部一斉蜂起)を記念して、主導者であったグエン・ティ・ミン・
カイの記念切手が発行されました。

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レ・ホン・フォン
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本名    Lê Văn Dục
別名   Lê Huy Doãn, Lê Văn Duyện, Lê Hồng Phong
      一般にはLê Hồng Phong として知られています
生没年  1902年9月6日―1942年9月6日
誕生地  ゲアン省フングエン県フントン村落(xã Hưng Thông,
huyện Hưng Nguyên, tỉnh Nghệ An)生まれ

インドシナ共産党第2代書記長
在位 1935年3月31日–1936年7月26日

家族   父Lê Huy Quán 母 Phạm Thị Sau
     妻Nguyễn Thị Minh Khai


貧乏な農家に生れ, 父は彼が少年の時に亡くなってしまいました。母は
彼に学校に行くことをしばしば薦め、母のお陰で学校でチュノム(漢字表
記のベトナム語)を学びます。その後、2年間フランス語を学びました。

1918年 16歳の時
彼は Lê Huy Doãnと改名し、家計を助ける為、ヴィン市にある問屋に
働きに出ます。しばらくして、Bến Thủyのマッチ工場に移りましたが、工
場での労働運動に参加した為、解雇され、それ以降は革命運動に専念
するようになります。

1923年1月
革命の道を探す為にPham Hong ThaiらPhạm Văn Tích村の10人の
若者と秘密裏にタイに向かい、その後、中国の広州に行きました。

広州で彼は抗仏組織「タムタム社」(Tâm Tâm Xã)を, Ho Tung Mau,
Le Hong Son, Pham Hong Thai, Lam Duc Thuらの同士と共に設立し
ます。

1924年
グエン・アイ・コック(ホー・チ・ミン主席)がソ連の秘密工作員ボロディン
の通訳として広州に赴任してきました。

レ・ホン・フォンは広州で同士のLê Hồng Sơn、Lê Quang Đạtらとグエ
ン・アイ・コックに出会います。
グエン・アイ・コックとの出会いはレ・ホン・フォンにとって最大のターニン
グポイントになり、グエン・アイ・コックが最も信頼する協力者になります。

レ・ホン・フォンはグエン・アイ・コックが主宰する「共産主義トレーニング
スクール」の開校に向けて尽力し、スクール運営の重要なスタッフになり
ます。

1925年6月21日
レ・ホン・フォンはグエン・アイ・コックとの話し合った結果、「タムタム社」
の精鋭部員を中心にして「ベトナム青年革命同志会」
(Việt Nam Thanh niên Cách mạng Đồng chí Hội)を創設し、
中核9人のうちの1人となります。

1925年夏
グエン・アイ・コックの指示で彼とLê Hồng Sơn, Lê Quang Đạtは
「黄埔軍官学校」に入学します。1年後レ・ホン・フォンはソ連の空軍パイロット
の養成機関であった広州の空軍学校(Trường Không quân Quảng
Châu)に配属されました。

1926年2月
グエン・アイ・コックの紹介で中国共産党に入党します。

1926年10月から1927年10月まで
ソ連のレニングラードで軍事理論を学び、12月から翌年1928年11月
まで、ソ連のボリソグレブスクでエアーフォース2に参加します。

1928年12月から
コミンテルンの「東方勤労者共産大学」に入学し、卒業後、中佐となり、
紅軍(ソ連の共産党軍(Hồng quân Liên Xô)に参加します。

1930年から1931年
1930年に設立された「ベトナム共産党」(すぐにインドシナ共産党と改名
されます)の指導によって、「ゲティンソビエト」(労農者政府)樹立の為の
ストライキや蜂起が各地で頻繁に発生しました。
フランス植民地政府は大衆が主体となった氾濫に脅威を感じるようにな
り、大弾圧を始めます。

1931年
チャン・フー、グエン・ティ・ミン・カイ、グエン・アイ・コックらインドシナ共産
党中央委員の全員がフランス当局の指示によって、ベトナム国内や香港
で逮捕されてしまい、インドシナ共産党は壊滅的状況に陥ります。

1931年後半
レ・ホン・フォンはコミンテルンの指示でVương Nhật Dânと名前を変え中
国に入国します。

1932年6月
インドシナ共産党はコミンテルンの承認の下に活動指針を作成します。

1934年
レ・ホン・フォンは中国で活動している同志Ha Huy Tap, Nguyen
Vanover, Nguyen Van, Tran Van Chanらに会うために上海に向かいま
す。
そして6月16日から21日まで,コミンテルンの指導に従って、同志と
ベトナム国外に「インドシナ共産党指導委員会」を設立し、その委員長
となり,ベトナム国内で離散した党組織の再統一にあたります。

香港で逮捕され、この年1934年に釈放されたグエン・ティ・ミン・カイも
また上海で活動していました。2人は恋に陥り、結婚します。

1935年3月
レ・ホン・フォンはインドシナ共産党第1回全国大会をマカオで開催するこ
とに成功します。この大会でレ・ホン・フォンは党書記長に選出されます。
レ・ホン・フォンはインドシナ共産党のコミンテルン代表として、恩師のグ
エン・アイ・コックを指名します。

1935年7月
モスクワで開催されるコミンテルン第7回大会に党の代表使節団を率い
て会議に参加します。グエンティミンカイも代表団の一人となります。コミ
ンテルンはインドシナ共産党を公式な支局として認め、レ・ホン・フォンを
コミンテルンの常任委員会のメンバーとして選出します。

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コミンテルン第7回大会のIDカード(名前は Hai Anという偽名です)


1936年1月
7月に上海で開催されるインドシナ共産党中央委員会に出席する為、
上海に向かいます。

1937年11月10日
ベトナムに戻るため、「La Britain」と偽名を使います。

1938年3月
サイゴン近郊のホックモンHóc Mônで開かれたインドシナ共産党中央
委員会に出席し、『インドシナ民主戦線』(Mặt trận Dân chủ Đông
Dương)の設立を決定します。

1939年6月22日
フランス植民地政府によりサイゴンで逮捕され、6カ月の懲役刑、3年間
の保護観察処分に付されます。

故郷のゲアン省で保護観察を受けているときも、共産党の機関紙に投
稿し、革命運動の精神は活発でした。
第2次世界大戦が欧州で勃発するとフランスはベトナム人民に総動員令
を発します。

1940年2月6日
レホンフォンはゲアン省を離れようとしましたが、官憲に捕まり、サイゴン
の「カティナット警察」に移送され、5年間の懲役刑、10年間の保護観察
を宣告され、コンダオ島の監獄に収監され拷問されます。

1942年9月6日正午
コンダオ刑務所で拷問によって衰弱しきっていたレ・ホン・フォンは、配ら
れた飯の器で頭を殴られ、血の滴った飯を静かに食べ同志に言います。
革命の勝利を信じていた彼の最後の言葉は「同士諸君! ありがとう」
だった。この日は彼の満40歳の誕生日でした。

2012年9月6日午前
ゲアン省ビン市で、ベトナム共産党第2代書記長だったレ・ホン・フォン生
誕110周年を記念する式典行われました。式典には、グェン・フー・チョ
ン共産党書記長をはじめとし、ベトナム共産党と政府の指導者、老革命
家ら多数が参列しました。

13   (400x225)

式典で、グェン・フー・チョン共産党書記長は「生前、レ・ホン・フォン氏は
ホーチミン主席の優れた生徒の一人であり、才能ある指導者で、祖国の
独立、自由と国民の幸福のため犠牲になりました」と語りました。


レ・ホン・フォンとグエン・ティ・ミン・カイとの間にはLê Hồng Minhと名づ
けられた娘がおり、ソ連の「東洋勤労者大学」で勉強した後、ベトナム共
産党のために働き、1995年に引退しています。

ホーチミンと愛弟子
ホーチミンと愛弟子ファンバンドンと
ヴォーグエンザップの出会い

ホーチミンが生涯、全幅の信頼を置いたのは、
何といってもこの2人です。

この3人の共通点は
1.中部ベトナムの生まれであること
2.両親が知識人であった
3.ベトナム第一の名門校クオックホック高校
で学んでいることです。
4.政治犯として3人とも刑務所に入れられた
こと
5.3人ともフランス語が堪能であったこと

1945年からはこの2人に秘書の青年、ブー
キーが加わります。


<ホーチミンとファンバンドンの出会い>
1925年ファンバンドンは広州でホーチミンの
共産主義トレーニングの第1期の受講生とな
った。

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<ファンバンドンとヴォグエンザップの出会い>
1936年から1939年の間にハノイで知り合っ
ている。

<ホーチミンとヴォグエンザップの出会い>

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1940年中国昆明でファンバンドンとヴォグエ
ンザップは一著にホーチミンに会いに行ってい
る。
第2次世界大戦は欧州で始まると、欧州各
国の植民地に対する弾圧が強まっていき、イ
ンドシナ共産党も非合法政党とされ、9月から
は弾圧が強化されたため、幹部党員は他国
に逃避するものが出てきました。

ファンバンドンもヴォグエンザップらも中国共産
党と共に活動していたホーチミンに会いに同
志のいる中国、昆明を通過して、延安に向か
おうとしていました。

しかしホーチミンは昆明に留まるように連絡し、
昆明で3者が会談します。

この会談でベトナム独立のための具体的な準
備が話し合われ、ホーチミン帰国のための秘
密基地の構築、ゲリラ部隊の創設などが話し
合われます。

ホーチミンはザップに向かって言いました。
「軍事部門の責任はお前がやるべきだ。出来
るか」
ザップは即座に答えました。
「やります」

1945年8月革命の成功後。ザップは
ホーチミンに言いました。
「ベトナムの大統領はあなたがやるべきだ」
ホーチミンは無言でしたが、翌日からベトナム
独立宣言の起草に取り掛かります。

独立宣言会場ヘ向かう車の後部座席にはホ
ーチミンとザップが乗っていました

ファン・バン・ドン

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Phạm Văn Đồng (范文同)
生没年1906年3月1日 ― 2000年4月29日

1955年9月20日から1976年7月2日まで
ベトナム民主共和国(北ベトナム)の首相。
南北ベトナム統一後も引き続き1976年7月
2日から1987年6月18日の引退まで
ベトナム社会主義共和国の首相を務め、
合計32年間に渡りホー・チ・ミン主席の
愛弟子としてベトナムの首相を務めた。

<1906年―1925年>
3月1日、ベトナム中部のクアンガイ省
モドゥック県ドゥックタン村の役人の名家に
生まれました。父はグエン王朝の官吏で、
大地主でした。

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生家

ベトナム最高の名門校クオック・ホック高校
(フエ市)に学び、同時期に抗仏運動にも
参加しました。ホーチミン主席の後輩で、
同志のザップ将軍もクオック・ホック高校の
卒業です。

13_20120810210152.jpg
高校生時代(後列右側)

ハノイ大学に進学、卒業します。

<1926年>
3月4日に逝去した愛国者ファン・チュー・チンの
死を悼む学生集会に参加します。この頃か
ら共産党およびベトナム独立への関心を高め
、中国・広州へ向かい、国共合作で同地に
開校された黄埔軍官学校(校長・蒋介石、
副校長・周恩来)に入学。ベトナム青年革命
同志会にも参加してホー・チ・ミンが講義して
いた共産主義の訓練コースを受講します。
第1期生です。

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ホー・チ・ミンが講義した共産主義の訓練コース

15


<1929年>
ベトナムに帰国した彼はサイゴンで「青年革命
同志会」の活動をしていましたが、フランス植
民地当局に逮捕され、懲役10年の判決を
受けてコンダオ島の監獄に送られます。

<1936年>
フランス本国に左派のブルム人民戦線政権
が誕生し恩赦で釈放されます。釈放後、ハノ
イで活動していた時、6歳年下のヴォー・
グエン・ザップと出会います。

<1939年>
9月 ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発し、
フランスはインドシナ共産党員の弾圧を強め
ます。

<1940年>
ホー・チ・ミンが中国の延安を中心に活動して
いることを知ったファム・ヴァン・ドンはヴォー・
グエン・ザップと共に密かにベトナムを脱出し
延安に向かいますが、昆明の同志の家に着
いた時にホー・チ・ミンから昆明で待機するよう
連絡があり、同志の家で待機し、ホー・チ・ミン
と再会します。

3者でベトナム独立の具体的な話し合いが
深夜まで続きました。ヴォー・グエン・ザップが
軍事部門を、ファム・ヴァン・ドンが内政面を
担当することも、この時の話し合いで決まりま
した。
ホー・チ・ミンは2人に中国とベトナムの国境近
くにベトナム革命の基地を作ることを指示します。


<1941年>
ホー・チ・ミンがベトナムに帰国。ホー・チ・ミン
の指示でベトナム独立同盟(ベトミン)の結成
に加わります。

<1945年>
ベトナム八月革命の後、ホー・チ・ミンが
ベトナム民主共和国の建国を宣言しても、
フランスはこの独立宣言を認めませんでした。
ファム・ヴァン・ドンは新政府の財務相に任命
され、1954年までこの職にありました。

<1946年>
フランスからの独立を求めてフランスの
フォンテーヌブローで開催された独立交渉の
ベトナム側代表団長を務めます。

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独立交渉のためフランスに向かう
ファン・バン・ドン

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ホー・チ・ミンもパリにやって来ますが、この会
談は失敗に終わり、帰国後フランスとの全面
戦争が始まります。(ホー・チ・ミンの後方がフ
ァン・バン・ドン)

18_20120810210320.jpg
ハノイを占領されたベトミンは、一旦ベトナム山
岳地帯のベトバックに抵抗基地を移します。
左からファム・バン・ドン、 ホー・チ・ミン、 ヴォ
ー・グエン・ザップ

<1954年>
フランスは1946年からの第一次インドシナ戦争
において、1954年ディエン・ビエン・フーの戦い
で大敗北を受け、5月から
ジュネーヴで和平会談が始まります。副首相兼外相に
就任したファム・バン・ドンはベトナム民主共和国新政府の
代表団を率いてパリに向かいホー・チ・ミンの指示受け
て条約締結の交渉を行います。

<1955年>
9月、第1期第5回国会において、ホー・チ・
ミンが兼任していた首相職を継ぎ、以降32年
間に渡りベトナムの首相を務めます。

19_20120810210733.jpg
執務するファン・バン・ドン


20
外国人記者団のインタビューに答えるホー・チ・ミン
「今 この国を動かしているのは彼だよ」

ファン・バン・ドンは中華人民共和国政府とも
緊密な関係を保ち、アメリカのリンドン・ジョンソン
及びリチャード・ニクソン政権期には、戦闘終結
のための和平会談に関わりました。


<1969年>

21_20120810210955.jpg
5月 ホー・チ・ミンの後継者とされている党第
一書記、レ・ズアンと話し合うファン・バン・ドン

22_20120810210954.jpg
9月2日 ホー・チ・ミンが死去します


<1973年>

23_20120810210953.jpg
ベトナム和平パリ協定調印後、1973年2月
10日 アメリカのキッシンジャー大統領首席
補佐官のハノイ訪問で会談するファン・バン・ドン


<1975年>
サイゴン陥落後はホー・チ・ミン主席を引継
いだレ・ズアン政権によって次第に権力から
遠ざけられていきまます。

1987年までファン・バン・ドンは首相を務
めましたが、この時期の首相ポストは飾り物に
なっていました。党が全てを決定する社会主
義国にあって、政府の長に実権は与えられま
せんでした。レ・ズアン党書記長とレ・ドク・ト
政治局員がすべての権限を握っていて、ヴォ
ー・グエン・ザップ将軍でさえ、深慮遠謀に長
けた彼ら二人組の前に手も足も出ない状態
であったといわれています。

元「ニャンザン」副編集長で亡命したタイン・ティン
(ブイ・ティン)によれば、かつてファム・ヴァン・ドン
は、「私は最年長の首相だが、最も非力な首相で
もある」、「私には権力がないから、しゃべっても誰
も聞きやしない。次官の交替だって、私はただ提
案するだけで実権はない。大臣の選出に至っては
推して知るべしだ」と不満をこぼしたことが再三あ
った、
「ファム・ヴァン・ドンは、政治局の中で最も寡
黙な人である。おそらく恥ずかしい思いで、あ
らゆる権力争いや派閥を外側から眺めてい
るのだろう」。と著書で述べています。

<1981年>
スタンレー・カーノウとのインタビューで、ファン・
バン・ドンが述べた有名な言葉があります

「ええ、我々はアメリカを打ち負かしました。しか
し今、我々は様々な問題に悩まされています。
食糧も十分ではありません。我々は貧しい、発
展途上の国家です。あなたもご存知のとおり、
戦争を遂行することは簡単です。しかし、一国
を運営することはとても難しいのです。」

24_20120810210952.jpg
インタビューに答えるファン・バン・ドン
このノンタビューはWEBで公開されています。


<1987年>
第6回共産党大会において、ベトナム独立の
第一世代の引退に際し、戦友ザップ将軍と
共に彼も引退します。

引退後
公的機関からは引退したものの、彼は1997
年まで、党中央委員会顧問を務め、しばしば
汚職を止めるため、大きな努力をするよう党
幹部に働きかけています。


晩年まだ元気だった頃、ファン・バン・ドンは重
い鬱病にかかった夫人をかばいながら、よくホ
アンキエム湖畔の公園を散歩して、読書をす
るのを楽しみにしていました。若き日に彼が身
につけたフランス風の教養は、ホー・チ・ミン主
席との人間的ふれあいを厚みのあるものにし
ましたが、その後の共産党内にあっては、かえ
ってファン・バン・ドンの教養が「軟弱」に写って
しまったようです。

晩年は視力を失い(白内障らしく、全視神経
が機能しなくなってしまっていた)。人民服に黒
いサングラスをかけた姿が、至高な雰囲気を
漂わせていました。手を使うことができず他の
者が彼の言葉を代筆しています。

<2000年>
5月2日、ベトナム政府は、ファン・バン・ドンが
数ヵ月の闘病生活の後、4月29日午後11
時10分老衰のためハノイで死亡したことを
発表しました。94歳でした。


彼の死は4月30日の南部解放記念行事
が終わるまで発表されませんでした。

5月6日に記念行事と葬儀がハノイで執り行
われました。そこには長年、ホー・チ・ミン主席
の愛弟子として共に働いたザップ将軍が静か
に見送っていました。

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白い軍服で敬礼しているのがザップ将軍
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2009年、生家の近くに建設された記念館

ホー・チ・ミン主席秘書  ブー・キー

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晩年のブーキー夫妻

Vũ Kỳ
本名 Vũ Long Chuẫn
生没年 1921年9月26日―2005年4月16日


1921年9月26日
HaTay省,Thường Tin県Mễ Son村落の公務
員家庭に生まれました。

1940年4月
学生時代からフランス帝国反対青年団の革命
運動に参加するようになります

1940年10月25日
インドシナ共産党の党員になります。

1942年
ハノイのインドシナ共産党の物資の運搬係りをし
た後、通信部隊として働きます。

1943年
中頃から1945年8月までインドシナ共産党の
物資運送の仕事をします

1945年8月28日
ホー・チ・ミン主席の秘書となります。

1950年初め
インドシナ共産党の中央委員会に出席します

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フランスの再植民地化に対する抵抗戦争でブー
キーから戦況を聞くホーチミン主席

1953年3月
インドシナ共産党の書記になります。
ホーチミン主席により共産党青年団のリーダー
の役割を与えられます。

1956年4月から1969年まで
大統領府でホーチミン主席の秘書を務めます。

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1956年8月14日 中部高原の政治センターを
訪れたホーチミン主席に同行するブー・キー
(右後)


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1957年6月3日 大統領府内の別錬の建物
(nhà 54と呼ばれていました。大統領の執務室)
でブーキーと打ち合わを行なうホーチミン主席


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1957年6月14日 50年ぶりに実家のキムリン
村を訪れたホーチミン主席(の右側後方、ブーキ
ー)

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1957年8月 ソ連レニングラード、Xmônưi宮殿
の中庭にあるレーニン像の前での記念撮影
(右端ブーキー)

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1959年3月31日 ハイフォン港に向かう途中、
船上で国土の北東海岸の地図を興味ぶかげに
見ているホーチミン主席(右側ブーキー)


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1961年12月16日 大統領府内のゲストハウ
ス厨房人と外国要人との会議に出されるメニュ
ーについて打ち合わせをするホーチミン主席
(中央、ブーキー)

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1964年5月14日 大統領府ゲストハウスで
中国雲南省昆明士林地区の芸術団と記念
撮影するホーチミン主席(後方はブーキー)


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1965年2月2日 クアンニン省Yên Hung県
Yên Lập村で、新しい共産青年団と記念撮影
をするホーチミン主席と(前列右から2番目)


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1966年7月16日 大統領府で侵略者アメリカ
軍に対し、全国の兵士に徹底抗戦のアピール
書の原稿を説明するブーキー



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1969年2月16日 旧正月にハノイのバクマイ
飛行場の兵士を訪れたホーチミン主席(右側、
ブーキー)

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1969年4月27日 ハノイ、バーディン地区の
人民評議会投票所で。

8月ごろからホーチミン主席は急激に衰弱してい
き医療器具が運び込まれていたハウス67(私邸
の裏側にある当初シェルターとして建設された
建物)に移り、ベットの上で仕事や読書をするよ
うになります。

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1969年9月2日 永遠の眠りにつくホーチミン
主席
左からファンバンドン、チュオンチン、ヴォグエン
ザップ、トンドゥックタン、レズアンそしてホーチミン
主席に手をおいているのがブーキー

ホーチミン主席の死去後、ブー・キーが全力を
注いだのはホーチミン主席の私邸を保存すること
とホーチミン博物館を作り上げることでした。

ブー・キーは24年間ホーチミン主席の秘書を務
め、ホーチミン主席から遺言状を託されるほど
厚い信頼を得ていました。
「ブー・キー」という名前はホーチミン主席がつけ
たあだ名で、いつもは「Kỳ  キー」と呼ばれていま
した。

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1969年9月13日 ホーチミン主席の私邸での
生活を支えた全スタッフの記念撮影。中央が
ブーキー


1970年―1980年
ホーチミン廟の建設委員を務めます。

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1975年6月1日 子供たちにホーチミン主席
の話をするブーキー

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1975年7月18日 ホーチミン主席の遺体が完
成したホーチミン廟に移されます。翌年の旧正月
1976年1月27日、ブーキーがリーダー格となっ
て、ホーチミン博物館建設に賛同するスタッフを
引き連れ、ホーチミン廟に参拝します。(最前列右側。
隣の背が高くてサングラスをかけている人
がファンバンドン首相、首相はこの頃から既に目
の病気にかかっていたのかもしれません)

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1975年11月19日 ホーチミン博物館建設の
支援をするためベトナムを訪れたソ連のレーニン
博物館の代表団と会談するファンバンドン首相
とブーキー

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1977年2月13日 ホーチミンの父親の新しい
墓所の完成式典で記念撮影をするホーチミン
博物館建設担当委員会の代表団


1980年―1987年
ホーチミン博物館建設担当委員会の筆頭を務
めます。

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1985年8月26日 ホーチミンが独立宣言書を
書いたハノイ、ハンガン通り48にある家を再訪し
たザップ将軍とブーキー
ホーチミンが独立宣言書を書き始める前日、
「ベトナム独立同盟(ベトミン)」の総意として
ザップ将軍はホーチミンに向かって話しかけます。
「あなたが大統領をやるべきだ」と。


1987年―1990年
ホーチミン博物館の館長を務めます。

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1990年5月19日(ホーチミンの誕生記念日100周年)
の日に、ホーチミン博物館の除幕式が行われます。
左から共産党書記長グエンヴァンリン
(Nguyễn Văn Linh)、ブーキー、ファンバンド
ン顧問(前首相)

ホーチミン博物館の完成を機にブーキーは
第一線の仕事から引退します。


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1993年3月22日 ベトナム共産党の仕事に
一生を捧げたブーキーの人生に対してベトナム
最高の勲章である「ホーチミン勲章」が授与され
ます。


2005年4月16日
一生、ホーチミン主席に忠誠を誓ったブー・キー
氏は2005年4月16日朝4時にハノイの友好
病院(Bệnh viện Hữu nghị)で静かに息を引き
取りました。84歳。詳しい死因は明らかにされて
いませんが、長年闘病生活を送っていたそうで
す。



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