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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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74 ホーチミン主席の足跡 1969年 その3 ホーチミン主席の遺言

1965年5月15日、主席は3ページに渡る遺言を
自らタイプしました。これが正式な遺言で主席と党第
一書記のレズアンが署名しています。

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ホーチミン主席が遺書を書いたことを受けて、ベトナム
労働党中央委員会政治局メンバーは秘密裏に会
合を開き、2つの決定をしました。

1. ホーチミン主席の健康を維持すること。
2. 彼の遺体の長期保存のための準備をすること

ホーチミン主席の火葬にして欲しいという遺言は、生
前からすでに希望に添えない決定がなされてしまって
いたのです。



1968年に6ページにわたり手書きの補足文を書いて
います。

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1969年5月10日にさらに1ページの補足文を手
書きします。

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ホーチミンの遺言要旨
(全文の翻訳はまだ出来ていません)

「戦争に勝利した暁には、支援してくれた人々がいる
国々に代表団を派遣し、感謝の気持ちを伝えること」

「戦争に勝利して独立と自由を達成したら、国民の
幸福に思いを致すべし」

「戦争に勝ったら農業税を一年間免除すること」

「地方機関は負傷者や殉職者の父母,妻子で困窮
しているものに適切な生計の道を立てられるようにし、
けっしてかれらが飢えたり凍えるままに放置してはなら
ない。」

「私の遺体は火葬にして、遺灰を3つにわけ、北部、
中部、南部の人たちのために、それぞれの地域の丘
陵に埋めてほしい。丘陵には石碑、銅像を建てず、
訪問した人たちが休むことができるような建物、記念
に植樹ができるようにしてもらいたい。日が経てば、森
林となるだろう。」 

「山もある、川もある、人もいる、アメリカに勝ったら築き
あげよう、 今よりも10倍も美しく」


1969年9月3日、主席の死の翌日の午後、第3回
中央委員会の特別部会が開かれました。

遺言が中央委員会のメンバーには公開されたのか、
レ・ズアンが遺言の内容を報告したのか不明です。

国葬でホーチミンの遺言がレ・ズアンによって紹介され
ますが、当時の状況下で実施することが出来なかった
ことや不都合な事項、すなわち、農業税の免除と火
葬に関しては削除されて朗読されました。

しかし故人の遺書を改ざんし、ホーチミンの遺言を守
らなかったことがベトナム戦争勝利後のベトナムを窮
地に追い込んでいきます。ベトナム国民は「幸福」どこ
ろか、カンボジア進攻後の国際社会での孤立で世界
最貧国の一つに転落してしまいます。

世界最強の国、米国に勝ったと独善的に思い込ん
でしまったレ・ズアン政権はベトナムは自力で何でも出
来ると過信して、「感謝」を通じて国際関係の絆を強
めるのを怠ったのです。

「人間にとって「独立」と「自由」ほど尊いものはない。
しかし、国家としてそれが達成した暁には、「幸福」す
なわち国民生活の向上を図らなければ「独立」と「自
由」さえ絵に描いた餅になってしまう。」これがホーチミ
ンの気持ちでした。

ベトナム共産党がそのことに気づき、「ドイモイ(刷
新)」政策に着手したのは1986年の党大会でした。
レ・ズアンの死を待ってからです。

ホーチミン主席の遺言は生誕百年にあたる1989年
に全文を公表することが決定され、国民には翌1990
に公表されました。

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南ベトナム軍事援助司令部

MACV( Military Assistance Command, Vietnam 南ベトナ
ム軍事援助司令部)はベトナム戦争中、南ベトナムに存在し
たアメリカ軍事力の統合司令室です。通称マックヴィーと呼
ばれていました。ベトナム戦争中の米国陸海空軍のすべての
作戦はここから指令されました。

1950年に組織されたインドシナ米軍事援助顧問団は19
54年10月23日に実施されたアイゼンハワー米国大統領
とゴ・ディン・ジエム南ベトナム大統領による会談で、アイ
ゼンハワーは南ベトナムへの軍事援助強化を約束し、195
5年には南ベトナム米軍事援助顧問団(MAAV Military
Assistance Advisory Group)として改組されます。

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1959年にテロによる軍事顧問殺傷事件が発生したりした
ため、軍事援助は強化されます。

1961年、アイゼンハワーを引き継いだケネディー大統領
になると戦闘部隊を直接投入する動きとなります。

1962年2月8日、MAAVはMACVとして再編され、本
部はパスター通り137を正面玄関に広大な敷地を確保しま
す。

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MACV本部

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正面玄関

当初はMAAVを補強する目的で、初代司令官はポール・ハーキン
ス大将 (Paul D. Harkins)でした。しかし1964年
5月15日からは戦闘部隊としての組織として改組され、1
964年6月からはベトナム戦争の記事でよく名前が出てく
るウィリアム・C・ウェストモーランド将軍(William C. 
Westmoreland )に引き継がれました(1964年―1968年)。

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現在の建物。ベトナム通信事業者最大手のVietnam Posts and
Telecommunications (VNPT)になっています。

1969年、MACV 本部はタンソンニャット空港内に移され、
Pentagon Eastと呼ばれていました。
14  1969年

1973年3月29日、パリ和平協定(Paris Peace Accords)
に従って組織は解体されますが、スタッフは帰国することなく
DAOという別組織に移動し、ベトナム戦争の状況を米本国の
国防省に報告します。

グエン・バン・チョイ 更新

グエン・バン・チョイ(Nguyễn Văn Trỗi)は南部農村の出身で、
共産青年同盟に入り南ベトナム解放民族戦線の秘密工作員を
していました。

1964年10月、サイゴンを訪れたマクナマラ米国防長官を
暗殺しようと一行が通過するサイゴン川にかかる橋に爆薬を
仕掛けようとして逮捕されました。

拷問にも黙秘を貫き、10月15日の公開処刑にあたっても毅然
とした態度であったため、解放戦線の英雄となっています。

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後日、ホーチミン主席も彼の公開処刑時の写真にサインを
しています。

公開処刑を阻止するため、ベネズエラではゲリラが米軍将校
を誘拐し、人質にとり処刑の中止を求めましたが、失敗に終わ
りました。しかし,この事件はベトナム人に強い感銘を与え、
今でもベトナムとべネズエラは仲のいい国なのです。

グエン・バン・チョイの名前はサイゴン空港から市内に入る
ときに必ず通る道路の道路名として残されています。
この道路を真っ直ぐ市内に向かって下ってくると旧南ベトナム
大統領官邸の前を通るナム・キー・コイ・ギア通りとなります。

また彼の妻は「あの人の生きたように」という題名で書籍を
刊行して、ベストセラーになりました。

刑務所での女性拷問


フランスがベトナムをはじめとするインドシナ各国(ベトナム、
ラオス、カンボジア)を植民地にした時代から、フランスは
ベトナムに住む自国民のために学校も建設しましたが、それより
多くの刑務所を建設しました。刑務所はその後、ベトナム戦争中
にはアメリカ軍に引き継がれ、多くの政治犯や捕虜が刑務所内
で拷問にあい、ギロチンや銃殺刑にあいました。

拷問は女性に対しても容赦なく行われました。

拷問の種類

1.電流拷問
  耳、乳首、性器から電流が通され、精神を混乱させる。
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2.蛇口拷問
  蛇口から捕虜の剃られた頭部の一部に水が落とされ、2時間
後に頭を殴る。強力な頭痛が起こり、精神錯乱となる。
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3.ヘビ拷問
  女性のヘビへの恐怖心理を利用して性器へ蛇を入れる。ヘビ
の代りに割れたガラス瓶も使われる。ガラスはレントゲンに映ら
ないので手術不能。出産不能となる。
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4.注水拷問
  頭が足より低い姿勢で口を雑巾で覆い、鼻から注水する。
水で腹が一杯になると腹を踏みつけ、水と血を吐かせる。
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5.針拷問
  鉄定規で鳥の羽につけられた針を指先に打つ
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男への拷問はもっとひどいもので、処刑しなくても拷問だけで死んでしまった人が多くいます。

ファン・ティー・キム・フック
Phan Thị Kim Phúc 1963年4月2日生

ベトナム戦争時、背中にひどい火傷を負いながら裸で逃げる少女はファ
ン・ティー・キム・フック

フック1

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彼女は南ベトナムのタイニン省チャンバンで暮らしていました。
1972年6月8日、チャンバンで南ベトナム軍と北ベトナム軍が
交戦、南ベトナム軍の爆撃機2機が上空を旋回し、ナパーム弾を
村民が避難していた寺院に投下しました。後日、この攻撃は寺院に
ベトコンがいると勘違いした誤爆だとされています。

AP通信のベトナム人カメラマン、フィン・コン・ウトと
英国テレビ制作会社 ITNの特派員クリストファー・ウェイン
は従軍記者として現場に張り付いていました。

寺院は焼け落ち、9歳だった少女キム・フックは兄弟や親類らと
逃げ出してきました。衣服は燃えて脱げ落ちたフックは裸で
走りました。カメラマン ウトは本能的にカメラを向けます。

写真は世界中に配信されましたが、時のアメリカ大統領ニクソン
は認めなかった。「この写真は合成だ」

しかしナパーム弾に衣服を焼かれて裸で走るベトナム人少女や子供
たちの姿を世界中に伝えたこの写真はベトナム戦争の写真の中でも、
人々の心に深く印象付けられた一枚となり、翌年、ピュリツァー賞
を受賞しました。

カメラマンは写真を撮った後、すぐにウェインと一緒にキム・フック
と他の子供たちを病院へ運びました。看護婦がウェインの耳元で
ささやきました。キム・フックは「明日まで持たないだろう」

ウェインは英国大使館、南ベトナム外務省と掛け合ってフックさん
を専門の整形外科病院に移しました。フックさんは14カ月間も入院、
17回の手術を受けて何とか一命をとりとめました。
 
「この写真がきっかけとなってナパーム弾の非人道性が
クローズアップされ、後に軍需産業がナパーム弾の製造を中止
しました。

ベトナム共産党政権は写真を反米宣伝の材料に利用するため、成長
したフックを広告塔に仕立て上げた。その後、キューバに留学した
フックさんはベトナム人男性と出会って結婚、1992年、
新婚旅行の途中にカナダに亡命しました。現在では2児の母となり
夫とともにカナダで暮らし、戦争で被害を受けた子供たちを支援
しています。

1997年11月10日、国連ユネスコの親善大使に任じられます。

2010年、英国で命の恩人ウェインと再会を果たします。

フック2





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