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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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総合科学図書館の歴史-サイゴン刑務所
現在のホーチミン市の国立図書館の前身は何とフランス植
民地政府によって建設されたサイゴン中央刑務所(越語 
カムロン・サイゴン、仏語 Maison Centrale)でした。

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刑務所と言っても、立派な建物だったので1954年、ディエ
ン・ビン・フーの戦いでフランス軍が敗北し、撤退後もしば
らくの間は図書館として使用されていたようです。
12_20110817182845.jpg

1955年、南ベトナムのゴディンジェム政権で国立図書館
建設の構想がありましたが、実現せず延期されていまし
た。

現在の図書館は1968年に刑務所の跡地にベトナム人建
築家Bui Quang HạnhとNguyễn Hưu Thiênが共同してデ
ザインし1971年12月23日に完成しました。

敷地面積は7070平方メートル、2練の建物で構成されて
います。
13_20110817182844.jpg


サイゴン陥落の1975年前は南ベトナム国立図書館
(National Library)と呼ばれています。

1978年4月14日からはホーチミン市人民委員会の決定に
より、現在の名称Thư viện Khoa học Tổng hợp ;Genral
Science Library HCMC (総合科学図書館)と改称されて
います。

1931年、17歳でギロチンにかけられたリ・トゥ・チョンの胸
像が図書館の庭に置かれ、正面前の道路はリ・トゥ・チョン
通りと名づけられています


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ホアンキエム湖の大亀
首都ハノイにはホアンキエム湖があり、この湖には今でも大亀が
生息しています。

ホアンキエム湖は紅河の氾濫によって出来た湖なので、紅河のす
ぐわきに位置していて、ハノイ市民の憩いの場所になっていま
す。

池のなかには出島があって「玉山祠」(Den Ngoc Sonゴックソン祠)
と呼ぶ神社があります。東京の上野不忍池を大きくしたような場所
です。

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この湖に生息する亀には、ベトナムで有名な伝説が残っていま
す。

ベトナムは15世紀の始め、中国明の侵略を受け、人々は過酷な
生活を余儀なくされていました。

1418年になると藍山蜂起と言われる反乱が起こります。

紅河デルタ南部のタインホア(Thanh Hoa/清化)省の山岳地帯、
藍山(ラムソン)の豪族であった黎利(レ・ロイ)が中国、明に対して
反乱を起こし、10年に及ぶゲリラ戦のすえ1427年に明を追い払
い、翌年に前期黎朝を興します。

レロイはベトナムでも1,2位に数えられる英雄になるのですが、明
を撃退するときに使った剣が、天から授かったもので、のちにホア
ンキエム湖で舟に乗っていると、黄金色の亀が現れて剣を返せと
いう。王が亀に宝剣を渡すと、亀は口にくわえて姿を消した。これ
以降、この湖は「返却された剣の湖」という意味で「ホアンキエム=
還剣」と呼ばれるようになったという伝説です。

02_20110410194159.jpg
サイゴンの美術博物館の庭には、この伝説に則ったレロイの銅像
が建っています。

湖に浮かぶ「玉山祠」には陳朝時代に元を撃退した陳興道(チャ
ン・フン・ダオ)が祀られているほか、1968年に捕獲された亀の剥
製が飾られています。

03_20110410194159.jpg


最近、この湖に生息する大亀が傷ついているのが発見され、治療
のため大捕獲作戦が行われました。

この捕獲作戦は大々的に新聞で報じられ、国民的な関心事になり
ました。

「2011年4月3日、大亀捕獲作業は特殊部隊の隊員を含む50人
体制で行われ、探索および捕獲には、200平方メートルの魚網が
使われた。大亀は数か月前からの目撃情報により、体の数か所の
部位に傷を負っているとされており、市民や専門家の間で捕獲
し、治療すべきとの声が上がっていた。これを受けて先月8日、
第1回目の捕獲作業が行われたが、亀に網を破られ捕獲に失敗。
今回、2回目の作業で捕獲に成功した。

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救出作戦では特殊部隊の兵士など数十人が湖を泳ぎ、ボート
を使ってカメの周りに3連の網を張った。カメの重さは推定約2
00キロ。大きさは車のドア1枚分くらいあり、頭は人間の頭と同
じくらいだった。捕獲時、湖の周りには数千人の人々が集まっ
た。

科学者らによれば、捕獲されたカメは年齢100歳以上と推定され、
絶滅の危機に瀕しているシャンハイハナスッポン(学名「ラフェト
ス・スウィンホエイ」)と考えられるという。」

タンロン1000年の歴史本

ハノイがベトナムの首都になってから、今年で1000年で
すが、各地での記念式典もあと2ヶ月で終わりになります。
ベトナムでは何周年記念という式典がしょっちゅう行われ
ます。

ハノイの歴史は結局はベトナムの歴史でもあるわけ
ですが、図書館にもハノイの歴史関係書が多数展示され
ていましたのでご案内します。

全てベトナム語ですが、コピーを取って、英語に訳するこ
とが出来ます。

ベトナム建国の神話に「龍」が登場し、ベトナム国民は
「龍」の子孫ということになっていますが、首都ハノイも昔
はタンロンと呼ばれていて、「昇龍」の意味です。

「龍」の装飾もベトナムの各王朝で違っていて、それぞれ
特徴があります。

01歴史本 (1)  02歴史本 (2)  03歴史本 (3)


04歴史本 (4)  05歴史本 (5)  06歴史本 (6)


07歴史本 (7)  08歴史本 (8)  09歴史本 (9)


10歴史本 (10)  11歴史本 (11)  12歴史本 (12)


13歴史本 (13)  14歴史本 (14)  15歴史本 (15)


16歴史本 (16)  17歴史本 (17)  18歴史本 (18)


19歴史本 (19)  20歴史本 (20)  21歴史本 (21)


22歴史本 (22)  23歴史本 (23)  24歴史本 (24)


25歴史本 (25)  26歴史本 (26)  27歴史本 (27)


28歴史本 (28)  29歴史本 (29)  30歴史本 (30)


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37歴史本 (37)  38歴史本 (38)  39歴史本 (39)


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43歴史本 (43)  44歴史本 (44)  45歴史本 (45)

李王朝

今年2010年はハノイが首都になって1000年目というこ
とで、1年間ベトナム全土でいろいろな式典が行われてい
ます。ハノイに遷都したのは李王朝で、時に1010年で
した。そこで李王朝について調べてみました。写真は主に
WEBで公開されているものから多数引用させていただい
ています。


李王朝


李朝 1009年 - 1225年、 9代217年に及ぶ、ベトナム史
上最初の長期政権になり、初代皇帝・太祖の時代から第4
代皇帝仁宗の時代にかけて全盛期を迎えました。現在のハ
ノイに首都を遷都した王朝でもあります。


李朝は、科挙の実施による有能な人材の登用、儒学・仏教
の奨励など中国の文化を積極的に取り入れ文化面では著
しい発展を遂げましたが、政治体制は地方豪族の連合盟
主的存在であったため、中央集権化が思うようにできませ
んでした。

チャンパを3度攻撃、中部ベトナムを割譲させ、領土を拡張
しています。

歴代皇帝
1.太祖  李公蘊 1009-1028

2.太宗  李仏瑪 1028-1054

3.聖宗  李日尊 1054-1072

4.仁宗  李幹徳 1072-1128

5.神宗  李陽煥 1128-1138

6.英宗  李天祚 1138-1176

7.高宗  李龍翰 1176-1211

8.恵宗  李旵 1211-1224

9.昭皇(太宗) 李仏金 1224-1225



歴史

1009年  前黎朝の将軍李公蘊(リー・コン・ウァン、李太
       祖)が、軍権を掌握して前黎朝を倒し、李朝を樹
       立しました。
李王朝 (1)
李太祖  リ・タイ・トウとして親しまれています。



1010年  首都を華閭(ホアルー)から昇龍(タンロン、
       現ハノイ)に移します。
李王朝 (2)


李王朝 (3)
遷都の文書 


李王朝の王城跡は長らく不明でしたが、2002年の国会議
事堂建替工事の事前調査の際に、遺跡が発掘され、現在
では世界遺産に登録されています。

遺跡は長さ62m、幅27mとベトナムに現存する最大規模の
遺跡です。

李王朝 (4)
タンロン城の遺跡発掘

李王朝 (5)  李王朝 (6)  李王朝 (7)


李王朝 (8)  李王朝 (9)  李王朝 (10)
  


1049年 第2代皇帝、太宗は一柱寺を建立。

李王朝 (13)
一柱寺                  

李王朝 (12)
現在の一柱寺


李王朝の歴代皇帝は仏教に帰依していたので、一柱寺を
はじめとして多くの寺院が建立されました。ハノイのシンボ
ル的な建物を選ぶ審査で一柱寺は再建された現在の建物
があまりに建設当時と違うので、同じ文廟の中にある奎文閣
(けいぶんかく)が選ばれたそうですが、奎文閣はグエン朝
時代に建設されたものです。

李王朝 (14)
奎文閣(けいぶんかく)



1054年  第3代皇帝、聖宗は国号を「大越(ダイベト)」と
        改名しました。

1070年  ハノイに文廟 (儒教の創始者である孔子を祀っ
        た廟) を建立します。

李王朝 (15)
文廟の正門

李朝時代の門は木造でしたので、現在の石造の門は後世
に再建されたものです。


李王朝 (16)  李王朝 (17)
正門は竜とトラで守られています。




科挙の制度
科挙とは「(試験)科目による選挙」を意味していて、官僚の
養成制度でした。中国で隋の時代から始まったのですがベ
トナムでも黎朝第2代皇帝レ・タイ・トンが取り入れ、1442年
から実施されました。試験は郷試(地方試験)と会試(全国
試験)があり、郷試を合格した人が会試の試験を受けられま
した。合格率は1%ぐらいで超難関の試験です。

文廟には科挙の試験に合格した人の氏名と出身地が記さ
れた石碑が82基あります。 

李王朝 (20)
科挙試験の合格者石碑


李王朝 (18)
石碑は亀に乗っていると言われていますが、正確には贔屓(ひいき)、
「えこひいき」として現在でも使用される「ひいき」という神獣に乗っています。
「ひいき」は龍から生まれます。



1075年

北宋と李朝との間では、しばしば国境問題が発生していま
した。宋は神宗の即位後、宰相の王安石の主導でベトナム
攻略を図り、南下してきました。これに対して李朝は、機先
を制して李常傑(リ・トン・キェト)を総大将として10万の軍を
率いて水陸から宋に侵攻します。

北宋は反撃してベトナム奥地まで攻め入ったものの、戦果
を挙げることができずに帰還しました。

李王朝 (21)

李王朝 (22)
ベトナム側の史料  如月江の戦いで宋軍を大破した。
宋側の史料      昇龍(ハノイ)近郊まで迫るも紅河を
             渡河できずに引揚げたとする。
国境戦争は1975年から1977年まで2年間続きました。


1077年
李朝は有利な条件で和睦し、北宋との国境も確定し、独立
国家としての威勢を示しました。


1127年  
文廟に国子監が設けられ、諸帝の仏教信仰によって寺塔も多く建立されました。

李王朝 (19)
国子監
国士監とは今で言う国立大学で、皇族や貴族の子弟が儒教を学ぶ最高学府でした。


李朝の歴代皇帝は仏教に帰依していたので、文廟や国子監
の建築年代には有力な異説があります。儒教の創始者である
孔子を祭った文廟は1070年には小さな祭壇が設けられた
だけで、建築は1156年になされ、その中にある国子監は
1253年に設立されたとする説があります。



1174年
それまでの越人独立諸王朝は中国(北宋)を中心とする
冊封体制の中で常に郡王の扱いであったのに対し、李朝
は越人王朝として南宋から「安南国王」に冊封され、交趾国
を改め、安南国としました。


1175年
李朝第7代皇帝、高宗が即位した年。この高宗は暗愚な人
だったようで国民に対して重税と賦役を布く悪政を繰り広げ
たため、国内各地で農民による反乱が起き、李朝は急速に
衰退していきます。


1210年
高宗が没して恵宗が即位したのですが、この恵宗も父の高
宗同様に暗愚な人物だったため、国内はさらに乱れ、恵宗
の外戚に当たる陳守度(チャン・トゥ・ド)の権勢が著しく
拡大、1223年には殿前指揮使という役職につき、政治の       
実権を握るようになります。


1224年
陳守度は恵宗を廃してその娘である李昭皇を擁立し、翌年
には、恵宗を自殺に追い込んだ上で、李昭皇と甥の太宗
を結婚させて太宗を皇位につけることで陳朝(チャン朝)を
開きます。



李王朝の一族

李王朝が陳守度によって滅ぼされた際、李王朝の王子、李
龍祥とその一族は1226年、大海を漂流し韓国北部の黄海
道オンジン半島の花山に漂着したという史実が残っていま
す。

1992年12月に韓国とベトナムの国交が修復されると一族
は祖先探しを本格化し、1994年5月李王朝の建国の地で
あるハノイ近郊のDing Bang村を訪れて今も残る祀堂に参
拝しました。

この出来事は両国のマスコミに大きく取り上げられ、翌年3
月15日(旧暦)の李王朝の祭礼時にベトナム政府は李一族
の宗親会長を祭主に招請しました。



李王朝8代の皇帝を奉った寺院にはバックニン省のバン寺
院やドー寺院が有名だそうです。

李王朝 (23)
ドー寺院

李王朝 (24)
バン寺院

オウラク国
オウラク国(甌雒国)   前257年~前214年
   
紀元前316年 蜀の国(中国揚子江の下方にあった国)が、当時強国であった秦に滅された
時に、蜀の王子、蜀はん(しょくはん)が、現在の北ベトナムに逃げてきました。 

オウラク
  
 紀元前257年になると蜀はんはこの地域でフン王が統治していヴァンラン国(文朗国)
を滅ぼし、オウラク国を興して、自らアンズオン王と名乗ります。北ベトナムと中部ベトナム
の北方を領土とし、都をコーロア(古螺)におきます。

コーロア城はハノイから北へ車で40分ぐらいのドンアイン地にあります。

オウラク (1)

   
オウラク国に関する年代記述は異説もあります。コーロア城は、中国の直接支配下以前
に築かれたべトナム独自の文化によって造営された城でした。

オウラク (2)



オウラク国の伝説

この国にはキムクイ(金亀)の爪から作った魔法の弓があり、どんな敵も倒すことができました。

チョウダ(秦の始皇帝によってベトナム侵攻を命ぜられていた将軍の部下)はいくら戦っても勝てな
いため、息子のチョントイをアウズオン王の娘ミーチャウと結婚させます。そしてチョントイ
は、ミーチャウからキムクイの秘密を知り、弓をすり替え、親が病気と偽って中国に帰って
いきます。

 この機会にチョウダはオウラク国を攻め滅ぼします。

 チョントイが帰国する際、2人が離ればなれになったら、自分の通ったあとにガチョウの羽
をまいて居場所を知らせくれと約束していたので、海辺まで逃げてきたアンズオン王と娘の
ミーチャウ姫は、居場所を突き止められてしまいます。

  
アンズオン王は、キムクイから「裏切り者はミーチャウだ」と聞き、ミーチャウの首をはねて
しまいます。

 そして自分はキムクイとともに、海の中に去っていきました。

 後を追ってきたチョントイは、首のないミーチャウを見て自分のしたことを悔やみ井戸に身
を投げました。

 ミーチャウの流した血は海に入って真珠となり、チョントイが自殺した井戸で洗うと輝きが
増すそうです。

ある時、河をを下ってきた石を陸に引き上げようとしましたが、引き上げられず、コーロアの
遺跡まで来たときにやっと引き上げられたそうです。

 それで、人々はこの石をミーチャウが家に戻って来たと思い祀ることにしたそうです。
(歴史の散歩道から)

この伝説から、コーロア城址には、キムクイの像、弓を引くア ンズオン王の銅像、頭のない
ミーチャウ姫の石像などが伝説にしたがって造られています。      
 
オウラク (6)  オウラク (4)  オウラク (5)

 
 蜀はんの没後、前219年秦の始皇帝は50万もの大軍でこの北ベトナム地方を侵略し、
前214年にオウラク国を滅ぼしてしまいます。



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