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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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レホンフォン高校
建設時   ペトリュス・チュオン・ヴィン・キー高校 
       (Petrus Trương Vĩnh Ký High School)
現在    レ・ホン・フォン高校  
    (Lê Hồng Phong High School)
場所    グエン・ヴァン・クー(Nguyễn Văn Cư)通り  
 
11
  
1925年にフランス植民地政府により建設が許可され、1927年
11月28日にチョークワン(Chợ Quán)に仮校舎が建設されまし
た。


12
建設中のペトリュスキー高校1


13
建設中のペトリュスキー高校2

14
ペトリュスキー高校の正門

全校舎は1928年に完成し、8月11日にレウィドン高校から20
0名が移ってきました。

15  1931年
1931年ペトリュスキー高校の校庭

16  1931年フィリッピン代表団の訪問
1931年2月、フィリピン政府の代表団が見学に訪れています


第2次世界大戦中に一時的に移動したり閉鎖されたりしましたが、
1946年4月に再開され、1947年にはチョークワンに戻ってき
ました。

17-1  1931年
1947年の校舎

18-2 (400x244)
校舎の中庭

1961年にベトナム人を教育する学校になりました。

南北統一後の1976年にベトナム共産党書記長を務めたレホン
フォンに因んで、レホンフォン高校と改名されます。
レホンフォン高校の優秀な学生はベトナム共産党青年部員とな
っています。

1990年にはレホンフォン高校は他の高校とは違って、英才教育
をするクラスが設置され、基礎科学、社会科学、言語分野で特異
な才能を持った学生を授業無料で受け入れています。

<学生の政治活動>
1949年、ペトリュスキー高校の学生は先生や家族、サイゴンの
他の高校生と団結してフランス植民地政府の政策に抗議する集
会に参加した為、学校は閉鎖され、多くの生徒が逮捕されまし
た。

1950年1月9日、ペトリュスキー高校の学生も含めてサイゴン
の高校生20000人がフランス植民地政府の教育省や総督府前
での抗議集会に参加します。政府はデモ隊を排除しようとしまし
たが、群集は50000人に膨れ上がりました。

警官は発砲しはじめ、ペトリュスキー高校のチャンヴァンオン
(Tran Van On)が射殺されました。

19  Tran_Van_On
チャンヴァンオン

3日後、彼の葬儀のための集会が開かれ、ミトー、カントー、ハノ
イからも参加者が集まり1926年のファンチュウチンの葬儀を超
える大集会となりました。

20
黒いリボンをつけて集会に参加する学生達

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校舎の前に集まった会葬者

1954年7月14日、ベトナムの南北分断後、ペトリュスキー高校
生はジュネーブ協定を支持するスローガンを学校の壁や黒板に
書き、独立と民主を要求する運動を開始します。

1955年3月30日、南ベトナム政府軍とマフィアのビンスエンと
の交戦時にペトリュスキー高校はビンスエンの基地になりまし
た。

1970年ペトリュスキー高校生はカンボジアのロンノル政権がカ
ンボジア居住のベトナム人虐殺したことに抗議して、デモを敢行
し、カンボジア大使館を占拠します。 

1972年、ペトリュスキー高校を卒業したグエンタイビン
(Nguyen Thai Binh)はアメリカで勉強していましたが、アメリカの
ベトナム反戦デモに参加し、ニクソン大統領を非難する手紙を書
きました。 強制退去処分を受けた彼はベトナムに帰還するため
に乗せられたパンアメリカン航空機がサイゴンに近づくと、航空機
をハイジャックしようとして射殺されました。

1975年4月30日南ベトナム解放民族戦線のチャンヴァンチャ
(Trần Văn Trà)将軍はペトリュスキー高校を基地にした為、学
校は1975年7月まで閉鎖されました。

22
2012年9月4日、グェン・タン・ズン首相はレ・ホン・フォン高校の
新学期始業式に出席しました。


<映画の舞台>
マルグリット・ドユラス(Marguerite Duras)の小説『愛人/ラマン』
はサイゴンの高等学校へ通うフランスの下層階級の少女が主人
公で、レホンフォン高校が映画撮影の舞台になりました。

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マルグリット・ドユラス


<校名の由来>
24     (317x400)
レ・ホン・フォン

生没年 1902年9月6日―1942年9月6日
インドシナ共産党第2代書記長 
    1935年3月31日–1936年7月26日
妻はグエンティミンカイです

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グエンティミンカイ高校

植民地時代  Áo Tím all-girls school
現在       Nguyễn Thị Minh Khai High School
場所   ディエンビエンフー通り

グエンティミンカイ高校は「Áo Tím all-girls school」として知られ、
1915年に設立された女子高校です。

11  1918   (400x229)
1918年の校舎正門


<学校の歴史>
20世紀の初め、ベトナムの儒教は女性に対してあまり重要性がなく
なっていました。

1908年 数人の知識人はフランス植民地政府に対して、女性の為
の総合教育をする学校の建設を提言しました。建設は了承されまし
たが資金不足のため、1913年になって、現在のディエンビエンフ
ー通りの土地に建設が始まります。

校舎は1915年に完成し、当時のインドシナ総督であった
Ernest Nestor Roumeとサイゴンの知事だったCourbeilが開校式
のテープを切り、新学期の開始を宣言しました。最初の学生は42名
でした。

制服がバイオレット色のアオザイだったので、学校はÁo Tím
(Violet Dress) all-girls schoolと呼ばれました。

12

多くの学生はサイゴン在住でしたが、郊外に住んでいる人のために
寄宿舎が用意されていました。

フランス人運営の学校でしたが、1920年ごろから植民地支配に反
抗する気概が醸成されていきました。

1922年、単科大学が増設され、校門の前に"COLLÈGE DES
JEUNES FILLES INDIGÈNES" (College of indigenous girls 先住民
族の女子大学)と書かれた大理石の石碑が建立されました。

単科大学の1年生からはフランス語が公式の言語として教えられ、
ベトナム文学の授業は週に2時間しかありませんでした。

12-1  1925   (400x246)
1925年の校舎

1941年に南ベトナムに進駐した日本軍によって校舎が使用された
ため、学校はタンディン(Tân Ðịnh)地区に移動し、校名もLycée
Gia Longと変更されました。

1945年にはベトミンを助ける為、多くの女子学生がベトミンにクオ
ックグー(ベトナムの国語)を教えたり、北部ベトナムでの飢餓支援
を行ないました。

1950年、学校はディエンビエンフー通りに戻り、校長はベトナム人
になります。

1953年、制服はドレスに黄杏の花刺繍紋章が付いた紫色アオザ
イから白いアオザイに変更され、フランスの教育カリキュラムからベ
トナム人の為の教育に少しずつ変わっていきます。

13   (400x299)
制服は白のアオザイになりました

1965年の学生数は、午前、午後を合わせて100クラス、3000人
近くになりました。

14 1969    (400x278)
1969年

1975年、サイゴン陥落後、校名はグエンティミンカイ高校(Nguyễn
Thị Minh Khai High School)と改名されます。

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1978年からは男女共学となりました。

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2003年、グエンティミンカイ高校の校舎は政府により保存すべき
55の建築物のひとつに指定されました。

2011年、外壁を塗りなおしてきれいになりました。

17   (400x300)

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現在の校舎には図書館もプールもあります。

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図書館に通じる廊下

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<校名の由来>

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グエンティミンカイ

生没年  1910年-1941年
1930年から1940年にかけてのインドシナ共産党のリーダ
ーの一人。

南洋学院
11_20110916001247.jpg

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1942年ベトナム全土に軍隊を送り込んでハノイ、フエ、
サイゴンに司令部を置いた日本軍はサイゴンに人材養成の学
校を設置します。

1942年、日本国外務省、文部省の共同所管に属する財団
法人南洋協会がサイゴンで中学校卒業者の日本人をを対
象とした修業年限3年の全寮制の南洋学院という専門学校
を設立しました。

教育内容はベトナム語、フランス語の語学の習得を中心に
生物学、地理学に多くの時間が割かれ、インドシナの発展
に寄与する人材育成をメインにしていました。

公費学生なので衣食住は無料でしたが、卒業後少なくとも
2・3年間、官公庁または商社等に勤務することが義務づけ
られていました。

1945年、敗戦により閉校しましたが、一期生30名、二期生
30名、三期生52名がサイゴンで青年時代を送りました。

しかし日本軍の戦況の悪化から、卒業生の多くは1945年
の明号作戦に徴収されました。

1988年より、当時の先生と卒業生の方々が現在のホーチ
ミン市科学社会人文大学で日本語講座を復活してベトナム
国に貢献されていましたが、2006年8月5日に閉鎖された
ようです。

現在、南洋学院はベトナム建設省ホーチミン部局の建物に
なっておりペンタイン市場からチョロンに向かうチャン・フ
ン・ダオ通りを西に2kmほどの右手にあるそうですが、まだ
探し当てていません

サイゴンの有名公立高校
有名校




Marie Curie High School

Marie.<br /><br /><br />jpg

フランス植民地時代にフランス女子学生の教育のために
1918年に設立されました。

Marie (1)   Marie (2)


1941年、日本軍のインドシナに進駐に伴い、各教室は日本
人のための病室となり、学校は臨時に現在のホーチミン経済
大学の場所にあった幼稚園に引っ越しました。
  
Marie (3)  Marie (4)

その後、学校の名称は一時Calmette高校と改称されました
が、現在では再びMarie Curie となっています。

1946年には、時のサイゴン政府から追い出された
Le Qui Don高校の男子生徒を受け入れたのをきっかけに、
現在では男女共学になっています。

ベトナムでは学校の校舎が少ないため、ほとんどの学校で
授業は午前中と午後と2部制で行われているのが通常です。



Le Qui Don 高校

Le Qui

Le Qui Don 高校は設立当初はジャンジャックルソー(Jean
Jacqes Rousseau)高校と呼ばれ、進歩的な教育をして
いた伝統から、現在でも優秀な生徒を輩出するサイゴンの
超名門校です。

Le Qui  Le Qui (1)
  

2007年6月14日には日本から無償資金協力としてビデオカ
メラが送られ、同年9月からは無料の日本語教育が行われて
います。この教室の開講を全面的に支援したのは、日本の
村山元総理大臣で、「村山日本語学校」と名づけられています。

Le Qui (3)


この学校の生徒の制服には学校名のネームプレートがつけら
れており、いかにもエリート校の雰囲気があります。

Le Qui (5)
  

しかし、昨今では校長が生徒の裏口入学で多額の賄賂を受
け取っている事態が発覚し、校長が解任されるという事件が
起き、学校の名誉を傷つけてしまっています。

両校ともホーチミン3区のナムキーコイギア通りにあります。

正門のあるレ・ウィ・ドン通りには1kg100万ドン以上もするシ
ーフードレストランが3,4件あります。

IDECAF フランス文化センター
 10IDE (1)
 フランス文化センター正面入り口

ベトナムは100年に渡ってフランスの植民地でしたが、現
代に生きるベトナムの若者にフランス嫌いの人をあまり
聞きません。むしろ韓国人や中国人のほうが嫌われてい
るようです。


1954年フランスがディンブンフーの戦いに負けて、撤収し
て行くと、、翌年には、もうこれからは仲良くしましょうと
言って、フランスーベトナム文化協定を結びます。ホーチ
ミン主席もフランスを追い出しはしましたが、フランス文化
は嫌いではなかったようです。21歳の時に、渡仏していろ
いろフランスで勉強したからでしょうか。

ディンビンフーの戦いでもフランスの敗戦に気を使って、降伏
ではなく停戦ということにしました。

文化センターはホーチミン市のレタントン通りとタイバンルン
通りの交差点にあり、いろいろと事業を行っています。



 11IDE.jpg  12IDE (2)  13IDE (3)
 12 劇場。ベトナムの時代劇のようなものが多い。
 13 切符売り場と劇場入り口。ほとんどの人がバイクでやってきます。

 14IDE (4)  15IDE (5)  16IDE (6)
 14 劇場
 15、16 メディア図書館


 17IDE (7)  18IDE (8)
 17 会議室
 18 講義の部屋。フランス語、ベトナム語教室もあります。

もちろん入場は無料です。庭はきれいに手入れされてい
て、その中にお洒落で、シンプルなテラスレストランがあり
ます。
 

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 レストラン LE JARDIN
 
 
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 21,22,23 中庭


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