べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
カテゴリ

FC2カウンター

リンク

このブログをリンクに追加する

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

海軍兵士クラブ 更新
海軍兵士クラブ

植民地時代 海軍兵士クラブ
(Foyer du Soldat et du Marin)
現在    ホーチミン作戦博物館
(Bảo Tàng Chién Dịch HCM)
場所    2 Le Duan(レユアン通り)

11 (400x267)
賑わう海軍兵士クラブ

この場所はフランスがサイゴンを占領した時の
ザーディン城の跡地です。

1890年代
海軍兵士クラブはインドシナ軍上級司令官テオフ
ィルペネクイン(Théophile Daniel Noël Pennequin)
によって設立されました。
クラブの並び(動物園側)にはフランス植民地軍第
11海軍歩兵宿舎がありました。

12 (300x386)
創設者テオフィルペネクイン

13 (400x233)
設立当初の海軍兵士クラブ

クラブ内のバー、コーヒーショップでは格安で飲食
物が販売され、クラブの庭には運動場がありスポー
ツゲーム大会が開かれていました。
図書館の蔵書は1500冊に及び、定期的に演劇が
演じられ兵士が宿舎から遠く離れることなく格安
で楽しめるように配慮されていいました。

14 (400x256)
コーヒーショップ

しかし1910年までクラブの運営は非常に限ら
れた予算で賄われていて、これを知ったフランス当
局は遠く故郷を離れて職務についている兵士に理
解を示し、年間200フランの補助金を拠出しまし
た。

助成金のお陰で数年後にクラブでは撮影コンテス
ト、フラワーショー、自動車の展示会や映画の鑑賞
会など多種多様な催しものが行われ兵士の人気会
場になりました。

1936年
2階建ての新規建物が建設されます。建物はアール
デコ風様式に再構成され、新しく組織された海軍兵
士連合体の運営に任されます。プールも新設され施
設はさらに充実していきます。この建物が現在の姿
で敷地面積は1100平方メートルあります。

15 (400x246)
1936年 改装なった海軍兵士クラブ 

1956年
フランスが撤退すると南ベトナム共和国のゴジン
ジェム(NgôĐìnhDiệm)大統領付きのエリート警護
団のクラブハウスとして使用されます。

1967年
建物は南ベトナム軍の大佐以上の将校を訓練する国
防大学(TrườngCao ĐẳngQuốcPhòng)へと内部が改
装され、将来の将校の宿舎でもありました。

1986年以降
ベトナム統一後、博物館建設用として第7軍区人民
軍の管轄に移され、1987年7月27日の国防省
通達によって博物館として使用することが正式に決
定されました。

1996年
軍事博物館用に内部が改装され、展示物の準備がな
されて「ホーチミン作戦博物館」として正式に開館
しました。

2005年
改装と展示物の充実が計られて現在に至っています。

16 (400x267)
現在のホーチミン作戦博物館

内部展示は1975年春の軍事攻勢から、サイゴン
陥落の最終作戦であるホーチミン作戦の作戦内容
の図解と写真が展示されています。
-Highland Campaign
-Hue &Danang Campaign
-Ho Chi Minh Campaign
-Fall of Saigon

17 (400x395)
内部展示室

作戦内容の展示なので、観光目的の人には人気がな
く、いつも入館者はまばらです。

この博物館の野外展示は自由に無料で見られます。
戦争証跡博物館の野外展示はアメリカ軍の武器が
展示されていますが、作戦博物館の野外展示場には
ホーチミン作戦に参加した北ベトナム軍の軍事車
両や大砲、戦車などの武器が展示されています。

18 (400x300)
1975年4月28日 
タンソンニャット空港を爆撃したA37戦闘機

19 (400x292)
1965年4月30日 
南ベトナム大統領官邸に突入したT54型戦車
No.848の同型車

20 (400x300)
サイゴン市内に打ち込まれたロケット砲

21 (366x394)

キューバから支援された小松製作所製のブルドーザー


スポンサーサイト
給水塔 更新
給水塔

当初  Château d’eau
現在  Công trường Quốc tế(国際広場)


聖マリア教会(サイゴン大聖堂)の裏側から一直線
に伸びたPhạn Ngọc Thạch道路を行くとロータリー
に突き当たります。ここにはフランス植民地時代に
建設された給水塔がありました。

11 (400x303)

1878年
フランスが聖マリア教会の基礎工事を始めだすと、
大量の地下水が湧き出てきて、工事が難航しました。

1879年
フランスは地下水を辿って水源を見つけ、給水塔を
建設し、サイゴンの住民に供給しました。サイゴン
で最初の給水塔です。

1918年
サイゴンの人口増加に対応し、サイゴン-チョロン-
フートー-タンソンニャット-ゴーヴァップを連結し
た新しい給水システムを構築し始めます。

1921年
新たSài Gònな給水システムが完成すると、広場の
南側に建設されていた水道局(現在のTổng Công ty
Cấp nước Sài Gòn=SAWACO=サイゴン水道総公社)
の奥に新たな給水塔が建設されました。会社の敷地
内にあるので見学はできません。

12 (400x252)
左側が給水塔

11月、この広場は第一次世界大戦中のフランスの
英雄、ジョッフル元帥(Joseph Jacques Césaire
Joffre)の来越を控えて「ジョッフル元帥広場」と
命名されました。

13
ジョッフル元帥

1927年11月11日
その後、給水塔に代わってフランスは第一次世界大
戦で戦没したフランスやインドシナの兵士のため
に戦没者記念塔を建設しました。

14
戦没者記念塔

第1次世界大戦でフランスはインドシナ人民を徴
兵し、ヨ―ロッパ戦線に送り込みました。そのほと
んどがベトナム人で、ドイツとの戦場や武器弾薬の
製造工場に送られ9万人が死亡したとされていま
す。

1956年
ゴ・ディン・ジェム大統領はなぜかこのモミュメン
トを取り壊し、その後すぐには新しい建築物が立て
られませんでしたが、1960年代の後半まで地元
の人々はこの広場をCông trường Chiến si (兵士の広場)
と呼び続けていました。

1967年後
現在のモニュメントはデザインコンテストで優勝
したNguyễn Kỳによって設計されたものですが、
グエン・バン・チュウ大統領は香港から風水の専門
家を呼び寄せ、モニュメントは風水理論によって建
築されています。
大統領はサイゴン政権を支援してくれている連合
国に感謝するために各国の名前を刻んだ石碑を建
てました。

15
上部はベトナムの国花ハスをイメージし、池の周り
にはブロンズの亀が置かれました。

1972年~1972年
広場の周囲が整備され交通量も増加していき、広場
は「Công Trường Quốc Tế」(国際広場))と改称さ
れます。

16

1975年後
サイゴン陥落後は連合国の石碑はすぐ取り除かれ
ましたが、亀は無事でした。しかし翌年不審な爆
破裂によりモニュメントは重大な損害が生じまし
た。
その後復旧されましたが、ブロンズの亀は再現され
ませんでした。しかし人々は現在でもこのモニュメ
ントをHồ Con Rùa(亀の池)と愛称しています。

現在、都市部では各家庭で給水塔を持っていますが、
サイゴンでもところどころに公共の給水塔を見る
ことが出来ます。

17
4区のグエンタッタン通りの給水塔

18
マリーキュリー高校の給水塔

レヴァンタン公園
レヴァンタン公園

植民地時代 Cimetière de la rue de Massiges
(マッシジ墓地)
現在    Công viên Lê Văn Tám
(レヴァンタン公園)
場所 Đa Kao地区
  (ディエンビエンフーとハイバチュン通りの交差点)

11 (400x300)

グエン王朝のミンマン帝の時代にはこの土地にレ
ヴァンズイットの廟があり、チョロンの人々は初詣
に中華街にある寺だけでは足りずレヴァンズイッ
トの廟にまで足をのばしたと言われています。

その後、廟はミンマン帝により国賊として破壊され、
遺骨は不明ですが、廟は1Vũ Tùng, Phường 1, Quận
Bình Thànhに復活されています。

12 (400x268)
現在のレヴァンズイットの廟

1859年
フランス軍はサイゴン侵略の際、戦死した兵士らの
ために現在のHai Bà Trưng, Điện Biên Phủ, Võ Thị
Sáu , Phan Liêm通りで囲まれた一角に墓地を造営しました。
正門はマッシジ通り(現在Hai Bà Trưng
通り)。その後はフランス人だけでなく、サイゴン
に住んだ外国人の墓地となります。

1965年
Massiges通りがMạc Đinh Chi通りと改称されたの
に伴い、墓地はNghĩa trang Mạc Đinh Chị(マック
ディンチー墓地)となります。
この頃からはベトナム戦争で戦死した南ベトナム
の兵士なども埋葬されます。

1983年
ホーチミン市人民委員会は子どもの文化宮殿を構
築するためにマックディンチー墓地の移転とサイ
ゴン市内の華美な廟の取り壊しを決定します。

フランス人はじめ外国人の墓は取り壊され、発掘さ
れた遺骨は焼却されそれぞれの故国に返還され,
ベトナム人の遺骨もライチウの人民墓地に再埋葬さ
れました。
タンソンニャット空港近くにあったアドラン司教
の霊廟も取り壊され、遺骨は現在パリの宣教師協会
に保存されています。

13 (400x249)
アドラン司教の廟

1985年4月30日
南ベトナム解放10周年にあわせて公園が開園し
ます。

当初、この墓地に当初埋葬された著名人:
LêVănDuyệt グエン王朝建国の立役者の一人
Francis Garnier フランスの軍人、探検家
Doudart de Lagrée フランスの探検家
Ngô Đình Điệm 南ベトナム大統領
Ngô Đình Nhu  大統領の弟
Francois Sully  フランスのジャーナリスト
Grace Cadman アメリカの宣教師

現在の公園はきれいに整備され、週末には市民のス
ポーツセンターになっています。

14 (400x299)
現在のレヴァンタン公園

2年に一度、ベトナム中の出版社や文房具店が集ま
り、レヴァンタン公園で展示即売会が開かれていま
す。2016年には9回目が開催されます。

レヴァンタン公園には巨大な地下駐車場や地下モ
ールが2013年に完成する計画がありましたが、
計画倒れに終わっています。


コラム  レ・ヴァン・タン
レヴァンタン公園の裏側はティゲ運河が流れてい
て、そこにはフランス軍の武器庫がありました。
ベトナム8月革命に始まる各地での蜂起の流れの
中、13歳のレヴァンタンは武器庫を破壊するため
自分にガソリンをかけ火達磨になりながら武器庫
のガスタンクに突進し、爆発させました。
この話はベトナムの小学校教科書にも記載された
ため、彼はベトナムの英雄として尊敬されています。
しかし近年、この話の検証が行われています。


アヘン専売とフランス植民地税関
アヘン専売とフランス植民地税関

1869年      ワンタイ(Wang-Tai)の大邸宅
1880年 Hôtel Cosmopolitan(ホテルコスモポリタン)
1887年 Hôtel des Douanes(フランス植民地税関)
現在 Hải Quan TPHCM(ホーチミン市税関)
場所 21 Tôn Đức Thanh (トンドゥックタン)

現在のホーチミン市税関の歴史を語るとき、アヘン王
ワンタイ(Wang-Tai 生没年1827年~1900年)の
存在を抜きには成り立ちません。

初期のフランス植民地時代の神秘的な人物の一人とさ
れている広東生れのワンタイは、主にサイゴンの壮大な
建築物の所有者として記憶されていますが、彼が財をな
した裏商売は時のフランス政府と結託した阿片供給で
あったことが判明しており、現在では「アヘン王」と呼ばれ
ています。

1858年
ワンタイは広東で生まれましたが、中国での生活はわか
りません。

1862年
ジャンク船の引渡しのためマカオからサイゴンにやってき
た時、この地で商売をすることを決心します。

チョロン5区のLò Gốm小川(現在のPhan Huy Chú
通り)に自宅と「Briqueterie Wang-Tai」というレンガと
タイルの製造工場を建設し、その後、フランス植民地政
府の公共施設建設のためにレンガやタイルを供給する
契約に成功し、市内の多くのレンガ造りの建物の建築
に携わり、富を築きます。しばらくすると、工場労働者の
社宅も建設し、このチョロン5区は「ワンタイシティー」と呼
ばれるようになります。

11 (400x250)

1880年に完成したサイゴン大聖堂にもレンガを供給し
ており、基礎工事用に使用されたようです。
「サイゴン大聖堂のレンガはすべてマルセイユから運ばれ
た」という観光ガイドの説明は、正確にはワンタイ工場で
供給出来なかった建物用のレンガが輸入されたと解釈
されます。

当時のフランス植民地政府はアヘンのフランチャイズ制
度を確立して利益の拡大を図り、植民地経営を安定化
させようとしていました。
それまで生阿片はイギリス領インドからいろいろな商人を
介して輸入され、チョロンの小さな工場で精製され、許可
を得た販売者によって消費者に渡っていました。

1865年頃
ワンタイはフランス植民地政府と結託して生アヘンの輸
入と精製業務を一手に引き継ぐことに成功し、大富豪
になります。

1867年
サイゴン川沿いに居宅兼事務所として3階建てレンガ造
りの大邸宅を建築しました。現在では「Hôtel Wang-Tai」
として知られているホーチミン市税関の原型です。ワンタ
イの大邸宅は1862年に完成したコーチシナ最初の総
督ボナードによって建設された木造政府庁舎よりはるか
に壮大な建物だったので植民地政府上層部の不快感
の原因ともなりました。

12 (400x250)
1867年 建設中のワンタイ邸宅

1869年
ワンタイはチョロンに移り、大邸宅はフランス政府に貸し
出されます。

カンボジアのノロドム国王がコーチシナ政府の招きでサイ
ゴンを訪れる際、まだサイゴンには適当なホテルがありま
せんでした。そこでワンタイが所有している「豪華なマンシ
ョン」が国王の滞在先に選ばれました。

1870年代初めまで、フランスの行政官舎として多くの
組織がワンタイのマンションを賃貸しました。1869年に
設置されたサイゴン市評議会も1909年新しい市役所
引っ越すまでワンタイのマンションで業務を行っていました。

1872年
政府機関が移転したため、建物が改装され、「ホテルコ
スモポリタン」として開業します。このホテルがサイゴン最
初の西洋スタイルのホテルであったとされています。

13 (300x195)
ホテルコスモポリタン

1874年
「ホテルコスモポリタン」の賃借者は市役所、市長宿舎、
中央警察署、秘密警察、海軍将校、フランス人クラブの
会員などすべてと言っていい程フランス人でした。
宿泊者は西洋式のサービスを好むヨーロッパからの裕福
な観光客で
2階フロアーはフランス人の社交場と化し、ゲームをした
り、ベランダで喫煙しながらサイゴン川を行きかう船を見
ながら時を過ごしていました。

1880年
ワンタイが「広東語会衆のチーフ(バンチュオン)」となると、
彼は中国の利益を声高に主張し始めます。ワンタイは
中国人入植者の中で侮れない人物になっていきます。

14 (296x190)
1880年のホテルコスモポリタン(通称ホテルワンタイ)

しかしホテルコスモポリタンの裏側の路地Fleursにはア
ヘン窟のような貧困者のバラックが立ち並び、ホテルの
評判は落ちていきました。

1881年
生アヘンの輸入は通称ワンタイ市場と呼ばれ、その量は
864000テール(中国の重量単位、1テール=約40
g?)になり、精製後1テールを2セントでフランス政府に
売っていました。

ワンタイがアヘン取引で大富豪になっていくと、フランス
政府は彼の独占権を制限しようと動き、政府のコントロ
ール下に置くよう政策を改めます。
ハイバチュン通りにアヘン加工工場が5工場集められ、
新たな国営アヘン精製工場が建設されます。

15 (298x185)
ハイバチュン通り74番地に現在も残る阿片工場跡

16 (400x275)

フランス政府のアヘン取引改革政策は功を奏し、国営
アヘン工場はフランス植民地政府に多大な利益(860
万フラン)をもたらします。
しかしワンタイも1業者としてアヘン取引を行い続けます。

1882年
フランス植民地政府はホテルコスモポリタンを254000
フランで買い取り、税関と商業港電信事務所の職員が
引っ越してきます。税関の主要業務は阿片や米の取引
にかかる関税を徴収することでした。

17 (300x187)
植民地時代の税関

1883年
ワンタイは植民地評議会にチョロンに建設されている5つ
の中国寺院や集会所の土地税をほかの寺院と同じよう
に無税にするよう求め、同胞の支持を得ます。

1885年
植民地評議会のメンバーの一人はワンタイの入札価格
が他の業者よりも高いことをコーチシナ知事や税関長に
報告していますが、ワンタイによって精製された阿片は高
品質であったことから政府との癒着が追求されることは
ありませんでした。

1886年
ワンタイはチョロンの2つのレンガ・タイル工場の他に新た
に米精製の工場を建設し、米の貿易会社を工場近くの
Hải Thượng Lãn Ông通りに構えます。
彼はまたサイゴンの中心街であるグエンフエ通りにも
「Wang-taï père el fils」(ワンタイペールエルフィルス)と
いう貿易会社を設立し、精米ビジネスを展開していきま
す。

1887年
ワンタイが麻薬取引の独占権を失った後、ワンタイの麻
薬事業への関与記録は少なくなり他の事業の記述が
多くなりますが、しかしまだワンタイはコーチシナの麻薬王
としてフランチャイズの名鑑に記載されています。

フランス政府は税関の建物が手狭になったため
100000フランをかけて新築することとし、政府の公共
建築物デザイナーであったAlfred Foulhouxの設計を
依頼し、新しい「Hôtel des douanes」(税関)が完成しま
す。
この建築物が今日残っている税関建物です。

18 (300x195)
新しい税関

税関の概観はフランス植民地政府に多大な利益をもた
らしたワンタイに敬意を表してワンタイの「豪華マンション」
とそっくりに建築され、概観装飾には税関の主要な収益
源の象徴である「ケシの花」がデザインされています。

19 (400x286)
ケシの花の装飾

1888年
ワンタイ61歳の誕生日(還暦祝い)とサイゴン在住30
周年を記念した祝賀会が彼の家族や同胞、友人によっ
てグエンフエ通りで盛大に行われました。通りではイルミ
ネーションで飾られ、花火が打ち上げられ、演劇が上演
されました。

地元の人々に加えてサイゴンやチョロンからもフランス人
やヨーロッパ人が駆けつけ、「ワンタイは同胞だけでなく、
フランス政府や入植者にすばらしいサービスを提供した
サイゴンに住む最も尊敬すべき著名な中国人であり、
我々はこの平和な祭典に参加することによって彼が行っ
てきた業績に対して報いなければならない」と賛辞を与え
ます。

参加したワンタイの子供達
Wangtai Suon フランス政府の官僚
Wangtai Foo カンボジアで貿易商人
Wangtai Suu サイゴンで貿易商
Wangtai Pio    中国で学生
Wangtai Xuong 中国で学生

Wangtai Khai   (カンボジア在住)とその息子
Wangtai Sing   ?
Wangtai Thang ?

20 (300x188)
グエンフエ通りでのワンタイ祝賀会

祝賀会は8日間に渡って開催されました。
三色旗、金漢字、書道芸術、龍、刺繍シルクのカーテン
で飾られた巨大な祝賀看板がグエンフエ通りに立てられ
ました。

祝賀の8日間、ワンタイにはサイゴンやチョロンだけでなく、
カンボジア、タイ、中国からも贈り物が絶えませんでした。
それらは絹作品、真珠が埋め込まれた家具、動物の剥
製、宝石など目を見張る物ばかりでした。

土曜日の夜には祝賀の夜会を開かれました。
夜会は午後9時から始まり、フランス軍音楽隊の演奏の
中、翌午前1時まで続きサイゴン知事夫妻も参列し大
盛況でした。
ワンタイは刺繍された黒い絹の儀式ドレスを着用し、自
分の子供や孫に囲まれていました。

サイゴンの新聞「Saigon Républicain」は1888年11
月10日付け記事でこのイべントを大きく取り上げ、「記
念日」という見出しで詳細に報道しています。

1889年
ワンタイはフランス政府よりシュヴァリエ•デ•ラ•レジオン•
ドヌール勲章( Chevalier de la Légion d’honneur)を
授与されます。
アロヨシノワ河岸(現在のベンゲ運河沿い)に老後のた
めの大邸宅を建築します。

1891年
新聞「Avenir du Tonkin」と「Indépendance
Tonkinoise newspapers」が
「税関長Coquiは中国人トレーダーから「お金や贈り物
と引き換えに密輸に目をつぶるために合意した」。「ワン
タイの幸運はレンガ工場によってもたらされたのではなく、
コーチシナ政府のための阿片の供給者であり、生阿片
の精製者としての役割を担っていた」とワンタイの秘密を
すっぱ抜きます。当時、アヘン取引は専売でしたが、非
合法な活動ではありませんでした。しかし賄賂を渡したこ
とが決定的でした。
ワンタイの名声は一挙に地に落ちます。

21 (400x295)
現在の税関

税関はホーチミン主席記念館と並んで、ベランダ方式の
典型的な建物で、建築学的には貴重な建物とされてい
ます。

フランス人の銅像
フランス人の銅像

フランスがサイゴンを直轄植民地としていた時代に、サイ
ゴンのロータリーには4人のフランス人銅像が立てられて
いました。

●ピエール・ジョゼフ・ジョルジュ・ピニョー
(Pierre Joseph Georges Pigneau
通称  アドラン司教
場所  聖マリア教会前

アドラン司教はベトナム最後の王朝グエン王朝の初代
皇帝グエンアインフック(ザーロン帝)を私財を投じて支
援したグエン王朝建国の大恩人です。彼は王朝建国を
見ずに戦地で死去しましたが、遺体は軍令をもって丁重
に葬られました。以前はタンソンニャット空港近くの公園
に墓がありましたが、現在はフランスに返され、外国人宣
教師教会に保管されています。

11 (324x396)
アドラン司教

12 (220x347)
左はザーロン帝の長男カイン、手に持っているのは
ベルサイユ条約


●リゴール・ド・ジェヌイ(Rigault de Genouilly)
場所  メリン広場 

1859年2月17日、フランスはダナン攻略を諦め、ブンタ
オ岬からサイゴン川を遡上し、現在のルネッサンス・リバ
ーサイド・ホテルの前に上陸、ヤーロン(サイゴンの旧名)
城を攻め落としました。

フランス軍が上陸したこの場所は「メリン広場」と名づけ
られていて、上陸を指揮したフランス・スペイン連合艦隊
の指揮官であったリゴール・ド・ジェヌイの銅像が1907
年市民劇場前から移されてきました。

13 (270x400)
リゴール・ド・ジェヌイ

14 (271x400)


●フランシス・ガルニエ(Marie Joseph François Garnier)
市民劇場前広場

サイゴンを占領したフランスはメコン川を遡って中国の雲
南に行こうとしますが、探検によって不可能なことがわか
り、北部ベトナムの紅河の通行権を得る為にハノイ城へ
のを攻撃を開始します。

この時の司令官が探検家でもあった海軍大尉フランシ
ス・ガルニエで、彼は戦い途上で戦死しますが、後に北
部ベトナムがフランスの保護領になる先陣でした。

市民劇場前にはジェヌイの銅像が建っていましたが、メリ
ン広場に移され、ガルニエの銅像が置かれます。

15 (218x368)
フランシス・ガルニエ

16 (264x400)


●レオン・ガンベッタ(Léon Gambetta)
ガンベッタ広場⇒統一会堂前広場⇒タオダン公園内

フランスがベトナムを植民地化していく時にフランス本国
で首相や外務大臣を勤めた政治家がレオン・ガンベッタ
でした。

彼の銅像は当初、旧ベンタン市場の跡地、ガンベッタ広
場と呼ばれていたグエンフエ通り(現在のホーチミン市財
務省)のところに建てられましたが、財務省建設のためノ
ロドム宮殿(現在の統一会堂)前の広場に移動しました。
その後タオダン公園内に移設されます。

17 (180x309)
レオン・ガンベッタ

18 (400x255)
ガンベッタ広場の銅像

19 (400x260)
ノロドム宮殿前の広場

4人の銅像は1954年フランスがディエンビエンフーの戦
いで敗れて撤退する前にすべて取り壊されました



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。