べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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チョロンの歴史
チョロンの歴史

越語   Chợ Lớn  
中国語  堤岸, 新街市

チョロン(Chợ Lớn)地区は、ホーチミン(旧サイゴン)市の
行政の中心であるサイゴン地区から、約五キロメートルほ
ど西南南に位置しますが、現在では正式な行政名ではな
くホーチミン市5区を中心にその周辺の一部を含めた地域
を総称します。チャンフンダオ通りをメインストリートとするベ
トナム最大の中華街です。

チョロンとは、ベトナム語で大きな市場(Chợ=市場、Lớn
=は大きい)を意味し、フランスが「サイゴン」を命名した時
から使用され始めました。

アジアで中華街と呼ばれる区域に住んでいる華僑は、西
欧各国の植民地支配時代に労役人として連れてこられた
のがそのルーツだと言われていますが、ベトナムの中華街
「チョロン」に住み始めた華僑の人たちはちょっと違った事
情でベトナムにやって来ました。
中国に国境接するベトナムでは、中国での政治的圧力を
避けるために国境を超えてベトナムへやってきた中国人が
多くいました。

中国人のベトナムへの移民の大量流入は1679年に始ま
り、1750年、1860年と3回ありました。
チョロンの歴史は中国人のベトナムへの移民の歴史でもあ
ります。

11
1623年のサイゴン

昔は現在のベンゲ運河が「サイゴン川」、サイゴン川が
「タンビン川」と呼ばれていました。

1679年
中国の明朝が滅亡したのに伴い、明朝の楊彦由を首領と
する亡命兵3000名が50隻の船でフエの近海に漂流して
きて、広南阮氏政権第4代当主グエン・フック・タン
(Nguyễn Phúc Tần 阮福瀕 1648年~1687年)に亡
命を願い出ます。グエン・フック・タンは亡命者の一部をホ
イアンに残しましたが、残りの人々をメコンデルタの開墾の
ためにビエンホア(辺和)とミトー(美淋)に入植させます。
(地図上1,2)

12

1680年代
ビエンホアに移住した人々の少数がチョロンに移動してき
ます。(地図上3)彼らは現在のTriêu Quang Phục 通り
一帯に村を形成して住みました。この人々が現在ホーチミ
ン市5区の中華街に住む人たちの祖先で、彼らが交易の
港をして使ったのがチョロン埠頭となりました。
ベトナム人はこの時の移住者をミンフオン「Minh Hương」
(明郷の人々)と呼びました。

13
赤枠内がチョロンの始まり


1698年
広南阮氏政権第6代当主グエン・フック・チュゥ(Nguyễn
Phúc Chu 1691年~1725年)はグェン・フー・カン将軍
(Nguyễn Hữu Cảnh 1650年~1700年)をヤーディンに
派遣し、弱体化していたクメール王国の支配から脱してベ
トナム人が支配する土地にするよう目論見ます。

グェン・フー・カン将軍はタンビン地区(Tân Bình 現在の
サイゴンはタンビン地区に属していました)やフックロン地区
(Phước Long 現在のドンナイ省)を開拓し、ダンチョンと
呼ばれたベトナム人の村を作り、最初の基本的な行政組
織であるヤーディン県を新設し、「Minh Hương」の人々が
住む現在のチョロンもザーディン県に編入して、自らヤーデ
ィン県を統治します。

14
グェン・フー・カン将軍

15

ヤーディン県はベトナム人が管理する村となり、市長(Luu
Thu)が任命され、その下部組織にはManager(Cai Bo)と
Secretary(Ky Luc)が置かれました。

ミンフオンの人々は港の管理を任されので、メコンデルタか
ら運ばれてくる米の精米、各地への流通を一手に引き受
けます。
さらにミンフオンの人の中には多くの職人がおり、その代表
的な技術が陶器の製作でした。彼らはチョロンの寺院や
同郷会館の装飾品や生活用品の陶器を多く製作しまし
た。これが「サイゴン陶器」の発祥です。

ミンフオンの人々は亡命者であったので中国へ帰国する意
図はなく、地元のベトナム人やクメール人と混血していき、
独特の民族文化を作り上げていきます。彼らはベトナムの
衣装を着ましたが文化や言語は中国祖先の習慣を踏襲
しました。後のグエン王朝やフランス植民地政府も彼らを
中国人祖先のベトナム人と呼びました。
この年がサイゴン誕生の年とされています。


1750年代~1778年
清朝の人口増加に伴い第2波の中国人移民の流入が始
まります。福建省からの移民が多くミンフオン村に隣接す
るPhùng Hưng通り一帯に住み始めます。

16

この人々は亡命者とは違い、意図すれば中国に帰国する
こともできた人々だったので、無理に現地の人々と融和す
る必要はなくミンフオンの人々は彼らをタンニャン「Thanh
Nhân」(清人)と呼びました。

ミンフオンの人々は先駆者として港の管理と国内での米の
流通、タンニャンの人々は輸出入貿易を主な生業としまし
た。

ミンフオンの人々がĐình Minh Hương Gia Thạnh(明郷
嘉盛会館)を建設し、チョロン地区を管理する政府の役人
はもっぱらミンフオンの人々から選ばれました。

広南阮氏(その後の越南阮氏、フランス植民地政府も)は
この同郷会館を中国人移民者を管理するための単位とし
て利用します。このシステムは「幫」(Bãng)と呼ばれ、ベト
ナム語では「幫」に属する人々はバンチュオン(Bãng
Trưởng)と呼ばれました。バンチュオンは広南阮宮廷の
承認を得るために登録が必要で、保護される代償として
良き行いとバンチュオンの会頭によって徴収される税金を
おさめねばなりませんでした。
そして共同体の地域内の福利厚生、学校や病院は自ら
建設し管理することが要求されていました。

しかし居住地を与えられ、自由な商売を認められた移民
者は広南阮氏に忠誠心を抱き、広南阮氏とタイソン朝と
の戦い(1778年~1802年)の時には広南阮氏の中心
的な支持者となりました。


1778年
しかしタイソン軍は強く、広南阮氏の生残りグエンフックア
イン(NguenPhucAnh 後のザーロン帝)はフーコック島に
逃げ延びていきます。タイソン軍は広南阮氏を支援した移
民者が多く住んでいたビエンホアを攻撃したため、多くの移
民者が難民となりミンフオン村に逃げ延びてきます。そのた
めミンフオンでは人口が急激に増加し、新しい市場の建設
にせまられます。市場は村の北方、Phố Xếp運河沿い(現
在は埋立てられChâu Văn Liêm通り)に建設され、Tai
Ngon市場と呼ばれました。

17
タイゴン市場

1782年
タイソン軍はミンフオン村にも壊滅的な攻撃を仕掛けまし
た。中国人移住者は広南阮氏に味方したとして、大勢の
人々が虐殺されました。

その後、生存者達によって驚異的な速さで村が再建され
ていきます。運河を深く掘り下げ、洪水と敵の侵入から守
るために町の中心を流れていたBình Dươmg川(ベンゲ運河の旧称)
に高い堤防を築きました。この堅牢な堤防はタイゴン堤防と呼ばれ、
その名声はベンゲ地区にも知れ渡っていきました。
この「Tai Ngon」の発音が「サイゴン」の基礎になったと言
われています。

1790年
ザーディンを奪回したグエン・フック・アインは3万人を動員
し、ヤーディン県の新しい行政本部としてバットクワイ(BAT
QUAI=ヤーディン城)を建設します。そして現在のバソン
造船所近辺でフランス人技師の下に中国人入植者も含
め技術を持った多くの職人をあつめ、戦艦の建造を行い
ます。対岸のホーチミン市2区にはこの時働いた中国人入
植者が住むようになりました。

18
1790年のサイゴン地図

19
1790年のサイゴン・ジョロン地図

1801年
グエン・フック・アインがサイゴンでタイソン軍を破り、翌年グ
エン王朝の皇帝(ザーロン帝 1802年~1819年)にな
るとタイゴン地区のミンフオンとタンニャンの人々は報われ
ます。
彼らは王朝の庇護の下に兵役は免除され貿易や商業活
動の自由を保障され、さらに納税の代償としていろいろな
特典を付与されました。

20
ザーロン帝

1812年
1802年阮王朝を開いたザーロン帝は1812年建国の大
功労者レ・ヴァン・ズエットに司法権や官僚の任命、解雇
など、すべて宮廷には事後報告をすれば良いほどの絶大
な権限を与えてザーディン総鎮に任命し、南部ベトナムと
カンボジア地域の管理を任せます。

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レ・ヴァン・ズエット総鎮

ズエット総鎮はグエン王朝への支持基盤拡大のために、
有能な人物はタイソン軍の旧臣であろうと、中国人入植
者であろうと官吏として採用し、無料の武術訓練所や教
育機関を開設しました。
毎年2回、皇帝の誕生日そして旧正月の祭りを盛大に行
い、人心の安定に努めました。

メコンデルタへの運河が整えられ、特典を与えられているタ
イゴン地区の商業活動は一気に花開き、その納税額はグ
エン王朝を潤します。彼らは米の商売だけでなく、屋根瓦、
タイル、塗装などの建築材料や、アルコール、セメント、ア
ヘンなどにも商売の手を広げます。
タイゴンには中部や北部の商人も新たな商品を求めてや
ってくるようになり、大盛況になります。

ズエット総鎮の時代、チョロン地区は大発展を遂げたので、
今日に至るまでズエット総鎮は南部に住む中国人にとって
尊敬の的になっている人物なのです。

タイゴンに住む人々は同郷の共同体としての役割と祈りの
場所として彼らの出身地別(言語別)にそれぞれ同郷会
館を建築します。

Untitled_201512071830483ab.jpg

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明郷嘉盛会館

媽祖(天上聖母)をまつる穂城会館の天后廟は観光的要
素に乏しいチョロン地区の貴重な観光名所の一つになっ
ています。

廟の中で最大規模のものは義安会館でいろいろな神々が
祭られており正面中央には関聖帝君すなわち関羽が祭ら
れています。

三山(福州)会館にはチョロンの堤防を守る神が祭られて
います。

中華街としてのチョロンのシンボル的存在は、多数の由緒
ある同郷会館(=廟)があることで、華人がいかに大きな
経済力をもってきたかをよく示しています。


1832年以降
レ・ヴァン・ズエットが死去すると、それまでズエット総鎮の
巨大な権力の下に手が出せなかった第2代阮王朝皇帝ミ
ンマン(1820年~1841年)は、自らの政策である中央
集権国家、儒教重視によるキリスト教弾圧、中国人の貿
易特権の廃止などを南部ベトナムに強制し、ズエットの墓
に辱めを行います。
これに激怒したズエットの養子レ・ヴァン・コイは宮廷に対し
て反乱を起こしましたが、ミンマン帝が派遣した大軍に破
れます。
そしてレヴァンコイの反乱に加担したとして南部ベトナムの
クリスチャンや中国人の多くを処刑します。

24
ミンマン帝


1839年
ミンマン帝は中国人移民者に対する管理方法であった
「幫」システムを廃止する命令書を出しましたが、実際には
施行されず何の効果もありませんでした。

1859年2月17日
フランス、スペインの連合軍がヤーディンの城を攻略、占領します。

1860年代後半以降
フランス人がサイゴンを統治するようになると広東省広州
からの中国人商人の移民が増加し、ハムギ通りからベン
ゲ運河沿いのヴォ・バン・キエット通り一帯に住みます。サ
イゴンに集団で中国人移民が住みついた最初で最後です。
ハムギ通りとトンダットダム通りの交差点近くに彼らの会館
があります。

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1861年
フランス軍とスペイン連合軍はヤーディン地方のチーホア
(Chi Hoa)を攻めますが、この時フランス軍に物資や食料
を供給したのはミンマン帝に苦しめられたタイゴン地区の中
国人移住者の人々でした。フランス軍はサイゴン全域を占
領し, 翌1862年には「第1次サイゴン条約」が締結され、
南ベトナムの東部3省がフランスに割譲され、サイゴン港が
開港されます。

フランス植民地政府は「幫」システムを復活させ、チョロン
の中華街は再び活気付き東南アジア有数の中華街に発
展していきます。


1867年以降
フランス人はこの地をサイゴンと正式に名づけます。そして
タイゴン地区はチョロンと呼ばれます。サイゴンは政治都市、
チョロンは経済都市としてフランス植民地時代にも発展を
遂げます。
植民地政府も中国人移住者の経済能力を認め、徴税管
理の役割を与え、彼らが土地を保有することやインドシナ
各地への移動の自由を認めました。移住者の中に今に名
を残す大富豪が出現してきます。

チョロンの同郷会館は植民地政府に対しても影響力を持
つようになり、ミンフオンの会頭Đỗ Hữu Phươngはチョロン
の市長となり、植民地政府と同郷会館との取りまとめ役を
果たします。

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Đỗ Hữu Phương

フランス植民地政府は政治都市としてサイゴン地区には
同郷会館を基礎とした「幫」システムを踏襲したので、中
華街そのものの町並みを見る以外「東洋のパリ」といわれ
るような建造物はありません。


1929年頃
マルグリット・デュラスの小説『愛人/ラマン』はこの頃の中
華街のシーンがたびたび出てきます。


1954年以降
フランスがベトナムから引き上げると、南ベトナム政府は移
民者の子孫でベトナムで生まれた子供たちはベトナム人と
する命令を発しましたが、同郷会館は依然として彼らのネ
ットワークの中心としてベトナム戦争終結まで存続していき
ます。


1974年
この頃の南ベトナムの経済活動(食品産業、織物業、化
学工業や電気製品など)の80%、大企業60社のうち42
社は華人の手中にあったといわれています。


1975年頃
南部ベトナムには120万人の華人が住み、そのうち70万
人がチョロンに居住していました。


1975年4月サイゴン陥落以降
サイゴン陥落後は社会主義建設が始まり私企業の国有
化、資産階級の資産制限が課せられ、「幫」システムは正
式に廃止されます。
長年かけて有力な経済的地位を築き上げてきた華人を
取り巻く環境は一変してしまいます。

8種の華字紙(中国語新聞)は政府発行の「解放日報」
を除き廃刊となり、華人の相互扶助組織である同郷会館、
華人子弟の教育機関である華語学校は活動を停止され、
華人子弟は華語を学ぶ機会を奪われました。漢字の看
板も規制されます。


1978年
経済不況と生活困難から都市部で商業を営んでいた華僑や華人、
南ベトナム政府や軍関係者とその家族、資産
家、地主などはボートピープルとなって海外に脱出していき
ます。
香港、マカオの難民収容所の7割は、中国系ベトナム人
でした。

チョロンに70万人居住していた華人は10万人あまりにま
で減少しました。

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ニューヨークやロサンゼルスの他、シカゴの北華埠、パリ南
部13区、シドニー郊外のカブラマッタなどの大規模な中華
街はこの時代に海外に移 住したインドシナ華僑により形
成されたものです。

1979年2月17日 – 3月16日
中国・ベトナム両国の関係は険悪になり、中越戦争が勃
発します。   
中国はベトナム統一後、ベトナム国内の中国系住民を難
民として流出させていることを強く非難しており、中越戦争
中はチョロンへのベトナム当局の弾圧はすざまじく、中国
系住民が大量に駆逐されてボートピープルとなりました。


1986年
ドイモイ政策により、経済の改革・開放が進む中で、個人
営業の店も認められるようになり、いったん国外へ脱出し
たベトナム人の帰国も許されるようになってきました。

唯一の華字紙「解放日報」の編集人によれば、ボートピー
プルとして外国に渡った華人で、再びチョロンに戻ってくる
者が増え、チョロンの華人人口は50万人くらいまで回復し、
街中の漢字の看板も、従来に比べれば、ずいぶん増えて
きたそうです。
 
現在、国外在住ベトナム人は約300万人。そのうちの半
数150万人がカリフォニア州に暮らしています。


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海軍兵士クラブ 更新
海軍兵士クラブ

植民地時代 海軍兵士クラブ
(Foyer du Soldat et du Marin)
現在    ホーチミン作戦博物館
(Bảo Tàng Chién Dịch HCM)
場所    2 Le Duan(レユアン通り)

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賑わう海軍兵士クラブ

この場所はフランスがサイゴンを占領した時の
ザーディン城の跡地です。

1890年代
海軍兵士クラブはインドシナ軍上級司令官テオフ
ィルペネクイン(Théophile Daniel Noël Pennequin)
によって設立されました。
クラブの並び(動物園側)にはフランス植民地軍第
11海軍歩兵宿舎がありました。

12 (300x386)
創設者テオフィルペネクイン

13 (400x233)
設立当初の海軍兵士クラブ

クラブ内のバー、コーヒーショップでは格安で飲食
物が販売され、クラブの庭には運動場がありスポー
ツゲーム大会が開かれていました。
図書館の蔵書は1500冊に及び、定期的に演劇が
演じられ兵士が宿舎から遠く離れることなく格安
で楽しめるように配慮されていいました。

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コーヒーショップ

しかし1910年までクラブの運営は非常に限ら
れた予算で賄われていて、これを知ったフランス当
局は遠く故郷を離れて職務についている兵士に理
解を示し、年間200フランの補助金を拠出しまし
た。

助成金のお陰で数年後にクラブでは撮影コンテス
ト、フラワーショー、自動車の展示会や映画の鑑賞
会など多種多様な催しものが行われ兵士の人気会
場になりました。

1936年
2階建ての新規建物が建設されます。建物はアール
デコ風様式に再構成され、新しく組織された海軍兵
士連合体の運営に任されます。プールも新設され施
設はさらに充実していきます。この建物が現在の姿
で敷地面積は1100平方メートルあります。

15 (400x246)
1936年 改装なった海軍兵士クラブ 

1956年
フランスが撤退すると南ベトナム共和国のゴジン
ジェム(NgôĐìnhDiệm)大統領付きのエリート警護
団のクラブハウスとして使用されます。

1967年
建物は南ベトナム軍の大佐以上の将校を訓練する国
防大学(TrườngCao ĐẳngQuốcPhòng)へと内部が改
装され、将来の将校の宿舎でもありました。

1986年以降
ベトナム統一後、博物館建設用として第7軍区人民
軍の管轄に移され、1987年7月27日の国防省
通達によって博物館として使用することが正式に決
定されました。

1996年
軍事博物館用に内部が改装され、展示物の準備がな
されて「ホーチミン作戦博物館」として正式に開館
しました。

2005年
改装と展示物の充実が計られて現在に至っています。

16 (400x267)
現在のホーチミン作戦博物館

内部展示は1975年春の軍事攻勢から、サイゴン
陥落の最終作戦であるホーチミン作戦の作戦内容
の図解と写真が展示されています。
-Highland Campaign
-Hue &Danang Campaign
-Ho Chi Minh Campaign
-Fall of Saigon

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内部展示室

作戦内容の展示なので、観光目的の人には人気がな
く、いつも入館者はまばらです。

この博物館の野外展示は自由に無料で見られます。
戦争証跡博物館の野外展示はアメリカ軍の武器が
展示されていますが、作戦博物館の野外展示場には
ホーチミン作戦に参加した北ベトナム軍の軍事車
両や大砲、戦車などの武器が展示されています。

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1975年4月28日 
タンソンニャット空港を爆撃したA37戦闘機

19 (400x292)
1965年4月30日 
南ベトナム大統領官邸に突入したT54型戦車
No.848の同型車

20 (400x300)
サイゴン市内に打ち込まれたロケット砲

21 (366x394)

キューバから支援された小松製作所製のブルドーザー


給水塔 更新
給水塔

当初  Château d’eau
現在  Công trường Quốc tế(国際広場)


聖マリア教会(サイゴン大聖堂)の裏側から一直線
に伸びたPhạn Ngọc Thạch道路を行くとロータリー
に突き当たります。ここにはフランス植民地時代に
建設された給水塔がありました。

11 (400x303)

1878年
フランスが聖マリア教会の基礎工事を始めだすと、
大量の地下水が湧き出てきて、工事が難航しました。

1879年
フランスは地下水を辿って水源を見つけ、給水塔を
建設し、サイゴンの住民に供給しました。サイゴン
で最初の給水塔です。

1918年
サイゴンの人口増加に対応し、サイゴン-チョロン-
フートー-タンソンニャット-ゴーヴァップを連結し
た新しい給水システムを構築し始めます。

1921年
新たSài Gònな給水システムが完成すると、広場の
南側に建設されていた水道局(現在のTổng Công ty
Cấp nước Sài Gòn=SAWACO=サイゴン水道総公社)
の奥に新たな給水塔が建設されました。会社の敷地
内にあるので見学はできません。

12 (400x252)
左側が給水塔

11月、この広場は第一次世界大戦中のフランスの
英雄、ジョッフル元帥(Joseph Jacques Césaire
Joffre)の来越を控えて「ジョッフル元帥広場」と
命名されました。

13
ジョッフル元帥

1927年11月11日
その後、給水塔に代わってフランスは第一次世界大
戦で戦没したフランスやインドシナの兵士のため
に戦没者記念塔を建設しました。

14
戦没者記念塔

第1次世界大戦でフランスはインドシナ人民を徴
兵し、ヨ―ロッパ戦線に送り込みました。そのほと
んどがベトナム人で、ドイツとの戦場や武器弾薬の
製造工場に送られ9万人が死亡したとされていま
す。

1956年
ゴ・ディン・ジェム大統領はなぜかこのモミュメン
トを取り壊し、その後すぐには新しい建築物が立て
られませんでしたが、1960年代の後半まで地元
の人々はこの広場をCông trường Chiến si (兵士の広場)
と呼び続けていました。

1967年後
現在のモニュメントはデザインコンテストで優勝
したNguyễn Kỳによって設計されたものですが、
グエン・バン・チュウ大統領は香港から風水の専門
家を呼び寄せ、モニュメントは風水理論によって建
築されています。
大統領はサイゴン政権を支援してくれている連合
国に感謝するために各国の名前を刻んだ石碑を建
てました。

15
上部はベトナムの国花ハスをイメージし、池の周り
にはブロンズの亀が置かれました。

1972年~1972年
広場の周囲が整備され交通量も増加していき、広場
は「Công Trường Quốc Tế」(国際広場))と改称さ
れます。

16

1975年後
サイゴン陥落後は連合国の石碑はすぐ取り除かれ
ましたが、亀は無事でした。しかし翌年不審な爆
破裂によりモニュメントは重大な損害が生じまし
た。
その後復旧されましたが、ブロンズの亀は再現され
ませんでした。しかし人々は現在でもこのモニュメ
ントをHồ Con Rùa(亀の池)と愛称しています。

現在、都市部では各家庭で給水塔を持っていますが、
サイゴンでもところどころに公共の給水塔を見る
ことが出来ます。

17
4区のグエンタッタン通りの給水塔

18
マリーキュリー高校の給水塔

レヴァンタン公園
レヴァンタン公園

植民地時代 Cimetière de la rue de Massiges
(マッシジ墓地)
現在    Công viên Lê Văn Tám
(レヴァンタン公園)
場所 Đa Kao地区
  (ディエンビエンフーとハイバチュン通りの交差点)

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グエン王朝のミンマン帝の時代にはこの土地にレ
ヴァンズイットの廟があり、チョロンの人々は初詣
に中華街にある寺だけでは足りずレヴァンズイッ
トの廟にまで足をのばしたと言われています。

その後、廟はミンマン帝により国賊として破壊され、
遺骨は不明ですが、廟は1Vũ Tùng, Phường 1, Quận
Bình Thànhに復活されています。

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現在のレヴァンズイットの廟

1859年
フランス軍はサイゴン侵略の際、戦死した兵士らの
ために現在のHai Bà Trưng, Điện Biên Phủ, Võ Thị
Sáu , Phan Liêm通りで囲まれた一角に墓地を造営しました。
正門はマッシジ通り(現在Hai Bà Trưng
通り)。その後はフランス人だけでなく、サイゴン
に住んだ外国人の墓地となります。

1965年
Massiges通りがMạc Đinh Chi通りと改称されたの
に伴い、墓地はNghĩa trang Mạc Đinh Chị(マック
ディンチー墓地)となります。
この頃からはベトナム戦争で戦死した南ベトナム
の兵士なども埋葬されます。

1983年
ホーチミン市人民委員会は子どもの文化宮殿を構
築するためにマックディンチー墓地の移転とサイ
ゴン市内の華美な廟の取り壊しを決定します。

フランス人はじめ外国人の墓は取り壊され、発掘さ
れた遺骨は焼却されそれぞれの故国に返還され,
ベトナム人の遺骨もライチウの人民墓地に再埋葬さ
れました。
タンソンニャット空港近くにあったアドラン司教
の霊廟も取り壊され、遺骨は現在パリの宣教師協会
に保存されています。

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アドラン司教の廟

1985年4月30日
南ベトナム解放10周年にあわせて公園が開園し
ます。

当初、この墓地に当初埋葬された著名人:
LêVănDuyệt グエン王朝建国の立役者の一人
Francis Garnier フランスの軍人、探検家
Doudart de Lagrée フランスの探検家
Ngô Đình Điệm 南ベトナム大統領
Ngô Đình Nhu  大統領の弟
Francois Sully  フランスのジャーナリスト
Grace Cadman アメリカの宣教師

現在の公園はきれいに整備され、週末には市民のス
ポーツセンターになっています。

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現在のレヴァンタン公園

2年に一度、ベトナム中の出版社や文房具店が集ま
り、レヴァンタン公園で展示即売会が開かれていま
す。2016年には9回目が開催されます。

レヴァンタン公園には巨大な地下駐車場や地下モ
ールが2013年に完成する計画がありましたが、
計画倒れに終わっています。


コラム  レ・ヴァン・タン
レヴァンタン公園の裏側はティゲ運河が流れてい
て、そこにはフランス軍の武器庫がありました。
ベトナム8月革命に始まる各地での蜂起の流れの
中、13歳のレヴァンタンは武器庫を破壊するため
自分にガソリンをかけ火達磨になりながら武器庫
のガスタンクに突進し、爆発させました。
この話はベトナムの小学校教科書にも記載された
ため、彼はベトナムの英雄として尊敬されています。
しかし近年、この話の検証が行われています。


歴史博物館  更新
歴史博物館

植民地時代 ブランシャール・ドゥ・ラ・ブロス美術館
Musée Blanchard de la Brosse)
現在 ホーチミン市ベトナム歴史博物館 
Bảo Tành Lịch Sử Việt Nam, TPNCM 
場所 2 Nguyen Bỉnh Khiêm
レズアン通りの突き当たりで、動物園の入口にあります。

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1790年
この土地はグエンフックアイン(後のグエン王朝初代皇帝
ザーロン帝)がサイゴンを奪還した時に、援助を惜しま
なかったフランス人アドラン司教のために家を建てたのが
始まりです。

1882年
フランスがコーチシナを植民地にした後、サイゴンには考
古学研究機関が2つ設立され、インドシナの考古学的
工芸品の収集や保存に多大な貢献をしました。

1882年発足「インドシナ研究会」
         (Société des études Indochinoises)
1898年発足「インドシナ考古調査団」
      (Mission archéologique d’Indo-hine)
1900年改称「フランス極東学院」
       (l'École française d'Extrême-Orient)

1925年時点
インドシナの各都市では国営の博物館を持っていました
が、(ハノイ・・1909年、プノンペンとダナン・・1919年、
フエ・・1923年)サイゴンにはまだ適切な博物館があり
ませんでした。     

1927年
海軍の薬剤師であり、古美術収集家であった
Victor-Thomas Holbé博士の死は博物館建設に向け
てフランス当局を動かします。

博士の多くのアジア美術コレクションが壊れたり、オーク
ションで販売されてはならないことを懸念した「インドシナ
研究会」は45000ピアストルで彼のコレクションを買い
取り、政府に博物館を建設させる意図を持って政府に
寄贈します。

1927年11月24日
この戦略は功を奏しコーチシナ総督ポール・マリー・アレ
クシス・ジョセフ・ブランチャード・デ・ラ・ブロス(Paul
Marie Alexis Joseph Blanchard de la Brosse)はサイ
ゴンに博物館を建設する命令書に署名します。

1928年12月
建築家オーギュストデラバル(Auguste Delaval)によっ
て設計された斬新な和洋折衷の博物館が完成します。
展示品の多くは「インドシナ研究会」が収集したもので
す。

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完成当時の博物館

建物のデザインは基本的には北京のイ和園(中国清朝
の夏離宮)をモデルしたと言われています。

建物は中庭を取囲んで建築される中国の四合院建築
方法で、風通しと採光のため、中庭に向けて窓がいくつ
も作られています。八角錐のドーム型屋根の角には龍や
不二鳥が飾られ、屋根の尖塔には4つの玉が天を仰い
でいます。

1929年1月1日
新しい博物館の開所式が行われ、美術館はその建設
命令書に署名したコーチシナ総督の名誉のため「ブラン
チャード•デ•ラ•ブロス美術館」と命名され、管理責任は
フランス極東学院が負いました。

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開館式

1956年5月16日
フランスが撤退するとベトナム共和国の教育省管轄下で
「ベトナム国立博物館」となります。

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ベトナム国立博物館

1970年
建築家Nguyễn Bá Lăngの設計による両ウィングが増
築されます。

1979年8月26日
南北統一後はベトナム歴史博物館(ハノイ)のホーチミン
支店として機能しています。

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現在の歴史博物館

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ドーム型の屋根

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八角に飾られている装飾

展示品はベトナムの歴史に沿って展示されています。
- 原始時代
- 建国の歴史
- 中国からの独立戦争 (1-10世紀)
- リ王朝 (11-13世紀)
- チャン王朝 (13-14世紀)
- レ王朝 (15-18世紀)
- タイソン王朝 (18-19世紀)
- グエン王朝 (19~20世紀の中頃 )

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その他、チャム族、クメール人文化、現在の少数民族の
文化工芸品が展示されています。

この博物館には1947年から1964年までサイゴン国立
博物館で働いていたVuong Hong Senという古美術収
集家のCollectionも展示されていて、18世紀から19
世紀にかけてのBlue and white ceramics 逸品が展
示されています。

展示品の中にはベトナムで発見された「ミイラ」や「水上
人形劇」も見ることが出来て盛りだくさんの内容になって
います。ミイラは1869年に死亡したチャンと言う女性で
ホーチミン市5区で発見されたものです。

この博物館は有料ですが展示品の写真撮影が可能で
す。



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